馬鹿な僕は憧れからは君に手を出せない

長谷川うたこ

第1話


「あら、あなた、私のことが恋愛的に好きだったの?」

六畳一間、シングルの少し湿っぽくなったベッドの上で君はあくびをしながら答えた。

そうだ。僕は君のことを本当に好いていたし、守っていきたいと思っていたし、何より心から尊敬していた。君と一晩共にできると決まった時には、嬉しくて仕方が無かった。付き合うだの恋人だのという概念さえ忘れて、必死で君を楽しませるよう、喜ばせるよう努めた。



君に初めて会ったのは随分と前になる。

中学時代か。君はいつもクラスの中心にいて、いつだって皆を楽しませ、周りをぐんと引っ張っていく力のあるような、素晴らしいとしか言いようのない人間だった。

僕はというと、ふざけたり勉強したりしてそれなりの地位を保ちつつも、どこか君と比べ言いようのない敗北感、すなわち元来備わってきた、人々に影響を与える才能の無さを感じてきた。努力と言うには当たり前のことすぎるが、それなりに頭が回り信頼も築いていたので、僕は君と共に学級委員をやることができた。それに選ばれた時は、なんだか結婚した時のような気持ちがした。5時間目だったか。陽も少し傾き、雲の切れ間からの光がクラスにさす。緊張か、恥ずかしさからか、少し目を細めて窓の外に目を背けていたような気がする。そして2人で皆の前に立って拍手を受ける。ただこれから半年間ほど2人で先生の手伝いをさせられるだけだ。ならない方がよっぽど人生を勉強や遊びの時間に使えたかもしれない。統率力について影でコソコソ言われることもなかったかもしれない。しかし、僕は君と2人で一緒に教壇の前に立ち挨拶した日のことを一生忘れないだろう。あの時の誇りを、輝きを。君と共に歩めるという、壮大でどこか可愛らしい勘違いを。


そして別の高校に上がり分かれ、大学はどこに行っていたのかも知らなかった。もともと人と無駄に連絡をとるのが億劫な君のことだ。SNSなんてやらないだろうし、僕なんかが電話やLINEで今何してるかだなんて送れるはずもない。元同級生の誰かに連絡先を聞くのもなんだか気恥ずかしかった。

そして大学2年の冬。キンと寒い、あの正月のガヤガヤを引きずった、成人式のことだ。僕は大学ではかなり勉学に努めていたし、特に同級生に思い入れも無かったので、わざわざ行くのも面倒くさくなり行かなかった。

なんだか昔のクラスのグループチャットにその日の写真が送られてきたが、枚数と、その鮮やかな写真達に目眩がして詳しく見るのはやめた。

そして大学を卒業し、僕は無事社会人となった。研究に努めたのが功を成して、そこそこの、不自由も不幸せも見当たらないような、所謂「良い」会社に入社できていた。ああ、順風満帆だなあ。このまま僕はこの普通の幸せをゆっくり抱きしめて生きていくのだ。その時は特に君のことなんて思い出さなかった。大学卒業間近にできた後輩の彼女のことも、きちんと愛おしく思っていた。もちろん一緒にいたら幸せだったし、そうか、このままきっと添い遂げて生きていくのかなあなんて考えていた。僕の人生は、現在波風ひとつたたず、陽が昇り陽が沈む、そんな当たり前で満たされた毎日だったのだ。僕はそれだって十分に、いや、十分すぎるくらいに幸せだったのだ。


そんなある日。

中学時代の親友と3年ぶりに食事をすることになった。休日に行くことにしていたから、それはもう話が尽きず、結局5時間くらい喋ってしまった。あの時の喧嘩、実はあいつの失言からだったんだよ。あいつとあいつが付き合ってて部活内で一回揉めたよなあ。あの子、実はお前のこと好きだって俺に相談してきてたんだぞ。あの先生、今結局仕事辞めて家継いだらしいよ。優等生だったあいつ、高校出てすぐ子産んで今は3人のママだってさ。なんて。全てたわいもない思い出話や噂話だった。そうだったなあとかへぇ意外だとか、特に大きな関心の向く話題もなく、笑い合い語り合った。何倍目かわからないドリンクバーのコーラが腹を意味もなく満たした。歳をとるにつれ、やはり思い出話というのは楽しくなるもんだなあとしみじみ感じていたその時だった。


お前と学級委員やってたあの子、覚えてる?今アメリカで就活してるらしいよ。


ぐ、と胸が鳴った。詰まる呼吸。止まる思考。指先が痺れる。落ち着け。だが次の言葉が出てこない。もはや表情が保てていない気がした。4時間見慣れた天井のライトがチラつく。瞬きか?親友が、意外だよなあ、とか言いながらメロンソーダを外をみて飲んでいるのがせめてもの救いだ。この心情を悟られたくはない。

