22 総会決議

 運命の12月15日、毎年恒例の元老院総会が、毎年恒例の文句によって開始された。

「これより、元老院定期総会の開会を宣言いたします」

いつもならここで十人委員会の立候補者の演説が始まるところだが、30人程の議員が立ち上がりそのうちの1人が叫んだ。

「議長! 緊急動議を提出します!」

恒例でない出来事に多くの議員が戸惑ったが、さすがに議長は落ち着いていた。

「ムルクス議員、何の冗談ですか?」

議長はやんわりといなしたが、ムルクスは退かなかった。

「元老院法によれば、30人以上の議員の同意があれば、議題を提起することができます」

「それは緊急の事案に限ってのことです」

「明確な後継者の指名のないまま陛下が病にお倒れになったこの状況こそ、緊急と言わずして何と云うのでしょうか?」

議長はその主張に反論できなかった。

「……なるほど、そうかもしれません。では、その議題とは何なのですか?」

ムルクスは議場を見回しながらゆっくりと叫んだ。


「帝位の後継者としてイゾルテ皇女殿下を指名していただきたい!!」



 この日イゾルテは、皇帝代理として政務に励むテオドーラを補佐するために、彼女とともに皇帝執務室に詰めていた。ただでさえ戦いの後始末で普段より上がってくる書類が多い上に、この日行われる元老院総会に出席するために多くの官僚が昨日のうちに書類を作って提出していったのだ。

 ルキウスは宰相こそ置かなかったが、大臣や官僚たちには職権の範囲内で割と自由に仕事をさせていた。皇帝は彼らを監視と調整さえしていれば良い、というのが彼の方針である。そのため基本的には報告書ばかりで、わざわざ皇帝(代理)に判断を仰ぐようなものは少ない。だからこそテオドーラでも何とかなっていたのだが、今日ばかりはあまりにも数が多すぎた。

 分野ごとに仕事を任せているということは、逆に言えば全体を把握している人間は少ないということだ。皇帝は山のような報告書から全体を把握しなければならない。まあ勘所さえ押さえておけばそうそう逸脱は起こらないのだが、テオドーラはその勘所を知るために修行しているのである。その上、後々ルキウスに申し送りをするために資料を作る必要まであった。

 そんな訳でイゾルテもテオドーラも朝から執務室に缶詰になっていて、昼食の時間になっても手を休めることが出来なかった。イゾルテも元老院議員の一人であり特別委員会を任されている身ではあるが、10人委員会の投票のためだけに総会に行くことなどとても出来なかった。だからその知らせは、突然来訪したアエミリウス議員によってもたらされることになった。


「イゾルテ殿下、内密にお耳に入れたいことがございます」

あまりに忙しかったのでイゾルテは内心煩わしく思ったが、10人委員会の委員である彼は大事な選挙の真っ最中のはずである。彼女たちよりもっと深刻で忙しいはずであった。

「姉上には聞かせられない話なのか?」

「必要でしたら、殿下からお話し下さい」

いぶかしみながらも控えの間へと場所を移すと、議員は驚くべき情報を告げた。

「元老院総会に緊急動議が提出されました」

「緊急動議?」

「殿下を皇太女として指名する議案です」

「は?」

 それは寝耳に水の話だった。有名無実の元老院総会を利用して皇位継承者を擁立しようとは、おいそれと考えつくものではない。そもそも本人が承知していないのに、擁立して何の得があるのだろうか? イゾルテは(かつての自分を棚に上げて)声を荒らげた。

「馬鹿な! 総会でだと!?」

「採決はまだですが、恐らく可決されるでしょう。総会決議は10人委員会の決定より強い効力を持ちます。これに反する行いは、元老院最終勧告、国家反逆罪へとつながりかねません」

それはつまり、10人委員会はもちろん、皇帝ですら容易には逆らうことができないということだった。

「くそっ! 発起人は誰だっ!?」

「……ムルクス提督です」

「…………!」

 ムルクスの名を聞いて、荒れ狂っていた怒りがイゾルテの中から唐突に去って行った。イゾルテが帝位を望んでいないことを、ムルクスはよく知っていた。彼女を擁立すれば、報われるどころか処断されかねないことを、彼だけは知っていたのだ。それでも彼は動いた。彼の策動は多くの人びとに、権勢欲のためだと誤解されただろう。だが彼はイゾルテだけでなく自分自身をも裏切りながら、それでも帝国を彼女に預けようとしているのだ。彼はイゾルテに対する忠誠よりも帝国に対する忠誠を選び、イゾルテが彼に寄せる信頼よりも彼がイゾルテに寄せる信頼に重きを置いたのだ。イゾルテはムルクスの思いに胸が熱くなった。

――爺め、やってくれる!

