3 萌芽

 そうしてその日の稽古は、つつがなく終了した。

 カントクたちの舌鋒は、以下の通りである。


「ふん。とりあえずは、ようやく演技がどうとか論じられるレベルに達した感じだな」

「そうですねぇ。メリハリはついてきたけど、まだまだ動きは固いですからねぇ」

「……これで慢心するようなら、未来はないぞ」


 慢心なんてとんでもない、というのが僕の正直な感想だ。

 とにかく、疲れた。今までの稽古で、一番疲れた。頭も体もへとへとで、三時間にもおよぶ稽古が終了したときには、膝がガクガクと笑ってしまっていた。


「……ゼンくんには、本当に感心させられるなぁ」


 衣装ケースを長島工務店の軽トラに、音響機器を電器屋オノディのワゴン車に運びながら、金子さんはそんな風に評してくれた。


「カントクたちも素直じゃないから、面と向かってはほめないけどね。内心では、度肝を抜かれてるんだろうと思うよ。本当に、たった数日であれだけ成長するなんて……若いってのは、素晴らしいね」


「やめてくださいよ。僕なんて、本当にまだまだなんですから」


「……と、それを本気で言ってるらしいから、また驚きだ。もしかしたら、ゼンくんの理想像はすでにカントクたちの理想よりも高みに上がってしまっているのかもね」


「まさか。……僕はただ、自分の演技がへっぽこだってことに気づかされて、今さらながらに大あわてしているだけですよ」


 軽トラの荷台に荷物を押しあげながら、僕は嘆息まじりに答えてみせた。


「金子さんこそ、『カミキリゲノム』になったとたん、本領発揮じゃないですか。僕なんて、何ひとつかないません。……今日の映像は、観るのが怖いですよ」


「そんなことはないさ。とにかく今日は、楽しかったね?」


 金子さんの笑顔を見返しながら、僕は思わず口ごもってしまう。

 楽しかった……のだろうか? とにかく僕は必死だったので、楽しむゆとりなど皆無だったと思う。


 だけど、僕の胸には、あるひとつの感情が芽生えてしまっていた。

 びっくりするぐらい、強くて、明確な、ある感情が。


 もしかしたら、金子さんもこんな感情を胸に、カントクたちと行動をともにしているのだろうか。

 聞いてみたい、という欲求にとらわれて、僕が口を開きかけたとき、金子さんが「あれ?」と、けげんそうな声をあげた。


「どうしたんですか?」


 軽トラの荷台に飛びのり、荷物を受け取ろうとしていた僕は、金子さんの目があらぬ方向へと向けられていることに気づき、その視線を追った。

 見知らぬ女の子が、軽トラから十メートルほど離れた金網のフェンスにもたれて、ひとり立ちつくしている。


 紺色のダッフル・コートを着ていて、その下はたぶん学校の制服なのだろう。グレーの膝上十センチのスカートに、黒いハイソックスと黒いローファー。ずいぶん小柄なので、一瞬この五街道北中学の生徒かなと思ったが、そのセミロングの髪は、中学生にしてはずいぶん明るい茶色をしており――


「……ああ、あやめくんかぁ」


 金子さんと同時に、僕もそのことに気づいていた。

 そう、それは、黒川あやめだった。

 いつも複雑に結いあげていた髪をまっすぐおろしていたから、なかなかその正体に気づくことができなかったのだ。

 黒川は、少しうつむいたまま僕たちのほうを見て、小さく会釈してきたが、フェンスから離れてこちらに近づいてこようとはしなかった。


「どうしたんだろう? 何か用かな?」


 金子さんの声を聞きながら、僕はこっそり拳を握りしめる。


「……たぶん、僕にです。この前、あいつを怒らせちゃったんで……その件で、話をしに来てくれたんだと思います」


「ええ? ゼンくん、キミもなかなか難儀な人生を送ってるねぇ」


 僕は荷台から飛びおりて、こぼれかけた溜息を呑み下す。

 ここは、溜息をつく場面ではない。僕だって、これからカントクに黒川の連絡先を聞こうとしていたところであったのだ。


「おーい、カギを閉めるよぉ? 忘れ物はないねぇ?」


 搬出作業を終えたらしいオノディさんが、体育館の入口から声をかけてくる。

 それと同時に、僕のスポーツバッグをたずさえたサクラさんがこちらに近づいてきた。


「はい、ゼンくん。今日もおつかれさま。……あれ?」


 黒川の姿を発見したのだろう。その目が、びっくりしたように大きく見開かれる。

 僕は「すみません」と言いながら、スポーツバッグを受け取った。


「……僕はちょっと、黒川と話していきます。この前、ちょっとした誤解から、あいつを怒らせることになっちゃったんで。……他の人には大した内容じゃないんで、心配しないでください」