やっべ、俺トイレいきてーわ、なんて急に嘘をつき席を離れ、一旦心を平常に戻すことにした。

ああ、トイレも店内も空いていてよかった。店内が寒かったので、腹でも壊したことにしよう。たっぷりと時間を使って考えられる。


トイレに入り、座ってすぐに思考がぎゅるぎゅると回りだした。

君だ。君に会いたい。君と会ってあの日の憧れを伝えたい。それだけで十分だ。君はきっと困るか、否定するか、怪訝な目でこちらを見るだろうが、そんなことはどうだっていい。僕が君を、1人の人間として素晴らしく好いている、それだけが大事だ。君が僕を嫌いだって、覚えてなくたって、嘲笑ったっていい。全同級生にキモい奴がいたと言い回られたって構わない。

ただ君に、憧れと純粋な好意さえ伝えられればいいのだ。本当に、それだけで良くて。



そうと決まれば、僕の中で話は早かった。

席に戻り、親友に、うわーあの子ね、久々に連絡とりたいわー、などといってそれとなく君と仲の良かった子を聞き出した。高校も同じらしい、あの子が連絡先を知っているはずだと分かった。そこからは深く詮索せず、また話を同じ部活のお調子者の話などに戻した。そうして20分くらい経ったころ、腹下したし、そろそろお開きにするかーなどと言って互いに料金を払い、すぐ駅に着いて分かれた。

電車に乗ってからは、途中駅の記憶がないくらいに君のことを考えた。終点が最寄りでよかった。君と仲の良かったショートヘアの子にすぐさま連絡を取った。もうなんだか変な言い訳をするのも面倒だし、一刻を争う様な気持ちだったので、「久しぶり、元気?あの子に用があって連絡取りたいんだけど連絡先知ってる?」とストレートに文字を送った。

ショートヘアは返信が早く、とても助かった。別段変に怪しまれることもなく事は進んだ。ああ、ついに君の連絡先を手に入れた。君に文を送ることができる。君に僕の感情を伝えられる。側から見たら気持ち悪いのかもしれないが、もうそんなのはどうだっていい。むしろわかっている。僕は、9年越しに君に思慕と憧憬を伝えるなんていう、受け手にとっては困惑するしかない行為をこれからするのだ。

ああ、君はどんな容姿になって、どんな喋り方で言葉を紡いで、どんな風に振る舞うのか。あの日の君はまだ残っているだろうか。それとも僕の盛大な勘違いなのだろうか。

君に想いを馳せつつも、少し素っ気なさを加えて、会う約束を持ちかけた。一週間だけ、日本に来ると言った。君は1日に一回しか返信をしてくれなかった。返信を待つ時間のなんと息苦しいことか。何もかもに集中できない。何度もスマホを確認した。通知を切ったって、気になるとすぐに開いて確かめた。その溺れかけたような一週間を経て、ようやく会う約束をこの手に入れた。もう、この喜びは、僕には言葉にできない。



君はあの時より少し痩せて、可愛らしい頬や口元がいっそう良く見えた。昔はいつも部活着で過ごしていた君が、風に揺れるロングスカートを履くのに慣れず、何度も目で薄めの生地を追った。君はなんだって似合うんだなあ。きっと。

君が、連絡くれるなんて思ってなかったよー、と変わらずにケラケラ笑ってから、話は意外にも好調に弾んだ。やはり学級委員同士だったからか、自分達のかつてのクラス事情について笑い合ったりした。僕はお酒に弱いが、ここで何か粗相をするわけには行かないと思い、いつもより気丈に振る舞って美味しそうにサーモンのユッケを食べる君を眺めていた。こんなにユッケは魅力的な食べ物だっただろうか?君が一枚口に運ぶのが、スローモーションで再生された。サーモンが鮮やかに輝いて見えた。もう駄目なんだ。ああ、きっと君が、君が素晴らしすぎるんだ。


デザートとかどうしようかー、と君はメニューのページを指差していた。もうじきお開きになってしまう。

そろそろ言わなくてはならない。伝えなくてはならない。丁重に、あくまでも僕の気持ちであって、君と付き合うだとかそう言ったことではなく、君に抱いていた想いのみを言葉にしなければならない。なんだかよく聞こえなかったが君と同じのを頼んだ。小さい丸っこいアイスが2つ、テーブルに届く。君は目を輝かせてスプーンをアイスの中にゆっくり滑らせ、口へするりと流した。