「議員、教えてくれて助かった。ついでにもう一仕事頼みたいことがあるのだが、手伝ってくれるだろうか?」



 執務室に戻ってきたイゾルテは、控えていたアントニオに使いを頼んだ。

「アントニオ、今すぐスキピア子爵をここまで連れて来てくれ。おそらく元老院に居るだろうが、なるべく目立たないようにな」

「はい!」

アントニオが飛び出して行くと、イゾルテはテオドーラに声をかけた。

「姉上、少し父上と話してきます。後ほど重要なお話がありますので、使いが参りましたら父上の寝室までご足労ください」

「どうしたの? 何か問題があったの?」

「はい。ですが詳細は後ほどお話します。今は一刻を争いますので」

「分かったわ、待っています」


 イゾルテは療養中の皇帝の元へと急いだ。彼女は寝室に通されるなり人払いをして、前置きなしに本題に入った。

「父上、元老院で動きがありました。10人委員会ではなく、総会決議で私を帝位の後継者として指名してきました。今ならまだ間に合います。後継者を直ちに指名して頂きたいのです」

 ルキクスは最初こそイゾルテの勢いに戸惑っていたが、後継者の問題は常に頭から離れない関心事である。すぐに落ち着いて考え始めた。

「総会決議とは大事おおごとだな。後継者の指名というのは、テオドーラを帝位に、ということか? それともテオドーラの夫として誰かを指名しろと言うことか?」

「私は後継としてスキピア子爵を推します。彼を姉上の婚約者とした上で、養子にして下さい。彼を皇太子として認めるよう、元老院に掛けあってきます」


 スキピア子爵は先の戦勝で大きく名を上げているし、ルキウスの脳内の候補リストにも上がっていた名前である。もともと陸軍内では人望もあったし、 ルキウスにとっては義妹の弟でもあり人柄も少なからず知っている。身辺の調査も定期的に行われているが、政治的に妙な信条を持っているという報告はない。ムルス騎士団と親しいという報告はあるが、それは新神殿建立委員会の副委員長なのだから当然である。女関係もクリーンすぎて、逆に見舞いに来たリーヴィアが愚痴るほどだ。年齢は29歳とテオドーラとはやや離れてはいるものの、それほど不自然と言う訳でもない。そしてイゾルテが見込んで試練を与え、それを見事に乗り越えた男なのだ。

「子爵をテオドーラの夫にするのは良い。だが、いにしえの五賢帝(注1)のように彼自身を帝位に就けるのか?」


 ヘメタルの最盛期、5代に渡って名君が輩出された時代があった。彼らは血の繋がらない後継者を選んで養子とし、帝位の継承を元老院に認めさせた。イゾルテはその故事に倣うことで、血の繋がらない子爵への禅譲を正当化させようというのだ。


「元老院総会は、帝位の後継者として私を指名します。それを覆すには、やはり総会で後継者を指名し直す必要があります。

 ですが単に姉上の夫というだけでは、元老院が口を出すことは出来ません。しかし、姉上の名で指名を獲得するのも困難です。

 帝位を姉上が継いだとしても、実際の公務は子爵が取り仕切ることになるでしょう。そして姉上の子がその跡を継ぐのなら、子爵が皇帝になったところで実質的には同じことです。それに彼は律儀な男ですから、姉上以外の女に手を出すことはないでしょう」


 イゾルテの言葉は確かに理屈が通っていた。それに総会が終わってしまう前に動議しなければならないから、急ぐ理由もわかる。だがそこまでしてなぜ彼女が帝位を拒むのか、ルキウスにはその理由が分からなかった。

