第10話(永遠の魔王)

 日が沈み始めそうな、夕刻の時。私達三人は、家が管理する倉庫へたどり着いた。

「いいですね、開けますよ」

 その掛け声と共に私は倉庫を開けて、私達は中に入った。

 倉庫の鍵と場所は、家を出る前に父から詳細を聞いている。家から十五分ほど歩いた場所に倉庫はある。昔は、食料を蓄えるように使われていたようだけど、魔道具の発展によって今は空っぽの倉庫だ。何か用がなければこんな場所には来ない。倉庫の周りを木や草にが囲われていてて、人の手が加えられている感じはしない。

 周辺に住んでいる人もおらず、近づく人もいないので、弟の身を隠すにはこの倉庫はうってつけの場所だろう。

 入り口近くには弟らしき人物は見えない。きっとこの奥にいる。夕焼けに染まった赤い倉庫内の奥へと進んだ。

 奥に進むと、それは視界に入った。人の原型を失った赤く丸いモノに私は言葉を失う。状況を整理できない私とは違い、モルテさんとプリエさんはいたって冷静だった。

「よくここまでの封印を一人で維持していたな。今はだいぶ、封印は弱まってる。すぐに襲ってくるぞ」

「あまり時間はなさそうね」

 倉庫の柱には鎖につながれた気色の悪い赤い肉の塊があった。

 体のような箇所が擦れ合う度に、ぬちゃぬちゃと生々しく聞こえる。動くたびに白い蒸気が辺りに充満していた。

 鎖が封印であることは言うまでもなく私にもわかったが、それよりも弟の面影のない物体を見て私は嫌悪を抱いた。

 見たくない。あんなおぞましいものを直接目にしたくない。

 私は見えないように顔を反らした。恐る恐る半目を開いて、再び肉の塊を視界に入れる。

 赤い肉塊が、もぞもぞとうごめく。むき出しの黒い瞳のような物体は、私の姿を懸命にとらえようと、ぎょろぎょろ奇怪に動いた。

 見ていて本能的に気持ち悪いと感じた。

 その黒い物体の表面に反射して、私の姿が映り込む。

 そうして、肉塊から掠れた声を聞いた。

「あ……あ…………あ」

 現実から逃げたい。

「お…………ちゃん」

 受け入れらない。 

「……ねえ………………」


 私を呼ぶ声が聞こえる。私には分かった。

 これが今の弟の姿なのだと。

 変わり果てた弟を見て言葉を失った。

 嘘だ。これは幻想だ。私はこんな結末を望んでなんかいない。こんな酷い未来を願っていない。

 こんな現実のために、私は魔術都市で一番になったんじゃない。約束をしたんだ。一番になった私と弟が一番を競うための約束をした。今まで、引きこもっていた私を守ってくれた。一人にしないでくれた。沢山の日常を過ごしてくれた。感謝している。今の自分があるのは弟のおかげだ。

 特別なことじゃない。普通のことだと思っていた。この感謝をいつの日か、弟へ伝えるための約束だった。

 それが、今。この瞬間。特別な約束に変わった。

 もう、この約束が叶わないことを知ってしまった。

 私という自分がぼろぼろと崩れていくのを感じる。

 覚悟で固めた自分の信念が砂のように流れた。

 私は目の前の現実を否定した。私が望んでいる理想の形じゃない。

 

 弟と楽しく会話をしたかった。

 笑いたかった。

 魔術を見せて比べたかった。

 この現実にそう言った私の願望は一切通じない。

 

 絵本と同じ勇者と魔王のおとぎ話。

 しかし、現実はそうじゃない。

 おとぎ話だって、もう少しまともだ。

 魔王は魔獣の生き残りをかけるために人を襲い、その脅威から守るために勇者が立ち上がり、魔王を討ちとった。

 それぞれに守るべき理由があり、立場があり、信念があった。

 これは、私の知っているおとぎ話ですらない。

 ここにそんな誇りなんてものは一つも存在しなかった。


 受け入れられない現実を拒絶するために理由を考えた。何度考えたか分からない問いを繰り返す。

 これは真実なのか?

 弟を救う方法は別にないのか?

 私が勇者である必要があるのか?

 一度、考え出した途端、疑念が疑念を生んだ。

 水のように溢れ出てくる疑念を抑えることは出来ない。

 このままでは、自分が自分を殺してしまう。その前に助けを求めた。


「モルテさん……」

 弱々しい声で、助けを望んだ。そして、許しを求めた。

 この現実から逃げるため。

 弟を助けるため。

 勇者にならないため。

 

