遠き都へ

英 蝶眠

EPISODE


 時計は六時前である。


 朝早くからけたたましい着信音で起こされた桜井理一郎は、電話のせいか不機嫌そのものであった。


「ねぇ理一っちゃん…どうしたの?」


 隣で寝ていた貴島きしまセイラが、長い茶髪をかきあげ気味に訊いてくる。


 一糸まとわぬ生まれたままの姿のセイラは、モデルにふさわしい小麦色に灼けて、すらりとした裸身をシーツにくるみながら、ベッドに寝そべって煙草に火を点けた。


 というのも。


 電話での理一郎は、普段セイラが聞いたことのない、骨肉に染み込んだであろう土佐弁で、


「何して今さら、俺が高知ば戻らなならんがぞね? 戻らんでも、納骨の一つや二つ支障ないろうが!」


 珍しく声を荒らげたから、日頃の穏やかな口ぶりしか知らないセイラは驚いた。


 電話が切れたあと、


「…何か、あったの?」


「別に何もないき、心配せんでえぇが」


 ちょっとぶっきらぼうな土佐弁が直らないまま、理一郎は言った。


「またそう隠す…」


 セイラはブスッとふくれている。




 間が、空いた。


「…いつもそうだよね」


「?」


「理一っちゃんはさ、いつだって独りで抱え込んじゃうんだもん」


 あたしはセックスの相手なだけ?──セイラは帰国子女らしいズケズケした物言いをする。


「そういうのじゃなくて」


 この頃には東京弁に戻っている。


「じゃ言ってみてよ」


 鋭い目で、セイラは問い詰めた。


 何かが自分の秘密裡に進展するのを、快く思っていないらしいことだけは確かであろう。


「実家の話だから」


「ふーん…じゃあ前に結婚したいって言ったのは嘘ってこと?」


 必死になって口説いていたときの話を持ち出されると、理一郎も顔つきが厳しくなる。


 答に窮した。


「…分かったって」


 観念した様子で理一郎は、


「…父親の納骨の話さ」


 と簡潔に答えた。


「亡くなったんだ?」


「俺が今の漫画を書き始める前だから、一年以上も前だけどね」


「そんな前に?」


「それで、最近まで京都にいたっていう父親の兄貴が遺骨を預かってたんだけど、こないだ介護の施設に入って預かりようがなくなったからって、高知の菩提寺に納骨するってなって」


