異世界の情報戦ではすぐに世界の危機が絡んできます
痕野まつり
Phase1:the Nightwalkers
第1話:霧の従者
摩天楼が光を纏って黄昏に暮れる空を突き刺し、ビルの壁面いっぱいに設けられた大型のモニターから、連綿と企業広告が映し出されては流れていった。
アーストロイア二大大国の一翼、ラステラ連邦が誇る大都市、ヨシュアシティ。
この街のビルモニターに広告を打てるというのは、それだけで企業の力を大衆に知らしめるに足るパフォーマンスとなり得る。
単純接触効果というのもなかなか馬鹿には出来ない。
何の気もなしにでも同じものを何度も見れば、嫌でもその企業の名と商品の概要を頭に染み込ませることが出来る。
そうやって暇を持て余してもうどれくらい経つのか。
そんな思考に立ち返らせるかのように、無機質に響く時報の音が喧騒にまみえるビル街をつづらにこだましていった。
十二進法と六十進法の組み合わせは、循環していく時の流れを数値化するにはことさら合理的な指標である。
もしこの星と似たような条件で、なおかつ自分らと同じ文明レベルを持った知的生命体が存在するのだとしたら──
あるいは並行世界なんてものがあるのだとしたら、もしかしたらそこの住人もこんな具合に時間を数値化しているのかもしれない。
そんな具合に、ただ滔々と流れていく時のせせらぎに身を任せ、人の往来をカフェの屋外テーブルに座りながら眺め夢想するのが、アーセム・レインという男の小さな娯楽の一つだった。
人を待っているのだろうか、深いグリーンの瞳を湛える表情はどこか退屈気だ。
小風に撫でられ、時たまはしゃぐように沸き立つ金髪を掻き上げるさまは見目麗しく、彼にカップを運んでくるウェイトレスの表情はあからさまにとろけている。
それをアーセムは媚びない笑顔で受け取って、今にも小躍りし始めそうなウェイトレスの後姿を見送る。
果たして、ずいぶんと長い事座っていたので、それが自分の注文したものかどうか一瞬忘れかけていた。
が、その中身がラテアートに見せかけた暗号文と知るや否や、アーセムは一瞬表情を強張らせ、中身を飲み干したのちに席を立ち、すぐそばの購買コーナーに向かう。
「号外を」
「号外は今日はもう売り切れだよ」
「一部だけ余ってるはずだよ。霧の従者に関する最新情報が見たいんだ」
「…………」
淀みなく述べ立てるアーセムのその言葉を聞いて、人の良さそうな面持ちの店員はまるでスイッチが切り替わったかのように目付きを変えて
「運が良かったねお兄さん、一部だけ余ってたよ」
そう言って、アーセムに一部のニュースペーパーを手渡した。
「ありがとう」
「お代は結構、あんたに幸運を」
果たして、何やら意味ありげなやり取りののち、アーセムはやれやれと困り気味に破顔しながら席へと戻り、今しがた頂戴したニュースペーパーを広げた。
『ごきげんよう、レイン君。今回君に下された任務は、ハルスマグナ公国の軍部から盗み出された「トライデント」と呼ばれる物資の奪取だ。事の詳細の前にあらかじめ伝えておくが、この任務にあたって君が敵に捕らえられ、または殺されたとしても、当局は一切関知しないのでそのつもりで。それでも引き受けるという事であれば認証を』
一見すれば、それはターミナル前の購買でどこにでも売っているようなニュースペーパーだ。
そう、どう見ても粗雑な半紙でしかないはずのペラペラなデバイスから指向音声越しに言い渡されたのは、得体の知れない「声」によるいきなりの最後通牒だった。
しかし、アーセムはまるでそれを天気の挨拶かの如く聞き流して、紙面に表示された認証紋に右の手のひらを当てがう。
ナノラミネートフィルムでコーティングされた紙状のディスプレイと称すのがこの奇怪な代物の形容に最も適している。
むろんこんなものが市販されているわけもなく、彼の手にあるそれだけが、ニュースペーパーらしからぬ奇怪な機能を備えていた。
状況から察するに、はじめに彼のもとに運ばれてきたラテアートの暗号に、ニュースペーパーを受け取る旨の指示があったのだろう。
そんな状況にももう慣れているのか、アーセムは大して気にする風でもなく、認証後まもなく再生された映像をまんじりと眺めていた。
『先日、ラステラ連邦の郊外でハルスマグナ公国大使館の職員が遺体で発見される事件があった。職員の名前はエリック・ベッソン。情報によれば、ベッソンは大使館に潜り込んだ公国の公安外事課の局員であり、彼は公国の軍部がらみの禁止兵器製造に関する情報を突き止め、それを何者かへの提供を試みていたらしい』
