学友、他

橋下

学友

 それは、友人とでなければいかにも退屈気な田舎旅行の、丁度三日目の晩であった。盛夏期と言うには一体、涼しい日ではあったものの、夜となればいよいよ空気が山巓の如く冷えて、枠木を腐らせそうな程に硝子窓は濡れている。天上の曇に星は瞬かず、立つ風もない、閑静な夜であった。矩形の向うに掛る色白な月は、水滴に影を映して随分近くへあるふうに見えている。時々雫の膨らんで流れる度には色彩が引摺られて滲んだが、他に蛙声の一つもないものだから、頻りな筆記と、時々送られる頁の音が、或いは規則的にも思われた。

 安宿の八畳間の中へは和洋折衷という体裁で、のっぽでなりの細い机や椅子や衣桁やが一台ずつ、無遠慮に、壁に寄せ付けて配置してあった。嘗てぐるりに囲いのあったらしい寝台は、へし折れたもののか、わざと排除したものか、手前の柵だけがなくなって、隠蔽せんと濃く上塗りした不自然な鑢跡が、脚の横に残っている。部屋の中央はぽっかりと空いて、そう古くも無いらしいのにはっきりと焼けた畳の色が、一段と目立つようであった。そこへ榊は、外套を蒲団にごろりと反っくり返って、小説本なぞ読んでいたが、ふと銀時計を確認すると身を起こして、黙々と机に向かっている田代の、張り子に似た白シャツの背中へ呼び掛けた。

「おい田代君、もう日が変わるぜ。いい加減で打ち切ってくれ給えよ、僕ぁ洋燈らんぷが点いていちゃ眠れない性質たちなんだから……」

 実際、それは嘘でなかったが、けれど彼のそう言うのは殆ど田代の、身体の羸弱を案ずる為であった。この親友は、日射病だの流行性感冒だの、そういう類のものにすぐやられてしまう生れ付きである上に、自身に鞭打つ、愚かしい程の勤勉さえ持併せていた。加えて、己の相容れぬ特性を自覚してはいながらも、尚学生の本分を尽くさんとして止まぬ人間であるものだから、榊は忙しなかった。学内へすっかり孤高になった田代と、唯一友人として言葉を交わす彼が、掛けた言葉の内には、この気温にひっそりと爪先を凍みさせてでもないかとの、ぶつ切りな心遣いが存在していた。

「うん、まあ、あと三頁半進めたら……」

 それでも答えはなにか、鬱陶しいようであった。

「今更三頁半なんざ、殆ど誤差じゃないか」

「悪いが……、けれども、決めた所までやらなけりゃあ、どうも気が済まないから」

 淡泊な、意味の無い呟きを後に、依然此方へ、一瞥もくれやしないものだから、榊は本を外套へ包んで荷物の辺りへ放り投げ、ぬっそりと立ち上がる。

「じゃ仏語かね、代数かね。それとも化学? ひょっとしたら、教えられるかも分らないよ」

「うん」

「ね、全体何をそんな熱心に……」

 焦れて肩の上から覗き込めば、ノートにはどうやら関数が進められていた。教本へ、折り目を付けたくなさに載った文鎮は、榊の覚えぬ内に、真ッ二つになったようで、片割れのみになって断面が光っている。万年筆の手首は関せず動いて、数字だの記号だのを、行の間へ並べている。その線はいつも定常に几帳面で、神経質な位である事を特徴としていたが、現時では何だかあちらこちらと身勝手に伸びるようであった。

 実際、些細な違いではあったれど、不断の、あの押した様な字を見慣れた榊には、何か変調が感ぜられて、どうにも落ち着かぬ。それでよくよく観察すれば、頬なぞはいつにも増して白く、最早石蠟の色に青褪めている。とっさに三年の頃の、日射病の表情を知覚して、榊は彼の、不味そうに肉の無い顎の下辺りへ、乱暴にも手を突っ込んだ。矢張喉はかっかとして、焼け付かんばかりになっていた。難しそうにも笑い顔を作って見せながら、榊は駄々ッ子を嗜める調子で喋った。