今だ。


「そういえばさ、俺、君にすごい憧れてたんだよ。いつもみんなの中心にいてさぁ。楽しそうで、なんでもできて。すげーって。」

僕があまりにも改まって、目を見て言ったので、彼女はスプーンを咥えたまま目をビー玉のように丸くして。そして1秒後、猫のように目を細めて笑いながら、なにそれ、そんなすごくなかったでしょう、と口を小さく開けて笑った。僕が次の言葉をなんとか探して、いやいや、すごかったよ、そんでさ、もっとほら、高校とかこれからのことも聞いてみたいしさ、とか言ってしまった。


馬鹿だ。こんな夜にまだ話したいなんて、夜通し遊ぶ所に行くか、ベッドのあるどこかに行くしか無いではないか。

これでは下心があると思われてしまう。ああ。ああ、なんと馬鹿なことか。一瞬で顔が青ざめた。何か弁解しなくてはと焦り、あ、いや、また今度会えたらなーと思ってさ、と口早に言った。


「最寄りこの辺?宅飲みでもしようか。」


もはや何に酔ってるんだかわからない。

この時ほど家が近いことに感謝することはないだろう。僕は親譲りの綺麗好きにも感謝して、君を僕の家に上げた。君が、僕の生活空間に存在する。小さな足が畳をパタパタと踏んでゆく。君に触れたいが、そうじゃあない。君はそういった存在ではないのだ。触れ合って、要らぬところまで知ってしまったら意味がない。君を君だと思えなくなってしまう。君が君では無くなってしまう。



あついな、シャワー使っていいから、リンス持ってないから申し訳ないんだけどさ、久々の帰国で疲れてるでしょ、変に手出したりしないから安心して寝てよ、とか歪に紳士ぶってシャワーに行ってもらった。駅から歩いた時より汗が吹き出た。大きめの声で、俺ので良ければシャツとズボンあるから、と叫んで、そばに置いた。一瞬感じる甘い湿気に危うく目眩がしたけれど、絶対に理性を保たねばならぬ。冷房がうまく効かずに暑い。君を待つ間、駅から歩いてきた時より汗をかいた。ベッドは僕の形にじっとりとした。


そうして互いにシャワーを浴びて、君をシングルの狭いベッドに上がらせて、僕は最大限に縮こまりながら天井を眺めて君に話しかけた。

「なんだかさ、俺、君のことがずっと頭から離れなくてさ。」

と呟くと、

へーぇ、とすこし眠そうに返事をして、むくりと頭だけ上げて、

「あら、あなた、私のことが恋愛的に好きだったの?」

とこちらを見て小首を傾げた。

まだ少し暑い室内がベッドに汗を吸わせる。

ふふ、そうなのよ、なんだかさ、本当に欲しいものって、絶対に手には入らないの。だってそれは純粋な好意じゃなく、憧れなんだから……生み出すか、作り上げていくしか無いのよ。奪い取ったっていつかは手の中で溶け去るように消えてしまうの、だから、いつだって生み出せるよう努力をしなきゃあいけないって、私は大人になってやっと気づいたの。君は誰に対して、誰を思い浮かべて、何があってそういったのか。バカな僕にはなにもわからなかったし、本当に、なんの言葉も返せなかった。ほぁ、と息だけが口からこぼれ出た。自分をとても、とても情けない人間だと思った。



僕はやっぱり君には敵わないんだ。

こんなに大きなチャンスかもしれない一言をもらったって、前に進めず、手も伸ばせず、うまい言葉を返すことだってできやしない。

どうなんだろ、なんていう最低最悪の返事をした。ああもうどうして僕という奴は。どういうことよ、と少し微笑んで、数十秒の沈黙の後、君は僕にくるりと背を向けて小さな寝息を立て始めた。





くだらない話だった。

僕は順風満帆なんかじゃなく、ただの平凡な意気地なしだったと思い知らされた。君にも彼女にも曖昧に接して、どうしたいかなんて分かるどころか探してすらなくて、本当にただの阿保なのだ。どうしようもない、つまらぬ人間なのだ。

きっとこの経験は重たい足枷となって、揺れるロングスカートにサーモンや、小さい白いアイス、自宅の天井が目に映る度にチリチリと胸を刺すんだ。

なんという後悔であろうか。

朝にも笑ってくれる君を駅まで見送ってもなお、自分という名の空っぽの入れ物に失望していた。すでに想いを伝えただけで満足だなんて思えなかった。

フラフラと朝食のヨーグルトを食べる時に、小さいスプーンを落として僕はまた何の意味もない順風満帆に向けて歩き出すしかないのだと思い知った。




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