「そういう話だったんだ…」


 理一郎は頷いた。


「それで、理一っちゃんは高知に帰らないの?」


「父親とは仲悪かったからなぁ…今さら向こうに帰るったって」


 ばつの悪そうな顔を理一郎はしてみせた。


「たまには帰ってあげたらいいじゃん」


 あたしなんか親アメリカだから簡単に帰れないんだよ…と言ってから、


「そういう人の気持ち、考えたことある?」


 そこを衝かれると理一郎は何も言い返せない。


「あたし良かったらついてくから」


 そこまで言われては、


「…分かったって、もう」


 不承不承ながら同意するより他なかった。




 朝。


 新聞を配達するスクーターのエンジンの音しか、ビルだらけのこの街には響いていない。


「ごめんねひじりちゃん、わがまま言って」


 マネージャーの森島聖から、セイラは鞄を受け取った。


「一週間以内に必ず戻って来てくださいよ」


「分かってるって」


「そうでないと、生放送に穴が開いちゃうんですよ」


 聖は泣きそうになっていた。


 何しろ森島聖が貴島セイラの担当マネージャーについて以来、とにかくセイラの言動には振り回されていたのである。


「それにしても、わざわざセイラさんがついて行かなくたって…」


「あのね、理一っちゃんはあたしがついてないとダメな人なの」


 それに未来の親戚なんだし、と付け加えてから、


「だから見ておきたいの。理一っちゃんの生まれ育った場所を」


「はぁ…」


 聖には返す言葉がない。


「とりあえず京都までは同行しますから」


「信用ないなぁ」


「今回だって、社長は相当にがい顔してたんですから」


 これで最後にしてくださいよ──聖はぼやいた。


「…行こ」


 セイラはタクシーを止めると、聖に荷物を任せ早々と乗り込んだ。




 一方。


安幕部あまかべちゃん、こんな朝早くから悪いね」


「てか先生、うち徹夜あけなんですけど」


 理一郎のアシスタントの安幕部忍は渋面を作った。


「しかし安幕部ちゃんが京都生まれだとは、知らなかったなぁ」


「一応、京女ですよって」


 そのわりには見た目がショートカットでさながらモンチッチなのである。


「京女のわりには色気ないなぁ」


「変に色気出したらセイラさんみたく夜の相手につきあわされるから嫌です」


 忍はやりかえした。


「きっついなー」


「ちゃんと先生がしぃひんから、こんなんなるんちゃいます?」


 口の立つ忍に言われると、理一郎には返す言葉もない。


「ひとまず東京駅、だな」


「はい」


 忍とタクシーに乗り込むと、


「東京駅まで」


 と理一郎は言い、あとは席で眠ってしまった。




 こうして。


 東京駅で理一郎とセイラは落ち合うと、聖と忍を供に、新幹線の車上の人となって、京都を目指した。


 琵琶湖が見えた。


 山科から今熊野のトンネルを抜けると、東寺の五重の塔が見えてやがて京都の駅のプラットホームへと車輌は滑り込む。


「安幕部ちゃん、起きてってば」


 セイラが焦った様子で忍を揺り起こし、寝ぼけた目をこする忍の腕をつかんで、慌ただしく乗降口へと走る。


 理一郎と聖はすでにドアの前にいた。


「あんまり起きんから置いてくつもりだった」