「すぐやる。ローエはそこで見てろ」

 モルテさんは短く答える。

 後ろを振り向くと同時に、モルテさんは一歩踏み出していた。

 背筋も凍るような物凄い殺気を背後に感じる。私が殺されのではないかと錯覚した。

 恐ろしい。怖い。逃げたい。私の負の感情が、さらに私の意思を縛り付ける。

 動けない私を置いてモルテさんは歩を進める。それに続くように、プリエちゃんがついて行った。

 二人の間に特別な言葉いらない。二人の目的は明確で共通している。

 私の弟を殺すつもりだ。

 私は姉。あの殺気を感じて二人は本気なのだと、改めて実感する。

 私のとる選択として、二つ。

 守るべきか、それを無視すべきか。

 いざ、現実を目の当たりにして、迷いが消えない。即断即決。すぐに答えを導き出せない。弟は魔王、それでも家族。

 まだ、私は一人迷っている。

 私は甘い。考えがまとまらない。もしここがただの戦場であれば、余計なことを考えている私は一番死に近いのだろう。

 まとめようと、受け入れようと、理解しようとしても考えはまとまらない。時間は動いているのに、私だけが一人自分の世界に取り残されている。


 そんなことを考えていると、弟は何かを感づいたのか、体の一部である赤い肉を激しく動かし始めた。

「に……げ……て……」

 ぶつ切りに聞こえる弟の声。その後にモルテさんの叫ぶ声が耳に入った。

「ローエ避けろ!」

 後ろから何かが広がる気配を感じた。

 次の瞬間、私を包み込むように赤い触手が無数に伸びてくる。振り返らなくても赤く生々しい触手が横目に入った。

 上、横、すぐ後ろに、温かみを帯びた嫌な予感。

 思考はまとまらない。それでも体が勝手に動いた。直感が私を突き動かす。

 最後の最後に信じたのは、弟でもなく、自分でもなく、モルテさんでもなく、プリエちゃんだった。それに理由はない。私の勘だ。

 一緒に旅をした時間が真実であるのなら私は迷っていられない。二人の言うことを素直に聞くのが正しい。それが正しいことだ。

 そうやって、自分に言い聞かせた私は自分の考えを捨てた。

 モルテさんのことは正直あまり好きじゃない。プリエちゃんの方が好き。それでも、似た経験をしたモルテさんが私を諭してくれた。

 その二つの隙間の中で、モルテさんがいる方向に逃げることを選択する。

 これは決別だ。

 後ろにいる弟を置いて。ごめんね、と声には出さなかった。

 私は地面を転がり素早く立ち上がって、魔王を正面に見つめる。


「やります」

 自分の決意をモルテさんに宣言した。

「本当にいいのか?」

 横に立つモルテさんが私の覚悟を再確認する。

「はい。私がやります」

 覚悟は出来た。疑念も迷いも全てが消えたわけじゃない。大事な約束だって言うのに、自分で決められないなんて、自分が情けない。そんな、情けなさを紛らすために私は覚悟を決める。

 そうだ。私がやるんだ。私がやらなくちゃいけない。これで弟との約束を果たせるわけじゃないけど、私が弟の永遠を終わらせる。

 私たちのために。そして、この世界のために。


「俺達のことは気にするな。危なくなったら手を貸す。全力でやれ」

 モルテさんはそう言って、プリエちゃんを抱えて後ろに下がった。

 その言葉を皮切りに、鎖による封印が解かれた。肉塊から無数の赤い触手が私に向かって牙を剥く。

 モルテさんとプリエちゃんは素早く横に回避して離れた。

 私は咄嗟に二人とは逆方向に避けた。態勢を整えて、新しく覚えた魔術を使うための準備をする。

 体の中で交錯する魔素マナ錬素レナ。まだ、錬素の扱いは十分とは言えない。もっと丁寧に扱わなければ、開くものも開かない。

 自分が費やした魔素を操る時間はあれど、錬素に費やした時間はそれほど多くない。魔素なら目を瞑ってでも自由自在に操れる。

 肝心の錬素はまだ自分の理想とは程遠い。たった数日、モルテさんに教わった門を開くやり方を覚えた。早く自分のものにするために寝る間も惜しんでやった甲斐はある。私は精一杯やった。

 だけど、勇者の背中はまだ見えそうにない。どのくらい離れているのか距離すら想像もつかない。でも、目指さないといけない。

 出来ない。それは、言い訳だ。どんな天才も凡人も出来るまでやり通す。

 今、この時、この瞬間。

 自分の力を最大限に発揮する。

 出来る出来ないという考えに捕らわれちゃだめだ。弟から逃げたらきっと後悔する。

 やって後悔する、やらなくて後悔する。どちらも行先は茨の道。モルテさんのいう通り、後悔はきっと変わらない。傷つくことも変わらない。

 綺麗ごとを並べてもどの道、後悔にたどり着く。

 自分の納得する選択肢。自分の納得する未来。

 自分が決める現実をこの手で掴む以外、きっと私もずっと後悔する。

 この行先が後悔だとしても、私はこの後悔をここで終わせる。


 私は閉じていた体の門を、自分の力で無理やりこじ上げた。――かい


 自分の体が激しくのたうち回る。全身を貫通する錬素は、私の体を蝕み、苦痛を与える。

 ただ呼吸をするだけで、自分の心が折れそうになる痛みと吐き気。何度開けても慣れる気はしない。それを唇に力をいれてかみ殺す。

 私という自我が、徐々に深く暗い体の奥底へと沈みこんでいく。

 自分の痛みを苦しみを後悔と迷いの力を使って誤魔化した。

 |弟に手を向けた私は魔術を唱える。

 

