ドルクの海賊

 3つの大陸に囲まれたメダストラ海は穏やかな海だ。外海からの大海流は妨げられ、潮の満ち引きも小さく、そして気候も一年を通して温暖である。しかしそれは表面上のことだ。海上交易が盛んなこの海では多くの船が行き交い、大きな富を生み出している。だからこそこの海には、その平穏を破ろうとする者達が少なからずいた。



「2時の方向、帆船ひとぉ~つ!」

 マスト上の見張り員の叫びを聞きつけ、ムスタファは船べりに身を乗り出して自慢の望遠鏡を目に当てた。目に映ったのは1本のマストだった。彼の位置からはまだ船体が見えなかったが、そのマストと帆の形から船種だけは分かった。彼の同業者の間で「亀」と呼ばれている鈍足の帆船だ。船足よりも積載量を優先した専らの輸送船で、少ない人員で安定した航海が出来るため交易商人には人気がある。だが、海戦には向かない。マスト上の国旗はまだ判然としなかったが、彼の祖国ドルク帝国の黄色い旗でないことだけは確かだった。


 ムスタファはドルク帝国沿岸を根城にする海賊だ。正確には、海賊で「あった」というべきか。伝統的に内陸国であるドルク帝国は近年海軍力の増強を急いでおり、海賊の罪を赦免して地位を与えることで、その戦力を取り込むことが試みられていた。彼もその一環として准提督という地位を与えられた一人だ。もっとも立派なのは名前だけで、通常の命令系統にも属していないので何の権限もない。普段は今までどおり勝手にやっていればいいのだ。変わったのはドルクの官憲や軍に追われなくなったことと、その代わりにドルク船を獲物にできなくなったことだけだ。そのため彼はドルク沿岸を離れ、敵対するタイトン諸国の勢力下まで出稼ぎに来ているのだ。実質的には私掠船と考えればいいだろう。

 彼も最初は根城を離れることが不安だったが、今では出稼ぎも悪くないと考えるようになっていた。この海域ではタイトン諸国の船は油断しやすいようなのだ。亀が一隻でのろのろと航海しているのも、タイトンの港の間を往復する船だからこその油断だろう。積み荷だけでなく、乗客――つまりは人質も期待できそうだった。


――わざわざ出張ってきたかいがあったぜ

 風向きは9時方向、亀は11時方向に船首を向けていた。三角帆を使って風上にむけて斜めに前進している格好だ。ムスタファの乗る船はあちらからは9時の方向にあたる位置だった。彼は大声を上げた。

「おもかぁーじ! 帆をたため! 船足を上げて風下に回り込むぞ!」

「「「へいっ、お頭!」」」

「馬鹿野郎! 船長って言えっつってんだろ!」

 船員たちが慌てて帆を下ろし始めると、足元から太鼓の音が聞こえてきた。彼らの乗る船は多数のかいを備えたガレー船(注1)と呼ばれる船だ。普段は帆を張って風の力で進むが、いくさとなれば櫂を使うのだ。左右両舷から突き出た無数の櫂が太鼓に合わせて一斉に動き出した。


 ガレー船が帆船より有利な点は、旋回能力と風向きに影響されない船足である。特に逆風の場合は圧倒的な速度差が生まれる。だから先に風下を抑えてしまえば、帆船は逃げ切ることが難しくなるのだ。もっとも相手が鈍重な亀となれば、余程の荒天でなければ風向きに関係無く追いつけるだろうけど。現在の風速は7~8m/sほどで、獲物の船足はまさしく亀のようだった。だから彼のガレー船は、ぐるりと後ろに回り込んだにも関わらず四半時ほどで5kmまで近づくことが出来た。しかも亀に進路を変える様子はない。まだ気付かれていないのだ。万事順調だった。


――ここまで近づいても発見されないとは、よほど油断しているようだな。

彼はほくそ笑みながら望遠鏡で獲物を観察した。彼の知る亀の船影に比べると、どうやらその獲物は喫水が深いようだ。つまり、積み荷の重さに深く沈み込んでいるのだ。

――これは相当積み荷を抱え込んでるな……!

ムスタファはもはや勝ったつもりで、拿捕した先のことを考えていた。お宝への期待に彼の胸が膨らむ。ついでに鼻の穴も。

 しかし、彼の視線はマストの天辺で止まった。燦然と翻るのは白地に赤い獅子の紋章、海洋国家プレセンティナ帝国の国旗である。

――プレセンティナだと? 強欲なバネィティア商人あたりだと思ったが……

 プレセンティナ帝国はドルクと反目するタイトン人勢力の東端にあって、ドルクの侵攻を3世紀以上に渡って跳ね返し続けている宿敵だった。商業国家であるプレセンティナには当然ながら商船もたくさんあるのだが、ドルクからの攻撃に晒され続けているため恐ろしく戦い慣れているはずなのだ。


――プレセンティナの亀が、護衛船も連れず、船団も組まず、後ろに忍び寄られても気づかない……?