 理一郎にはそういう配慮のなさがあるらしい。


「理一っちゃんって、そういうところが薄情だよね」


 セイラには理解しがたい面であろう。




 レンタカーを借り、聖の運転と忍のナビゲーションで向かったのは、黒谷の金戒光明寺から永観堂の方へと少し登った、鹿ヶ谷と呼ばれる辺りにあった福祉施設であった。


 この界隈まで来ると、なかなか眺めもよく京都の町を一望できる。


 その施設に、くだんの遺骨を預かっているおじの敦は住まっていた。


「理一郎、久々やな」


 語りかけるおじはすっかり好々爺で、白髭が遠くからでも目立つ。


「本来ならもう少し早く渡したかったんやが」


 お前の母親がいっかな縦に首を降らんかったから遅くなった、というようなことを言った。


「まぁあれが怒るのも無理はない…何せあちこち浮気して歩いてたんやからな」


 ありゃ誰が諌めても聞かんかった…というのである。


「仕方ないって」


 そう言って理一郎が思い出したのは、小学校のときに父親の譲から茶碗を投げ付けられたときの話であった。


 とにかく競馬好きであった父親の譲と、理一郎は出掛けたり遊んだりというのが皆無であった。


 それで、たまりかねた母親が制止したのだが、


「お前みたいな子供がおるき、好きなように暮らせんがよ」


 と言って、理一郎に茶碗を投げたのである。


 そのとき。


 理一郎は右手の人差し指を、欠片で切った。


 いまだに冬になると傷痕がつる。


 この一件のあと、理一郎は寮のある学校へ進学したいと思うようになった…と、他日、セイラに打ち明けたことがあった。


「早く親から離れたかったのかもな」


 ふと呟いた目線が虚空に漂っていたのを、セイラは印象的であったのか鮮明に記憶していた。




 河原町四条のホテルに忍や聖と泊まった翌日、東京へ戻る忍と聖を見送ったあと、梅田まで出た理一郎とセイラは、高速バスで高知を目指した。


 手には茶筒のような小さな骨箱がある。


「…人間って小さいよなぁ」


 思えば、動くとカサカサと音のするこの小箱と、その主のために、振り回され続けている状況に、


「いったい何なんだろ」


 とだけ、理一郎はボソッと吐いた。


「東京からだと、飛行機ですぐなんだけどなぁ」


 意外に四国は遠い。


 このあと瀬戸大橋を渡り、川之江から峠を越え土佐へ入るという旅程で、だいたい五時間ばかりかかる。


 が。


 未知の旅にセイラは、まるで遠足でも行くかのような楽しげな様相で、鼻唄まじりで笑顔をはじけさせていた。


「あたしね、修学旅行とか行ったことないんだ」


 どうやらアメリカで彼女がかよっていた学校には、そうした行事が皆無であったらしい。


 ともあれ。


 出発して千里のニュータウンから西宮へ入る頃には、はしゃぎ疲れたのかセイラは幼子のようにすやすやと眠ってしまっていた。


 (自分にはない天真爛漫さだよなぁ)


 そういう明るさが、理一郎には果てしなく眩しく感じられた。




 播磨屋橋の停留所で降りると、


「おーい!」


 交差点の反対側で手を振る男がある。


「俺ちや俺、清家せいけやー」


 えらい恰幅はよくなったが、間違いなく清家大介である。


 (何で清家がいるんだ?)