第八の赤の術式ワンド・オブ・エイト


 普段とは違う魔素の動きに少し戸惑う。自分の体の中ではなく、体の外の魔素を動かしていることを頭で理解する。

 空気中に漂う魔素を燃料に、膨大な魔術が発動する。

 大きな魔王の体に魔素を集中させた。

 自分の体からではなく、直接空間を伝って炎を生み出す。

 種火となるのはごく少量の魔素。それでも私が思っているよりも大規模な炎が瞬く間に空間を侵食していった。自然に燃え広がっていく炎に見惚れ、そして、爆発させる。

 爆ぜた炎の制御はもちろん出来ない。自分の手から零れ落ちた魔術は、周囲に破壊をもたらし暴れまわる。倉庫の天井と壁の半分を吹き飛ばして、燃やした。赤く燃える炎が視界を包み込み、黒い煙が辺りに立ち込む。

 本来これだけの魔術を自分の魔素から捻出して使用すれば、体内の魔素がすぐに枯渇して息が切れてしまう。荒い呼吸をして、大量に魔素を取り込むように体が執拗に要求する。

 不思議な感覚だ。そんな息苦しさや疲労は感じない。何度だって魔術を放てる気がした。

 この魔術があれば、きっと勇者にならなくたって魔王を殺せる。想像以上の力が手に入った。今の私はこの世界で誰よりも強いと感じている。それくらいの確証と自信が生まれた。

 だが、その甘さはすぐにかき消された。


「まだだ、油断するな。ちゃんと避けろ」

 唐突に聞こえたモルテさんの言葉に疑問を持たなかった。すっと私の中へ入りこんだ言葉を理解し冷静になる。

 黒い煙で前はもちろん、二人の姿もよく見えていない。

 二人は私が制御を手放した魔術に巻き込まれずに済んだようだ。もしかしたら、見えないだけで体に傷を負っているのかもしれない。無事かどうかは分からない。それでも、その言葉だけで無事だと私は思い込んだ。

 モルテさんが口にした言葉の意味を考える。何か嫌な予感がした。

 魔王を直接爆炎で燃やして、これでお終いのはず。続きなどない。しかし、その予想は大きく外れる。

 炎と煙を吹き飛ばすほどの勢いで飛んでくる無数の赤い触手。何かを掴み取ろうとする亡者の腕のようにも見えた。そんな恐ろしい触手が私の目の前に現れる。

 避けなければ、死ぬ。そんな予感がした。魔術を使うよりも体を動かして避けることを意識する

 一回、二回。

 死が真横を通り過ぎる。

 後ろで、ぼこすこ、何かが貫通するような音が聞こえた。倉庫の壁が触手によって貫通した音だろう。一度当たれば、私の体に風穴を空けてしまうような一撃がすぐ横を通り過ぎた。

 勘と音と、風を頼りに、迫りくる触手を避ける。

 五回、六回。

 当たるぎりぎりで避ける。体を上下左右に激しく動かし、時には空中を舞って、体を捻り返して、反撃の魔術を放つ。

 体内の魔素を外に放出し、空気中に漂う魔素を私色に支配した。ただ闇雲に力任せで空気中の魔素は動かせない。技を知り、己の努力で磨いた術でのみ、その高みへと昇ることが出来る。本来は薬で補う能力を、自分の門を開放してそれを賄う。遠回りかもしれないけど、今のこれが最善策。

 使っている第八の魔術が私の今の最高火力。私が認識した場所を中心に一気に発火し瞬く間に炎の海を作り出す。私が作り出す灼熱を帯びた炎は、魔術制御を超えて自然に燃え広がる。外の魔素を燃料に第六より下の魔術とは破壊力も、魔術の規模も、再現性も、文字通り一線を画す。

 そんな破壊と破滅を生む魔術に怯むことなく赤い触手が私の前に立ち塞がる。

第八の赤の術式ワンド・オブ・エイト

 心の中で唱えて、触手に向けて同じ魔術を放った。

 一瞬で爆発する炎、舞い上がる黒い粉塵。発生する爆風は、今にも崩れそうな倉庫を激しく揺らし、屋根と壁の軋んだ音が聞こえた。

 これで終われるはず。これで終わり。そう思えば思うほど、私たちの約束は遠ざかっていく気がした。

 触手を何度も、爆発させて、吹き飛ばして、燃やした。

 魔術で何度も吹き飛ばしているのに触手の数は一向に減らない。私の魔術が効いていないことに焦りを感じる。

 次々と迫り来る触手。

 きりがない。このままだと、触手に飲み込まれてしまう。

 いくつかの魔術は触手の隙間をぬって、弟の体に直接撃ち込んだ。そうすれば、触手による攻撃や数が減るだろうと思った。だけど、触手の勢い数は衰えない。むしろ加速する。高速で触手が襲いかかる。