「君、随分だぜ。自分の様を見たまえよ、さっさと寝たがいい。この調子で三頁半が終るかね」

「うん、」

「すっかり駄目じゃないか、ネエ」

「うん……」

 それにどろりと溶けるような声音で言うなり、田代は造形の整った横顔を、腕の内へ埋めて、言葉を続けぬようになった。オイどうしたと、ぐらぐら体を揺すれども、田代は譫言にそのまま、うん、うん、をばかり繰返す。それではたと、あの返答の実質に感づいて、他に仕様もないから無理矢理に肩を組んで立たせれば、抵抗もしない所か、六尺近い長身をわざわざ凭れさせる様に寄り掛かって来る。その意識は遂に朦朧となっているらしく、痩躯はぐんなりとずだ袋に似て、幾ら上背のあっても想像のつかぬ程の質量になっていた。榊の上膊辺りの布を弱々しく握りながら田代は更に、

「……ネ、窓……」

 と、細い声で、小児染みた言葉遣いさえした。

 見込みよりもずっと悪いらしい、と容易に知りながら榊が、窓を開いてそこへ連れると、田代はびしょりと濡れた縁へ、筒袖越しにも華奢な腕を突ッ立て、寒冷な中に身を乗り出して、止めどなく、ぐるぐると鳴る咳をした。墜落せぬようその身を支持しつつ、背中を擦ってやりながらも、榊は壁をばかり見詰めて、ポケットの煙草の事を考えていた。耳へ響く烈々とした咳音は気道の千切れんばかりで、たまに停止すると思えば、頻りに口内の物を下の雑草群へか、吐き出しているらしかった。輪郭は、想見するにも忍びなかった。


 結局、田代が蒲団の間へ入ったのは、一時を越さんとする頃であった。取り敢えず、きっかりした襟首を緩めたり、濡れ布巾を額へ載せたりの、軽い、一般的な処置を、気休めにしてやってから、女中を叩き起こして、最近の医者を呼ばせれば、成程直ぐ様のくのくと駆けつけたのは、手の真ッ黒い、七〇を越して見える老医であった。鼻先の丸い、鈍そうな目をした女中は、彼が古びた機械のような腰を、枕元へ移動させた椅子に落ち着けて、鞄を漁りだすのを見るなり、「では」と居部屋へ引っ込もうともしたが、丁度呼び止められて、大儀らしく、金盥一杯の冷水を用意してから漸く去った。医者は手や聴診器やを代る代るに田代の体へ当てたりしていたが、その内、扉の前辺りへずっと立っている榊へ、訛りはあるが存外に明瞭な発音で喋り掛けた。

「ご友人でっしゃろうな」

「はい」

「持病はあって?」

「解りませんけれど、ないかと思います」

「しかし、全く健康体の訳でもあるめいな」

「ええ……」

 榊が、無自覚に震えを帯びた、辛うじて捻出した言葉で答えるのに、医者は「ふうむ」とだけ応じて、両掌をざらざらと擦り合わせていた。暫くそうやって、無言であった。

 やがて老医はそのまま、思い出したように黄味を帯びた注射を一本打つなり、そそくさと器具を仕舞い出した。その痩せた脇腹へ、榊は「悪いようですか」と尋ねたが、返事はなかった。二度三度繰返せども、同じく聞き取れなかったようなのを知ると、ついに断念して、榊は下を向いた。医者は「成る丈、看病してやりなさい」とだけ、去り際に言い残して、金も取らないで出ていった。彼は恐らく、不親切な人間ではないのだった。ただ、狭深な人間関係に慣れてしまったせいか、余所者にはあんまり言葉足らずでこそあった。


