木浦さんは猫になった

百々面歌留多

木浦さんは猫になった

 木浦さんはある時、猫になっていた。


 思い当たる節などなかった。猫は飼っていないし、罰当たりなことをした記憶などもない。だからこそなぜ自分が猫になってしまったのか、理解不能だった。


 ともかく猫になってしまったのは仕方がない。


 さっさと人間に戻ればいいだけの話なのだから。


 初めは眠ってみることにした。夢ならばそのうち覚めるはずだと言い聞かせて、ゴロリと横になった。


 大きすぎるベッドは寝返り打ち放題であったものの、まだ猫の体の勝手がわからなかったので、できるだけこの姿勢を貫いた。


 人間だった時は眠るのに幾ばくかの時間を要したが、猫の体ではとても簡単だった。目を瞑って、呼吸を落ち着かせるだけで、すうっと眠りに落ちて言った。


 再び起き上がった時、木浦さんはまだ猫だった。


 腹が減ったと思い、冷蔵庫の辺りをうろうろした。


 どうやって開こうか。


 猫の手は小さくて短い。体の小ささも相まって、冷蔵庫の取手に手を引っ掛けようとも、絶対に開けることができなかった。


 四苦八苦したのち、木浦さんは諦めた。


 他のところで探そう、そう思って台所に目をつけた。木浦さんは登れそうなところを探すと、思いっきりジャンプした。


 人間だった頃は運動音痴で、体育の授業は嫌いだった。だけど猫の体ならば人間とは比べ物にならないほどの力を発揮できる。


 登れた瞬間、背後の崖を振り返って、木浦さんはギョッとした。思ったよりも高くてびっくりしたのだ。


 流しからコンロまで見渡して、木浦さんはため息をつきかけた。


 本当に何にもないじゃないか。


 流しには昨日の洗い残しのお皿が重なっている。昨日の夜はチャーハンだった。コンビニで買ってきたレンジでチンするやつ。美味しいとは思えなかったが、よく腹を満たしてくれた。


 木浦さんは小さな鼻の先端をお皿に近づけて、匂いを嗅いだ。油っぽい香ばしさは猫の胃袋にもよく染み込んだ。


 舐めようとして、動きを止める。


 危うく人としての矜持を忘れてしまうところだった。舌を引っ込めてから、天を仰ぐ。蛇口の取手に狙いをつけて、飛びかかった。


 猫の手を引っ掛けて、重みを加えると、蛇口から一気に水が溢れてきた。木浦さんは体勢を崩して、背中から落ちた。痛くはなかったものの、毛並みの隙間にまで水が浸透していた。


 悪寒が走った。


 とはいえ堪えるだけだ。猫だとしても、心は人間なのだから水くらい浴びたって、そうそうひどいことにはなるまい。


 今やるべきなのは水分補給だ。


 最悪水さえ飲んでいれば、どうにでもなる。死ぬ前に何か食えばとりあえず生き残っていけるだろう。


 小さな舌でちびちびと流水に口をつけた。完全に喉が潤ってからは、体を乾かそうと思った。


 取り込んでから放置しっぱなしの洗濯物の山へと体を突っ込み、体を丸めた。よれたシャツや自分の下着に体を埋めるのはおかしい気もしたが、今の木浦さんにとっては関係ない。


 乾くまでの間木浦さんはもっと現実的なことを考えていた。


 学校のこと、授業のこと、部活のこと、考えるべきことは色々あった。何の連絡もなしに休んでしまった。今頃向こうはどうなっているのだろう。


 確かめたいとは思うものの、猫の体だ。


 たとえ連絡が取れたとても、猫の口から人間の言葉を発生することはできない。アニメや漫画の猫は当たり前のように人間の言葉を喋る。


 淡い期待を胸に試しに声を出してみたものの、飛び出すのはにゃあだけだった。


 にゃあ。

 しね。


 にゃあにゃあ。


 くそったれ。


 自分では正しく発生しているつもりなのに、すべては猫語だ。ただの鳴き声を言語としてカウントしてもいいかどうか甚だ疑問ではあるが、言葉をかなぐり捨てた瞬間、自分が完全に猫になってしまう気がしてならなかった。


 幾度か言葉を繰り返したものの、人間の言葉には近づけない。せめてカラスやインコにでもなっていれば喋れたんだろうか。


 にゃあにゃあにゃあ。


 それっきり木浦さんは泣くのをやめた。耳をピクンと動かしたのである。何かいる。じっと耳を立てて、聴覚をすました。


 カサカサ。


 カサカサ。


 未知の音である。おそらく人間の可聴域を遥に超えているからだろう。木浦さんは洗濯物の山から顔を出すと、首を傾げる。


 そうして壁に張り付いた黒い楕円形のそれをみて、木浦さんは目を細めた。


 小汚い部屋だから存在しているだろうと予感していたけれど、あからさまに現れるとは。


 元々木浦さんはそれを毛嫌いしていた。昆虫そのものは好きだけれど、それだけは別だ。小さい頃から害虫だのと刷り込まれているからだろう。


 不意に殺意のようなものが芽生えた。


 人間だった頃はスプレーを吹きかけるだけだった。しかし猫の手ではノズルを正確に向けたまま、押すことはできない。


 だからやるしかないのだ。


 洗濯物の山から抜け出すと、抜足、差し足で近づいていく。音を立てずに、暗殺者のように慎重に。人間だった頃には鬼ごっこでさえ一度も勝てたことはないのに。今だけは木浦さんの中で「いける」と確信が芽生えていた。


 壁の下まで移動をした後、動かないそれをじっと見定める。高さはある。だが届かないほどじゃない。まずはパンチを喰らわせよう。そうして落ちたところを、確実に仕留めるのだ。


 猫の目は狙いを定める。動体視力を利かせて、タイミングを図り始める。


 今だ!!