 私の体をいともたやすく破壊する触手が目の前を横切った。

 全力で体を動かす。魔術都市の制服の端を触手が掠めとる。

 体勢を崩して巻き込まれていないだけ運がいいだろう。最後まで制服の切れ端の行方を見ている暇はない。

 触手の猛攻を避けるために、全身へすぐさま指示を送る。

 真横を通りすぎた触手に魔術を放つ。

 赤い炎を刃のように鋭くして、触手を切断した。この激しい攻撃に対応すべく、少しでも余裕を作るため、限界を超えて体に鞭を打つ。

 一瞬の時間。周囲を見渡した。

 二人の姿は見えない。私を守る余裕がないことは事前に聞いていた。私が出来ることと言えば、二人の無事を祈るくらいしか出来ないだろう。とにかく、油断せずに対応するしかない。

第八の赤の術式ワンド・オブ・エイト

 私と空気の境界線。そこから自然に炎を生み出した。制御をすることは出来ない。自爆覚悟の魔術に近い。触手と私を無作為に炎が豪快に現れて燃やす。触手は粘性を持った液体のように染み出した。反対に私の皮膚は触手のようには溶けない。第六と第七の赤の魔術を同時に使って自分の身を守る。

「ぐっ」

 許容超える魔術を使った弊害か、鼻から血がぽたりと地面に落ちた。

 これで魔王にようやく手が……。

 届く……。

 はずだった。


 燃えて溶けた触手の時間が巻き戻る。驚愕の光景が視界に入り内心驚きを隠せない。赤い液体が魔王の体へ流れていった。そこからまた魔王の体から触手が生まれて、私に襲い掛かる。


第八の赤の術式ワンド・オブ・エイト

 襲い掛かる触手を消し炭にする勢いで、燃やした。

 だが、燃え尽きない。数秒前と同じ状況が繰り返される。触手は再び赤い液体に戻り、魔王の体に吸収された。吸収したのと同時に、触手はすぐに再生した。

 手を緩ませることなく、すかさず、魔術を打ち込む。

 だけど私の魔術は効かない。信じられなかった。次元が歪んだように、そこに魔術が干渉出来ない障壁をそこに見た。魔術を打ち込むたびに触手と魔王は回復し続けた。

 

 これが永遠だというの?

 普通の魔獣ならひとたまりもなく死んでいるはず。たしかに触手は消しとばし、燃やして数を減らした。だけど魔王は消滅する触手と同時に触手が再生する。触手の血が触手の肉になる。触手の肉は触手の血になる。生命が引き起こす奇跡の法則。再生と崩壊による無限の循環。


 これが永遠なのか。


 これが魔王なのか。


 私がいつも以上の力を発揮して、全力で対応しているのに、効き目がない。

 願いも、約束も、思いも、時間も、この戦いの前では何もかもが尚更、遠くに感じる。

 こんなの敵うはず――いいや、その考えは捨てよう。悪い考えをまとめて捨てた。

 徐々に状況が悪くなっている。破壊していた触手が耐性を持ったのか、私の魔術の威力が低下したのか、原因は分からない。さっきよりも触手が消し飛ばしづらくなっていた。

 遠ざかる約束。近づく黒い闇。

 後ろから静かに忍び寄って来る影から必死にもがく。

 まだ死にたくない。まだ死ねない。何としても生き残る。

 だから、今できる全てに手を伸ばす。

 生への執着を自ら律した。迫りくる死を悟った私は、ようやく普段から使っている魔術の存在に気付く。

 体の中で全開にしていた門を少し狭めた。


第一の赤の術式ワンド・オブ・ワン


 一つ、一つ。今の自分に出来ることを考えて実行した。

 体は軽くなる。私を殺そうとする触手からの攻撃を余裕を持って回避した。

 視界はまだ黒煙がたちこんでいてはっきりと見ることは出来ない。

 そんな状況でも、魔王は正確に私を殺そうと触手を伸ばす。脅威の感知能力に緊張感が湧いて出る。

 目を使う生物には到底あり得ない。耳、肌、それ以外の部分で私の正確な位置を把握している。目くらましは通用しない。かえって私の状況を悪くする。ぎりぎりの戦いを生き残るために、勘と反射を頼りに最適解を導き出す。

 私は迷いなく後ろへと飛んで、距離を取った。


 次第に、煙によって妨げられていた視界は徐々に晴れてくる。

 周囲を一瞬で見渡した。横に二人の姿を一部捉える。

 プリエちゃんの白い綺麗な髪はよく目立った。風になびく白い髪に美しさを感じる。二人の無事を確認して状況を頭に詰め込む。

 頭上の方が何やら騒がしくなってきた。

 上を見上げると、燃え朽ちた倉庫の屋根が崩れ落ちてくる。倉庫の壁はどこも穴だらけ。息つく間もなく、崩れずに保っていた倉庫そのものが倒壊する

 大きな倉庫の屋根に押しつぶされれば、人間は簡単に死ぬ。質量が大きいというただ一点。たったそれだけで人間は簡単に死んでしまう。どうにかして、この倉庫から出ようと出口を目指す。その死を回避する先にも、また死は存在した。

