第5話:亡者の神託



 その悪意を、男は知っていた。

 いや、悪意そのものからしてみれば、その思いはただ強靭にして無謬の使命感であったに違いない。そのためならばいかなる非道もあらゆる残虐も厭わない。全ては任務のためだった。そうやって破滅していった……いや、破滅したはずの男を、彼は知っていた。



 そうか……お前は……。



『コンピューターや魔導式がそれぞれのコードで動くように、我々人間の思考もまたさまざまな言葉コードによって行動が定義されている。君たちエージェントを一律に駆り立てるコードはひとつ、「任務」だ。たとえそれがどんな内容の事であれ、君たちはその一言で国家の犬に成り下がる。愛する祖国のため、あるいは大切なものを守るため、そんな大義の為の任務として、君たちは自身に秘められた残虐性をさらけ出すことを、他ならぬ己自身の心に許すよう思考がデザインされている。それは組織の操り人形に加工される事そのものよりも、遥かに非人間的で残虐な行為であり、さながら痛覚を維持したまま全身を細切れにするに等しいといっても過言ではない』

「……愚かな自己犠牲だ、とでも言いたいのか……」

『いいや、もっとタチが悪い。君たちの正義には主体性が決定的に欠けている。その正義は上から与えられた仮初のものでしかない。義を見てせざるは勇無きなりと、政府は君たちの良心を人質に取って任務を与え、それを嬉々として受け入れてしまうのが君たちだ』

「だが『トライデント』が盗み出されたのは紛れもない事実だ。それを悪用する企てを阻止することに何の不当性も存在しない。お前の言っていることは、破壊を望むアナーキズムの妄言だ!」

『ふふ……そこまで言うのなら証明してみるがいい。君の言う正義とやらを。君が絶望する様を、君に最も近い席で見守っているとしよう』



 薄れゆく意識の中で、男は自身に向けられた言葉をひたすら反芻していた。

 その達観したような態度、機知と虚飾をかき混ぜたような、相対した人を煙に巻く言葉遣い。

 アーセムはその男を知っていた。



「……セム……アーセム……アーセム!」



 自分の名を呼ぶ声によって現実に引き戻されると、先ほどのサーバールームと比べればいくらか明るい場所であった。

 背中から伝わる振動は地震ではない……モーターの駆動か。ずいぶんと低い天井は建物のそれではない、車の中だ。



「う……何が起きた……」



 頭を打ったのか、眩暈がひどい。車の揺れも相まって今にも吐きそうになる。

 そもそもなんで自分はこんなところにいる? 自分は確か公国の大使館に潜入して、サーバールームでデータのサルベージを行い、それから……。



「アーセム! ちょっと起きて!」



 甲高い怒鳴り声に思考を中断させられ、アーセムはハッと我に返った。先ほどから執拗に自分の事を呼んでいたのは、カリヤと行動を共にしていたはずのシンシアの声であった。



「シンシア……? なぜこんなところに。カリヤはどうしたんだ?」

「カリヤとレイヴァンは別行動中よ。とにかく今は逃げることが先決」

「どういうことだ」

「“招かれざる客”よ。私たちの行動は何者かに先読みされていた。連中は私たちにエルズ共和国大使館爆破の濡れ衣を着せて逃走。で、あなたは爆破に巻き込まれて気絶。私がそれを拾ってきたまではいいけど、これだけの騒ぎを起こしたものだから私たちは今公安に追いかけられてる。分かったら後ろの敵を追っ払っていただきたいのだけど、それともまだそこでお休みしておく?」

「いや、いい。さっさと片づけてカリヤ達と合流しよう」

「了解。くれぐれもこっちの車の回路を焼き切らないでよね」



 投げ寄越された無線のイヤホンを受け取ったアーセムは「努力しよう」と言い残して、スライドドアを開けてバンの屋根上と上がる。猛烈な速度で過ぎ去っていく景色と、体中に吹き付けてくる風。ここでようやく、アーセムは今自分たちが公国のハイウェイを走っていることを知った。深夜帯とはいえ公国首都圏の大動脈である。渋滞こそしていないがかなりの数の車が走っていた。