「イゾルテ、そこまでしなくても良いのではないか? 確かに私も、テオドーラが帝位を継ぐのが順当だと思っていたが、それは例えお前の方が帝位に相応ふさわしかろうとも、それはお前たち一代に限ってのこと。長幼の序に従わない前例を作ることは、ドルクのように兄弟で帝位を争うことを誘発しかねないと思ったからだ。

 だが元老院がお前を望んでいるのに、皇帝がそれを無視することも同じように悪しき前例となるだろう。帝位はお前が継ぐべきではないだろうか。テオドーラが反対しないことは、お前が誰よりも知っているだろう?」


 それは正論だった。イゾルテも認めざるを得ない。だからこそ彼女は追い詰められていた。イゾルテは真っ青になりながら、言うべきか言わざるべきかを迷っていた。それをルキウスに言うことは、身が裂けるほどに辛いことだった。だが言わなければ、ルキウスは決して納得しないだろう。もし黙っていて、間違ってイゾルテが帝位に就いてしまっては、もう取り返しがつかない。


「……お父様、お許し下さい。このようなことを言う私は、親不孝者です」

追い詰められた彼女は、いつのまにか一人の少女に戻り、涙をこぼしながらもぽつぽつと語りだした。


「私はお母様を疑っているのです。お母様は、不貞を働いたのではないかと……」


 ルキウスはその言葉に過剰に反応してしまった。

「ゴホッ、ゴホッゴホッ!」

「お父様!?」

「い、いや、大丈夫だ。何でもない」

だが言葉とは裏腹に、その動揺ぶりは明らかだった。ただでさえ関係の怪しいテオドーラとイゾルテが、母親たちの淫らな関係を知ったらどういうことになるか、彼はそれが心配だった。しかもルキウスも交えて3人でチョメチョメしていたなどと知れば、「同じ男と偽装結婚すればOKなんですね♪」とか嬉々として言い出しかねない。

「その慌てぶり。やはり、お父様は何かご存知なのですね?」

「な、何を根拠にそのような事を言う? それにそんな事、今は関係ないだろう!?」

「大ありです! 皇室の血を引かない者が、その血を根拠にして帝位を継ぐことなどできません!」

「……はぁ?」

どうやらイゾルテの話は、ルキウスが想像したのとは別の流れのようだった。


 戸惑うルキウスを置き去りにして、イゾルテの話は続いていた。

「もちろん私にとって父とはお父様お一人です。実の父親が例え神々の一柱であろうとも、様々な贈り物を下さろうとも、それを父とは思っておりません。

 ですが、それは私の心だけの話。私の体には、お父様の血が流れていないかも知れないではありませんか!」

イゾルテは、贈り物を送ってくる神こそが、実の父親なのではないかと疑っていたのだ。


「お前が何を言っているのか、ようやく分かってきた。お前はそんなことを考えていたのか……」

「暁の姉妹号の名前を頂いた時のこと、覚えていらっしゃいますか?」

「ああ。テオドーラの名前が欲しいと言った時のことだな」

「はい。その前にお父様はおっしゃいました。『ネダ』号ではどうかと。私は内心で、ギクリとしました。お母様の名を付けたゲルトルート号の次の船に、お父様が『ネダ』の名前を挙られたことに」

ネダは神話の登場人物だ。ある国の王妃で、ゼーオス神が白鳥に化けてレイプしたという逸話が有名である。

「ゲルトルートが、ネダのようにゼーオスの子を孕んだと思ったのか……」

「はい、そしてお父様もそれを疑っているのではないのかと。ネダの子は双子でした。兄のカスタルは夫の子でしたが、弟のポリュデオケスはゼーオスの胤でした。(注2)

 あるいは私はカスタルであるかもしれません。ですが、ポリュデオケスかもしれないのです!」

「…………」

「自分を神の子と考えるのはおこがましいと思います。私もできればお父様の娘であって欲しい。でも、私にお父様の血が流れていない可能性がある以上、私が帝位を継ぐことはできません……」