 屋根の落下地を予測するや否や、触手は迷わず私たちの退路を塞いだ。その動きはまさに不気味。人間に似た考え、価値観に悪寒を感じる。

 そして、気づけば。いくつもの触手が地面から飛び出ている。囲まれていた。死がまたすぐそこにもあった。

 このまま死ぬか。

 死ねば、楽だろうか。こんなに頭を使わず、体を動かす必要もない。死を受け入れればこの苦しみから救われて、楽になれる。

 そうだ、私は諦めれば良い。

 そうだ。

                               /沈め。

 私が。

                               /沈め。

 諦めれば良い。

                               /沈む。


 沈んだ。深い底が見えて来る。後ろを追ってきた黒い影が漂う。

 目の前の光が遠のいていく。

 約束という光が、黒くなっていく。

 沈んで行く体は真っ黒に塗られる。

 明かりも、光も、輝きも、息を潜める。

 どんどん、黒い何かに沈んでいく。海の中を潜るように、何かに引き寄せられて、沈んでいく。

 薄れて行く意識の中に、消えかけていた光に新たな明かりが灯った。

 光の泡をかき分けて、私に向かって光が手のように差し伸べられた。


「ねえちゃん。こっちだよ」


 弟の声が聞こえる。

 差し出された手を掴もうと腕を伸ばした。

 私に襲いかかる触手が弟の手ならどれほどいいか。そんな風に思った。あんな酷く、醜い見た目じゃなければ私はその手を握りしめたのかもしれない。弟の肌触り、弟の暖かさが脳裏によぎる。

 

 光っている手に向かって、私はさらに沈んでいく。

 深く。

 息継ぎもせずに深く。

 海の底のような場所へと潜り続ける。

 

 沈んでも、諦めても、逃げても。

 自分と向き合った。

 死ねない。まだ、死ねない。

 こんなところで、私の約束は果たされない。約束が叶うのはせめて、私が死ぬ前であって欲しいと強く願う。

 まだ、約束の時じゃない。

 もがいて、もがく。そして、あの手を掴み取るまではもがき続ける。泳ぐなんて、綺麗な動作じゃない。暴れるように溺れている姿に似ている。必死になって手を動かす。

 もがけば、もがくほど力が溢れてきた。苦しくて、辛くて、強い痛みと引き換えに。

 手が届きそうな距離になるにつれて私の中で力が強くなっていく。不快だった感覚は役目を終えたのか、薄れてきた。正体の分からない力だけを背後に感じ、その力の流れに身を委ねて私は魔術を構築する。


第十の赤の術式ワンド・オブ・テン

 

 周囲に朱く燃える炎を巻き上げる。落ちてくる倉庫の一部を集めて、炎ですくい上げ、燃やし溶かした。頭上には私の体を容易に飲み込む大きさの球体。太陽のように燃える赤い炎の塊は、壊れる倉庫を消し炭にした。赤い塊はうねりを上げ、漏れ出る炎で空気と地面に破壊の傷跡を残す。

 私に近づく触手を燃やし、焦がし、灰にして、天空へ上昇させる。空気中に漂う私が生み出す全ての炎を制御下に置く。炎による燃焼も、炎による爆風も、炎に関連する何もかが、私の手のひらの上。

 燃やした触手を炎の塊の燃料にして、徐々に炎の塊は肥大していく。自分で炎を制御しているのにも関わらず、自身ですら燃えて焦がすかもしれない炎を肌で感じた。ひりつく全身は炎によって熱せられているのか、この冷たい空気に凍えているのか、理由の分からない針を刺す痛みに意識が混同する。


