第2話

 紫煙が月明かりにくゆる。独特な甘い香りは、初めこそそれとなく息を潜めてやり過ごしていたけれど、今では心地よいものに感じられる。宵に流れる風は冷たい。首をすくめて、散ってゆく煙の行方を追った。

「星、見えないね」

 呟くような小さな声に、隣を振り向く。そこには、ベンチの上に膝を抱え、煙草をつまむ少女がいる。彼女が息を吸うのに合わせ、咥えた煙草の先がちろちろと赤く光った。空をぼんやり見上げながら、彼女は細く煙を吐く。甘い香りが仄かに広がる。月を見上げる彼女の横顔は、月明かりに淡く浮かび上がり、煙と一緒に溶けて消えてしまいそうなほど儚く思えた。

 そうだね。僕が頷くと、少女は視線だけをこちらに向けた。口元に笑みがうっすらと滲む。どきりと高鳴った内心を悟られまいと、僕は顔を逸らした。

「満月だから。仕方ないよ」

 空に目を向けて言う。大きなまんまるの月が頭上で銀色に輝いている。模様さえはっきりと見て取れそうなほど明るい満月だ。これでは星明かりなど霞んでしまう。

 少女は残念に思うだろうかと、その顔をそっと窺う。彼女は俯いて、つまんだ煙草の灰を地面に落としていた。そこには別段、なんの感情も見て取れない。少し短くなった煙草をまた口元に運んで、ついでというように目を夜空へ向けた。

 星を見るのは、僕の趣味であって彼女のそれではない。それだというのに、彼女はこうして毎晩、僕の隣でぼうっと頭上を見上げている。ひとつきほど前、深夜のコンビニで今と同じように煙草を吸っていた彼女を、勢いに任せて誘ったのは僕だ。そのときは一晩限りになるものと思っていたけど、彼女との関係はこうして続いている。特別、星が好きなわけでもなさそうだったけど、彼女はあれから、いつもコンビニで僕を待ってくれている。

 どうして、とは問えない。そんなことをすれば、彼女はいなくなってしまうような気がした。

 彼女は決まって、一晩に煙草を二本吸う。それと、その前後に付帯する余韻のような時間が、僕と彼女が隣り合って夜空を見上げるひとときの全てだった。言葉にしてそうと決めたわけではなかったが、このひとつきの間にそういう暗黙の了解ができていた。

 今しも、彼女は一本目を吸い終わったところだった。ベンチの脇に置かれた灰皿に吸い殻を入れる。間を置かず、スウェットのポケットから煙草の箱を取り出して、目も向けずに二本目をつまみ上げる。唇に挟むまでの一連の仕草は手慣れていて、よどみがない。彼女はしばらく、火をつけずに煙草の先を上下に振っていた。煙草の箱はポケットに戻っていったが、彼女は手をポケットに入れたままで、ライターを出そうとはしない。

 揺れる煙草の先から、そして少女の唇から目が離せなかったのは何故だろう。気づけば彼女の目は僕を真っ直ぐに見ていた。視線がぶつかって、いけないものを見られてしまったような気まずさに、僕は恥ずかしくなってぎこちなく俯く。

 それに対して彼女は軽い調子で言った。

「あ、君も吸いたいの? いけないんだ、未成年なのに」

 言いながら、言葉とは裏腹に、煙草を唇から離してこちらに差し向けてくる。僕としては、二重の意味でそれを受け容れるわけにはいかなかった。顔に血が上るのは止められないけれど、せめてもの抵抗にいやそうな表情を浮かべてみせて、ぐっと体を反らして彼女の手から逃れる。ついでに文句も言ってやる。

「同い年じゃんか」

「ま、そうだけどね」

 悪びれず、彼女はけらけらと笑った。煙草は素直にひっこんでいく。

 再び自身の唇に収まった煙草に、彼女はポケットから出した百円ライターを近づけた。左手を風よけに、カチカチと何度かライターの頭をノックする。ほんのりと明かりが灯ったと思えば、次の瞬間には右手のライターは下ろされて、左手の指に挟んだ煙草の先には火がついている。ポケットにライターをしまいながら、彼女は煙草を口から離して、ほう、と息を吐いた。ふわりと煙が広がる。

