第三章

第32話 愛する者の為に

「お兄ちゃん………」


 お兄ちゃんが氷室さんの家に住むようになってから、私はいつも一人ぼっちだった。

 そんな寂しさを誤魔化すように、私はいつしかお兄ちゃんの部屋に残された本をお兄ちゃんの部屋で読み、お兄ちゃんの部屋で寝起きする日々を送っていた。

 友だちが遊びに来たときは、勿論、自分の部屋で過ごさなきゃならないから、お掃除も大変。

 普段、私の部屋はあまり使われていないと感ずかれたら、続く言葉は「じゃあ、どこで寝ているの?」だ。

 両親が他界しているのは知られているので、お兄ちゃんみたいに賢くなかったとしても、ここ以外のベッド―お兄ちゃんのベッド―で寝ていることがバレてしまう。


 …………でも、お兄ちゃんが氷室さんの所へ行って、かなりの歳月が経った今、ベッドからほのかに香っていたお兄ちゃんの薫りは、私のシャンプーの匂いに変わりつつあった。

 そんなに本を読むスピードは早くないけど、すでに残された本は全て読み終わり、二週目が終わるのも時間の問題。

 本を大事に扱うお兄ちゃんは、何も書き込みしてないし、新品みたいに綺麗なまま。

 だから、本そのものからお兄ちゃんの痕跡を読む取るのはとっても難しいけれど、代わりに『お兄ちゃんはこの本を読んで、何を想ったんだろう』といった想像をするのが、唯一と言っていい、私の心の安らぎ。


 だから―――智花さんから連絡された時はとっても腹が立った。


『深雪が宗太君を誘拐したかもしれないの』


 スマートフォンは確かに『通話中』と表示されていたけど、私の中ではプツリと世界の色彩とか音響とかが切れた。

 それはお兄ちゃんが大事にしていた、あの無数の本みたいな、ただ活字だけがならぶモノクロの物体であるかのように、世界との繋がりがとても薄く思われた。


 電話の向こうで何か言っていた気もしたけど、私にはお兄ちゃんの元へと続く道のりしか目に映っていなかった。


 それは途方もない遠い道のりかもしれない。

 三千里たずねても見つからないかもしれない。


 それでも私はお兄ちゃんを見つけだす。たとえこの脚が使い物にならなくなっても。

 残された唯一の血のつながりを途絶えさせはしない。

 お兄ちゃんをに渡してしまったのは私のせい。

 だから私の手で取り返さなきゃ。

 今までは本の話はあまり出来てなかったけど、これからは違う。


「これからは違うんだよ……!」



 ***

「宗太君と一緒で、ひとつの事にしか気がいかないのね」

 深雪が私に見せた最大の反抗。私の初めて愛した人を奪うだなんて、次回作の設定ならまだしも、現実でされるのは許しがたいね。


 宗太君のかわいい顔が今も恐怖で歪んでいるかと思うと私もイライラするけど、私まで冷静でなくなったら、宗太君は三人の手から羽ばたいてしまう。

 彼は今、ようやく読書で知った人間の心を、現実で追体験することで、何が虚構で、何が真実なのかを知る。

 その時、彼は鳥籠以外に自由がある事をようやく気づき、新たなる世界へ巣立ってしまう。


「宗太君にはいつまでも私の目の届くところに居てもらわないとね」

 ***

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