 そうして、そこから榊は延々と、言われたに従い、看病夫の任を背負い続けていた。処置に使わなかった所を見るに、医者はどうやらあの冷水を、初めからこのために運ばせたらしかった。気が付けば、月は窓枠の右へ途切れるようになって、医者の去ってからも、随分と経ったと解った。古典的な頭寒足熱の方法の為に、手巾をとっぷりと浸す手は、皆目ふやけ悴んでしまって、爪の辺りなぞがすっかり紺色に染まっている。時々榊は、田代の頬へ手を当てもしたが、指先の冷たさの為か、その熱度が改善しているとは、一向思われなかった。

 何より田代は、しかし榊の苦心にも関わらず、夢魘の為に屡々、あぎとう様な呻きを漏らしつつ、布地の皺目を攪乱する事をした。その度に、気道確保に釦を開けてやった薄い胸元が、雪のような爪先の一枚ひとひらが、しどけなく外気の中へ投げ出されて、皮膚は忽ち冷えた。榊は、毎々その哀れな遊離と、繊維に描かれる旋螺を、母親の幼児にするかに、丁寧に修正してやっていた。だが、その最中にも、清楚な手の引攣ったように虚空を掴む度、微かな喘ぎの聞こえる度にはどうして、行衛よりも、ただ友の麗容を意識してしまうのが、実情であった。

 そもそも田代は、余りに端麗な形象を、天から恵まれてあった。清澄たる身骨の設計は、俳優だの芸者だのの持つ物とは無論、截然と異なって、悪く言うならば、殆ど人形じみた整い方でさえあった。その美は余りに静謐であるために、ついには憂鬱な、繊細さと脆弱性を持って、彼の身体へあるのだった。どこか高踏的な性格の、普段の姿態を要因とする部分は必ずあったろうが、微笑みにさえ何か感傷的な憂いがあるのは、矢張り生来の造形がなす事に相違なく、その定規で引いた様な鼻筋や、象牙細工のしとやかな首や、薄き貝殻に似てたくのある爪は、普段でも不健康に薄青く透き通った、冷艶な皮膚と合俟って、ふとした時には、陶器の、アフロディテか何かが運動しているとさえ、見え見えするのだった。

 かの元より優美な肢体へ、今度は熱さえが宿っているのだから、艶麗が一入となるのは、殆ど必然であった。例えば頬は、体温の上昇へぼうっと赤らんで、むしろ漸く少年らしい活気を得たような、けれど健康らしくも見えぬ、不思議な、柔和な色彩があった。けれど同じカンバスへ載った唇や眼尻やが、最早血液を塗布したが如き濃色を表しているものだから、極端に華やかな対照が起こってしまって、それらは雪白とすら見えた。鼻先なんかにうっすらと湧いた汗は、表面へ小さく玉を成し、一つ一つ柔軟な反射光を示しながら、常よりふさふさと長い睫毛や頭髪やに、じっとりと水気を帯びさせて、それこそ濡羽色へと彩れば、猫の物に似て柔らかな毛々は、天鵞絨の艶を放ちながら、白い皮膚と布の上とに乱れ掛る。かっかと熱い頤から胸に掛けては、実際骨の噛めそうな程だのに、それすらも優しげな隆起と飾られてしまって、ゆらゆらと掛蒲団の裏へ連なって行く様は、波浪の生れた界面と映った。

 それらの数知れぬ美が、田代の全体へ猖獗し、心臓を鼕々と拍動せしめるので、榊は漠然とではあれど、「これは、人間にしたらあんまり美し過ぎるじゃないか」と懐疑してしまった。存在が、美術の精華を尽くし、創造物の内へ求めねばならぬ類の、非現実であるべきと思われて、ならなかったのである。元より、人間と美術品との中間にあったような田代は、今や着実に、一つの作品としての完成へ近づきつつあって、それは訪れんとする終焉を予期する根拠とさえなった。「こうも美しくなってしまっては、必ず直に死ぬだろう。俗界のものでは、最早無くなりつつあるのだ」、これが否応なしに、榊の最終的な見解と成り果てて行った。榊はそれを思う自分に気が付く度、必ず嫌悪の情を抱いた。彼が、友情というものを、信頼するが故であった。邪推を振り払わんとして叶わぬまま、責任逃れにあくせくと、手ばかりはよく働いた。時間はずっと経ち続けた。