 僕はベンチの背にもたれ、あてもなく夜空に目を移した。横から流れてくる紫煙に息を吹きかけて、それがぐにゃりと形を変え、消えていく様を見送る。月明かりに反射してきらきらと輝く煙は、少しだけ幻想的だった。

「煙草は……」

 話題がほしくて、大して考えもせずに口を開く。続きがすぐには思い浮かばず、しばらくの間が空く。

「ん?」

「煙草は、あのコンビニで買っているの?」

「んや、違うよ。さすがに、高校生には売ってくれないよ」

 彼女は笑う。僕はなんと答えたものか迷う。彼女の言葉に肯ってしまえば、制服を着ているわけでもない彼女の容姿を暗に子どもっぽいと言うことにはならないだろうか。実際のところ、彼女は大人びているとはとても言えない容貌だったし、彼女自身もそれを自覚していての言葉だろうけれど、それに頷くのは気が引けた。

 上手な言葉が見つからず黙ってしまった僕の心などお見通しなのだろう。彼女はまた楽しげに笑い声を上げて、それから一度、煙草に口をつけた。煙を吐いて、つまんだ煙草を軽く振る。

「これ、ママの彼氏のなんだ」

「ん、お母さんの、彼氏?」

 すぐには飲み込めず、思わずそのまま問い返してしまう。

 彼女は簡単に頷いた。

「そ。夜は、わたしはちょっとお邪魔だから。迷惑料ってことにして勝手にくすねてるの」

「そう、なんだ」

 やや迂遠な言い回しだったけれど、そんな言い方になる理由も、言いたいことも、わからないほど子どもではない。暇つぶしと、いつか彼女は言っていた。ひとり、深夜のコンビニに佇む彼女に、その故を問うたときだ。なるほど暇つぶしに違いあるまい。家にいられない、行くあてもない。だから彼女はあそこにいたのだし、今もこうして、僕の隣にいるのだ。

 かわいそう、だなんて冗談でも言えない。母親との関係を尋ねられるほど踏み込める関係でもない。言葉に困って、ただ彼女へ顔を向けた。どんな顔をしているのか、自分でもわからないけれど、きっとぎこちない表情ったことだろう。彼女もまた、苦り切った笑みを浮かべて僕を見遣る。

「ごめんね、変な話して」

「謝ることないよ」

「でも、困ってるでしょ?」

「それは……」

 言葉に詰まったあとでそれを否定しても白々しいだけか。言葉尻を濁して僕が顔を正面に戻すと、彼女もそれ以上は口を開かなかった。ぼんやりと、まるで僕なんかいないかのように、宙を見上げて煙草を吹かす。それを横目に眺めていると、何かを言わなければ、本当に彼女がどこかへ消えてしまうような恐怖が湧いてくる。彼女が何か言葉を待っているように思えてくる。

 もちろんそれは勘違いなのだろうが、僕は彼女に、何か言ってやりたかった。同情や慰めではなくて、でも僕は隣にいるのだと気づいてもらえるような何かを。

 二本目の煙草は、もう半分くらいしか残っていない。

「僕も、」

 口を開けば、彼女はすぐに目をこちらに向けた。

「やっぱり僕も、煙草吸ってみようかな」

 あははは、と笑顔をくっつけてみたが、どうにも薄っぺらい。

 彼女は目を丸くして僕を見た。幾度か瞬きをしているけれど、そんなに驚くようなことだったろうか。それとも期待外れな言葉だったのか。

「ん、いいよ」

 数瞬の間を置いて、しかし彼女はあっさりと頷いた。片手でポケットを探り、……ふとその手を止める。そのままじっと僕を見る。

「あ、いや、だめならいいんだよ?」

「ううん、そうじゃないの」

 とは言うものの、彼女は自分で煙草をくわえているばかりでポケットに入れた手を出そうとはしない。僕のなけなしの勇気がしぼんでいきそうになったところで、ようやく彼女は右手を取り出した。ただしその手に煙草の箱は握られていない。