ムスタファの脳裏を嫌な予感が掠め、彼は水平線をぐるりと見回した。他に船影はない。だが不安は拭いきれず、彼はマストに向かって叫んだ。

「見張り員! 全周警戒だ! 亀以外に船が居ないか探せ!」

「よーそろー!」

彼は自分でも望遠鏡を使って見直したが、やはり船影は見つからなかった。

――取り越し苦労か……? 慣れない海域で、俺も不安になってんのか……?

 一周り確認してようやく安心できたところで、マストから声が降ってきた。

「船長! 亀の向こうに何か見えます!」

ムスタファは慌てて望遠鏡を船首方向――亀の周辺に向けたが何も見えなかった。

「見えねーぞ! 見間違いじゃねぇのか?」

「確かに見えます! 亀と重なって……マストが見える!」

言われてみると、確かに亀のマストが4つに増えていた。というか、よく見れば背の高い3つのマストは亀のものではなかった、亀の向こうに別の船がいるのだ

――、だと……?


亀の向こうにいる船の方が高いマストを持っているということは、亀以上の大型船ということだ。しかも亀の向かう先に居たということは、亀は助けを求めて逃げていたのかもしれない。そしてこちらから相手のマストが見えるということは……あちらの見張り員からは、こっちの船が丸見えということではないか!

――まずい、罠だったか!?

「とりかぁ~じ、11時! 見張り員! 位置を変えるから、亀の向こうの船に注意していろ!」

「よーそろー!」


 ガレー船が進路を変えると、その大型帆船は一斉に帆を張った。ムスタファたちが気付いたことに気付き、逃がさないように加速を開始したのだ。風下にいるのはムスタファの方だ。大型帆船にとっては順風だから、出来るだけ多くの帆を張った方が加速できるのは道理である。しかも大型帆船が張った帆は大小合わせて20枚以上で、通常の船に比べて驚くほどの面積の帆を広げていた。つまり……亀どころかムスタファの知るどんな帆船よりも速いのだ!

「いかん、突っ込んできやがるっ!」

 追われる立場になってみると、帆船に風上を抑えられているのはマズかった。まして、亀とは比べ物にならない面積の帆を持つ船だ。風はさして強くないかったが、ムスタファには順風の船足で勝てる自信がなかった。横風を受ける形でも限りなく怪しいだろう。それならの中を逃げるしかない。つまり、このまま大型帆船の脇をかすめてその風上へと逃げこむのだ。

――万一ヤツが邪魔してきたら、土手っ腹にぶつけてやればいい。こっちは衝角付きのガレー船なんだからな!

仮にスピードで負けたとしても、旋回性でのガレー船の優位は圧倒的だ。あるいは敵が不利を悟ってそのまま去っていく可能性もある。だがどんどん近づいてくる大型帆船は、ムスタファが想像したよりも遥かに大きかった。マストが高いことは分かっていたが、乾舷かんげん(水面から船べりの高さ)も非常に高く、その船べりは鉄壁の城壁であるかのように見えた。

――でかいっ!

 もしガレー船が衝角を突き入れたとしても、この船べりをよじ登るのはとても大変そうだ。彼らに勝機があるとしたら、機動性を活かして衝角による船体破壊を繰り返すことだけだ。彼らのガレー船が名実共に軍船だったら喫水下に穴を開けて沈没を狙えるのだが、残念ながら海賊船だった。相手を沈めてしまっては意味が無いので、衝角は喫水より随分と上に向けられていたのだ。どちらかというと、相手の動きを止めて戦闘員が乗り移るために使われるのだ。……普段なら。まさか衝角の先よりも乾舷かんげんがずっと高い船がいるなどと、ムスタファは考えたこともなかった。

「取りかぁーじ! ヤツの左をすり抜けろ!」

「よーそろっ!」

「矢が来るぞ! 身を隠せ!」

大型帆船とすれ違う時にドスドスと矢を射掛けられたが、いち早く身を隠させたおかげで悲鳴は上がらなかった。振り返えって大型帆船の様子を見ると、その船体は僅かに旋回しつつあり、マストに取り付いた大勢の水夫たちが忙しく作業をしていた。風向きに合わせて帆の向きを変えているのだ。

――ちっ、やはり逃げてはくれねぇか。亀は惜しいが、ここはとんずらさせてもらうぜ。

ムスタファの決断は早かった。なぜなら彼は最近まで……指名手配犯だったから。ついでに逃げ足の速さにも自信があった。

「このまま風上に向かえ! 逆風ならこっちの方が速い!」

だが、その命令は実行されなかった。ガレー船は突如として右に旋回を始めたのだ。慌てたムスタファは甲板の床扉に頭を突っ込み、ぎ手を指揮していた奴隷頭を怒鳴りつけた。

「おい、何やってやがる! 直進だ直進っ! 逃げるんだよ!!」

「櫂です! 右舷の櫂が引っかかって思うように動かせません!」

「何っ!?」

彼は慌てて右舷に走り寄ると船べりを覗きこんだ。そこでは右舷から突き出した多数の櫂が……絡まっていた。

「これは……網? 漁網か!」

 それは実際には漁で使えるほど目の細かいものではなかったのだが、櫂を絡めとるにはその方が都合が良いのだろう。櫂はぶつからないように太鼓に合わせて一斉に動かすのだが、上下3段に並んだ櫂は水面からの距離が違うためそれぞれの段で異なる軌道をとる。それが一緒に絡まることで思うように動かせなくなっていたのだ。漕ぎ手たちも何とかしようとは思っているようで、櫂はジタバタと藻掻くように蠢いていた。