 小鳥の囀りを耳にしてから、榊は不図我に返った。夜は明けてより、既にややあったものらしく、太陽の仰角が十五度位になっている。「眩しい東日を浴びたろうに、なぜ気付かなかったものかしら」と、榊は窓外の光へ、徹夜にじくじくした眼をちょいと向けた。空は太陽のぽっかりとある他には、一面が白んで色も変わらず、無心に眺めていると、押し込められていた泥の様な眠気が、少しずつ脳へ逆流するようである。けれど、やがて田代の、蝶の羽に似た瞼の開閉を眼界に捉えたので、彼は視線を戻して、その胸の辺りを優しく押さえつけた。

「まだ起き上がったらいけないよ」

 自分からすんなりと声の出たのが、榊は何か不思議に感ぜられた。田代は窮屈気に体をもそもそと動かし、明瞭な声で、

「解っている」

 と答えた。奥の方では、いまだ熱が渦巻いているらしくも思われたが、しかし表情が、最早普段通りに色白なものだから、榊の声は自然と優しくなるのだった。

「しかし、離したら三頁半をやりに行きゃあしないかい」

「じゃあ、しないよ」

 それで簡単に解放すると、彼は実際惜しそうに机の方をじっと見やったものの、その次にはすぐ襟首の、開け放たれた釦を閉じ始める。性格からして、手慰みの為計りでは無いのだから、榊はそれが可笑しくって、釦を二つ三つと留める爪の薄い指先を、太腿へ頬杖を突き眺めていた。

 釦を閉じきってしまってから、田代ははたと顔を上げて、尋ねた。

「君はもしや、一晩中ここへいたんじゃなかろうね」

 脳裏に遥かな昨晩の記憶が、段々と甦って来たらしいその田代の目前へ、

「だからこの通りなのさ」

 と榊が、白く皺の目立った両手をひらひらやると、彼は目を、二三度瞬かせてから、ばつの悪そうに左下唇を噛んで、逸らした。そうして蒲団を端へ押し退けつつ軽く肘を突き、額の濡れ布巾を盥へと投げ込めば、だがやっぱり体の辛いと見えて横になって、

「……しかし、どうも悪いよ、君は……」

 なぞと口の中でごにょごにょ渋った。けれど、やがて、

「すまない」

 とだけ、重く、はっきりと言った。言葉は自己嫌悪らしい、幾分虚無的な調子さえ帯びていたから、榊は気に病ませまいと、むしろ陽気な振る舞いを飽くまでした。

「馬鹿、今さらこれ位の事に頓着したって始まらないだろう」

「だが、僕ぁ全く、君に迷惑をかけてばかりいる」

 実際田代には、榊の手当を受けた経験が、指では数えられれども、一二度となくあった。そもそも彼の脆弱な身体が、種々の要因へ崩れるその都度、必ず看病夫の役を買って出てしまうのは、榊という友人の、性質とも言えた。友情を信ずるためにか、或いはその美貌にあてられているのかは、榊自身も判別出来ていなかったけれど、その中で幸とも不幸ともつかぬのは、矢張田代が自身の艶麗を解さぬことであった。

