まぁるいシャボン玉


それは突然の事だった。


21歳になった大学の夏休み。いつもは乗らないバスに、何故かその日だけバスに乗ろうと思った。


ううん、正確に言うと「バスに乗らなきゃ。」と思った。


誰とも待ち合わせはしていないのに、早く行かなきゃと少し焦っていた。


早くあの道路を渡って、バス停に行かなきゃ。


そう思って、小走りになる。


白いミュールが、カッカッと音を出す。


もうバス停は目の前だ。

早く、はやく、速く……。


私の記憶があるのはそこまで。


次に目を開いた時、私は病院のベッドの上にいた。


病院の天井と黄色いカーテン。

傍らには誰も座っていない丸椅子。

規則正しいリズムで落ちていく点滴の雫。


(あれ?私、何してるんだろう。)


そう思って、身体を動かそうとすると、あちこちが痛い。


頭にはネットと、腕には擦り傷と打撲で、包帯が巻かれている。


風でカーテンが揺れているだけで、物音一つしない。


(誰もいないのかな?)


キョロキョロと目だけ動かしてみると、スっとカーテンが大きく揺れた。


すると、この世で一番と言っていいくらい綺麗な女の人が立っていた。私は瞬間何かを思い出しそうになり、でもあと一息思い出せない感覚に陥って、その女性を見つめた。


彼女は私に「こんにちは。」と優しく言葉をかける。


戸惑う私にその人は、


「大丈夫。ここには私とあなたしかいないから。」


と微笑んだ。


私も、怖いとか、どうしようとかよりも、この人、どこかで会ったことがあるはずなのに、思い出せないな。って考えていたら、


「あなたとは、夢の中で何度も会っているのよ。」と囁いた。


私は何も言っていないけれど、でも心の声が伝わったことが当たり前のように、あぁ、そうだ。彼女は夢で会った季節を変化させる風の妖精だと認識する。


その人は私が悲しみに打ちひしがれながら眠ると、いつも夢の中で私に幸せな時間をくれた。


一人で泣き声を殺しながら、眠る時はいつも……。


色々なことを考える私に、彼女は私の額に手を当てながら、話し出す。


「あなたにお願いがあって、今日は会いに来たの。あなたにはこれから、苦しんでいる人を救って貰いたいの。」


私に?


「そう。あなたのように生きているものの声が聞こえる人にしか出来ないことなの。」


あぁ、やっぱり嘘じゃなかったんだ。

風も花も木も雨も、空の色や雲の形にさえその理由があることが。


「そう、あなたが感じていることは全部本当のことよ。人は幼い頃ならみんながそれらを感じられているのに、大人になると徐々に感じ取れなくなる人が多いの。」


そう言われたところで、涙が溢れ出てくる。


私、間違いじゃなかったんだ。

私はおかしな子じゃなかったんだ。

嘘つきなんかじゃなかった……。


両手で口を抑えながら、今にもワーッと声を上げて泣いてしまわないように、声を押し殺していると、


「泣いていいのよ。」と額に当てられた手で、優しく撫でてくれる。


抑えきれない感情が決壊してみるみる溢れ出して行く。


んっ、ぐっ、えぐっ、うわーん!!


何年ぶりだろう。こんな風に声を上げて泣いたのは。


恥ずかしさだけじゃない。


泣くと両親に怒られるの。


「うるさい!」

「いつまで泣いてるんだ!」

「そうやって泣いてるやつが俺は一番嫌いなんだ!」


だからずっと、声を上げて泣けなかった。


それでも泣いてしまうと、父親から頬を殴られる。


「あと10秒以内に泣き止まないと、ビンタだからな!」


「じゅー、きゅー、はーち、なーなっ!!」


父親がカウントダウンをし始めると、早く泣き止まなければと思うのに、その前に殴られた頬が痛くて泣きやめない。


むしろ、次に来るビンタが怖くて、体が震えて余計に嗚咽と涙が交互にくる。


「愛梨が泣き止まないから、パパにビンタされるんだよ!」


守って欲しいはずの母親には、私がいつまでも泣いているから、殴られても仕方ないと言わんばかりに煽られる。


こんなことが毎日だったの 。


だから毎日、死にたい。死にたい。って思ってた。


私なんかいなくなればいい。

なんでもっといい子になれないんだろう。

なんで私は生まれてきちゃったんだろう。


そんなふうに自己否定をしながらの毎日だった。


信じるって何?

愛されるって何?

安心出来る場所なんて、どこにもないよ。


常に大人の顔色をうかがいながら話さなくてはいけない。でも、しょっちゅう失敗しちゃうから、殴られる。


だからもう、消えたかったの。

私なんて、要らなかった。


ずっとそう思う度に、夜になると窓から風が吹いてきて、


「あなたは特別な子よ。」


と、私を優しく抱きしめてくれていた。


そして今も、彼女は風をまとい、私をふわりと抱きしめる。


「愛梨。辛い中、よく頑張ってくれたね。ずっとそばにいたのに、夢でしか会いに来られなくてごめんなさい。」


わんわん泣く私を、そばで抱きしめてくれる人をずっと探していたのに、実際抱きしめられると、「ごめんなさい、ごめんなさい。」と言って泣きやもうとしてしまう。


それでも彼女は、「大丈夫。大丈夫よ。」と言って、私のおでこを何度も優しくなでてくれて、またうわぁぁぁんと泣き出す。



風の妖精が私の顔の周りでまぁるく円を型どる仕草をした。


するとそこに色んな色を反射したまぁるい、まぁるいシャボン玉のようなものが出てきて、私の顔がそのシャボン玉にすっぽりと収まったかと思うと、急激に私の口からどす黒い煙のような息が出てきた。


まるでそのシャボン玉が私の辛い気持ちを全て吸い取ってくれるかのように、ぐんぐんと黒い息を吐き出させてくれる。


そして、目の前が真っ黒になると、風の妖精は私の頭から、そのシャボン玉をゆっくり持ち上げて、彼女の両手の中で徐々に小さく固められ、それが片手の中に収まるほど小さくなると、その手を握りしめ、開くと小さな種が手のひらに残っていた。


私は今までに感じたことの無いような安心感と爽快感に心が驚くほど軽くなっていた。


「これは愛梨だけの花の種よ。」


そう言って私の手のひらに、種を握らせる。


「あなたにも、今したことと同じように、他の人の苦しみを花の種にして、その人だけの特別な花を咲かせてあげてほしいの。」


私にそんなことが出来るかしら?


「愛梨なら出来るわ。」


そう言うと、私の両手に手を合わせて、ふわぁっと温かい光が出た。


「愛梨が私たちのことを信じていてくれる限り、私たちはずっとあなたのそばにいて、あなたを見守っているわ。」


でも、私……、


少しずつ彼女を包むように光が出てきて、少しずつ彼女が離れていく。


「大丈夫。自分を信じて。困った時は、風に気持ちを委ねて。」


嫌…っ。待って。行かないで。


「大丈夫。」


待って……。








再び目を開けると、そこには同じ白の天井と黄色いカーテンが閉じられた病室だった。


ぽつりぽつりと、規則正しく落ちる点滴。


私は、また現実に戻って来たんだ。


目にまだ残っていた涙が、横にスーッと流れ落ちた。


私は事故にあって、意識を失っていたらしい。


ふと、閉じられた自分の左手をゆっくり開くと、そこにはさっき見た小さな種があった。




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