 「何を馬鹿な」と笑い飛ばすことは、ルキウスには出来なかった。現実に贈り物が届く以上、神々の存在は安易に否定出来なかった。そして、ゲルトルートがネダのように無理やり犯された可能性も、寝ている間に勝手に孕まされた可能性も否定は出来ない。彼やイザベラが惹かれたように、ゲルトルートはとても美しかった。ゼーオスが彼女に目を付けたとしても、何ら不思議ではなかったと思う。何よりイゾルテの元に贈り物が届くという事実が、彼女が神の娘ではないと言い切ることを許さなかった。そして何の根拠もなく「違う」と言ったところで、賢いイゾルテが決して納得しないということも、ルキウスには分かっていた。

「……すまなかった。お前が悩んでいたことに気付いてやれなかった。お前ほど聡い娘が、贈り物の主について何も考えないはずがないのにな」

「いえ、罪深いのは私です。私は血の繋がりを疑いながら、お父様の愛を失うことを恐れてずっと黙ってきたのです」


 ルキウスは、イゾルテが皇女としての自分に拘り続けた理由がようやく分かった。自分がルキウスの娘であって欲しいというその思いが、彼女を皇女という立場にすがりつかせていたのだ。それはルキウスにとっては嬉しくもあり、そして悲しい宿命に思えた。

「イゾルテ」

「はい、お父様」

「人の子であるカスタルが死んだ時、不死であるポリュデオケスも死を望んだ。ゼーオスはその願いを聞き届け、二人は共に天界に迎え入れられた」

それは双子座の誕生の神話だった。

「お前が望むのなら、お前はただの人間だ。例えお前が神の血を引いていたとしても、お前がそう望んでくれる限り、お前は私の娘だよ」


 イゾルテの瞳から涙が溢れだし、彼女は父の胸に顔をうずめた。

「お……どう、ざま。あ、りが、どう! ありが、とう!」

イゾルテが言葉に詰まるほど泣きじゃくるのは、いつ以来だろうか。彼女の髪を撫でながらルキウスは優しく言った。

「ゲルトルートも、自分から私以外のに抱かれるような女ではなかった。それだけは信じてやってくれ」

「は、い。あ……とう、ござ……す、お……さま」

「陛下や父上でなく、久しぶりにお父様と呼んでもらえて、嬉しかったよ」

彼女が自分の出生に疑問を持つ前の、当たり前の小さな女の子だった時のように、ルキウスはイゾルテの頭を撫でるとその額に口付けをした。



 クライマックスである投票を目前にしながら急遽呼び出しを受けたスキピア子爵は、それでもイゾルテの命ならばと、アントニオに連れられて皇宮の皇帝執務室までやってきた。だが、そこにいたのはイゾルテではなくテオドーラだった。

 今まさにイゾルテが皇太女として指名されようとしている時に、その地位を奪われつつあるテオドーラは必至に政務を執り行っていた。イゾルテの擁立に荷担している身ではあるが、彼とてテオドーラに含むところなど全くない。待たされながらテオドーラの姿を見るうちに、同情とも憐憫ともつかぬ気持ちとともに、罪悪感が沸き上がってきた。


「テオドーラ殿下、スキピア子爵、陛下とイゾルテ殿下がお呼びです」

侍従の呼び出しを受けて、二人は後宮へと案内された。後宮に入るのはスキピア子爵にとって初めての経験である。皇帝に妻のいない現在はそれほど厳しくないとは言え、本来皇族でもない男がおいそれと立ち入れる場所ではない。だが、彼はそこに案内された。元老院だけでなく、皇宮でも事態が大きく動いていることを実感せざるを得なかった。


 久しぶりに見る皇帝の顔色は、悪くなかった。傍らに立つイゾルテは目を赤くしていたが、憑き物が落ちたようなすっきりした顔をしていた。皇帝とともに微笑みを浮かべ、子爵が想像するような深刻な話題を前にしているとは思えなかった。子爵は、自分が何か重大な勘違いをしているのではないかと不安になった。