「……そう」


 サクラさんは薄く笑いながら、僕にうなずき返してくれた。

 それは、ウスバカゲロウのようにはかなげな笑顔だった。


「今日はこれで解散みたいだから、私は帰るね。……金子さんも、おつかれさまでした」


「ああ、おつかれさま。ゼンくんも、またな。予定が合うようなら、またいつもの場所で稽古をしよう」


「ありがとうございます。おつかれさまでした」


 サクラさんとヤギさんはオノディ・カーに、金子さんは長島工務店の軽トラに乗りこみ、それぞれのねぐらへと帰っていった。

 それらの人々を見送ってから、僕はようやく黒川のほうに足を向ける。


「やあ。……ごめんな、待たせて」


 近くで見ても、黒川はふだんの黒川らしくなかった。

 髪をおろしているだけで、こんなに印象が変わるものか――いや、それ以上に、あのネズミ花火みたいに元気なオーラが消失しているから、別人のように見えてしまうのだろう。フェンスにもたれて、じっと自分の足もとに視線を落としている黒川は、ひどく幼げで、ひどく頼りなげに見えてしまった。


「……別に、待ってない」


「え?」


「ただ、立ってるだけ。……あたしのほうには、用事なんてないよ」


 なんだろう。声まで、子どもみたいに幼げに聞こえてしまう。

 その悄然とした横顔を見つめながら、僕は頭をかき回した。


「それじゃあ、僕の話を聞いてもらえるかな? 携帯番号も何も知らなかったから、どうやって連絡をつけようか悩んでたんだ。……そっちから来てもらえて、助かったよ」


「…………」


「えーと……土曜日は、ごめん。僕が、全面的に悪かった」


「……何が?」


 病気の子猫みたいな目が、ちろりと僕の顔を盗み見る。


「何が、どういう風に悪かったって言うの?」


「うん? だからその……ばかばかしいウワサ話を、疑いもなく信じちゃって、ごめん。しかもそれで黒川を責めるようなことを言っちゃったし……ほんと、何もかも、僕が悪かったよ。あんなの、全部やつあたりだ」


「……やつあたりって?」


「ああ……えーと……サクラさんのことを悪く言われたのも腹が立ったけど、それ以上に、何ていうか……黒川が気をつかって、僕をオノディさんの家に誘ってくれたり、稽古の映像を観たほうがいいとか言ってくれたことには、感謝してるんだよ。それで……」


 どうも、本人を前にしてこんなことを告白するのは、はなはだしく気が進まない。

 だけど、本音を打ち明けないと、黒川は機嫌を直してくれそうになかったし、それに――自分の誤解や失言のせいで、こいつを傷つけたままにしておくことは、絶対にできなかった。


「……それで、こいつとはけっこう仲良くなれるかもなって思いなおしたところで、あのおかしなウワサ話を思い出したら、すごく嫌な気分になっちゃってさ……なんか、勝手に裏切られたような気分になっちゃって。だったら、まずそのウワサが本当かどうかを確かめるべきだったのに、僕も頭に血がのぼってたから……」


「……もういい」


 と、沈んだ口調のままで言い、黒川がゆっくりとフェンスから背中を離した。


 そして――その、さらさらの茶色い髪に包まれた頭が、下を向いたまま、僕の胸にこつんと当たってきた。


「……許す」


「え?」


「ゆ、る、す、って言ってんの。二回も言わせないで」


 さらりと流れたセミロングの髪のすきまから、白いうなじが少しだけ見えていた。

 あの、甘い花みたいな香りが、ふっと鼻先を通りすぎていく。


「そんなウワサを信じないで、あたしの言葉のほうを信じてくれるんなら……許してあげる」


「信じるよ。……ありがとう」


 そうは答えたが、僕は僕の胸もとに頭をおしつけてくる黒川をどうあつかっていいかもわからず、内心では大いに困惑していた。

 まさか抱きすくめるわけにもいかないし、かといって、突き放すわけにもいかないし――だから僕は、ずいぶん長い間、そんな気まずい体勢のまま、黒川が再び動きはじめるのを待つことしかできなかった。