 考えてみたら当たり前であろう。


 ここは高知なのである。


 顔見知りの一人や二人いたところで、別に奇異な話はない。


 が。


 別に示しあわせた訳でも何でもない。


 青信号に変わった。


 大介がダッシュで駆け寄ると、


「おまん久しぶりやのー」


 いつ帰って来ゆうが?──かなり訛りの強い高知弁で訊いてきた。


「さっき着いたばっかりだよ」


「バリバリ東京弁かや…おまんもすっかり、東京もんやのー」


 まぁ来い、と大介は理一郎の都合も訊かず腕ごと引っ張って、つかまえたタクシーに理一郎とセイラを押し込んで、


「帯屋町まで」


 大介みずからは助手席へと乗り込んだ。


「どこ連れて行くんだよ」


「おまん橋口あゆみ知っちゅうか?」


「あぁ」


 確かクラスメイトで学校一の美少女と呼ばれた生徒である。


「そん橋口がな、今じゃ帯屋町でコジャレたカフェば開いちゅうがよ」


 おまん久々に高知ば帰って来ちゅうき、引き合わせちゃる──と嬉しくてたまらなさそうな顔をして、大介は言った。




 帯屋町のアーケード街は、まるで変わっていなかった。


 古びたレコード屋も、禿げた親父がやっている八百屋も、なぜか盆栽が店先にあった瀬戸物屋も、同じクラスに跡取りがいた呉服屋も、何もかも…である。


 そこに。


「アイビー」


 と小さく書かれた立看板がある。


 木のドアを開けた。


「橋口おるかー」


 珍しいヤツ連れて来ゆうがぞ──大介は理一郎とセイラを招き入れた。


 すると。


「…桜井くん」


 カウンターにいた橋口あゆみが、唐突な登場に驚きのあまりタンブラーを落としそうになった。


「…今日戻ったけど、用が済んだらすぐ帰るし」


 照れ隠し気味に理一郎は言う。


「…そうなんだ?」


 きれいな口跡である。


 というのも。


 タクシーの車中、橋口あゆみがカフェを帯屋町に開くまでの顛末は、清家大介が教えてくれたのだが、


「親の離婚で進学できんくなって、しばらく北新地で働いてたんやけんど、そのあと東京に行ったりしたあと、高知に戻ってカフェを開くことなってな」


 どうりでアクセントが標準語になっているはずである。


「なまじ美少女やったばっかりに、エラい目にあっちゅうがやきね…」


 そんなあゆみである。


 が。


 それは今はどうでもよい。


 問題は、理一郎とセイラである。


「…彼女?」


 セイラが会釈した。


「あ、フィアンセのセイラです」


「まぁな」


 理一郎はつっけんどんな顔をした。


「そぅ…良かったじゃない」


 あゆみは何かを圧し殺すように笑顔を作った。


 しかし。


 理一郎は意にも介さない。


 この鈍さが、理一郎を理一郎たらしめていた。




 ところで。


「何で帰って来ゆうが」


「ちょっと親父の納骨があってさ」


 出されたコーヒーに理一郎は口をつけた。


「寺は遠いんか?」


「いや、長浜の雪蹊寺だから…まぁべらぼうに遠くはないけど」


 ついでながら長浜というのは高知の市内だが、桂浜へ向かう途中にあたる。


「あそこ禅寺やのにお遍路さんの札所やもんな」


「そうなの?」


 あゆみが目を丸くした。


「まぁ仕事が酒屋であっちゃこっちゃ出入りするから、無駄に知っちゅうだけやけど」


「そうだよね」


 あたし清家くんと結婚したら良かった、とあゆみは吐露するように言った。


「ほら清家くんってさ、いつも明るいじゃない」


「確かに昔からこいつは、不必要に明るかったな」


 理一郎は言った。


「その不必要っちゅうのはいらんろうが」


「それで桜井くんが、おまえは風呂場の百ワットかって」


 セイラがキョトンとしたので、


「無駄に明るいって意味さ」


 と理一郎が解説すると、そこで初めてセイラは分かったようで、


「超ウケるんだけど」


 手を叩いて笑った。


「でもあの頃、女子で噂になってたのは桜井くんだったんだよね」


「…えっ?」


「ほら、桜井くんってあの頃、女子高の女の子と付き合ってたじゃない?」


 何か取られたみたいでみんなで話題になってたんだよ──と、初めて耳にする話を理一郎は聞いた。


「うちの学校って中高一貫で、高校になったら四年生とか呼ぶでしょ?」


 それだけ結束力の強い反面、転入すると浮いてしまうのである。