 どうしたのだろうと見つめていれば、彼女はもったいぶった仕草で唇から煙草を離した。手の内で器用に煙草の前後を入れ替えて、その吸い口を僕へ向けてくる。その意図するところは明白だ。

「はい」

「いやいや、それはさすがに」

「いいから。どうせ初めてじゃまともに吸えないよ。新しいの出すのもったいないじゃん」

「それは、そうかもしれないけど」

「ほら」

 彼女は僕の口元に強引に煙草の吸い口を押しつけてくる。最終的には唇に触れてしまって、そうなると決心もつき、僕はそのまま口で受け取った。見よう見まねで指先に挟み、ほんの少し、息を吸ってみる。

 この甘い香りは嗅ぎ慣れていたし、大丈夫だと思っていたのだ。

 しかし次の瞬間には、盛大に咳き込んでいた。喉だけでなく鼻の奥にも煙が回ったようで、あちこちがかっと熱を持ったように感じられる。異物感を通り越して最早痛かった。女の子の前だというのに汚い咳が止まらない。呼吸ができず、目に涙が浮いた。端から香っているのと実際に吸うのとでは、こうまで違うのか。

「あはははっ」

 隣で、無情にも彼女は大笑いをしていた。深夜だというのに声を抑える様子もない。明るい笑い声が公園に響いて、僕の心にも追い打ちを掛けてくる。

 そんなに笑うなよ、と文句を言う余裕もない。彼女は咳をし続ける僕の手から煙草をかすめ取って、自分の口に運んだ。まるで見せつけるみたいにうまそうに息を吸い込んでいる。僕はそれを、恨めしい目で見上げるしかない。

 吐息にまだ笑いの余韻を乗せている彼女へ、僕は必死に呼吸を整えて、息もたえだえに言ってやる。

「そんなに、笑うこと、ないだろ……」

「ふふ、ごめんね。でもおっかしくて。わたしも最初、そうだった」

 それならなおのこと笑うなよ、と言い募ることもできず、僕は疲労感にがっくりと項垂れるしかない。

 そうして幾らか楽になった頃には、彼女はもう煙草を吸い終えていた。両腕で抱えた膝に顎を埋めて、目だけが僕へ向けられている。多少は心配してくれているらしく、その視線には労りがあった。

「待たせて、ごめん」

「ううん。わたしもごめんね。それとありがと」

「どうしてお礼?」

「久しぶりにすっごい笑った気がする」

「……そうですか」

 教室にいる彼女は、よくクラスメイトと笑い合っている印象だけれど。まあ、楽しんでくれたのならよしとしようじゃないか。

「じゃあ、帰ろうか」

「そだね、いい時間だし」

 彼女は腕時計を見て言った。昨晩までとは意味合いが随分違って聞こえたけれど、あえて反応はしなかった。彼女も特段、気にしていないような口ぶりだったから。

 ふたり、並んで公園を出る。コンビニまでは帰り道が一緒だった。

 それだからと言って、何かそれ以上の会話はない。僕としてはなんだか惜しい気もしたけど、これといって話題があるわけではなく、だからへたなことを言うよりもこの空気を楽しむことにしていた。彼女も上機嫌なようで足取りは軽かったけど、やはり口は開かない。

 やがてコンビニについて、僕たちは一度立ち止まる。

「それじゃね」

 そうやって手を挙げるのは、いつも彼女の方から。

「うん、それじゃ」

「また明日」

「うん」

 僕が頷くと、彼女はくるりと踵を返す。すったか淀みなく歩き去る。家に帰ればきっと母親の彼氏とやらもいるのだろう。呼び止めるわけにもいかず、されどその場を離れがたく、僕は遠ざかる彼女の背中を見送っていた。

 すると、離れたところで彼女が一度振り返った。何かと思えば、月明かりの下、大きくこちらに向かって手を振るのが見えた。

 声はない。ただ、何を伝えたいのかは分かる気がした。

 だから僕も、負けじと力一杯手を振り返したのだった。

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