流れてくるアナウンスの剣呑な物言いに、アーセムはまなじりを下げた。
自国領での大使館員殺害。
それが事実なら国際問題にも発展しかねない大事件だが、ここ数日のニュースでそれと思しき報道はなされていない。
となれば考えられるのは二通り。
一つは事件そのものがなかった場合、もう一つは政府による介入で事件に関する報道に規制が掛けられている場合。
だがそれは愚にもつかない二択問題だ。
きっとこの男はこの時点で後者であると断定した上で、淡々と事の次第を語るニュースペーパーを見ていたに違いない。
『ところが事件発覚後、ベッソンが死亡したと思われる時刻よりも明らかに後とみられる時間帯に、公国の国際空港で彼の姿が監視式に捉えられていたことが分かった。事件発覚の2日前の事だ。その人物はベッソンを殺害した犯人の疑いが強く、彼はその後公国にてベッソンの勤務先である大使館で何者かと接触したのち姿を眩ませた』
殺した人間に成りすまして情報を探る。
しかもその宛はラステラ連邦に並ぶ大国、ハルスマグナ公国の大使館だ。
ややあって公国大使館のセキュリティの硬さはよく知る立場にあったアーセムは、不穏極まる空気に眉間を寄せる。
──ただ顔を職員に似せたりなどといった生半可な準備では、公国大使館の警備は到底突破できない。
事前に練られた入念な計画に基づき、犯人はベッソンの殺害を企てたのだろうということはアーセムにも容易に想像できた。
当然、いずれ本物のベッソンの死体が上がることも想定済み。
にもかかわらず空港でその姿を目撃されるという間抜けを犯人はやらかした。
それは一見詰めが甘いようにも思えたが、ベッソンを殺した時点で犯人の計画はおおむね達成されたとみるのが、この場合は正しい判断のはずだ。
そう考えると、わざわざ危険を冒してまで証拠隠滅に走る必要もなく、どこかの監視記録がまだ空港と大使館内に残っているとみるのが妥当だろう。
『そこで、君はまず手始めとして。ベッソンに成りすました人物が誰と接触したのかを突き止め、犯人の目的とその足跡を追跡してもらう。そのためにはまず公国の大使館に潜入し、監視式を解読して当時の映像データを入手する必要がある。なお、この施設の記録データはひと月置きに外部記憶にアーカイブされ、ローカルのデータを抹消する更新作業がある。次の更新日は本日日付変更時。よって残り5時間16分で対象のデータをサルベージしなければならない。作戦時のメンバーはこちらで用意した。追加の人員は君の任意で選んでくれ。ピックアップポイントはアルファ118。以上、諸君の健闘を祈る』
「それはまた、ずいぶんと急なことで」
アーセムは苦笑いを込めながらデバイスの部分をニュースペーパーごとクルクルと丸めて席を立ち、歩き出しざまにそれを近場のゴミ箱に放る。
するとそれから数秒も経たないうちに、デバイスはフラッシュを焚いたように一瞬で燃え尽き、熱もなく消えていった。
はたから見た分にはちょっとした手品に見えた事かもしれない。
が、あいにく帰宅ラッシュに追われた群衆が彼の起こした小さな変化に気づいた様子は全くないのであった。
アーセムは入り乱れる雑踏を実に器用な足取りで抜けていき、スルリと大通りから裏路地へと入っていく。
そうして街明かり溢れる都会の人混みから黄昏の世界へと自分を隔離し、やや安堵した様子でポケットから携帯電話を取り出す。
視線は前に、歩調は乱さず。コールのナンバーをブラインドタッチで済ませる。その所作はまるで、相手方からかかってきた通話に対する応答のようだ。
『やあアーセム、景気はどう?』
コール後、相手方の軽快な声音が響く。
あまりにも緊張感のない調子だったが、アーセムは慣れた風で淀みなく返答する。
「ご挨拶だね、いつだって陰気なもんだろ。僕たちの仕事は」
『はは、違いない。陰気な中でも俺は人気者だったりするのかな』
カラカラと笑みをたたえながら、相も変わらぬ口調で相手は軽口を返した。
「今更だなカリヤ。今でも公安とマフィアは君にご執心さ。それこそ血眼で探し回っている」
『あながち間違いじゃないかもな。音声に少しノイズが走ってる』
「今は狭い路地裏だからな。多少乱れもするさ。それともカリヤ、お前は自分で組んだ秘匿回線が破られるとでも?」
『バカ言え、俺を誰だと思ってやがる』
「その意気だ。ま、長話もなんだ。人気者ついでに僕からのご指名を君に」
『仰せのままに。エージェント・レイン』
と、ここでようやくスイッチが入ったのか、カリヤと呼ばれた男の口調は打って変わって落ち着きを得た。
彼が仕事人としての自分にカリヤが立ち返ったのを確認してから、アーセムもまたこれまでの柔和な態度を硬く改めた。