「あたしなんか高校から入ったから、なかなか馴染めなかったけど」


 あゆみは寂しげな笑みを浮かべながら、棚にカップを納めた。


「男子の間じゃ橋口が噂になってたけどね」


 理一郎が言うと、


「それで隣のクラスにいた、桝岡ってパン屋の息子が橋口にアタックしたら、生理的に好きになれないって言われて玉砕して」


 身の程を知れって言われていたのを、理一郎は思い出した。


「あのパン屋、まずすぎて親父さんの代でつぶれたあと、あいつ東京におるって聞いたぞ」


「まるで東京がまずいものしかないみたいじゃないかよ」


「前に親戚の法事で東京行ったら、高知の味が恋しいだろうからって鰹のたたきが出たけんど、臭くて食えたもんやなかったぞ」


 これを機に高知に戻るつもりはないがか?──大介は訊いた。


「向こうで仕事もあるからなぁ」


「…そうか」


 大介は唇をとがらせた。


「まぁまた戻ったら、そんときはみんなで飲もうや」


 そんな風にして、理一郎とセイラはアイビーを出た。


 翌日、理一郎とセイラの姿は桂浜へと向かうバスの車中にあった。


 折から雨である。


「…親父、そういや雨男だったな」


「そうなんだ」


 セイラは窓の向こう側の、雨煙に霞む高知の町を眺めていた。


 が。


 不意に、


「…あたし、雨の日って好きだよ」


 何か映画のシーンみたいで、とセイラは微笑んだ。


「高知は台風銀座で雨ばっかりって記憶しかないけどなぁ」


 理一郎は苦笑いした。


 きっとセイラの育ったアメリカの町は、雨が少ないのであろう。


 バスは潮江橋を渡って、梅ノ辻から桟橋通を港の手前で右へ。


 宇津野のトンネルを抜け、横浜から瀬戸へ出て、長浜の出張所で降りた先に、雪蹊寺の石段はあった。


 時期でないだけに少なかったが、境内には何人か白い装束の巡礼があって、大師堂で朗々と般若心経を読んでいる。


 寺域は住宅街の中にしては広かった。


 大師堂を右に石畳を進むと本堂がある。


 手をあわせた。




 ひとしきりお参りを済ませた。


 住職に取り次いでもらい、出てきた僧に骨箱を託した。


 帰ろうとした瞬間、


「理一郎くんに伝えといたほうが、えぇかもわからんけんど」


 と前置きした上で、


「実は譲さんには理一郎くんとは別に娘さんがおって、もう高校生になる」


 と言い出したのである。


「そんな安い海外のドラマみたいな話があるんですか?」


 黙って僧は頷いた。


 その頷きかたがあまりにも重々しいので、


「…本当なんですね」


 思わず理一郎は渋い顔をした。


 世を去ってからも、みずからの人生をどこまでも振り回す父親のありように、


「こんなんだったら納骨なんかしないで、骨なんか捨てたほうがまだましだった」


 口が滑った。


 これには僧が、


「そういうことはいうものではない」


 理一郎からすれば腹立たしいばかりのことだらけではあったが、セイラから見ると、


 (まぁこれだけ振り回されてたら、怒るのも無理はないかな)


 と、ベッドで土佐弁を丸出しにして憤っていた姿をふと思い出していた。




 僧は言う。


「親は子と合わせ鏡、何か行き当たる節はあるのでは?」


 確かに。


 理一郎という男には、少し軽薄な面がある。


 〆切の日が近づくと平然と嘘をついたり、綺麗な女を見るとセイラがいても声をかけようとする。


(もしかして)


 そういうところが譲に似たのではないのか、とセイラは直感がひらめいた。


 しかし。


 旅先で喧嘩をするのもつまらないと思ったのか、


「あのお坊さんさ、深読みしすぎだよね」


 とでもことさら明るく言うより他なかった。




 無事に納骨が終わって、高知駅まで戻ってきた頃には、雨は止んで陽が傾いていた。


「東京へ帰ろう」


 理一郎はセイラにそう促してみた。


「もうだいたい、俺が生まれた町ってどういう場所か、分かったと思うんだ」


 別に帰りたいと思ってなかった故郷である。


 長居をする必要はない。


 が。


「例の妹さん、探してみようよ」


 セイラが言った。


「そんな時間はないし、だいいちどこにいるかも分からないのに」


 雲をつかむような話である。


「でもさ、いざってなったら身内がいちばんの味方だって」


 理一郎は内心、


 (余計なことを…)