「追跡者の数は?」

『車が二台にバイクが五台よ。できるだけ殺さないであげて。仮にも彼らは同盟国の公安局員よ』

「言われなくてもそのつもりさ。まずは手前の二台から片付ける」



 言って、アーセムはすぐ目前にまで迫っていたバイクを一瞥する。二台は並走してバンを追跡しており、こちらが簡単に進路を変更できないように牽制を仕掛けていた。このままでは敵の思うツボ。可能な限り早くこの状況を脱しなければならなかった。



「行くぞ」



 アーセムは腰から拳銃を取り出し、牽制射として一台目のバイクに発砲した。敵が回避の為に速度を緩めたその瞬間を狙い、アーセムはバンの屋根を蹴って虚空に身を投げ出し、ワイヤーをドライバーの胴体に巻き付けて空中で軌道を修正。そのまま勢いを付けてバイクの後部シートに乗り込むと、ドライバーが抵抗を始める前に電撃を浴びせて昏倒させ、そのままアクセルを思い切り握りこんでシンシアの運転するバンの遥か先までバイクを走らせた。



「……あった」



 アーセムが見つけたのは同車線で走行している一台のレッカー車だった。アーセムはその横にバイクをつけると荷台の鉄骨にワイヤーを巻き付け、その後一気に距離を離してドライバーをコックピットから引きはがす。哀れドライバーはそのまま宙ぶらりんに吊るされ、レッカー移動させられる形で無力化された。



「まずは一人」



 敵のバイクの強奪に成功したアーセムは機体を翻して反対方向を向くと、中央分離帯を突っ切って反対車線に進入し、来た道を逆走。間もなくして追跡車の最後尾まで到達する。再び中央分離帯を乗り越えて元の車線に戻ってきたアーセムは最後尾のセダンの助手席側にバイクをつける。それに気づいた公安局員が窓を開けて拳銃を構えたが、アーセムは臆することなくその銃を掴み、相手の銃を握る手の甲側に思い切り捻じった。引き金にかかっていた局員の人差し指はいとも簡単に砕け折れ、風切り音に紛れて悲痛な叫び声が上がる。その後アーセムは奪い取った銃のマガジンをリリースし、薬室内に残っていた一発は車内の無線機に向けて発砲して消費。無線機を破壊して用済みとなった空っぽの銃を泣き叫ぶ局員にお返ししてから顎に掌底を一発くれて黙らせ、ドライバーに向けて一言。



「今からこの車の駆動系を破壊する。死にたくなければハンドルから手を離すなよ!」

「貴様……このッ‼︎」

「幸運を祈るよ、ジェントルマン」



 そうして運転に集中せざるを得ない状況を作り出してから、アーセムは車体に手を当てて大出力の電流を流す。その一撃でバッテリーがショートし、制御を失った車は減速、停止を余儀なくされた。



「あと4台か……面倒だ。一気に片付けたいところだが。シンシア、このまま進むと何がある?」

『ハルスマグナ国際空港行きのインターチェンジよ。でもすでにそこは封鎖されてるわ』

「他には?」

『行き止まり。改装工事中で道そのものが寸断されてるわ』

「つまりどっちにしてもこいつらの足を奪う以外ないってことだな」

『そうね、そうじゃないにしてもこの鈍足じゃ追いつかれるのが関の山よ』

「クソ、簡単なミッションのはずだったのにどうしてこんな」

『今は目の前のことに集中して』

「わかってるよ」



 再びアーセムはアクセルを回し、バンを追跡しているもう一台のセダンに追い付く。同時に三車線あった道路が二車線に狭まり、周囲の闇が濃くなった。トンネルの中に入ったのだ。



 現在バンを追跡しているのはバイクが三台にセダンが一台であり、セダンが先頭を走っていた。これを好機と見たアーセムは、一旦並走していたトラックの反対側に回り込んで姿をくらます。その後再びセダンの運転席側に回り込んで窓ガラスを銃でぶち破ると、相手の抵抗を待たずしてハンドルを握り込んで電流を流した。誤作動を起こしたエアバッグが相手の視界を塞ぎ、車の挙動が一瞬混乱する。それを見計らってアーセムは前輪のタイヤを撃ち抜いて制動を奪い、猛スピードで走行していたセダンはたまらずバンパーを地面に擦り付け、激しい火花をあげながら宙を舞った。そのままセダンは真っ逆さまに墜落し、後続の二台はそれを避けようとして減速したが間に合わずに横転、ドライバーが投げ出される。激しく損傷したバイクはそのまま二台ともトンネルの壁面に激突して爆発、炎上した。



