第3話

 僅かに開いた窓から吹き込む風は長閑で、とろりと香る蜂蜜のように甘やかな眠気を誘う。屋上へ続く階段に腰掛けて、膝に頬杖ついて目を閉じれば、どこかの廊下で沸く笑い声も、遠く校庭で響く喧噪も、ずっと輪郭が曖昧になって意識の縁に溶けていく。踊り場の窓から差し込んで、目の奥を淡く照らす陽光が心地いい。昼食を終えて心身共に満たされて、これ以上望むものなどないような気持ちだった。欲を言うなら午後の授業などなければいいのだけれど。

 壁に凭れて深く呼吸をした。薄暗い階段は仄かにかび臭い。屋上は基本的に立ち入り禁止だ。生徒はおろか教師でさえ通る者は少なかろう。薄く埃が積もっていて、今頃制服の肩やお尻は白くなっているだろうことは経験則からいって確実だったけれど、知ったことではなかった。はたけばいいんですよ。今時の制服は洗濯機で丸洗いだってできるでしょ。

 誰が見ているわけでもない、憚らず大きく欠伸をかいた。腕を組んで、そこへ顔を沈める。睡眠欲は三大欲求なのだ、勝てぬのだ。五限の予鈴で起きられるかは定かではない。

 踊り場を折れた先、死角になって階下の様子は窺えないが、複数の男子生徒が動画サイトの話で盛り上がっているのが耳に入る。微睡みの半ばでその声を拾い上げたのは、単に僕もその動画を知っていたからだったのだけれど、束の間浮上した意識が、ついでにそれとは無関係な別の声も僕へ届けてくれた。

「どこにいるんだろ」

 ただの一言、それだけだったけれど、思わずはっと目を開いてしまう。聞き慣れた声だ。それでいて僅かに違和感も覚えた。この声はこの場にはそぐわないような気がした。

 甘苦い香りはおそらく錯覚だろう。数瞬迷って、立ち上がった。手すりの向こうへ顔をそっと覗かせ階下を窺い見る。断言しておくが間違っても期待していたわけではない。していたわけではないけれど、でも気にはなるのだ。先の一言に返答らしき声は続かなかった。学校で彼女がひとりなのは珍しい。

 果たして、彼女はそこにいた。ひとりでぽけぽけ歩いていた。言葉通り誰かを探しているようで視線を左右に振っている。人捜しをしていて階段に差し掛かれば当然、その先にまで目をやるわけで。

「あ。いた」

 彼女は僕を見て言ったのだった。その言葉に、否応なしに鼓動が撥ねる。

「そっち、誰かいるの?」

「いない、けど」

「行っていい?」

「いいよ」

 僕が頷くと、彼女は「あんがと」と会釈して階段を上ってくる。何の用だろうかと不安に思ったのは、リノリウムを踏む足音にも滲むほど彼女が疲労と苛立ちを纏っていたからだ。そもそも、学校で彼女と声を交わすこと自体が初めてではないか? この数週間で幾らか打ち解けて、毎夜の公園ではそれなりに会話もするようになっていたけれど、学校では相変わらず僕はクラスの頭数を揃えるためのひとりに過ぎなかったし、彼女はいつだってたくさんの人間に囲まれていた。そんな彼女がいかにも腹立たしげに溜息まで吐いていれば、僕の心はしおしおに萎んでいくし、何か自分が悪事を働いたのではないかという気分にもなる。恐ろしくて、階段の奥にひっこんだ。段差へ座り直しながら考える。覚えのないことだが、昨晩、なにか粗相をしてしまっただろうか。

 踊り場の向こうで彼女の足音が止まった。さっき僕がそうしていたように、手すりの陰から彼女が顔を覗かせて僕を見上げる。

「どう、したの?」

「いや、ほんとにひとりなのかなって。邪魔したら悪いじゃん?」

「見ての通りだよ」

 声音に先までの険はなく、内心だけでほっと安堵する。自然、口も軽くなった。

「邪魔って。こんなところで誰かといるわけないじゃん」

 ようやく手すりを回って踊り場で僕の正面に立った彼女は、腕を組んで首を振った。

「いやいや。逢い引きとかありえるよ」

「いやあ、ないでしょー」

「あるある。この前レンが彼氏に空き教室に連れ込まれてたもん」

「ええ……」

 そのレンというのが誰だかは知らないが、校内で大胆にも不純異性交遊に興じる輩があるらしい。まあいるか。思春期だものな。ただし僕はその限りではないのである。

 僕は階段の中程に座っていたから、彼女とはまだ距離があった。彼女はととっ、と段差を駆け上がる。その姿を無言のまま目で追った。スカートが揺れる、髪が舞う。かび臭い中にほんのり甘い匂いが混ざった。煙草とは違う柔らかい香りだ。手の届く距離に立った彼女が僕を見下ろす。髪の内側に隠れていた小さなピアスが、窓から差す光を反射してちりりと光った。