 心のうちで嫌な顔をつくった。


「いいもん、理一っちゃんが探さないなら、あたしが生放送で呼び掛けてでも探すから」


「それだけは止めてくれ」


 そもそも家族の恥は曝したくない、と理一郎は言った。


「恥?」


「これだけあちこち迷惑かけて、人の一生振り回して、そんなんで父親だなんて呼びたくもないし、出来ることなら抹消したい」


「でも、死ぬまで親は変えられないんだよ」


 嫌でも何でも受け入れなきゃなんないんだよ、とセイラは言ってから、


「理一っちゃんって大きな子供みたいだよね…自分の思うようにならないとすぐ機嫌悪くするし」


 でも、とセイラは続ける。


「あたしが理一っちゃんを選んだのはね、他の男にはない素直さがあったから、だから選んだんだよ」


 そりゃ大きな子供だけど、あたしの前ではすぐ笑うしすぐ謝るしで真っ直ぐじゃない──セイラは半分泣きそうな顔をしていた。


「もうさ…いいかげん受け入れなきゃ」


「…分かった」


「探すの?」


「とりあえず、海が見たい」


 理一郎は桂浜へ行くバスを見つけると、再び乗った。


 仕方ない。


 セイラもついて行く。


 西陽の眩しい町を、バスは海を目指した。




 桂浜へ着いた頃には既に夕刻である。


 雨は止んで、丸みを帯びた青空が、太平洋を凌駕する豊かさで広がっていた。


 降り立ってみる。


 砂を踏みしめてみた。


 少し靴が沈んで歩きづらかったが、それは母親に連れられて歩いたときの、懐かしい感触でもある。


 暮れ泥んでゆく浜に人影はない。


 理一郎とセイラだけが、鈍色をした汀にたたずんでいた。


 ふとセイラは、


「…ね、清家さんに訊いてみたら?」


 理一郎の顔を覗き込んだ。


「清家に?」


 コクッ、とセイラはうなずいた。


「手がかりまではゆかないかも切れないけど、ヒントぐらいは分かるかも知れないしさ」


「そうかなぁ?」


「とりあえずあのカフェで訊いてみようよ」


 どうやら橋口あゆみのいるアイビーのことらしい。


「うん…」


 気乗りしないが、


「まぁ行くだけ行ってみよう」


 見上げると、宵の明星がまたたいている。


 既にアイスクリンの屋台は店じまいを始めていた。





 帯屋町まで戻ると、


「…閉まってるかもしれないな」


 言いながらアーケードを歩いた。


 すると。


 閉店の支度をするあゆみが看板を片付けている。


 視線に気づいた。


「…桜井くん」


「清家、いるかな?」


 あゆみは首を横に振った。


「そっかぁ…」


「…待って」


 話があるの、とあゆみは呼び止めた。


「話?」


「清家くんがいると話しづらいから、言わなかったんだけど」


 どうやら大介にはあんまり知られたくない内容らしかった。


「話?」


 理一郎はえらくすっとんきょうな声をあげた。


「…あたし、ホテルに先に戻るね」


 セイラは気を遣ったのか帰ろうとしたが、


「セイラさんにも、聞いて欲しいの」


「…えっ?」


「だって、桜井くんのフィアンセなんでしょ?」


 そういえば自己紹介の際、そんな言い方をしたのをセイラは思い出した。


「あのね桜井くん…実は、謝らなきゃならないことがあるの」


「…別に怒らんき、言うてみ」


 ポロッと土佐弁が出た。


「うちにバイトに来る女の子の話なんだけど」


 多分その子、桜井くんの妹だと思う──あゆみは思い切ったように覚悟を決めた顔で、だがしかし小声で言った。


「面接で履歴書見たときに桜井くんのお父さんの名前があって、でもあんまり踏み込める話題じゃないからずっとスルーしてた」


 けど…とあゆみは続ける。


「さすがに桜井くんに会っちゃったら、隠し切れるものじゃないし…」


 つまり来なければ分からなかった、といったところなのであろう。


「…さすがはセイラ、鋭いな」


「ん?」


「セイラが何の気なしに言ったことは、よく当たるんだよなぁ」


 理一郎は苦笑を浮かべながら、


「世の中ってユニークな展開だよなぁ」


 俺は会わないよ、と言ってから、


「仮に会ったところで何か変わる訳でもないし、何の得にもならない」


 だから会わない、と言うのである。


「…理一っちゃんは言い出したら聞かないから」


 セイラは敢えては勧めない。


「いわゆる、いごっそうだからね」


「いごっそう?」


 漢字で異骨相と書く。


 俗に頑固で一徹で、持説を曲げない人をさす。


「そうなるかもって思ったから、言わなかったって部分もあったんだけどさ」


「…橋口は頭えぇなぁ」


 見事に見抜かれゆうがにゃ──理一郎には作り笑いを浮かべることぐらいしか、残されていなかった。




 二、三日ほど過ぎた。


「せっかく高知ば来ちゅうがやし」


 という清家大介の勧めもあって、理一郎とセイラは安芸までドライブすることになった。


「俺の地元やき、まぁ何もないとこがやけんど、東京にはないゆったりさはありゆうきね」


 えぇとこやがぞ──大介はそんな言い方をした。


 鏡川の畔の、理一郎たちがいるホテルから小一時間ばかり、潮の香りが近い国道を車で駈ると、静かなたたずまいをした町並みが見えてくる。


「ホンマに何もないろう?」


 東京にはない、悠揚たる時空間の場である。


 (これが)