「何を言う、お互い気心も知れた仲じゃないか。大体迷惑の点で言えば、僕の債務は君の数十倍だぜ」

「そのようなものがあるかね」

 その何気ないのに、榊はどうしても吃驚したのだった。思い当たる多くの負債を、殆ど無視してしまう田代の良心は、いじらしく純粋に思われた。言表は和やかであった。

「嘘、君ぁこの間、僕の真似をして、貸しだよ、って言っただろう。燐寸を失くした時に」

 言われても、田代はよくわからない様な顔をしたまま、左上への辺りを見ていたけれど、しかしつられたように、漸くにっこりともしてみせた。

「君は余計に二本折ったね」

「折れたのさ。虚弱だったんだ」

「適当を言うなよ」

 そつなく軽く言ながら、再び忍びなさ気に、

「……じゃあ、悪いが、燐寸の貸しで今度の借りを、帳消しにさして貰っていいかい」

 と柔らかに打笑み、気弱そうに見上げる田代へ、榊はにんまりと、わざと調子に乗った風で、口角を上げて見せた。そうして、

「ア、待て、待て、それじゃ不満だから交渉さしておくれよ」

 と続けて戯言を仕掛ければ、芝居がかって勿体振る可笑しさで、田代はついに、からからと朗笑し出す。口元を女のように抑えた手の下へは、青白な犬歯がきらきらと照った。

「おい榊君、君ぁちょいと上手すぎるぜ。無し崩しにする魂胆だろう」

「商家の性だよ、ね、ついでに煙草を一本……」

 そう榊が揉み手すると、次は田代の方もわざわざ芝居がけて、

「……今度ばかりは許すから、最後と思って呑みたまえよ」

 と秀でた眉をしかめて見せるが、眼口には尚、あどけない様な莞爾が浮かんでいた。

 大体、榊の喫煙癖は常々彼が、「学生らしくもない」と苦言を呈しながら、結局は容認してしまう部分であった。毎度伴って交されるこの様な会話は、既に大方定番となってしまい、必ず田代の終いに折れて、見せ掛けの苦笑を表すのが常套であった。だから、「最後と思って~」の下りを聞くと、榊にはどうにも日常的な安心が抱かれて、何か解放されたような気さえした。

 そのふわふわした気持ちのまま、彼は一昼夜着放しの上着から、やがて煙草を一本取り出すと直ぐ様口へ咥えた。それでも、田代が

「僕あ煙は嫌いだぜ、榊君!」

 と野次を飛ばすものだから、ぐうっと伸びをして立ち上がり、窓をがたがた開いてやっと火を点けた。心地よい風がすっと吹き込んで、頬を愉快に撫でた。

 空は相変わらず、雲の一片もないままであった。淡く掛った靄は、日光とその紺碧とを優しく霞ませて、天上はいよいよ遠く、清らかなようである。向こうに連なる低い山脈は、なんとか暗緑色に影をのみ示してぼやけ、昨日の昼間には、あの山のあの辺りにいたのだ、と探してみれば、なにか変な心地もした。まだ爽涼な気流は、煙草の白煙を含みながらくるくると渦を巻き、日光に照り返しつつ高く高くへ昇っていく。そうして、まだ太陽へずっと遠いのに、空気に薄まって消えてしまう。榊はそれを見るともなく仰ぎつつ、「永遠にこうして、ここに突っ立っていられたらどれだけ仕合せだろう」とばかりを、ずっと思っていた。

 その内、榊は後方に、安い布地の、ワザワザとした擦音を聞いた。音量がいかほど微かであれども、こうも閑静な中では、はっきりと目立つのであった。「起き上がるなと言ったに」といぶかりつつも尚手放しにして、榊はふと思い出したままに、窓辺から遥か低い草並の、昨夜田代が頻りに唾を吐き捨てたらしい所へ、鼠取りを確認する気持ちで視線を移した。

 いかにも人手の入らぬ茂みは朝露につやつやとして、若々しく風に揺れたりしながらも、所々がかびた様に斑模様をしていた。背の高い草のただ中には、蛙の心臓にも似た塊が、細く糸状のものを伸ばしながら、葉に引っかかって、或いは土にまみれてあり、その周囲はすずりを取落とした惨状に似て、色彩が一段と異様に染まっている。小さな蟻の数匹が、その染みの中へ、潰れたように死んでいた。

