第51話 愛ゆえの離反

 そのか細い声は二人っきりの病室ゆえに、すぐに発した者を特定することが出来た。

「智花さん!」

 片方の瞳がゆっくりとまばたきしつつ僕を映す。不謹慎だが、その儚さや元来の美人さが、目を覚ました途端に、開花したかのように、より一層魅力的に見えた。

 これまで、眼帯に対して倒錯的感情を抱いた覚えはないのだが、今だけは否定できない。

「宗太君、おはよ」

「おはよう、ございます」

 もどかしく名状しがたい感情に不安さえ感じた僕は、すぐさま目線を病室の窓へと向けた。智花さんは、片方の瞳しか光を受けていないにもかかわらず、強いまなざしをこちらへ向けているのが、確認せずとも分かった。

 僕と深雪さん以外に、もう一人、全てを見たと言えるのは智花さん、彼女しかいない。

 それぞれの真実が合わさって初めて客観的事実と成されるものの、智花さんはその瞳を閉ざし、僕は背き、深雪さんは眼中にないといった、あまりにも凄惨な日々。

「お見舞い、来てくれたんだね~」

「はい」

『当然です』や『勿論です』とは何故だか口に出せなかった。

「小説の締め切りも過ぎちゃったな~ま、仕方ないけどね」

 そうだ、氷室智花が入院ということは、とりもなおさず、作家・花京院智子も入院という事であり、公私いずれも時が止まっていたのだ。

 学生である僕が大学へ行かないのは、よろしくはないものの、おおやけが停滞している訳ではない。

 僕の日常と智花さんの日常は意味が違う。

 だからこそ、僕は深雪さんへの愛―それは極めて疑似的で幻想の産物ではあるが―を保持し、智花さんを生涯をかけて支える。

 それはまさに智花さんで言うところの―――

「ホントにお兄様みたいだね」


 僕はあの日、深雪さんの呪縛を解いたが故に、多くのものを背負わなくてはならなくなった。

 これまでの自分が読書だけに専心し、他人をないがしろにしてきた代償が、利子もつけて一気にきたのだ。

 それも裁判所命令のように、人生を一変させる力を持った勢いで。

「また来ます」

 僕はそう言い残して、あくまでも視線を送り続ける智花さんの目の前から立ち去った。


 氾濫しているかのような己の心情に気づいた僕は、院内にある小さな書店に足を運んだ。

 久方ぶりに僕の目は活字を映し、肺はインクと紙の特徴的な香りを取り込み、指は多種多様な材質を感じ取った。

 それでも、今の僕にとって読書は喜びではなかった。

 読めないというより読みたくない。もし、かつてと違って読書が楽しくないのであれば、僕は何を拠り所に生きていけばいいのだろう。そんな決定打を受けてはもはやこれまで。僕は人間でなくなってしまうだろう。

 だからあえて、読書をすることはなく、また当然、本を購入することもなかった。

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