第35話 (颯太、耳すぐ見るようになった)
「颯太」
廊下から、篠が小走りでやってくる。
昼休憩に入ってすぐにL1NEを入れ、管理棟の廊下の出口で待ち合わせをした。正直な話、篠が図書室で無事でいるのかどうか気になって仕方が無くて、午前中の練習は散々だった。
(こんなことなら、体育館で待ってもらうんだった……まだ見えるとこのがいい)
「来てくれて嬉しい」
図書室のある三階から、慌てて階段を降りてきたのだろう。篠は少し息を乱し、髪を手で撫でつける。反対の手には、見慣れたランチバッグが二つ抱えられている。
手を差し出すと、ランチバッグが二つ颯太の手に渡された。思っていたよりも重い。覗くと、準備がいいことに水筒も入っていた。いつもの場所に向け、颯太は歩き出す。
「それはこっちの台詞です」
「え、そうなの?」
(そんなの、当たり前だろ。女子が弁当持って練習見に来てくれて、嬉しくない男がいるわけがない)
内心で反論したが、本心がそうではないことを、颯太はもう知っていた。
並んでいつもの中庭に向かう篠を、上から見下ろす。形のいいつむじが見える。髪に隠された耳の形は、もう覚えた。
(――多分、俺がこの人を好きだから、嬉しいんだろ)
いつ好きになったかは、わからなかった。
触れられるのが嫌じゃなかった。
明らかにおかしい距離を正そうとはしなかった。
自分を見つけて駆け寄ってくる姿が、天使のように可愛かった。
好きで無ければ、青あざが出来たって体力不足で死なれそうになったって、そこまで気にならない。何度も抱きつかせたり、バランスが悪いからと抱き寄せたり、膝に乗せたりしない。家に招かれることも、家に招くことも無い。
普通なら嫌なことも、面倒臭いと感じることも、篠が望むなら仕方が無いと受け入れることが出来た。思えばあの日、夜の部室棟で篠が待っていた時からずっと、颯太の中で何かがおかしかった。
上級生だから、天使だから――そんな言葉で言い訳していたのは、自分の本心を見たくなかったからだ。
いつも篠が気にかかった。いつも心配だった。いつも顔が見たかった。
気付けば毎日が、篠ばかりになっていた。
「……また唐揚げ、揚げてきてくれたんっすか」
いつもの中庭の花壇に座り、篠が水筒と弁当を広げる。蓋を開けた弁当の中身に、颯太は笑った。
朝から揚げ物をするのが大変なことは、母から聞いて知っている。苦労を微塵も見せず弁当を作ってきてくれる篠に申し訳なさと、それ以上の喜びが湧く。
「ありがとうございます――あれ。プチトマトも入ってる」
「お姉が、颯太にちゃんと野菜も食べさせろって。気に入られたね」
今までは気に入られていなかったのだろうか。
唐揚げの総面積が三分の一に減った弁当を見て、ほんのりとショックを受ける。
「いただきます」
「召し上がってください」
両手を合わせ、弁当に手をつける。篠の作る弁当はいつも美味しいが、今日のは格別に美味しかった。
「――そういえば。陽介君とは知り合いなんすか?」
なんてことの無い風を装って、弁当を食べつつ颯太は尋ねた。
「陽介君? ああ、……それで陽ちゃんって呼ばれてるのか。辻浦君ね」
篠が陽介の名前を親しげに呼んだことに、颯太は思いがけずダメージを食らった。
(いや。自分が振ったんだろ。うわ……俺、面倒くせえ)
「クラスメイトなの。あと、友達の彼氏で、よく話聞いてた」
「そうなんすか」
ざわついていた心に、予想以上の安堵が広がる。
――篠と陽介はただのクラスメイト。陽介に彼女がいるということも、篠はちゃんと把握している。
そんな説明だけで、こんなにも安心するなんて。
「友達……辻浦君の彼女、実里ちゃんって言うんだけど、一年の時に保健委員が一緒でね」
「はい」