 集中していれば、集中しているほど。

 飲み込まれれば、飲み込まれるほど。

 沈めば、沈むほど。

 このままでは危険だと、理想の状態から、身の丈にあった状態に引き戻される。

 そして、すぐに体が悲鳴をあげた。

 何が危ないのか掴み切れない。経験ではなく、本能がそれを理解させる。

 感覚よりも早く、現実へと戻った。


「ぐああああああーーーー!!!」


 声を押し殺すことなく。喚き散らかした。

 我慢できないような激しい痛みが全身を削る。落ち着くために呼吸を整えようと息を吸えば吸うほど、苦しくなり痛みは絶えず続く。

『錬素は体に毒だ。だから普通は体に蓄積されない。素早く放出させるもしくは、魔素に変換させなければならない』

 錬素は体に毒。その言葉を思い出して、ついに私の体は崩壊した。

 背伸びして、やせ我慢した理想の状態からとうとう普段の体へ戻っていく。

 だけど、ここで根をあげたりしてはいけない。

 まだやれる。

 どこまでだって深く潜り込むことが出来る。

 自分の可能性を信じることにした。

 痛みと苦しみで支配される脳内を、理性が自分の体からさらなる可能性を引き出すために、私は集中する。

 痛みを忘れ、気を紛らせた。痛みと苦しみとは違うことにすり替える。

 ここはまだ、私の奥底じゃない。

 まだまだ、私の奥底の景色を見ていない。太陽の光も許さない深海の底。その底を私は目指して潜っている。

 集中している。

 沈んでいる。

 そして、浸っている。

 そんな底から見える、光る手を目指して、快楽の海を進む。


 今の私を邪魔する私が、許せない。

 悪いことを許す私が、突き進む。

                      /今いい所なの。邪魔しないで。

 悪いことを許さない私が、行くてを阻む。

           /駄目よ。この先は未知の領域。あなたの体が持たない。


 私は悪い自分を信じた。

 手を止めず、ひたすら潜り続けた。

 光る手に誘われて、私は深いどん底で何かを掴みかけようと、見えない何かを手繰り寄せるために必死に腕を動かす。

 手繰り寄せれば、手繰り寄せるほど、自分がさらに深く沈んでいくのが分かる。

 怖くない。恐れない。手を伸ばす。

 届け。

 届け。

 届け。

 ただひたすらに手を動かす。

 その奥底に、自分が求める真実が眠っている気がした。真実を掴み取るまで私は私が深い底に沈んでいく。

 光る手が見える限り。

 私は真っ暗な底を目指し続けて沈んだ。


 ***


「ローエ!?」

 ローエが前のめりに倒れていくのが見えた。無茶のし過ぎだ。体が錬素の毒に蝕まれ気絶した。気絶するくらいなら開いた門を閉じて意識を保つべきだった。だがそうも言ってられない。勇者と決めたのならば、その壁は必然と出現する。自分を超えるための壁、限界を超えるための壁。そして、世界が従う法則の壁を自分で越えなければならない。世界が簡単にローエを勇者として導いてくれるわけがない。それらの壁を乗り越えた先に、勇者と言う栄冠が待っている。一人でそれを超えるのは無茶で、無謀だ。だが俺達は一人じゃない。

 俺とプリエがいる。安心しろ。すぐに支えてやる。

 残酷だけど、自分がやらなくてはいけない。二人が交わした約束のために。そして俺達の目的のために、ローエを死なせてはいけない。

しつ

 脚に刻まれた紋章が輝き出す。足には凄い力が蓄えられた。その足を使って全力で地面を踏む。

 倒れ込むローエの体が地面に触れる前に、彼女の体を支えた。ローエを両手で抱き上げる。両手が塞がった状態でこの場から一旦離れる。

 俺は後方へ逃げることを選んだ。俺の力はあくまで俺個人だけを守るための力。

 俺の魔術はたった一人の重みに負けてしまう。俺専用の魔術は途端に効果が半減する。

 緑色の花の紋章は足を強化して速度を上昇させる魔術。

 現に『疾』による速度上昇は俺が一人で使う時よりも効果が減少している。他にも使える魔術は幾つかあるが、今は避けるのに集中した方がいい。別の魔術を使うために、片手を空けて反撃してもたかが知れている。

 俺たちが生き残るには一つ。逃げに徹するしかない。

 ローエを襲おうとしてる触手の数は増える一方。壁のように、そして奪うように、空間を支配する。逃げる場所は必然と限られた。

 こんなところで、ローエを死なせる訳にはいかない。俺が使えるありとあらゆる手段を使いまくる。どんな苦しい状況でも、活路を見出す。必ず。

 目の前には避ける隙間なんてないくらい敷き詰められた無数の触手。

 俺たちが逃げる方向に触手が先に回り込んできた。

 後ろからも触手が口を開けて待っている。後ろにも下手に退けない。

 両手は自由に使えない。だから何だって言うんだ。そんなことで諦めたりしない。全身で庇ってでも彼女を守る。

 ローエが何か掴みかけているのは間違いない。今、無防備な状態になっているのはそのせいだ。才能も努力も目に見えている。絶対に彼女はただ意識を手放して、現実から逃げたわけじゃない。これはローエが勇者になるための準備をしているはず。後は時間が彼女を勇者にする。それも時間の問題だ。

  

 目の前に向かってくる触手に背を向けて、ローエの体を包み込んで守る。


ころも


 全身を頑丈にする紋章を使用した。体全身を青い膜が覆う。

 触手の雨がローエを庇う俺を襲った。

 触手が体を貫通するのだけは耐えられそうだ。だが一撃が重い。何度も繰り出される触手の猛攻は俺の体を傷だらけにする。傷は重なり大きくなる。その裂傷から血が滲み出してきた。


 しばらく『永遠』の攻撃を耐え続けた。我慢した。痛みと苦しみを。こんなの今のローエの状況や、今まで自分が歩んで来た道のりを考えれば一瞬だ。痛くも痒くもない。

 前から来た触手全部を背中で受け切り、勢いが止まった。俺が死んだと感じたのだろうか。

 何を考えているんだ俺は。

 永遠の気持ちなど理解したくもない。

 顔を上げる。

 触手の猛攻を防ぎ切ったことを実感した。

 何とか最低限のことはしただろう。触手が体を貫通する最悪の事態は回避した。ローエの体は無事無傷。それを確認すると俺はすぐに体に命令を送る。

 重たい足を無理矢理動かして、永遠の魔の手から抜け出す。


『疾』


 まだ、俺はローエが勇者になることを諦めていない。今は、錬素の影響で体に想像できない程の負荷がかかっているのは分かっている。彼女の力ない体に触れて、倒れ込むほど追い込まれている姿を見て、分かっている。