「姉上、突然で申し訳ありません。姉上には、スキピア子爵と結婚して頂きたいのです」


 子爵はその言葉に呆然とした。数秒の硬直の後、彼は場所もわきまえずに叫びそうになった。

「何故です? 私はあなたを愛しているというのに!」

だが、彼の叫びを止めたのはテオドーラの静かな声だった。

「わかったわ。それがあなたの望みなら」

 子爵は思わずテオドーラの顔を見つめた。彼女もまた何かから開放されたかのように晴れ晴れとして、それでいて少し寂しげな、そんな顔をしていた。テオドーラが縁談を断り続けているという皇帝の愚痴は、姉のリーヴィアを経由して子爵の耳にも入っていた。だが今、テオドーラはあっさりと結婚を承諾した。テオドーラが自分に気があったのだと思えるほど、子爵はおめでたくはない。彼女が承諾したのは、彼女の言うとおり、イゾルテがそれを望んだからだ。


「子爵、あなたはどうか」


 彼は追い詰められていた。テオドーラはイゾルテに全幅の信頼を示し、彼女に言われるままに結婚を承諾した。では、イゾルテに忠誠を誓った自分はどうすべきなのか? 張り裂けそうな心を押し殺し、彼は声を絞り出していた。

「……謹んでお受けいたします」


 だがイゾルテは、彼に対しては更に容赦がなかった。

「子爵には更に3つ頼みがある」

「……何でしょう」

「陛下の養子になってほしい。今すぐにだ」


 ただでさえ皇族が少なくて困っているのだから、テオドーラがスキピア家に嫁ぐのではなく、彼が婿に入るのは当然とも言える。だが、なぜ結婚前に養子に入れと言うのか解せなかった。

「何故です?」

「皇太子になってほしいからだ。これが2つ目の頼みだ」

それは彼には悪い冗談にしか聞こえなかった。

「何を言っているのです!? 今まさに元老院ではあなたが指名されようとしているのですよ!」

「案ずるな、私がひっくり返す」

「手遅れです!」

「大丈夫だ。私は帝位継承権を放棄する」

「なっ!?」

彼女が放棄してしまえば、テオドーラとミランダしか残らないのだ。テオドーラに万が一のことがあれば、体の弱いミランダだけだは皇統が途絶えかねない。

「もっと早くそうすべきだったのだ。だがようやく踏ん切りがついた。継承権などなくても、私は父上の娘で、プレセンティナの皇女なのだ。それがようやく分かったんだ」

晴れ晴れとした顔をしたイゾルテは、一瞬ルキウスと視線を交わすと頷きあった。その顔を見て子爵は何も言えなくなった。もう彼女は決めてしまったのだ。それを翻させることは、彼には不可能だと悟っていた。


「そして3つ目は何より大切だ」

「……何でしょう」

何もかも諦めたように力なく答えた子爵に対して、イゾルテは真摯な目を向けていた。

「姉上を幸せにして差し上げて欲しい。いや、違うな」

イゾルテは姿勢を正すと、子爵に向かって深々と頭を下げた。

「義兄上、姉上を幸せにして差し上げて下さい」

それは図らずも、かつて彼がグナエウスに言った言葉と一言一句違わなかった。



 子爵の了承の言葉を聞くと、イゾルテは即座に部屋を飛び出して行った。本来は彼も彼女に付いて元老院に向かうべきだったが、ただ立っていることすら覚束ない今の彼には、元老院で演説をぶつことなどとても出来そうになかった。忠誠を誓い皇帝に擁立しようとした人に、逆に皇帝に擁立されたのだ。想いを寄せる人に、その姉と結婚しろと言われ、頭を下げられたのだ。婚約者となったテオドーラとともに、義父となった皇帝の寝室からふらつくように廊下に出ると、妻となるべき人にこう問われた。


「あなたはイゾルテを愛しているのね」


 女に疎い彼でも、嘘をつくべきだと分かった。彼のためにも、テオドーラのためにも、そして何よりイゾルテのためにも。だがその気持を否定する事は、全てを飲み込んだ自分自身をも否定するように思えた。彼はテオドーラを見つめ、黙ったまま静かに頷いた。だがテオドーラは責めなかった。それどころか彼女はにっこりと笑ってこう言った。