 声にならない合図を皮切りに跳躍した。猫パンチが、それを確実に捉える。だがまだだ。落ちたそいつに狙いをつける。


 着地狩り。


 逃げないように押さえつけて、そして噛む。でっぱった頬骨と短い鼻のおかげで噛む力はとても強かった。


 その流れで木浦さんは咀嚼し、飲み込む。


 美味いとか不味いとかそんな次元ではなかった。腹を満たしたことで、湧き上がるのは生きているという実感。


 同時に嫌悪感が湧き出てくる。


 虫食は初めてで、しかもあれが初めてだなんて。もしも自分が人間だったら悶絶モノかもしれない。猫の味覚と胃袋に感謝しなければならなかった。


 そしてぼうっと考える。


 水を飲み、虫を食べれば外に出なくても生きていける。家賃も光熱費も心配しなくてもいい。


 あれ、これって意外とありなんじゃないか。


 木浦さんはぺろりと口の周りを舐めた。


 *


 真夏の炎天下、校庭には部活に取り組む生徒たち。木陰で休んでいた生徒たち、一人の女の子がふと呟く。


「木浦さんってどんな人だったんですか」


「ああ、ナオちゃんは木浦のこと知らないんだよな」


 と肌のよく焼けたアサヒは軽く舌打ち。


 アサヒはサッカー部の部長であり、エースでもあった。空を仰ぎながら、ポツリと語った。


「木浦はサッカーが好きで、やる気だけは人一倍あって、選手としては三流以下だった」


「下手だったんですか?」


「寸胴だぞ、寸胴。蹴る以前の問題だ」


 練習中、夜ご飯の話になった時、木浦は言っていた。夜はいつも簡単に済ませると。きっとお弁当か何かを買っていたのだろう。


「でもそんな人がうちの部活を関東大会まで導いたんですよね」


「笑えるだろ」


 と渇いた笑い。


 蝉の鳴き声が頭上から響き渡る。


「うるさいですよねえ」


 とナオが呟いた。


「蝉が鳴かなくて、暑くなきゃ最高なのにな」


「それ、夏じゃないですよ」


 と指摘すると、アサヒはムッと眉を顰めた。


「木浦みたいなこと言うんだな。ナオちゃん、お前将来教師にでもなるつもりか」


「いやですよ、教師なんて。ゼーったいにストレスたまりますもん」


 ナオは満面の笑顔で否定する。


「それもそうか」


 アサヒはスポーツドリンクを一気に半分くらい飲み干した。


 熱をはらんだ風が通り過ぎていく。額に張り付いた髪が撫でつけられると、余計に汗をかくのだ。去年もそうだったか、と部長は思い返した。


 去年、木浦先生はいなくなった。夏休みを迎える直前に突然姿を消したのである。自宅アパートにもいなかったし、実家にも帰省していなかった。


 たくさんの人が捜索活動に参加したものの、結局手がかりさえ見つからなかった。


 色んな噂が流れた。事件に巻き込まれたとか、自殺をしたとか、ほとんど根も葉もないものであったが、その中にサッカー部に関する噂があった。


 体罰をしていたのではないか。


 もちろん全くのデタラメだ。檄を飛ばすために背中を叩かれることくらいはあったが、部員たちはよくあることだと受け入れていた。


 ただ外から見れば事情が違うのかもしれない。たまたま来ていた保護者が、背中を叩かれた生徒を目撃してしまったら。いきなりのことでつんのめった瞬間だとしたら。


 アサヒは去年試合中に背中を叩かれた。怪我から回復したばかりで後半25分から投入されることがあらかじめ決まっていた。


 ちょうどその時試合は負けていて、完全に攻めあぐねている状態だった。中盤あたりを右往左往するボールを目で追っては唇を噛まずにはいられなかった。


 得点する自信はあった。とはいえ復帰したばかり。時間がジリジリと迫っていく中で、頭の隅をよぎるのは怪我をした時の恐怖だった。


 大丈夫だ、オレはやれる。


 そう言い聞かせながら出番を待ち続けていた時、いきなり背中を叩かれた。あまりに突然のことであったから、彼はバランスを崩した。


『怖いか』


 と木浦に問いかけられて、彼は一瞬言葉を失った。もちろん即答してやりたかった。だが、完全に自分の心中を振り切るほどではなかった。


『リラックスしていけ、この場面でお前を投入する理由はわかるな』


 彼はすぐにうなずいた。自身の調整も含めて、この試合に勝つために必要なことだから。そして彼はアディショナルタイムも含めて2得点を挙げた。もちろんチームも勝利したのだが、その後がまずかった。