 憮然と二三秒眺めて漸う榊は昨晩の、あの田代の咳嗽が、如何計りの緊急性を帯びて吐出されたものであったかを知った。かの肺臓はこの腕の直ぐ側へあったのに、俺はどうして創痍を悟れずにいた、と、考えると、彼は己の浅薄が呪わしく、けれど同時に、あの美しさに合点が行ってしまって、喉ッ首の辺りへ、苦い液の遡上する感覚が湧いてくる。震える様な寒さだった。それなり彼は、煙草の先を押し潰して、窓の外へ投げた。


「君、喀血を、」

 口唇の動揺を隠しつつ独り言染みて呟いて、榊が振り返れば、寝台の柵へ身を寄り掛けた田代の目は、じっと彼を向いていた。

「ね、実はそうなんだ。すっかり失念していた」

 言って田代はにっこりと、ただ微笑んだ。

「嫌なものを見せただろう、悪いね」

 けれど、無造作に浮かべられたそれは既に、物凄いばかりの、一片の含羞もないような媚笑、自身の全き麗美を知覚した上で、それを更に、無限にも表さんとする途上の笑まいなのであった。ただ数分前の、あの少年としての朗らかさは、いつとも知れずに喪われ、代わりに煌々と鎮座するものは、人間の面輪がかくまでも微妙な円弧を描き出すものとは、とても思われぬような、未知の円満であった。

 例えばその雪白の皮膚は一点の曇りも無く、瑩々と輝かんばかりの、鮮彩な色艶を持ち、枕辺の欄干にしなだれて、ぐるりと細柱を抱く腕の曲線や、真ッ直ぐ柳腰から伸びるままに、軽く組まれた、洋袴のすらりとした脚は、えもいわれぬ品威を誇示して止まずに、極彩色の夢にも似て、「毛皮を着たヴィーナス」を彷彿とさせる、挑発的な無関心を象徴している。しかも、その絶美は刻一刻と表情を変え、あからさまに肥大して行くのである。榊はそれに心を蕩かしながらも、畏怖のために呼吸さえ出来ないで、鷹に雀の通り、一切青褪め立ち竦んだままでいるばかりであった。だが田代の瞳が急き立てるように、なお捕捉して許さぬものだから、彼は意味を為さぬ言葉の数々を、口走らずにはおれなかった。

「いいえ、僕は、それは吃驚はしたが、君があんな__」

「……ほんとに、僕は君にすまなく思っているのだぜ。けれども死際の戯言だから、粗相もどうか、許してくれたまえよ、ネ、」

 田代が未だ凄烈に笑まいながら、軽佻な、しかしむしろ現実味を帯びて響く語調で言うのに、

「そのような事を、言ってくれるな」

 と、半ば反射的に口へ出してから、「俺は田代の死期をとうに理解しているではないか」と、榊は皮肉に思った。その、親友が滅びゆかんとする現状に、反発を試みる感情は、実際、純然たるものであった。しかし、それが確かであればあるほど、抗い得ぬものを、既に美から悟り切って、内々には諦念さえ抱き始めた彼には、余りに、言葉が浮薄なものと思われたのである。だが、後悔すると知りながらも、無理矢理言葉を続けるより他に、選択肢が無い事は、明白であった。

「悲観は止したまえよ。君ぁまだ、死ぬべき人間でもないじゃないか」

 田代はそれには応えないで、そうして妙に落ち着きはらって、

「マア、座りたまえよ」

 と、少しだけ顎をしゃくった。背の高い椅子は、じっとそのままあって、従った榊が、ぎこちなくも腰掛けると、田代は眩しそうに、すらりと目を伏せ、

「すまない」

 と静かに、寂しげに呟いた。長くなった睫毛の影は、頬迄も伸びるようだった。その清幽さのまま、小さく口を開いて彼は、普段から想像もつかぬような、孤独な言葉の使い方をした。