「良かったわ、私もそうだから」


彼女の瞳からたった一滴ひとしずく、涙がこぼれた。



 イゾルテが議場に到着した時、演壇にはムルクスが立っていた。既に投開票が終わり、議案の提起者として感謝の言葉を述べていたのだ。

「議員諸君! 私は今、諸君と同じ喜びの中にいる。聡明なるイゾルテ殿下が帝位を継がれることが決まった今、我がプレセンティナ帝国の繁栄もまた約束されたからだ。

 だが同時に、私は深い悲しみの中にいる。私は既に年老い、これから始まる黄金の時代を、最初の何分の1かだけしか見届けられないからだ。

 この1年あまりに殿下がなされた功績は、あまりにも大きい。ドルクを2度も叩きのめし、犬猿の仲であったローダスとの友好関係を確立され、メダストラ海の中央に我らの港を勝ち取られた。メダストラ海の平和と、ペルセポリスの安全を確立されたのだ。未だ年若い殿下が、その生涯で成し遂げられる偉業は果たして如何許いかばかりであろうか。

 幼き子をもつ方々にお願いしたい。彼らに、今始まりつつある黄金時代を見届けて貰いたい。そしていつの日か、冥界で待つ私に事の次第を伝えて欲しい。

 最後に、帝国と皇室への忠誠を示された議員諸君に感謝したい。ありがとう!」


 満場の拍手に送られてムルクスが演壇を降りると、舞台袖にイゾルテが待っていた。彼女は妙に清々しい顔をして、ムルクスを見つめていた。

「ムルクス、やってくれたな」

「……殿下、恨んでおられましょうな」

「いや、苦々しく思うだけだ。お前がこんな陰謀を企めるとは知らなかった」

ムルクスは自嘲した。

「私も長いこと忘れておりました。自分が正しいと確信していれば、こんな事でも楽しめるものですよ」

イゾルテは皮肉げに笑った。

「それは頼もしい。次代の皇帝のためにも働いてくれるのかな?」

「勿論、陛下のためにいかようにも働きましょう」

「そうか、ではその陛下に代わって礼を言おう」

「……何ですと?」

笑顔のまま訝しむムルクスを置き去りにして、イゾルテは演壇に駆け上がった。


「議員諸君!

 諸君の帝国に対する忠誠と私への信頼を誇りに思う。

 ありがとう。


 だが、諸君は勘違いをしている。

 第33代皇帝となるべきは、私でも、姉上でもない。

 それは私の義兄だ。

 それは、我が姉テオドーラの婚約者であり、我が父ルキウス陛下の養子となった人物だ!」


 突然の登場に突然の演説、そして誰とも知れぬ皇帝の養子への言及。議員達は皆困惑していた。


「かつて、我らの遠き祖であるヘメテルの五賢帝は、自らの血筋に拘らず、養子を以って後継者となした。

 我が父第32代皇帝ルキウス陛下の代理として、議員諸君に求める!

 我が義兄コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアを皇太子として承認されたい!」


 思わぬ名前に議員たちがざわめいた。確かにスキピア子爵は確かに先の戦いで名を上げていたから、テオドーラの夫になってもおかしくはなかった。だが皇帝の夫になることは想像できても、彼自身が皇帝に推されるとは夢にも思っていなかったのだ。そしてその最大のライバルであり、今正に次代の皇帝の地位を手に入れつつあったイゾルテが、彼を擁立しようとしているのだ。


「諸君が私を選んでくれた礼として、範を示そう」

イゾルテは腰のサーベルを抜き放つと、峰を持って切っ先を自らの左胸に突きつけた。それは忠誠を誓う儀式である。


「私は、我が義兄コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアに忠誠を誓う!」


 相手にその刀を押す――つまり心臓を突き刺す――権利を捧げるというゼスチャーであり、臣下となってその人物に自らの生殺与奪を捧げるということだ。そして皇帝以外の特定個人に忠誠を誓っている人物が、皇帝になることは許されない。つまり皇族がそれを行うということは、皇位継承権を放棄するという証になる。その瞬間、元老院総会の決議も、ムルクスの努力も、全ては水泡に帰した。


