第8話 びしょ濡れ大作戦

 お姉ちゃんと一緒にお風呂に入るために佐倉さんが考えた作戦は、残念ながら失敗に終わってしまった。今度はぼくが考えた作戦を実行する番だ。


「お姉ちゃん」


 学校が終わりリビングでテレビを点けっぱなしにして、漫画を読んでいるお姉ちゃんに声をかけた。

 お姉ちゃんは少女マンガ好きだ。

 部屋の本棚には少女マンガがギッシリと並んでいる。最近は収まりきらなくなってしまい、ぼくの部屋の本棚を奪っているほどだ。

 ソファに寝転がって読んでいるマンガの表紙には『私は弟に恋をする』というタイトルが書いてある。

 弟が近くにいるところで堂々と読むものではないはずだ。

 当たり前のことだけど、ぼくはお姉ちゃんに恋愛感情はないし、お姉ちゃんもぼくに恋愛感情はない。その漫画のテーマに特別な想いがある訳じゃなくて、単純に面白いから読んでいるだけだ。

 とはいえ弟が目の前にいる状態で読むべきものではない。相変わらずお姉ちゃんにはデリカシーのかけらもない。


「ん?」


 ポテトチップスを加えながらお姉ちゃんが返事をした。

 部屋着のお姉ちゃんはかなりラフな格好をしている。

 ユニクロで買ったブラトップのタンクトップとホットパンツ。ほとんど下着姿に近い。

 部活中は半袖の運動着で太陽に照らされているため、肩から二の腕にかけての日焼けの境目がくっきりと見えている。


「ベランダの水やり手伝って」

「分かった」


 お姉ちゃんは普段家事をしないけど、お願いすれば手伝ってくれる。

 やればできるお姉ちゃんなのだ!

 ……まぁ、料理はできないし洗濯や掃除も雑なのだけれど。

 ベランダに出てきたお姉ちゃんにホースを渡して蛇口を全開にする。


「出てこないぞ?」


 ホースの先から水が出なくてお姉ちゃんが首をひねっている。

 ふふふ。

 それも当然である。ホースにちょっとした細工を加えておいたのだ。


「うぉ!」


 破裂音とともにホースから水が強烈な勢いで飛び散る。

 冷たい水がぼくとお姉ちゃんにガッツリとかかった。

 ぼくは慌てたフリをしながら蛇口の元に走って水を止める。


「ホースが壊れてたみたいだね」

「なんだよ、ツイてないなぁ」

「お姉ちゃん」

「ん?」


 濡れたタンクトップの胸元を引っ張っているお姉ちゃんは、ぼくの細工に気付いた様子はない。

 しめしめ、と心の中で悦に浸った。

 弟とはときに腹黒いものなのだ。


「このままだと風邪引いちゃうからお風呂に入らないとね」

「おう。そうだな」

「一緒に入ろう」

「は?」


 お姉ちゃんはガサツでぶっきらぼうで恥ずかしがり屋だけど心の温かい人だ。

 困っている人がいれば、見て見ぬフリをせずに手を差し伸べることができる、優しくてカッコいいお姉ちゃんだ。

 だから、ぼくに風邪を引かせないために一緒にお風呂に入るはずだ。

 その名も『びしょ濡れ大作戦』だ。我ながら完璧な作戦である。


「何言ってんだ。孝彦が先に入りな」

「だ、駄目だよ。風邪引いちゃうから一緒に入ろうよ」

「あたしはバカだから風邪は引かねーの」


 ぐぬぬ。

 さすがはお姉ちゃん。手強い相手だ。

 お姉ちゃんを見上げて何度か懇願しても首を縦に振ろうとしない。


「良いじゃん。一緒に入ろう」

「いい加減にしろ」


 どうやら作戦失敗のようだ。

 お姉ちゃんが頑なな態度をとったときはテコでも動かない。今から一緒にお風呂に入ってくれる可能性はゼロだ。


「お姉ちゃんが先に入って」

「あたしは後でいい」

「でも」

「良いから!」


 有無を言わさぬ剣幕に、ぼくは従うしかなかったのであった。

 ベランダから家の中に戻ろうとしたときに、途中で振り返ると、


「ほら、早く入ってきな」


 困った顔で苦笑しながら手でシッシッとぼくを追い払うような動きをする。

 お姉ちゃんの優しさに、胸がモヤモヤしてきまり悪い気持ちになった。

 失敗どころではない。大失敗だ!




    ◆




 お風呂から上がり、自分の部屋でいじけていると、佐倉さんから電話がかかってきた。


「やっぱり失敗したんだ」

「やっぱりってなんだよ。上手くいはずだった」


 佐倉さんには反対されていたけど、やり遂げる自信はあったのに。

 どうしてこうなってしまったのだろうか。


「弟くんって綾乃が絡むとつめが甘くなるよね」

「そんなことないよ。ぼくはいつだって完ぺきだ」

「でも現に失敗してるしねぇ」

「うるさいなぁ」

「怒った? ごめんね」

「いいよ別に。怒ってないし」


 佐倉さんは要注意人物だ。いつもぼくのことを振り回して楽しんでいる。

 でもぼくが不機嫌になったら謝ってくれるし、悪い人じゃない。

 なにより美人だ。


「ねぇ次の週末、デートしようよ」

「へ? きゅ、急にデートだなんて」

「デートするって約束したこと忘れたの?」


 そういえば、お風呂作戦に協力することの交換条件として約束をしてしまったのだった。

 約束をしてから特に何も言ってこなかったのですっかり忘れていた。


「どこに行くの?」

「自然公園で公園デートかな」


 自然公園は家から自転車で20分ぐらいの距離にある大きな公園だ。

 雰囲気がよくて、カップルのデートスポットにもなっている。


「一緒にボートに乗ってみたかったの」


 佐倉さんとボート……悪くない。

 週末に楽しみができて、落ち込んでいたぼくの気持ちは少し晴れやかになった。

 認めたくないけれど佐倉さんのお陰である。

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