 何もないことが贅沢なのだ、という何よりの証左ではないか。


 さて。


 市役所の脇を川に沿って左へ折れ、さらに稲田が広がる道を走ると、駐車場に入って三人で車を降りた。


 少し歩くと、田圃の中に屋根のついた時計が見えてくる。


「あれが野良時計や」


 明治の頃から今も正確に、時を刻み続けているという大介の説明で、


「これがあったき、中学を出るまで腕に時計したことがなかった」


 と言った。


 そういえば理一郎は大介の地元の話を、聞いたことがなかった。


「そらお前が忘れちゅうだけぞ」


 学校祭のよさこいの練習のとき話したろうが、と大介は笑ってから、


「話ば聞いちゃあせんって証拠ぞ」


「聞いてるって」


「うんにゃ、話ば聞きゆうようで聞いちゃあせん」


 それは他人に興味が薄いって意味ぞ…笑いながらも、大介はかなり厳しいことを言って見せた。


 理一郎はハッとして、


「…そうだよな、自分勝手だよな」


 今さらになって気がついたような顔をし、


「そういうことか」


 とセイラの方へ目を向けた。


 セイラはキョトンとした顔つきになって、


「ん?」


 と奇妙がったが、


 (俺も案外、単純だな)


 と思い直すと、何か内側で変わってゆくような、そういう感懐をおぼえた。




 安芸から戻って、明日には東京へ帰るという夜、アイビーを借り、


「送別会や」


 と酒を大介が理一郎のもとまで持ってきた。


 どうやら。


 大介の発案らしい。


 が。


「そうやって、お酒を飲む機会を増やしたいだけなんじゃない」


 あゆみに指摘されると、


「酒は潤滑油ぞ」


 酒で世の中うまく回ることだってある…と大介は言い返した。


優姫ゆきちゃん、ちーと手伝うてくれんかや」


 そう言うと、ちょうど来ていた、森岡優姫という女の子にオードブルの支度を手伝わせ始めた。


「あたし運ぶわ」


 さすがにセイラが立ち上がると、


「来客を手伝わすほどではないきに」


 大介はやんわり制した。


「優姫ちゃんゴメンね、バイト休みなのに」


「いや大丈夫です」


 気にしないで、といったようなそぶりをした。


 一方で。


 理一郎は座敷の上座に座らされると、


「おまんは東京で綺麗な彼女も作って、好きな漫画描いて、いわば夢をかなえた男やきな」


 そう言ってタンブラーに酒を注いだ。


 しかし。


 大介は飲まない。


「何で飲まないんだよ」


 そう言うと大介に酒を進め、


「おれが弱いの知ってて飲ましゆうもんなぁ」


 とこぼしながらも、大介は機嫌よく口をつけた。


 座卓には皿鉢が並び、刺身やら天ぷらやらが盛り付けられてあって、


「次は花見やな」


 えらく気の早いことを言った。


 宴が、果てた。




 酔い潰れた大介はすっかり横になって、高いびきを立てている。


 セイラも椅子にもたれ眠ってしまい、あゆみと優姫は水場で洗い物をしたり、グラスを片付けたりしている。


 理一郎は酒が残った目で、しかし頭は冴えていた。


 隅の壁に体を預け、椅子にあぐらをかきながら、あゆみと優姫のいるカウンターの向こう側へと視線を投げやっていた。


「そう言えばさぁ、桜井くん」


「ん?」


「お父さんの例の件、大丈夫だったの?」


「無事に片付いたよ」


「良かったね」


「まぁもうこれで、高知に帰る頻度は確実に減るだろうなぁ」


「そうだよね…桜井くんはお父さんと仲悪かったもんね」


 理一郎は卓にわずかに残された豆腐をつまみながら、チビチビ飲んでいる。


「そういや、優姫ちゃん…だっけ?」


「はい」


 優姫が声を発した。


「優姫ちゃんのお父さんって、どんな人?」


「うちのパパ…ですか?」


「うん」


 マンガ描くときの参考までに聞いとこうって思って──理一郎は小さな嘘をついた。


「そう言えば桜井くん、マンガ描いてるんだっけ」


 スゴいなあ、とあゆみは目を輝かせ、


「なかなかないよね、夢をかなえるって」


「うちのパパも、…もう他界したんですけど、夢があったみたいで」


「若々しいお父さんだね」


 理一郎は温かに、しかしどこか醒めた口ぶりで言った。