 なおも追跡を続けていたのはバイクが一台。後がなくなった向こうも必死なのだろう。ターゲットをアーセムに変更した敵は凄まじいスピードでアーセムに迫り、銃を構えざまに発砲した。



 一発、二発。かなりの至近距離の銃撃だったが、時速100km以上の高速で移動する物体に対して不安定な姿勢で命中させるのは簡単なようでいて難しい。銃弾は見当違いな方向に命中するばかりだった。しかし今は直線を結ぶトンネルの中。すでに追い越す車も無くなっていた並走状態ともなれば、弾が当たるのはもはや時間の問題である。そして今、空港行きのインターチェンジを通り過ぎた。こうなると行き止まりまで一直線だ。もはや迷っている時間は1秒たりとて存在しなかった。



「シンシア、僕が合図したらブレーキを踏め」

『それは構わないけど、一体どうするつもりなの』

「アドリブだよ」

『またそれ⁉︎』

「しくじるなよ、君がとちれば僕は死ぬ」

『もうヤダこの職場……命がいくつあっても足りないわ』

「文句を言うな。頼んだぞ」



 まだ無線の向こうでぶつくさ言うシンシアをよそに、アーセムは限界までアクセルを握り込んで加速する。敵も逃すまいと追走を始め、両者の距離は一向に離れない。やがてアーセムの左手側にトンネルの壁面が迫り、このままでは接触は不可避であった。しかし、アーセムはなおも加速を続け、速度が限界まで差し掛かったところで不意に前輪を浮かせた。



「アクロバットだ!」



 完璧な入射角だった。浮き上がった前輪はトンネルの壁面を捉え、まるで磁石で吸い付くように半球の壁を車体が登っていく。言葉通り、まさしく絶技とも言えるアクロバットの果てにバイクは逆さまの虚空を飛び、アーセムは空中に投げ出されるが、構うことなくワイヤーを飛ばして敵のバイクのハンドルにくくりつける。



「今だ!」



 もはや落下するしかないアーセムは渾身の叫びを放つ。ここようやく彼の意図を理解したシンシアはもはやブレーキを踏むだけでは足りないと判断した。

 乗り手を失い、ただ落下していく哀れなバイク。その車体にはワイヤーがくくりつけられており、糸を辿った先にはもう一台のバイクに結び付けられていた。アーセムの思惑に気づいた追跡者もこれにはたまらずブレーキを掛けるが一歩遅い。先に地面に激突したアーセムのバイクに引っ張られ、車体の制動が無茶苦茶な方向に暴走。例によって最後の一台もまた地面に横転した。もはやハイウェイに追跡者はなかったが、アーセム自身も守るものもない宙空を舞っている。しかしその落下の角度、位置を寸分違わず見抜いていたのは、『鷹の目』の異名を取るシンシア・スノウフィールドが駆るバンの超絶技巧であった。ブレーキを踏むとともにハンドルを思い切り横に切られた車体は進行方向に対して90度回頭し、その勢いでスライドドアが強引に開け放たれる。



「ドンピシャよアーセム。対ショック姿勢!」



 果たして、アーセムはそのままバンの中に吸い込まれ、衝突の衝撃はわずかに制動していたバンが完全に殺しきっていた。



「さすがだシンシア。君は最高のドライバーだよ」



 対ショック姿勢のまん丸な姿勢のまま、アーセムはシンシアに賞賛を送った。



「褒めたって何も出ないわよ。全く、あなたはいつも無茶苦茶するんだから」

「ともかく追跡は撒いた。この先は行き止まりだが、最悪歩いてハイウェイは抜ければいい。増援が来る前にここを抜けよう」

「そうね」



 再びアクセルを踏む。束の間の安息を得たせいか、全身から疲労が噴き出して来るようだったが、だからといって休んでいられるわけでもなかった。アーセムは運転中のシンシアに問いを投げる。



「情報が漏れていたと言っていたな。どうしてそれがわかった?」

「最初に気づいたのはカリヤよ。彼は作戦の直前になって大使館のセキュリティの仕様が変わっていたことを不審がっていた。そしたら潜入直後のあなたと待機していたジャッキーと連絡が取れなくなり、その後大使館が爆破された。私の車と一緒にね」

