十二体の飛沫たちへ:海

七辻ヲ歩

海——エルデ

 見慣れない格好をして、我々の言葉を片言ながら話す男が、我々に協力を頼んできた。


「湖よりも大きい水溜まり、エルデを見たくはないですか」


 海とはなんだろうか、話に聞くと、湖とよく似ているらしい。

 最初は胡散臭いと思っていた。村の人間の大半は、どこの馬の骨かもわからない者の言葉など信用できないと跳ね除けたが、もし、この歳で、まだ私の知らないものがあるというのなら、この目で確かめて見たいという気持ちが強く渦巻いていた。


「海を見て、思ったこと、感じたことを教えてください」


 私は村民を集めて決を取り、その中で海というものに興味を抱く者たちを募り、私を含め村民数名を連れて、男の乗り物に乗り込んだ。

 周りの風景を視野に入れないよう目隠しをされた。実は、この男は我々を謀って、凶悪な場所へ連れて行くのではなかろうかという不安があたまをよぎった。

 男から手渡された名刺も、協力してもらいたい事情の詳細も明確で、嘘をついているようには見えなかったが、万が一、何かあった場合は私が責任を負うと、残してきた村民には話の折がついている。


 事の発端はそのような流れのもと、私は海というものを初めて見た。

 海というのは、灰色で、水面が波打っていて、湖のように向こう岸が見えないのだが、湖より遥かに広く、遠いという。

 また、谷よりも深く、底の見えない、私の理解の範疇を超えた、巨大な水の溜まり場である。口に含むと苦く、舌が痺れる。

 ナリーがミルタの手を引きながら波の引き際に沿って歩いている。普段、湖を歩く際は波など起こらないから、ここではとても歩きにくそうにしていた。靴が湿った砂に足跡を残して行くのだが、その度に波が砂をさらい、時間をかけて消していく。見たことのない、不思議な現象だ。

 子どもたちはとても素直で、着衣のまま海に入って遊んでいる。波や水の味や色を除けば、見た目だけなら湖と何ら変わらないから、好きなだけ遊ばせていた。

 一番印象的だったのは、あれは近隣の住民なのだろうか、人や犬や猫や豚など、様々な生物が薄い肌着ないし裸体で海へと沈んで行き、しばらくして成長を遂げて陸へ上がってきたことだ。

 とある赤子を抱いた女性は、陸に上がってくると抱いていた赤子の姿はなく、代わりに小さな少女の手を引いてきた。また、ある少女が海の中へ勢いよく飛び込んで行ったのだが、しばらくして、麗しく成人した女性となって帰ってきた。海へと沈んで行った娘は、しばらくしてとても恰幅の良い中年女性となって帰ってきた。私は、その光景の一部始終を見つめていた。


 海とは生物の生まれ、進化を促す、言わば生命の母だと男が話していたのを思い出したが、これほどまでとは思いもよらなかった。

 もしやと思い、波打際で遊んでいる子どもたちを呼びつけ、フィルのズボンをめくらせて膝に耳を当ててみる。すると、骨の軋む音が聴こえた。成長を促す音だ。


 もし、この海へと沈んで行けば、私も成長を遂げるのだろうか。目の当たりにした光景から推測すれば、およそ五〜十歳は歳を取るように思える。これは、恐ろしいことだ。随分と長い年月を村で過ごし、髭と髪がしわくちゃになり白くなるまで生きてきた私の人生の積み重ねを、一瞬で縮めてしまう出来事だ。そして、今さら成長を望むなど、若返るなら未だしも、歳を取っては死が近づくだけだと思慮した私は、海へ入りたい好奇心を諌め、諦めた。感慨耽っているうちに振り向くと、我々を連れてきた男が立っていた。


「海を見て、思ったこと、感じたことを教えてください」


 私は今の思いを男に伝えた。

 海とは、人の成長を促す偉大な存在だと話した。男が頷いてメモを取っている。


「ご協力、有難う御座いました」


 あれ以来、海には一度も行ってはいない。

 村へは無事に帰り、海を拒んだ村民へありのままを話した。ナリーやミルタの履いていた靴は、それまで新品のように綺麗だったのに、帰ってくる頃にはぼろぼろになっていた。子どもたちの背もほんの少しだけ伸びたように思える。我々は村民に海の偉大さ、恐ろしさを伝えた。


 この先、またあの海とやらに、私の孫や先の子孫が訪問する機会が訪れるならば、今日日、私が書き留めたこの思い出がきっと役に立つだろう。

 その時がくるのを心待ちにしながら、私は今日を終えようと思う。

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