 これを超えたその先に、君が望み俺の願う世界が待っている。

 だから頑張れローエ。俺も頑張るしかない。そう心で唱えて自分を奮い立たせた。

 俺が動き出すと同時に、ゆっくりと動き始める無数の触手。全身を剃り返して、勢いをつけ始めている。

 次はきっと逃してはくれないだろう。俺の体もローエの体もぐちゃぐちゃになるまで攻撃してくるはずだ。

「モルテ!!!」

 安全な場所に避難させておいた相棒の悲痛な叫びが響く。今の俺の姿を見て身を案じてくれているのだろう。

「俺は大丈夫だ」

「もう、私たちで終わらせよう!」

 相棒は焦っている。俺の状況を見て心配している。でも、俺たちだって長い付き合いだ。知っているはずだ。俺はいつだってこんなだ。心配することはない。まだ、俺たちじゃなくても可能性は残っている。そうだろう?

 こんな状況になっても俺はまだローエに希望を持っていた。俺はローエのことを強く信じている。

「焦るな、プリエ。禁忌を使ってでも時間を稼ぐ!」

 確かにそう言った。

 俺はすぐさま、世界と交わした誓約を口にする。その言葉を聞いたプリエの焦りをさらに肌で感じた。

 安心しろ。そんな簡単に俺は、『魔王永遠』に負けたりはしないさ。

 倉庫の中にいたはずの俺達は、倉庫の外にいる。倉庫の外観は見る影もなくボロボロに壊れて、外にいることを不自然に思ったりはしなかった。そんな些細な変化を言葉で共有する必要を今更、俺たちの間に必要はない。

 ローエを信じるしかない。


 相棒の焦りを感じつつ、俺は一つの外法を使う準備を始めた。

 世界を意識した途端、右脚が急激に重くなった。

 目線を移動させなくても分かるこの感覚。

 俺の右脚は白い紐が巻かれて解けないように強く縛られた。脚に巻かれた白い紐は、自ら意識を持ったかのように地面に深く楔を打ち込む。

 そして、俺はこの世界に結んだ誓約の言葉を紡ぐ。


 ***


「我、世界に誓約を結ぶ者。禁忌アルカナの十二、吊るされた男——永遠よ留まれ」

 モルテがこの世界と結んだ禁忌の扉が開かれる。

 その扉からは、黒い文字がモルテの周囲を飛び回った。


 モルテとローエを殺そうと伸びる触手が途端に止まる。

 

 白黒になる世界。

 モルテが世界と交わした誓約により永遠だけが、この世界からはじき出された。

 この空間で動きが許されたのはモルテ、プリエ、そして、ローエの三人。

 モルテはローエの身を守るため、止まってる触手を避けて一気に距離を稼ごうとした。今、モルテの優先順位はローエの身の安全。その一つであった。

 モルテは覚醒の時を感じ取って、数秒を絞り出す。

 たとえ禁忌を使ったとしても、止められる時間はそう長くない。止まっていた時間が徐々に動き出す。触手の震えが大きくなるにつれ、魔王の体にも自由が舞い戻る。

 プリエはモルテが使った禁忌による体への影響を気にかける。

「モルテ!? 大丈夫なの」

「大丈夫だ。きっと辿り着く」

 そう言うモルテの体からは、黒い煙が蒸気のように吹き出す。見るからに普通じゃない体の変化がモルテに起こっていた。モルテは体に起こった変化に目もくれず、走り続ける。

 モルテは何としてもローエを守るために、手段を選ばなかった。

 モルテが使える手段はそれほど多くない。そんな迷うほどの手段を備えていない。彼は体質で魔術を使うことは出来なければ、錬素レナによる体術も習得してはいない。それに加えて、自身が得意としていた別の外法も誓約によって一生使用することは出来ない。

 残っているのはモルテ自身にしか効果を及ぼさない五つの特殊な術式と禁忌、それくらいだった。

 

 この世界には二十二の禁忌が存在する。この世界に組み込まれた絶対的な法則。錬金術のような不確定なものではなく、魔術のような仕組みに囚われることもない。この世界に密接に関わりある遺物を依代に、何かを代償に捧げて、一つの奇跡を体現する。モルテが唱えた禁忌は、若いころに交わした世界との誓約。それに従い世界が一つの奇跡を叶える。

 アルカナの十二、吊るされた男。モルテの契約は束縛。

 自分の体を代償に捧げて、世界全ての永遠をほんの僅かに止めた。

 捧げられた体は一生返ってくることはない。しかし、モルテの体は、消えることは無かった。モルテの異質な体が瞬時に修復する。その影響で黒い煙が吹き出した。

 

 全身を強くすり潰したような感覚がモルテの神経に走り出す。

 モルテは苦痛を表情に出すことなく、自身が作った奇跡の時間で触手から逃げる。禁忌は最大三度までしか使えない。使った直後は代償の痛みによって気絶、もしくは死んでいてもおかしくない。モルテは異常な肉体と強靭な精神で耐えてみせた。