「ジャッキーもいなくなったのか……」

「ええ、だからカリヤとレイヴァンが捜索しているわ」

「クソ……あいつの言ってることはハッタリじゃなかったというわけだ」

「あいつ? 何か知っているの?」

「ジャッキーは拉致されたんだ。僕らの作戦を知っていた奴によってね」

「ならすぐに助けださないと」

「その前に合流するのが先だ。カリヤたちは今どこに?」

「いま合流地点ランデブーポイントが更新されたわ。ジャッキーの捜索は一旦取りやめたみたいね。彼らはこの先の行き止まりの高架下で待ってる。どっちにしてもバンはそこで乗り捨てるしかないわね」



 それと、と一呼吸置いてから、シンシアは険しい顔で続けた。



「連邦議会が正式に認知されざる作戦命令ゴースト・プロトコルを発令したわ。部隊は解散。私たちにも帰還命令が出されてる」

「長官はなんと?」

「以降の作戦は連邦情報局FIBが引き継ぐ、とだけ」

「帰還期限も設けられていないのか?」

「可能な限り速やかにと」

「シンシア、覚えておけ。それは可能な限り早く任務を達成し、寄り道せず生きて帰ってこいという意味だ。任務は続行だよ」

「そんな、無茶よ。部隊のバックアップがない状態で」

「その無茶を、これまでどれだけ通してきたと思う? 我々はナイトフォッグだ」

「…………」



 それはわかっていたのだろうが、この状況では押し黙るほかない。今や彼らはお尋ね者、同盟国の大使館を爆破した極悪非道のテロリストというのが公式の見解である。今頃連邦の外務省は関係各位に向けての弁解に右往左往しているところだろう。そんな中おめおめと帰ろうものなら軍法会議は避けられない。下手をすれば死刑台まで直行だ。かと言って逃げる道もなく、生き残るためには自分たちを貶め、禁止兵器を狙う真の悪党を捕まえることでしか、自身に着せられた汚名を晴らすことはできない。組織のバックアップもなし。完全な独力で任務を達成するしかなかった。

 その手がかりは、現状でただ二つ。一つはアーセムが大使館から持ち帰ったデータ。そして彼の記憶の奥底で眠っていた忌まわしい記憶だけである。どう考えても無茶振りでしかなかった。



「エニグマ……」

「え……?」



 と、そこに。アーセムがポツリとその名を口にした。それは自分に言い聞かせるようなトーンで打ち明けられたようでもあったが、聞こえてしまった以上は聞き返すしかない。



「エニグマ。奴が生きていたんだ」

「ちょっと待って。エニグマって、彼のことよね……」

「そうだ、本名はジャック・スコール。元ナイトフォッグのエージェント。奴が僕の前に現れた。姿形はまるっきり違ったが、そんなのはもはや問題じゃない。最高クラスの変身能力を持つ奴はその名の通りエニグマだ。誰かであり誰でもない。そもそもどれが本物のジャック・スコールであるかなんて誰もわからないんだ」

「嘘よ……だって彼は五年も前に死んだはずじゃない」

「死体を確認した者もいない。所詮は死亡扱いの行方不明に過ぎないんだ。奴はただ僕たちの前から消えただけだ」



 まるで霧のようにな。とアーセムは言葉を詰まらせる。

 頑なにその存在を主張し続けるアーセムには確信に近いものがあった。その根拠はきっと、あの時だ。エニグマと思しき人物は馴れ馴れしくもアーセムのことを「レニー」と呼んだ。部隊の中で彼をそう呼ぶものはジャック・スコールだけだった。アーセムの戦友であり、親友であった彼は五年前に突如として姿をくらまし。以降アーセムのことをその愛称で呼ぶものはいなくなった。



 だが五年の月日を経て、再びその者はアーセムの前に姿を現した。忌まわしくさえ思える超然的な態度、他人を見透かしたような物言い。アーセムをただ一つの愛称で呼び、ジャッキーの事を「妹同然」とも言い放った彼は紛れもなくジャック・スコールだった。



「とにかく、まずはカリヤ達と合流しましょう。今後の話はそれから。もうじきトンネルを抜けるわ」

 


 そう、追跡者は蹴散らしたが事態の解決にはまだ数手足りない。それが明白なだけにアクセルを踏み抜く力を抜くことは出来ず、やがてバンはトンネルの先の抜けるような夜空の下に出た。

