『死ぬにはいい日だった。』

音無 蓮 Ren Otonashi

『それでも、夜は明けるんですから』

『死ぬにはいい日だった』


 夏も終わりだから、と君に引かれて、僕らは廃ビルの屋上に立った。スーパーで買った花火のセットを引っ提げて。空はきっと、僕らの別れを惜しむがゆえに、夕景のまま暮れなずんでいるのだろう。今この瞬間だけは、そんな我儘な祈りも許されてほしかった。


「ねえ、先輩。……この夏、私と過ごした夏、楽しかったですか?」

「……楽しくないわけ、ないじゃないか」


 夏の渦中に亡くなった彼女は、何故か僕の前に姿を現した。彼岸と此岸の間を彷徨える曖昧な幽霊さんは四十九日が終わるまで、僕の横を付き纏うことにしたようだった。


 そして、二人の最終日、というのが八月の最終日、すなわち今日だった。


「へへん、当然ですよね。だって、先輩、私のこと大好きですもんね」

「悪いかよ」


 吐き捨てると、彼女はにへへ、と溶けるような笑顔をこぼした。

 八月が潰えるその日、僕と彼女を結ぶ糸は決定的に途絶える。


 だから僕は、この日を笑って迎えるためにひと夏の思い出を何度も重ねた。共に過ごした部室で普段どおり、締まらない話をして、最寄り駅のパン屋でクリームパンを半分に分けて買い食いをした。身体が溶けそうなくらい暑い日はソーダ味のアイスキャンディーの一本を二人で舐めあった。舐めているうちに舌と舌が触れ合って、胸が締まるような思いをした。彼女の舌はアイスキャンディーよりも冷たくて、そういう五感に訴求する衝動が僕らの日常を加速的に非日常化させていく。


 僕らは、非日常的になった日常を四十九回びっちりと埋め尽くして、そうして、グランドフィナーレを迎えようとしていた。廃ビルの屋上は、僕と彼女の出会いの場所だった。


「二人して、同じ日に学校をサボったのが始まりでしたね。深刻な理由なんてなくて、ただ曖昧模糊な不安で苦しかった」

「むしろ、満ち足りていたくらいかもしれない、な」


 身勝手な閉塞感で、少年少女が勝手に苦しんで、そうして、たまたまそこにいた同類項と身を寄せ合って、暖を取っただけ。僕らの関係なんて、お互いの苦しさを舐め合うためのものに過ぎない。

 過ぎないのに。ならば、どうして僕の胸は痛みながら、鼓動を加速させるのだろう。

 眦が炎のような熱を帯びた。

 屋上の中心に蝋燭を立てて、僕は両手に花火を持った。先端に火をつければ極彩色の軌跡がきらめいて僕らの日常を大団円に導く。


「先輩、花火持ったまま、両腕、ぐるぐるさせてくださいよ! きっと面白い絵になりますよ!」「面白がるなよ」「いいじゃないですか、最後なんですし! ほら、憧れの女の子をいっぱいいっぱい、笑わせてくださいよ!」


 夕暮れが地平に隠れた。僕は言われるがまま、何本も花火を持ってぐるぐると旋回した。回って回って、回り続けているうちに現実と架空の境目が曖昧になってほしかった。

 花火をすべて燃やし尽くした頃には夜の帳もすっかり下りた頃だった。彼女の頭上には天使がかける輪っかが立ち上っている。足元からゆっくりと空間に透過しているようで、彼女の透き通った両脚ごしに、街の中心に林立するビルの群れが透かして見えた。

 終りが近づいている。熱くなった目頭をそっと拭って、僕は口角を上げた。なるだけ、自然に笑っているように。二人の終わりを涙の白濁で汚さないように。


「もう、線香花火だけ、ですね」

「案外、あっさりしてるんだな」

「花火ですもん。燃えてるときは勢いよくて、終わるときはぱったりなんです」


 まるで、人間みたいだな、ですね。二人して同じ感想を口に出した。僕らはお互いの、似通った思想を心から愛していた。

 辺りに散った花火の残骸に視線を落としていた彼女は、名残惜しそうに肩を落とした。しかし、その口元は実に安らかだった。

 僕らはそのあと、一本ずつ、線香花火を灯していった。


「線香花火の輝きには名前があるって知っていました?」


「知らない」僕は首を振った。すると、花火の先端を瞳に映した彼女は静かに語った。極小の火花を驚かさないように。


「火を付けてすぐ、丸っこい『牡丹』は、お母さんのお腹にいる胎児で、生まれ落ちた私達は、ぱちぱちって枝を分けながら『松葉』のように輝いて、成長するんです。だけど、成長しきって、角が取れると『柳』のように丸っこい、穏やかな光線を振りまいて、徐々に光を弱くしていって、小輪の『菊』が最後、地面に垂れていく」


「線香花火ってよりは、人の一生の説明を受けた気分だ」

「……ですね」


 柳のように枝垂れた火花がぼろ、と真っ暗な闇に墜落した。


「私はきっと、『松葉』の渦中だったんです。まだまだこの先、ぱちぱちって枝を伸ばすはずだったんです。だったのに、」


 どうして、私は道半ば倒れ伏してしまったのでしょうか。

 どうして、こんなにも早く墜落してしまったのでしょうか。


 それはきっと、どうしようもない問答だったから。無責任な台詞で誤魔化すのはきっと、燃え尽きる前の花火を水の中に突っ込むくらい、情趣に欠けている。それくらい、僕は分かっている。風が一吹きして、『松葉』を輝きが冷たいアスファルトめがけて落下した。ぺしゃり、火の玉が儚く潰れる。


「もうそろそろ、お時間ですね。あと一本、花火が尽きるまで、私は最後まで貴方の肩に寄りかかっていますから。だから、」


 もう、終わりにしましょうか。僕は頷きも、首を振りもしなかった。僕の一存で、広大な天蓋は振り向いてくれやしないのだから。ならばせめて、静かで暖かい終わりを迎えよう。


 最後の花火に火を付けたら、蝋燭の炎が終に尽きた。僕と、希薄になりつつある彼女を繋ぐ、最後の、密やかな灯火。二人で囲む。この明かりが尽きたとき、もう君は僕のそばにいない。分かってる。分かっているから。


 だからさ、ちょっとだけ、願ってもいいかな。

 願っても、叶わないのも、分かっているんだけどさ。




「――この花火、尽きるとき、君と一緒に、どこか、知らないところに行けますように」




 大輪の菊の花が枯れて、彼女の微かな吐息も、何も感じなくなった。

 夜は、僕一人で乗りこなすには、果てしなく広くて、夥しかった。


 ようやく、僕の目頭に咲いた、牡丹の花が頬を滑って、散った。

 



 嗚呼。きっと。

 永い、然様なら。



 死ぬにはいい日だった。

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