 

 禁忌の束縛は五秒。息つく暇もなくその時間は消えていた。

 たった数メートル。モルテはそれしか稼げなかった。

 動き出す赤い触手、暴れ出す紅い突起物。

 モルテ達を殺すために目覚めた魔王の体は、すぐさま二人を殺しに動き出す。

 その現実を目の当たりにしたモルテは苛立った表情をしていた。

 モルテと魔王の差は歴然。モルテが逃げる脚よりも、襲い掛かる赤い触手の方が早い。

 モルテは頭を全力で使い、考えを巡らせた。

 何度も、何度も、何度も、頭の中で回る同じ答え。空回りして先に進めないモルテ。その答えを選択するのに迷いが生まれた。

 モルテが一言発すれば、今の問題を自分で解決できる。

 しかし、その一言をモルテは口から捻り出せなかった。

 それをしてしまえば、勇者の覚醒の妨げになるからだ。

 この戦いで、モルテにはどうしても達成したい目的がある。

 勇者をこの世界に生み出すこと。

 ローエを守ったのには、その可能性がモルテの中で限りなく近づいたため。あと数分、数秒なんとしても守り切り、覚醒の時を待つ。

 モルテはこの時のため、この瞬間のため、全力で対処する。


しつころも


 そう呟いて、モルテは体に強化の魔術を掛ける。魔術が使えないモルテのために作られた特殊な術式は、素早く動くため、頑丈な体を作り出すため、最適に働く。


 触手がモルテの足をかすめ取る。

 モルテは飛んで避けた。


 飛んだモルテの体めがけて触手の手が伸びる。

 モルテは全身に力を入れて、空中で踏ん張った。


 モルテの体に刺さる赤い槍。モルテは苦悶の表情を浮かべてなんとか耐える。触手は体を貫通することなく途中で進むの止めて、すぐに引いた。モルテは抱えたローエを手放すことなく、着地して走り続ける。

 だが、この攻撃を受けて出来た数秒で、触手からの逃げ場を失った。いつの間にか、モルテとローエは赤い触手に囲まれている。

 モルテたちに逃げ場はない。

 目の前には赤い壁。

 これに飲み込まれれば、二人とも死ぬ。

 もう、後はない。

 だが、一人。

 静かにその瞬間を待っていた人物がいた。

 白く透き通る髪に赤い目をした一人の少女。


「モルテ早く!」

 プリエは小さな体を利用してモルテよりも前に出た。魔王の触手を小さな腕で乱暴に掴む。

 そして、小さい口を使って噛み千切った。

 その所作は洗練されていた。慣れた手つきで次々と触手を噛み千切る。瞬く間に三人が逃げるための道が出現した。


「すまん」

 一言誤って、走り出すモルテ。加速もせず、減速もせず、走り続けた。

 モルテたちの前に立ち塞がるいくつもの触手。プリエはそれを綺麗な白い歯を使って、噛み切った。肉の切れ端を地面に吐き捨て、口の周りは赤い液体がべっとりついている。

 プリエは気にならないのか、汚れた口元を拭うことなく次の獲物へ切り替える。触手に飛びかかり、根本を一噛み。

 それだけで、触手は勢いよく赤い液体を巻き上げて、本体である魔王の体に戻る。


 何度繰り返しただろうか、両手では数え切れないほどの数。

 プリエは小さな体を使って精一杯の力を発揮した。プリエの体力も限界に近づく。そんな限界からプリエは口にした。

「もう埒が明かない。早く、私を使って!」

 限界ギリギリのところでモルテに自分を使うよう催促した。

 プリエの焦りは、自身を許容する範囲を既に超えていた。そんなプリエとは対照的なモルテ。まだ、一人諦めていない。

 ローエが勇者に覚醒することを。


 迷っているモルテを無視するように、触手が再び三人の逃げ道を阻む。プリエが作り出した道はすぐに通せんぼ。

 後ろ、横、上から、触手が押し寄せてくる。


 ここまでだった。こんな状況に追い込まれた三人に手段はない。

 とうとう、モルテは手段を選ぶことをやめて、一言。

せつ──」 

 呟こうとした瞬間。その言葉と被せるように別の言葉が入り込む。

 モルテが抱えているローエの口が動き出した。

「——我、世界に祝福受けし者」

 ローエが発した言葉を聞いて、モルテは口を閉じる。

 ローエの体は赤く光っていた。

 ローエが幼少期に刻んだ数え切れないほどの術式に命が吹き込まれる。赤い電流が体を駆け巡り、いくつもの術式が浮かび上がった。一つ一つの術式に意味などはない。ローエはただ術式を自分に描いていただけだった。ここに来て初めて術式が魔術として効力を持つために神が悪戯をする。術式が組み合わさり、ばらばらだった術式が一つに接合する。歯車で繋がった術式は回転を始め一つの大魔術が発動した。

 

 それを見たモルテは確信する。

 勇者の覚醒を。

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