 サッカー部で体罰があったのではないか、と一部の保護者が声を上げたのである。ベンチ入りもできない補欠の上級生の親御さんたちであった。


 我が子が試合に出場できないのに、なぜ2年生がスタメンに選ばれているのか。


 やっかみや妬みなどもあったのかもしれない。とにかくこれが原因で木浦先生は矢面に立たなくてはいけなかった。


 保護者説明会で度重なる口撃を食らえば、いくら木浦先生とてダメージは計り知れなかったのかもしれない。


 処分が決まるまでの間は謹慎することになっていたのだが、ある日突然連絡がつかなくなったのである。


 その後は皆が知っている通りだ。蒸発してしまった。


「そういえば……」


 アサヒは思い出したように呟いた。


「木浦って猫飼ってたんだよ」


「まじですか」 


「別の先生と一緒に様子を見に行った時にさ、見たんだ。今日みたいに暑い日に冷房もつけずに猫を部屋に放置していた」


「猫置いてっちゃったんですか」


「さあな、ただ来客を見つけた途端にすごい勢いでにゃあにゃあ鳴いたそうだ。ここから出してくれって言ってたんだろうな」 


「猫語なのに分かるの?」

 

「んなもん知るか。肝心の木浦が留守にしているし、連絡もつかないんだ。警察に連絡した後、アパートの大家さんに部屋を開けてもらったわけ」


 その時、ドアの隙間から勢いよく猫が飛び出してきた。かなり痩せていものの、かなり目つきが悪かった。


 思わず振り向いた時には猫は欄干の上に上がって、彼らを睨みつけていた。


 にゃあ。


 そう何かを告げて、脱兎の如く消えてしまったのである。


 部屋の中はかなりひどい状態であった。空き巣が物色した後のようにものが散乱していた。流しの水は流しっぱなしで、トイレットペーパーがそこかしこに転がっていた。乱れたベッドは中の綿が飛び出すほどで、カーテンも下の方は細切れであった。


 壁には至るところに傷跡が残っていた。


 猫が暴れたのしてはやりすぎな室内の惨状。


 全てが奇怪であった。何をどうすればこのようになるのか。


「サッカーボールが転がっていた、部屋の中に」


「部屋の中で練習していたとか?」


 まさか、彼は吐き捨てる。


「猫がボールで遊んでたって方が現実的だろ」


 猫がどれほどの集中力でボール遊びに取り組むのか、彼には想像もつかない。しかし仮にボール遊びが好きな猫だとしたら、体が動かせる間は昼夜を問わずに遊び続けることができるはず。


 さて、と。


 部長は立ち上がる。お尻の砂を払いながら、みんなに休憩の終わりを告げた。すぐまた練習を再開する。今年はもっと上を狙うつもりで厳しくやっている。


「部長、監督来てますよ」


 ナオが明後日の方向を指差した。日陰の隅っこにて丸まっている猫。とてもブサイクで丸っこいそいつは大きな欠伸をかく。


 部長は小走りで駆け寄って、監督とよんだ。目をパチクリした猫の背中を優しく撫でてやる。


「今年は全国制覇しますから、見ていてください」


 すると猫はにゃあと呟いた。


「この猫、木浦の猫なんだよ」


「……へえ、そうなんですか!」


「ペットは飼い主に似るっていうけど、なんとなく似てるんだよなあ」


 ナオは屈んで顎を撫でてやる。


「にゃあにゃあ」


「あ、もしかして人間の言葉がわかるのかな」


「飼い猫だったんだし、なんとなくわかるんだろう。」


「なんて言ってるんでしょうね」


 ナオがそう訊ねると、アサヒは猫の顔をじっと見つめる。


「オレを元に戻せとか言ってるんじゃないか」


「……アサヒ先輩、そりゃないですよ。ほら、監督からも言ってやってくださいよ」


 ナオが監督を脇の下から持ち上げてやる。胴体をだらりとさせたまま、猫は動かなくなった。


「にゃあ、にゃあ」


「監督、どうしたんで……うわっ」


 アサヒは尻餅をついた。監督からの猫パンチを顔に思い切り炸裂したのである。別に痛くもないけれど、あまりに突然だったので、驚いてしまった。


「にゃあ、にゃあにゃあ、にゃあ」


「さっさと練習しろ、だって」


 ナオはゲラゲラと笑いながら、監督の猫語を翻訳した。


 監督は部員たちがグラウンドに出ると、ようやくナオに下された。彼女はポケットから取り出したのは煮干し。最近ではあげるのが日課になっている。


 袋を開けてやり、中身を手に広げる。監督は待つのが得意だった。ナオがよしというとあっという間に煮干しを平らげてしまった。


 それから監督は「にゃあ」と鳴いて、日陰へと移動した。横になり、ぼうっとグラウンドを見つめる。猫の双眸はひたすらボールを追い続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

木浦さんは猫になった 百々面歌留多 @nishituzura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