「……言っとくけど、あたし、一目惚れとか信じないから」


「うん?」


「ゼンくんとは、これでまだ三回しか顔をあわせてないんだからね。これであたしがゼンくんに恋心をもってるなんて、うぬぼれた考えは起こさないでよ?」


「……そんなことは、これっぽっちも思ってないさ」


 思ってないからこそ、いま現在も黒川の挙動の意味がわからず、困惑しているのだ。

 黒川は、「ふふ」と奇妙な笑い声をもらすと、急に僕の胸から頭を離して、元気よく面をあげてきた。


「そんな即答で答えられると、それはそれで腹が立つもんだね。気をつかったこっちがバカみたいじゃん」


 その小さな顔に、ようやく笑みが復活していた。

 まだ病み上がりの子猫、といった風情だが、笑っていることに変わりはない。

 その大きな瞳にも、明るいきらめきが戻りつつある。


「……あたしはね、ゼンくんやサクラさんと違って、モヤモヤをひきずったままにしておきたくないの。だから、ゼンくんが謝りに来るのをずっと待ってたのに、全然姿を現さないんだもん!」


「悪かったよ。ごめん」


 僕も僕で弱りはてていたから、黒川に拒絶されるかもしれないという懸念を抱えたまま会いにいく決心が、どうしてもつかなかったのだ。

 そう考えると、黒川は僕などよりよほど強くて、人間が出来ているのだろう。本当に、情けない。


「だから、それはもう許すってば! ……あ、でも、さっきから何回も黒川呼ばわりしてくれたねぇ? そっちは、絶対に許さないから!」


「うん? ああ、だけど、それはさ……」


「だけどもへったくれもないの! 今日こそ絶対、許さない! 照れくさかろうが何だろうが、今後はきちんとあやめと呼びなさい! もし、他の呼び方したら、道端だろうがみんなの前だろうが、一回ごとに一発ひっぱたくからね!」


「…………」


「あたしをこれだけ追いこんだんだから、ひとつぐらい言うこと聞いてくれたって良いでしょ? はい、決定ね! それじゃあ帰るから、家まで送って! 土曜日のやりなおし!」


 黒川の勇ましい宣言を聞きながら、僕は小さく息をついた。

 だけど、黒川にはどれだけ感謝をしても足りない。僕は自分の不用意な発言から黒川を傷つけてしまったことに、どうしようもないぐらい深い自己嫌悪を抱いてしまっていたので。それをわざわざ自分から出むいてきて解消してくれた黒川の性格や行動力が、とてもかけがえのないものに思えた。


「あのさ……本当に、ありがとうな?」


「ん? 今度はなあに? ゼンくんって、ときどき唐突だよ!」


「ああ、うん、だから……この前の稽古の映像を観て、僕は天地がひっくり返るぐらい驚いちゃったんだよ。自分はこんなにへっぽこな演技をしてたのかって。それで、反省して……今まで以上に、頑張ることができたんだ」


「ふーん? それでどうして、あたしにありがとうなの?」


「え? だってさ……」


 それで僕は、気づくことができたのだ。

 自分の中に、芽生えた感情に。

 それは、このプロジェクトを成功させたいという、至極当たり前の感情だった。


「……ま、いいか」


「何だよぉ! 自己完結しないでよ! 気になるじゃん!」


 怒ったように黒川はわめいたが、僕はそれ以上自分の心情を吐露する気にはなれなかった。


 プロジェクトを成功させれば、サクラさんは喜んでくれる。カントクやオノディさんやヤギさんも喜んでくれる。金子さんや、きっとこの黒川だって喜んでくれる、と思う。

 それが、僕には嬉しかったのだ。


 僕は相変わらず特撮マニアでも何でもなかったけれども、ふがいない姿をさらしたくない、という自分の努力や頑張りが、そのままみんなの喜びに直結している、というこの環境が――何だか、ものすごく心地良かったのだ。


 これがいわゆる、みんなで何かを成し遂げる、という達成感なのだろうか。

 空手という個人競技にしか没頭してこなかった僕には、ついぞ縁のない感覚だった。


「……頑張ろうな、初公演にむけて」


 黒川はしばらく何かをあやしむような面もちで黙りこくっていたが、やがて、にこーっと子どものように笑い、僕の背中をものすごい力でひっぱたいてきた。


「言われなくったって、あたしは最初っからやる気まんまんだよ! ゼンくんも何だか気合いが入ったみたいだね?」


 僕は苦笑し、無言のまま、黒川の小さな頭を優しくひっぱたき返した。

 僕に熱血の素養はない。

 だけど、負けず嫌いの素養なら持ち合わせている。

 少しでも満足のいく舞台をお披露目できるように、僕は僕のやれることをやろう。


 黒川と二人で夜道を歩き、二月のさえざえとした星空を見上げながら、僕はそんな思いを新たに胸中に刻みつけた。

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