「お通夜のときママに聞いたんですけど、何でもパパには仲違いして生き別れた息子って人がいるらしくて」


 その人に会いたがってたらしいんです──優姫は言った。


「だからいつか、その人に訊いてみたいんです」


「どんなことを?」


「なぜパパと会わなかったんだろうって」


 私にはとても優しいパパでいつも守ってくれてたから、と優姫は鼻に飛んだ洗剤の泡を拭った。


「…いいお父さんだったんだね」


 むっくり起きたセイラが呟いた。


 理一郎は黙ってタンブラーを干すと、


「…いいお父さんだから、マンガにするには難しいかな」


 いわゆるダメ親父のほうがマンガにするにはしやすいから、と苦笑いし理一郎は席を立った。


 少しよろけた。


「…飲み過ぎなんじゃない?」


「人には無性に、飲みたい日があるんだよ」


 それまで険しかった目が、穏やかに変わっているのにセイラは気づいた。


「…明日の飛行機ちょっと早いから帰るね」


 セイラに肩を貸されて、理一郎は店を出た。




 しばし。


 沈黙が流れた。


 やがて。


 優姫は口を開いた。


「あの桜井さんって、やっぱりそうなのかなって」


「ん?」


 あゆみが問い返した。


「だってパパと同じ癖があるもん」


 泥酔して介抱されたら照れ隠しで笑う癖が同じ──と優姫は指摘してから、


「あのときの仕草とかパパそっくり」


 だからそうだと思う、と優姫は自分なりの結論を導き出していた。


「えっ?」


「でも、何も触れてこないってことは、きっと触れないほうがいいってことだから言わなかったんだと思う」


「そう?」


「ほら、世の中には分からないまんまのほうがいいって場合もあるし」


 これでいい気がする、と優姫は笑顔をつくった。


「そっかぁ…」


 あとからあゆみは優姫の笑顔が、何気なく痛々しい感じを受けたのであった。




 種崎から海岸沿いに走ると飛行場がある。


 理一郎とセイラが大介の車で飛行場に着いたのは、少しフライトまで間があるタイミングであった。


「…東京に、やっぱり戻るんかや」


「仕事もあるしな」


「まぁまた帰って来いや。おまんがおらんと暇で仕方がないきに」


 大介は底抜けに明るい言い方をした。


「セイラちゃんも、今度は混浴の温泉場つれてっちゃるき」


「混浴はイヤだな」


 セイラは笑った。


「こいつ、ちーと線の細いとこのありゆうきに、しっかり頼む」


「オッケー」


 東京行のアナウンスが流れる。


「じゃあ」


「おぅ」


 互いに手を振ると、ゲートへ理一郎とセイラは消えた。


 手続きが済むと、案内に誘われるまま機内に乗り込み、窓をふと眺めた。


 すると。


 どういう訳か展望用の窓際に、あゆみと優姫の姿があったのである。


 何かを叫んでいるようだが分からない。


 離陸を報せる声がする。


 少し動いた。


 ふわっ、と機体が浮いて、機体は東京へ向かって飛び始めた。


 セイラは隣の理一郎を見た。


 小さなノートのようなスケッチブックを取り出し、何やら描き始めている。


 鞄に入れたまま高知にいる間には出すこともなかったスケッチブックである。


「…お城?」


 見ると天守閣のような画と、いくつかの人物のデッサン画がえがかれてある。


「…イメージ忘れないうちに描いとこうと思って」


 どうやら、新作のスケッチらしい。


「…理一っちゃんさ」


「ん?」


「優姫ちゃん、いい子だったね」


「いい子だったね」


「優姫ちゃんのこと描くの?」


「いや描かない」


 でも高知を舞台に何か描くつもりではあるらしい。


「…ちょっとは、良く描かないとな」


 おもはゆそうに理一郎は言った。


 既に陽は高い。


 飛行機は土佐湾から紀伊水道を目指し、東へ向かってフライトを続けてゆく。


 寝不足気味のセイラは、理一郎がスケッチを始めると、まるで遊び疲れた子供のようにウトウトと仮眠をとり始めた。






(完)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遠き都へ 英 蝶眠 @Choumin_Hanabusa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説