 しかし……。



「ウソでしょ……?」



 開けた視界にはとんでもないものが映り込んでいた。そして間も無く、アーセムの耳にも差し迫る脅威の音が響き渡る。

 トンネルの先で待ち構えていたのは鋼鉄に覆われた一基のガンシップ。増援としては思いつく限り最悪の敵が立ちはだかっていた。

 


「シンシア、このバンって防弾加工はしてるのか?」

「してるけど、さすがに20mm重機関砲の掃射の前には紙も同然ね。相手は対戦車攻撃ヘリよ。アーセムこそ、あのガンシップへの対抗策とかないの?」

「皆無だ。あのヘリ、機体下部のセンサーポッドが対人サーモに換装されてる。意地でも目標をハチの巣にすることに兵装を傾けた対テロリスト仕様だ。フレアを撒きながらならまだ分からんが、それもなしに機体の前にむやみに飛び出して見ろ。僕は空中で粉々に分解される。文字通りの血濡れの雨ブラッドレインだ」

「じゃあどうする?」

「とにかく逃げる。車をぶっ飛ばせ」

「了解」



 ただでさえ踏みっぱなしのアクセルをさらに蹴り込まれ、そのキックダウンの勢いで車体が激しく揺れる。再び猛加速したバンの背後をガンシップが追尾するが、速度の差は歴然だった。おそらく敵は半分の速度も出さずに悠々とバンの後ろにぴったりと張り付いていた。



「ああもう、こんなんだったらカリヤ達にこの車渡しておくんだったわ。この鈍足!」

「何の話だそれ?」

「いいの、こっちの話。口開けてると舌噛むわよ!」



 シンシア・スノウフィールド。その魔導式は広域視。自身の可視範囲を周囲300メートルにまで広げ、視界内の動体の動きを数フレーム単位で補足する術式である。前方しか見ていないように見えるが、実際は遥か先の道の状況と後方を追尾するヘリの動きを同時に把握することが可能だった。それだけの情報を得ておいて、あえてハンドルを思い切り切ったのなら、考えられる状況はひとつしかない。敵のガンシップに備え付けられた重機関銃のシリンダーが回り始めたのだ。



「敵の機銃掃射、来るわよ」



 宣言通り、間もなくしてバンの後方ですさまじい発砲音が轟き、バンのすぐ後ろのアスファルトの地面がポップコーンのように弾け出した。こんなものを生身で受けてはひとたまりもないと、アーセムの背中が竦む。



「もっと飛ばせシンシア!」

「すでに限界速度よ! 敵の攻撃を先読みするのがやっとの状態」

「チクショウ……次から次へと」



 向こうも任務。それは分かっていた。だが同時にそのせいでこちらの目標は遠のく一方である。アーセムは明らかに苛立っていた。

 何か、この劣勢を打開する策を……。しかしこちらには対空装備を積んでいない。完全に手詰まり、そう思った矢先だった。



『……ンシア、シンシア。こちらカリヤ、応答してくれ』

「カリヤ!?」

『待たせてすまない。俺たちは今君たちの進行方向一キロ先にいる。君らを追っているのは公国公安局の対テロ部隊のガンシップだ。そいつは俺たちで何とかするから、シンシアたちは全速力で突っ込め』

「何とかするって、いったいどうやって?」

『魔法の力ってやつさ。まあ見てろって』



 こんな状況で一体何が……?

 彼の打つ手がまだ分からないが、かといってこちらの判断で速度を緩めるわけにもいかない。思わずアーセムの方を振り向くも、彼と言えば至って余裕の笑みだった。



「君の仲間を信じろ」



 なるほど、それが任務なのであれば答えは一つ。



「ええ、信じるわ」



 もうアクセルを踏む足は緩めない。すぐ後ろで爆散する地面を背にバンは全速力で飛ばしていく。やがてアーセムの目にもはっきりと、改修工事中の寸断されたハイウェイの行き止まりが見て取れた。



「頼むぞ……レイヴァン、カリヤ」



 そして、寸断された道路の向こう側の道にレイヴァンが姿を現す。まるで迷彩を解いたような出現の仕方は、レイヴァンの持つ魔導式「歪曲」のなせる業だった。かれは周囲十数メートルの光と物体を文字通り「曲げる」。レイヴァンは地面に手を当てて術式を発動させると、バンの進行方向に伸びていた道路が急激に歪曲し、急斜面の坂となってすぐ下を通う道に繋がった。突然の道の変化には瞠目するが、今ブレーキを踏めばそれこそ大事故は免れない。どの道突っ切るしかもう手段はなかった。