「オーライ、本日
「想定、条約締結国支配区域における
「イエス。例によって本件の作戦行動は全て
『
ここでまた緊張の糸が切れてしまったのか──だとしたら随分と移り気なもので心配になるが、幸い現状伝えることは伝え切ったので、アーセムは目くじらを立てることもなくカリヤに調子を合わせた。
「どうかしたか?」
『いや何、あんた今ターミナル近くの裏通りにあるカフェの前を通り過ぎたろ』
聞いてきたのは、そんな些細でどうでもいいことだった。
「糸もつけてないのにどうして分かる?」
『店内音楽が漏れてくるのが聴こえたのさ。この時間になるといつも流れてる。なんだったかな、この曲』
「エニグマティックセッション、『夜霧に紛れて』さ。古いセッションバンドの代表曲だよ」
『なるほど、
「かもな、でも僕はあまり好きじゃないんだ」
『どうしてさ、いい曲だろ』
好みを否定されて気を悪くしたのか、カリヤはやや強めな口調でアーセムに噛み付いたが、そうではないと言いたげにアーセムは首を振った。
「違うよカリヤ、曲じゃなくてバンドの方。エニグマって名前。昔の友人を思い出してしまうんだ」
アーセムは苦味を込めてはにかむ。もし今、その友人が彼の顔を見たらいったいどう思うのだろう。アーセムの見せた表情はそんな郷愁と悲哀に満ちていた。
『連邦が誇るスパイマスターが追憶に涙するってか? はは、あんたも感傷に浸ることがあるんだな』
「余計な話は慎め。じゃあ切るぞ」
いくら秘匿回線での会話だからといって、「スパイ」などと言ういかがわしい単語を軽々しく口にしては欲しくない。
これ以上の与太話は無駄と判断したのか、アーセムは一方的に通話を切ってしまった。
そう、スパイ。アーセム・レインと彼が今回組むカリヤ・ライトニングはラステラ連邦が擁する諜報機関。中でも極秘任務を専門で請け負う、ミッションコード「ナイトフォッグ」に所属するエージェントである。
スパイとは世界において売春の次に古い歴史を持つ職業といわれ、「いずれは誰かにやられる」という点で両者は共通している。
そう、それ故に迂闊な発言はタブーに触れることになり、それがもたらす危険は自分もしくは仲間に降りかかる事になる。
カリヤという男はその点、若さ故かまだ抜けている節があるが、そんな彼がこうして間諜の世界で伸び伸びとやっていられるのは、冴えすぎる頭脳と天才的な勘あってこそのものだろう。
どちらかといえば凡百の徒に過ぎないと自負しているアーセムにとって、それは危なかしくも輝かしいものとして映っていたことだろう。
ともあれ業務連絡は済んだ。アーセムは手にした携帯に目をやり、意識を集中させる。
するとどうだろう、アーセムの手に握られた端末はチリチリと稲光を這わせたのち、金属が焦げるような臭気をあげて完全に機能を停止した。
それを見届けると、アーセムはなんの躊躇もなく路肩の排水管に携帯を投げ捨て、歩調を崩すことなく次の大通りへと消えていった。
実を言うと、アーセムは情報保護のために携帯端末を持ち歩かない。
今彼が捨てた端末は、ターミナルからこの裏通りに来る道すがら通行人からこっそり拝借したものであり、先ほどのニュースペーパーのように機関が用意した証拠隠滅の仕掛けなど施されてなどいない。
一見唐突とも言える端末の破壊は、アーセム自身の能力としてなされたものである。
それは魔導式と呼ばれ、このアーストロイアにおいてはすでに体系化された異能力として認知されている。
主に一人につき一系統の基礎術式に加え、そこから派生式を加えた複数の術式を持つ。
中でもアーセムは電流を操作する魔導師であり、あらゆる電子機器はアーセムの手にかかればこの通り、何の苦もなくスクラップにすることが可能だ。
「夜霧に紛れて、か。我ながら随分とまあ饒舌に」
それこそ感傷気味にアーセムは嘯いた。
魔導式と科学が相克し合うこの世界は未だに進化と深化の一途を辿る。
情報とインフラという海の中、人々の欲と思惑は相互に混じり合い、入り乱れ、さながらカオスの様相を呈していた。
それが制御されたカオスであるのならば、まだしもやりようはあるのだが、あいにくこの世界の社会はまだその段階には至っていない。
入り乱れた渦の中に生じた淀みの中に、悪意は確実に社会の転覆を狙っている。
これは、そんな混沌の中に生きるひとりのスパイが、世界を脅かす陰謀に立ち向かう、輝かしくも危険に満ち溢れた任務記録である。
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