「僕が死んだらば、それは不利益を被ろうね、君は。レポートだのノートだのを写さしてくれる、都合の良い奴が居なくなっちまうのだから。さっき言った債務というのはこの事だろう、ね。僕あ全く善人だよ。頭がボンヤリしたあの時には、本当に、ちっとも理解ができなかったのだから。そうして、割を食うのだろう。人生は望まぬ事ばかりだぜ。羸弱と、人間と、麗美と? 君が何を思って僕の傍へいるのか、今になって、スッカリと解った気がするのだ。僕あ君の眼を見たのだ、榊君。僕にとって君が唯一であっても、君にとったらそうでもなかろう、ネ。何もが僕から離れて行くのだ__」

 すると田代は顔を上げて、榊の顔を覗き込んだ。眸子はどこか潤みを湛えて青く震えながら、黒曜石のように、硝子質に澄んで、不思議に、何の感情もを表していなかった。榊はその瞳を向けられると、恥しさ悔しさに、ワッと、声を上げて泣きたい程の気持ちに襲われた。田代の真鍮の様な笑みが消えて、「榊君、全体どうしたんだい。泣くんじゃない、みっともないじゃないか」と、困り顔に慰めてくれやしないか、なぞと期待をしても見たかったが、到底出来はしなかった。そもそも、凡そ涙腺すら働かぬまま、彼はただ、叱られる小児の様にしどろもどろで、加えてがむしゃらであった。

「違う、違う。僕は、君を全く親友と、無二と思って止まない、そればかりなのだ。副次的な利益が何になろう。僕は単純に……、単純に君を愛していて、それで付き合っているのだ、離別を望むはずがあるかね、僕ぁ……」

「へえ、君はそんな、随分とつまらない事をいう」

 対して田代は、軽蔑するように冷淡であった。だのにどうして、疑念だの嫌悪だのの感情がその双眸へ無く、ただ清水の流れに似るのは、神妙であった。

「つまらなくとも、それが真実なのだから、」

「僕が誰であれど、君はそれを言ったろう?」

 そこまで詰られて榊は、漸く彼の振る舞いと、眼差しとの中にある、かのサロメをも思わせる残酷な挑戦を知った。声帯が友の内裏へ発見せられた凄惨にゆじゆじと動揺しても、彼は強いられて、歩を進めずにはいられなかった。いがんだ笑顔をも、試みることをした。

「……、なら、僕が、接吻でもしたら、信用するかい」

 その苦しき迎撃が痛々しく掠れ、奄々とした気息に紛れて聴こえるのに、挑発染みて田代は、

「出来やしないぜ」

 と、背をすんなり立て、人魚の絵画にある風に、支えるように蒲団へ両手を突いた。着衣と細首の隙間からは、無垢な皮膚が微かに、故意とも無意とも思えて覗く。眼を奪われながら、榊は椅子の上へ、刎頸を待つ者にも似て硬直していた。行動を取れば事情が好転するのだ、という無理由の思考を、救いのように胸へ抱きつつも、気息は奄々と、身体は膠着して、一厘も動かぬのだった。刺し貫く瞳は、虚無を宿して彼を尚投影する。総身は畏怖と焦燥に、冷水を浴びたかに凍え痺れ行って、ついには無感覚に氷り付くとも感ぜられた。


 途端、田代の繊弱やかな片手が、榊の目下を掠めてその襟首へ飛んだ。そうして品の良い、己の質量を支持するさえ心細気に見えた指先は、憎々しげに布地をぐるりと捻り上げる。暴力的な強勢が突如として現れるのへ、榊がアッと目を見開いたまま、まだ抵抗にも許容にも転じられぬ内に、田代は最早手中にあるその丈夫な体躯を、変わらぬ力量でグイと引き寄せた。思考能力の停止した中には、どの挙動もが緩慢に映ったというのに、榊は身悶えもならないで、ただはっと息を飲んだ。互いの肩がどんと打っつかって、不意に唇を押し当てられたのが判った。