「パッケージがポイントを通過。後は頼むぞ、カリヤ」

「合点承知。まずは敵をかく乱する」



 レイヴァンの後ろで控えていたカリヤが銃を構えた。間もなくして撃ち放たれたのは銃弾ではない。中空で激しく輝くそれはフレアディスペンサーと呼ばれる物だった。高温を帯びて燃焼するそれはガンシップのセンサーポッドに備え付けられていたサーモセンサーをかく乱し、目標を自動補足していた重機関銃が明後日の方向を撃ち始めた。



「これでやっこさんはマニュアル操作で照準を合わせなきゃいけない。でも無駄だよ、お前らの制御はたった今俺の手に堕ちた」



 カリヤはにやりと口角を上げた。カリヤの宣言通り、敵の挙動がぴたりと止まった。機体に張り付いた無数の青光りはエーテル加工された人工術式スパイダー。カリヤの仕込んだあらゆる制御術式がガンシップの駆動系から制御系に至るまでを侵し尽くし、完全にカリヤの傀儡と化していた。



「基地へ帰んな」



 中指を突き立てながらカリヤが指示を出すと、ガンシップはパイロットの意図に反してその身を翻して飛び去って行った。



「さすがはスーパーハッカ―。見事な手並みだ」



 坂を下りた先でその様子を見ていたアーセムが称賛を送る。

 任務開始から実に1時間。合流を果たしたナイトフォッグの面々はようやく安堵に胸を撫で下ろした。



「エニグマを追う。ともかく一度装備を整えるぞ」

「エニグマ……そうか、奴は生きてたんだな」



 アーセムの口からその名を聞いたレイヴァンは一瞬目を見開いたが、それ以上ジャック・スコールの生存の可否に口を挟むことはなかった。

 アーセムは大使館から持ち出してきたデバイスをカリヤに渡し、



「これが唯一の手がかりだ。頼むぞカリヤ」

「お安い御用だが、そのエニグマってのは一体何のことだ?」

「お前がナイトフォッグに入る四年ほど前、ジャック・スコールという名のエージェントが在籍していた。エニグマとは彼のコードネーム。稀代の変身術式の使い手であらゆる人物に化けることが出来る」

「へえ、そりゃまた稀有な奴」

「奴はその能力を活かしてあらゆる任務を完璧にこなした。ああ、実力は僕よりもはるかに上さ」

「だが、今もこうして残っているのはアーセム、あんたの方だ。スパイってのは息が長ければ長いほど優秀だって、あんた言ってたじゃないか」

「……そうだな。不要な嫉妬はやめよう」



 アーセムはそう言って自分を持ち直してから続けた。



「そのエニグマが、禁止兵器『トライデント』に関わる何らかの情報を握っている。僕たちはそれを突き止め、何であれ奴の企てを阻止する。尚、連邦会議は正式にゴースト・プロトコルを発令した。組織は解散し、僕らにも帰還命令が出ているとのことだ。この任務は僕たちだけで完遂しなければならない。抜けたい者がいるなら今ここで申し出てくれ。全責任はこの僕が負う」



 その場にいた一人一人の顔を見つめながら、アーセムは最後通牒を突き出した。ここから先は一筋縄ではいかない。より激しい妨害に遭い、より執拗な追跡を受けることになるだろう。そんな中、全員が無事に生還し、任務を終えることが出来るかは分からない。しかしそれでもと、アーセムの突きつけた最後通牒に応じる者はなく、ただ長い沈黙が流れた。やがてそれを否と受け取ったアーセムは襟を正して敬礼するのであった。



「感謝する、同志諸君。ともに任務を完遂しよう。ジャッキーを助け出し、裏切り者に落とし前をつけさせる。……いざ目を開き、耳をそばだて、されど口は噤み沈黙に殉ぜよ。我らはナイトフォッグ、触れられざる霧の盾なり」

「Aye, aye, sir! 」



 今や帰るべき国さえ失った亡者たちによる誓いの言葉が、公国の夜空にこだましていった。

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