「なに?」

 彼女は首を傾げる。

「ん、なにが?」

「じーっと見てるから」

「ああ、いや、ごめん」

 言われて目を逸らす。幸い、彼女の口ぶりに不快感は混じっていなかった。

「となり、座ってもいい?」

「いいけど。でも、ほこりっぽいよ?」

「気にしなーい」

 口の端に笑みを滲ませて、彼女は階段に腰を下ろした。肩が触れるような距離ではないし、公園で座っているときの距離感も似たようなものだ。しかし妙にどぎまぎした。ちらり盗み見る彼女の横顔は暖かな光に照らされて、夜闇に浮かぶそれよりもずっと近く感じた。公園で見せる退廃的な雰囲気とは打って変わって、陽光を浴びる彼女は生気を宿していた。それが事実彼女から発される空気の違いなのか、単に背景による錯覚なのかはわからない。だがどちらにせよ、普段はあまり意識しない、劣等感あるいは畏れみたいなものを覚えた。大袈裟に言えば住む世界が違うのだと、そんなことを思うのだ。しかし、それでいながら、僕は彼女の横顔から目が離せない。触れれば消えてしまいそうな、そういった儚さは鳴りを潜めていたが、やはり彼女は綺麗だと思った。

 彼女はしばらくぼーっと宙を見ていたが、不意にちらっと目を僕へ向けてきた。困ったようにまた天井へ視線を向けて、次に僕を見たときにはぎこちなくはにかんでいた。

「やっぱり、見てるよね? 顔になんかついてる?」

「え? いや、そういうわけじゃなくて」

 自分の頬へ手を当てたり、前髪をつまんで目を遣ったりする彼女から視線を逸らしつつ、言葉に迷うこと数瞬をおき。

「制服姿、珍しいなーって」

 我ながらおかしな言い訳を口にした。

 案の定彼女は目を丸くして、そのあとに笑った。階段はいやに声が反響するから、口元をおさえて小さく肩を揺らしている。

「珍しいって。クラスメイトなのに」

「いや、そうなんだけどさ。でも私服の方が見慣れてるから」

「あー、それもそうだねー」

 彼女は頷いて、僕を上から下まで見た。確かに珍しいかも。と納得顔だ。

 会話はそれ以上続かなかった。なんとなく気まずくて、僕は膝を抱えて小さくなった。彼女といても久しくそんなこと感じなかったのに、どういうわけだろう。その答えはすぐに見つかる。この会話の間隙は、普段彼女が煙草を吸っている時間なのだ。口を開かなくてもなんとなく流れていくその間が、今はない。

 何か話題を探すべきだろうか。彼女は脚を緩く伸ばして、自分の膝をぱたぱた叩いている。これといって表情はなく、つまり僕と違って気まずく思っているわけでもなさそうだ。しかし、ふと手を止めた彼女は、無意識にか小さく溜息を吐いた。その瞬間だけ、目元に倦怠感が漂う。それは僕の見慣れた彼女に近いものだった。ほんの少しだけ声を掛ける勇気が湧く。

「何か、あったの?」

 思い切ってそう口にした。「え?」と彼女はこっちを振り向く。考えていたのは、彼女がさっき階段を上ってきたときのことだ。疲れた様子はともかく、苛立ちを滲ませている彼女というのもあまりない。

「ほら、元気ないみたいだから。どうしたんだろう、って」

 学校では明るい声を上げて、友人たちとお喋りをしている印象が強い。思えば、彼女がひとりでいる姿もなかなかないのではなかろうか。いつも誰かと一緒にいる、友人たちに囲まれている。ひとりでいて、ましてや僕に声を掛けてくるなんて、今まで一度もなかった。

 それを思うと、なんだか余程のことが彼女に起こったような気もして、触れてはならぬものに触れたのかも知れないと思えてきて、咄嗟に片手を振った。

「いや、無理に言わなくてもいいよ。ちょっと気になっただけだから……」

 不快に思わせていたらどうしようかと考えると彼女の顔も見ていられず、俯くしかなかった。

 彼女は返事をしない。さっきにも増して気まずい沈黙がまとわりつくようだった。しかしその片隅で、ふっ、彼女の微かな吐息の音を聞いた。声こそなかったが、それはどこか笑みの色を乗せていた。途端に僕の内で蟠っていた緊張が解けていく。我ながら単純なものだと苦笑しながら内心でほっと息を吐いた。

 そのあとで顔を上げ彼女を見たのは、笑うことないだろ、と言ってやるためだったのだが、口を開いたっきり僕は何も言い出せなかった。

 彼女は、泣いていた。いや、表情は確かに笑っていたのだ。苦笑いに近いそれでも、口角は緩んで微かに持ち上がっていた。それなのに、穏やかに細められた彼女の目尻からは涙がつつとこぼれて落ちている。僕は驚いてしまって掛けるべき言葉を見失ったが、驚いたのは僕ばかりではなかったらしい。指先を自分の頬に触れさせて、濡れていると分かるやすぐに手の甲でそれをぐしぐし拭う。