 仄かな汗のは、麝香の郁々たる芳しさをもって、薄布の様に榊の上へ降りかかった。次いで海蛇にも似た冷涼な電流の、ズウッと通う感覚が脊椎にある。直にそれは骨へ沁み血道にって、体の隅々へ循環し、恐怖とも恍惚ともつかぬ感情が、津波の様に押し寄せて首を絞め掛かる。瞼の裏へは日輪が赫々と光りまた消えて、どろりとした紅い、気泡を帯びた泥濘が、溶けるように晴れて行く。榊にとってはその、ほんの一刹那に過ぎぬ行為が、数十分でも数時間でもあろうとするかに思われた。肩に寄せられんとして未だ空いた両手は、癲癇の発作を思わせてわなないて、しかし諦めたように握られた。

 徐ろに、田代はその唇を離すと、榊の襟首を捕えたままに、窓から射し入った薄明かりへ無限に深く透過し、海水の冷艶と、油断した様な親密と共に宿す瞳でもって、明確に、彼の瞳孔の底を直視した。

「君は僕を忘れまいね」

 その眼光から現る、高圧的な程の威風に榊は、己から音声の出ない事を知って、ただ小さく頷いた。田代は、必ず答えを知っていた。そうして、人心地の付いたかに、爪も軽く、パッと友の身体を開放すれば、

「馬鹿だね、君は」

 と婀娜めいてこうべかたげ、再び笑った。

 その微笑は既に、完全な芸術品、最早神仏のものとさえ、思われるようであった。榊は、ほんの先達てまで人間として振る舞った友人が、ついにその天分を凌駕し、上界の、数多の星雲へ飛び立たんとする瞬間を見た。或いは予感し、或いは確信しておりながらも、その様相は尚魂を蕩揺してならず、親友の死の床にも嗟嘆できないで、彼はその目を見開いた。

 柔らかに、無疵な弧線を形作るその顔容は、今では地上の、汎ゆる観相学をもってしても理解のかなわぬ程に、異特なゆうを顕し、降り掛かる毛髪は一本々々が、孔雀の、尾羽の栄華にさえ遥かにまさって、絢爛な色彩を帯びていた。完全な比率の元にある構成が表現されぬ部分は一点と存在せず、薄い身体と、それを包む布の全ては、婉然とした陰翳を、天の羽衣のように纏って、いかに高名な画家であれども、夢想の内にすら掴み得ない色味を得、呼吸に僅かに上下することが、寧ろ不自然とすら思われる、火炎の如き眩さを放っている。愉悦のためでなく、楽観のためでなく、微笑のための微笑、視覚的芸術を試みた汎ゆる古人の、人世へ留め置かんとした、因習や道徳を超越した「美」が燦然と、そこにはあった。

 そうして、凄惨でさえあるその「美」を、哀れな身躯の内へ宿したまま、田代は二三度、名残惜しそうな瞬きをして、神通力の尽き果てたかに、ふうわりと寝台へ身を任せた。墨液を落とすように、敷布の上にさえ無限の「美」が滲んで行く。

「Dich liebt’ ich immer, dich lieb’ ich noch heut’. Und werde dich lieben in Ewigkeit……」

 余りに截然たる発音によって、単語を一つ一つと連ねる赤珊瑚の唇の、鈍りゆく様。預言とも思しき神々しさを帯びたままに、響きの掠れ初むる様。

「Verweile doch!」

 傀儡と成り果てて、榊が叫ぶや否や、友が瞳の浅き淵へ、いつか満々と溜った涙水は、ぐらりと蕩揺した。映り込んだ満彩の影が、伴われて掻き乱れ、膨らんだただ一粒が、水晶の様に瞼の内より流れ出でて、眼尻まなじりから濡れ光る軌跡を遺すと、やがて敷布へ丸く弾け散る。元から盛んに立ち昇る銀粉の波紋、それらが静かに呼吸されるを最後に、田代は瞑目した。

 その睫毛しょうもうの内に鏤められて天陽を受く、粉々と砕けたてきの玲瓏を、誰か知る。

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学友、他 橋下 @kokoridorasu

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