うちの高校は、委員会活動を三年間のどこかで一度しなくてはならない。基本的に、一年の間にやってしまいたい人が多く、一年の委員会活動は争奪戦となる。ちなみに颯太は後伸ばしにする派なので、委員会活動は来年か再来年の予定だ。
「一年の途中から、実里ちゃんがご家庭の事情で放課後すぐに帰らなくちゃいけなくなっちゃって、その時に当番を変わってあげたりして、仲良くなったの」
「そうなんすか」
「うん」
篠がにこにこと笑って颯太を見た。何故か居心地が悪くなり、颯太は唐揚げを口に放り投げた。
「唐揚げ、美味いです」
「ありがとう」
「あと、本。読みました」
「え? もう?」
苦し紛れに、先日もらった本のことを告げると、篠は心底驚いたという風に目を見開く。
「本読むの、苦手じゃ無いんで」
「そっか。辞書探すのが趣味だったもんね」
変な趣味だと思われたろうかと篠を見るが、特別な感情は抱いていないようだった。
「本の感想とか、聞かないんすか?」
「言いたければ聞くけど、言いたく無いなら言わなくていいよ。私の好きなものを、颯太に知って欲しかっただけ」
甘い蜜を口に詰められたかのように、幸福感でいっぱいになる。じんと胸に広がる熱さで、颯太は一瞬言葉が出なかった。
「――今度、俺も好きな本貸します」
「……うん。楽しみにしてるね」
篠がふわわと微笑んだ。そういえば、バレー雑誌貸し忘れてるなと思いつつ、颯太は卵焼きを箸で掴む。篠の、ちょっと甘めの卵焼きの味は、楢崎家の味とは違ったが、こちらのほうが好きになっていた。
「そうだ。この間のこと、お兄が残念がってたよ。颯太に会いたかったんだって」
彩りとして新たに加えられた新メンバーのプチトマトを摘まみながら、篠が言う。野菜も入れたと言っても、入っていたのはプチトマトだけだ。この分だと、プチトマトのスタメン入りも近いだろう。
「……お兄さんも、お父さんみたいな感じです?」
「みたいな感じって?」
「穏やかで、話しやすい感じの……」
「んー……お兄、話しやすいよ?」
なるほど。岬が颯太に、学校での篠の話を聞きたがったわけである。これでは、まるでわからない。
先日聞きかじった感じからすると、篠の兄は篠を可愛がっているのだろう。会社は修羅場常連組のくせに、休みの日に妹の買い物に付き添うぐらいだ。篠にとって「話しやすい」のは当然である。
(会うのこえーな)
しかし、避けては通れない。先日会っただけでもわかる。篠の家族は、とても仲が良い。そして、篠の家族と接す人間に対して、ものすごく距離が近い。
颯太が篠をじっとみつめていると、篠も颯太を見つめ返す。最近では、ふわわの大安売りだ。いつ見ても、ふわわっと笑ってくれる。
(この顔、ほんとに好きだな)
眩しくなって、目を細める。
(多分、この人も俺を――)
颯太は左手を篠の髪に手を伸ばした。篠は顎を引き、従順に耳を差し出す。
指の腹で耳の付け根をくるりと撫でると、髪が耳にかかる。
(……赤くない)
形のいい耳は、まだ桃の色を帯びていなかった。自ら差し出す上に、弱点を見られているというのに、篠は安心しきった顔で颯太を見ている。
白い耳に、自分はこんなにドキドキしているのに、と少し悔しい思いが募る。
(次に、赤くなったのを見たら――)
篠の耳を、髪で隠す。
他の男には、いや他の誰にだって、見られたく無い。
「颯太?」
耳にかけた髪を元に戻した颯太を、不思議そうに篠が見た。
なんでもない、そう笑って返そうとした颯太に声がかかる。
「――颯太?」
篠の髪から手を離し、振り返った。
唖然として、目を見開く。
――そこには、他校のジャージを羽織った、元彼女の美和がいた。
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