「あれっ、ごめん。泣くつもりなんてなかったんだけど」

 言いながらも涙は止まらない。慌てた様子で、彼女は右の掌をこっちへ突き出した。

「ほんとに。特別いやなことがあったわけじゃないの。いつも通りだったの。でもなんだか疲れちゃって。なんかいやになっちゃって。だからね、教室を出てきたの。ほんとにそれだけなんだよ?」

 言うごとに涙は止めどなく溢れて、言い募る言葉は震えてゆく。

 何かしなければ。そう思ったときには、彼女の頬に右手が伸びていた。掌に触れた彼女の頬は驚くほど熱く、伝う涙に濡れていた。胸がぎゅうと締め付けられて痛む。とにかく焦っていて、彼女の涙を止めなければと必死になっていて、力加減もわからず親指の腹で彼女の目を拭った。

 そんな僕を、彼女は泣きながら言問いたげに見上げていた。見開いた目は、まだされていることへの実感が湧いていないのかも知れなかった。僕だって自分が何をしているのかわからない。だから気の利いた言葉など浮かばず、目を逸らした。それでも彼女の頬からは手を離さなかった。離したくなかったし、できなかった。その掌へ、重みが加わる。違う、彼女が頬を押しつけたのだ。見れば彼女は目を閉じ、苦しげな顔をしている。見ている僕まで苦しくなって、やがて僕は彼女の頭を怖々と抱き寄せていた。あるいは彼女が寄りかかってきたのかも知れない。そういった自他の境界は既に曖昧で、気づいたときには震える彼女の身が崩れてしまわぬよう、ただ抱きしめていた。

 どれくらいそうしていたか。もしかしたらほんの僅かの間だったのかも知れないけれど、不意に彼女が身動ぎした。ふぐっ、と妙な呼吸をして呟く。

「……ごめん、ちょっと苦しい」

「んえ、ごめんっ!」

 慌てて彼女を解放した。同時、自分がなんとも大胆な行動に出ていたことを自覚させられ、猛烈に恥ずかしくなる。広げた両腕のやり場が見当たらず、怖ず怖ずと下ろした。

 彼女は小さく首を呷って鼻をすすると、にへらと力なく笑う。目の周りはすっかり赤く腫れていたが、涙は止まっているようだった。相変わらず相応しい言葉は思いつかなくて、僕も笑みを返すだけに留まる。それでも彼女は楽しげに微笑み、はにかんだ。

「ありがとね。あと、ごめんね」

「いや、でもなんか、うまくできなくて」

「十分だよ」

 言って、彼女は立ち上がる。「あー、泣いたわー」と独り言ちて、ひらひらと両手で顔を扇ぐのは濡れた頬を乾かすためか。こころなしか目元だけでなく首筋や頬も赤くなっているように思われた。

 折良く、五限の予鈴が鳴る。僕と彼女は顔を見合わせた。

「教室、戻ろっか」

「そう、だね」

 答えて僕も立ち上がる。肩やお尻を叩いて埃を払うと、彼女もそれに倣った。お互いに綺麗になったことを確認して階段を降りる。先のことで、隣を歩いているだけのことが妙に照れくさい。僕のことだから態度にも出てしまっていただろうに、彼女は茶化して笑うことはしなかった。

 光源の少なかった階段から抜け出せば、廊下は眩しいほど光に溢れていた。ぎりぎりまで休憩時間を謳歌しようという生徒どものお喋りに溢れ、喧噪で現実に引き戻されたような気分になる。返すがえすも、思い切ったことをしたものだといっそ感心するくらいだった。

 教室へ向けて角を曲がったが、彼女は反対へ足を向けていた。

「どしたの?」

「ん、えっと、お手洗いに……」

 僕の問いに、彼女は微妙に顔を逸らしながら答えた。どういうわけか首をすくめて両手でやんわりと顔を覆っている。顔を見られたくない理由でもあるのか。

「そう? じゃあ、僕は先に行ってるよ」

「うん。ほんと、ありがとね」

「いえいえ」

 最後に彼女は微笑んで、とたとたお手洗いへ駆けていった。僕はひとり、廊下を歩く。冷静に考えれば、僕と彼女が一緒になって教室に戻るのは色々と不都合があった。それを見越してあそこで別れたのかとも思ったが、それにしては彼女の態度は妙だった。

 はて。首を傾げてしまう。しかしすぐに考えるのやめた。どうせ僕には答なんか分からない。気になるのなら、尋ねてみればいい。彼女と話す時間は毎夜必ず巡ってくるのだから。

 今晩はどんな話をしようかと、今から楽しみで、知らず足取りは軽くなった。

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