 静まり返る議場で、イゾルテは最前列に居たアエミリウス議員に目を合わせて繰り返した。

「私は、コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアに忠誠を誓う!」


3度繰り返した時、アエミリウスが立ち上がって声を合わせた。

「「私は、コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアに忠誠を誓う!」」


4度目には、声を合わせる者は10人を越えた。

「「「私は、コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアに忠誠を誓う!」」」


5度目には、100人を越えた。

「「「「私は、コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアに忠誠を誓う!」」」」


6度目には、1000人を越えた。

「「「「「私は、コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアに忠誠を誓う!」」」」」


7度目には、ムルクスを除く全ての議員達が叫んでいた。

「「「「「「私は、コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアに忠誠を誓う!」」」」」」


イゾルテは叫んだ。

「我が義兄、コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアが皇太子となることに、異議はありや!?」

「「「「「「異議なし!」」」」」」



 熱狂と歓声に、議場が揺れているようだった。ムルクスはその揺れに抗えず、崩れるようにしてその場にしゃがみこんだ。全ては上手く行っているはずだった。元老院総会の決議まで勝ち取り、もはや皇帝ですら反対できないはずだった。だがその総会決議を、同じく総会決議でもってひっくり返されてしまったのだ。

 打ちひしがれた彼の前に、白く小さな手が差し出された。

「お前が望むのなら、お前だけは私に忠誠を誓ってくれ」

「……よろしいのですか? 私は殿下に逆らい、勝手に殿下を擁立しました。そのせいで殿下は皇位継承権まで失うはめに……」

「父上は、私に誰の血が流れていようとも自分の娘だと言って下さった。そのよすがさえあれば、皇位継承権など無用のものだ」

彼は弾かれたようにイゾルテを見上げた。

「爺は、冥界では私と会えぬと思っていたのであろう? 爺は最悪の裏切り者だが、唯一の理解者でもある。私が半神デミゴッドではないかと疑ったのは、私とお前だけだよ」

「ご存知だったのですか……?」

「知らんよ。私が何者なのか、さっぱり分からん。爺が疑っていることは、さっきの演説で気付いた。

 だがな、爺。私はあくまで人間だ。仮に矢が刺さっても死なない体であったとしても、死すべき時が来れば神に死を願い、人として死ぬだろう。

 私が生涯で何を為したのかは、冥界で私自身が話してやろう」

「殿下……。私はあなたに忠誠を誓います」

彼はイゾルテの手を取ると、その甲に口づけをした。

「お前の忠誠を嬉しく思うぞ」

イゾルテはそのまま手を握って彼を立ち上がらせると、ニヤリと笑って付け加えた。

「ところで、罰当番は便所掃除だ。暁の姉妹号には便所も2つあることを忘れるなよ」



 この日皇帝ルキウスの名で、コルネリオ・パウルス・スキピアがテオドーラ皇女と婚約し、更にルキウスの養子となって、コルネリオ・パウルス・カエサル・スキピアとなったことが発表された。同時に元老院決議として、スキピア大公が皇太子となったことも公布された。スキピア大公コルネリオと、彼を擁立したイゾルテ皇女の二頭体制時代が始まろうとしていた。


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注1 ローマの5賢帝の5人目、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、哲人皇帝と呼ばれる割に実の息子に帝位を譲ってます。そしてそれが暴君に……。

映画『グラディエーター』のモデルになったあの人ですね。

なのでヘメタルの5賢帝の5人目は、養子を取ったことにしておきます。(でも結局名君じゃなかったから6賢帝にならなかった訳ですが)


注2 双子座に関する神話は諸説あるようですが、兄の方は完全に人間という説をモデルにしました。レイプしたゼウスが一番悪いのですが、その後にちゃっかり旦那ともエッチして偽装工作したのだとしたら、レダさんもなかなかに強かな気がします。


第3章「太子擁立」完結です。

イゾルテが「皇太女」に擁立される話ではなくて、イゾルテが「皇太子」を擁立する……という話なので、こういう章タイトルにしました。

仮にイゾルテが擁立される話だとすると……「太女擁立」?

うーーん、「太女」って書くと、体脂肪率高めの女性みたいですよね(オブラート)

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