「やられた! これじゃ逃げられねぇし、衝角も封じられちまった!」

もはや白兵戦しか出来ないのだが、それも望み薄である。


 実のところガレー船というのは、白兵戦が苦手なのだ。戦闘に使える人数が少ないのだ。舵取りやコックまで根こそぎ連れてきても、戦えるのは80人あまりしかいない。何故なら……乗員のほとんどが奴隷の漕ぎ手だからだ。彼らの枷を外せば数だけは3倍になるのだが、それじゃあ戦力になるどころか反乱を起こされるのがオチだ。

 一方目の前の大型船の方は、操帆作業をしていた水夫だけでも80人くらいいそうである。矢を放ってきた水兵のことも考えれば、最低でもムスタファ達の倍はいるだろう。その上乾舷の高さの違いが決定的だ。接舷されてしまったら見上げんばかりの段差だ。船べりを盾にして上から狙い撃ちにされたら、白兵戦にすらならないかもしれない。


 しかしだからといって安易に降伏も出来ない。捕らえられた海賊ほど惨めなものはないのだ。ドルクでは海賊は車裂きくるまざき(注2)や鋸挽のこぎりびき(注3)など、それはもう酷い殺され方をして、その上死体は見せしめとして梟示きょうじされるのが普通だった。だからこそムスタファは赦免に飛びついたのだが、そのせいでタイトンに、しかもドルクの宿敵であるプレセンティナに追い詰められている現状は、まさしく皮肉としか言い様がなかった。

――それくらいなら戦って死んだほうがマシだ!

ムスタファは悲壮な覚悟で――あるいはやけっぱちになって――白兵戦を決意していた。


 その時、旋回を終えて接近しつつあった大型帆船から声が聞こえた。


「こちらはプレセンティナ帝国海軍所属、ゲルトルート号である。ドルク船に告げる。直ちに武装を解除し降伏せよ」


 それは目を見張る大声だった。距離があるので少しくぐもり、間延びして聞こえたものの、まだ500mほども離れているのにはっきりと聞き取れたのだ。


「降伏すれば寛大な処置をとることを約束しよう」


近づいてくるその声は次第に澄み、はっきりとしてきた。未だにくぐもって聞こえたが、その大音声だいおんじょうから想像されるような大男の胴間声どうまごえでないことは明らかだ。というか、どちらかと言うと子供のようだった。


「武器を捨てて、国旗を降ろせ」


 いつの間にか大型帆船――ゲルトルート号――の船べりには、弓や弩を構えた水兵がずらりと並んでいた。声の主が命ずれば命令一下、甲板上の海賊達は一瞬で皆殺しになるだろう。その光景が脳裏を過ったのはムスタファだけではなく、彼の指示を待たないままに若い海賊の1人が武器を投げ捨てた。

「お、俺は死にたくねぇ!」

カランと甲板に落ちた剣の音に、他の海賊たちも続々と武器を手放した。

 実のところ、彼らは降伏勧告を理解していなかった。だってドルク語じゃなくてタイトン語で言われたから。でも怖気づいた最初の1人が武器を捨てた時、他の者達は彼がタイトン語を話せるのだと勘違いしちゃったのだ。そして「えっ? 降伏したら助かるの? マジでっ!?」と飛びついちゃったのである。……まあ、間違いではないのだけれど。

 1人だけタイトン語を話せたムスタファは型通りの降伏勧告にそれほど期待していなかったが、既に部下たちは降伏する気マンマンである。

――ダメだ、皆飲まれちまってる。降伏すれば下っ端くらいは助かるかもしれないしな……

頭目であるムスタファ自身は助かる見込みもないが、だからといって部下を叱咤しても無意味だろう。下手をすると敵ではなく部下に殺されかねない。彼は深い溜息を付くと、声を張り上げた。

「武器を下ろせ! 国旗も降ろせ! 降伏するぞ!」

そして彼自身も腰のカトラスを甲板に突き立てると、どかりとその場に座り込んだ。そこに舷側に寄せてきたゲルトルート号から、再び声が掛かった。


「よし、降伏を認めよう!」


そして突然ムスタファの目の前にロープが垂れ下がった。驚いて目を上げるとゲルトルート号の帆桁の端から人影が飛び降りるところだった。

「わわわっ」

ムスタファは慌てて飛び退いたが、その人影は20mあまりの高さを意外にゆっくりと降りてきて、とんっという軽い音と共に甲板に降り立った。


 その人物は子供のように小柄で……異様な格好をしていた。白いタイツと袖の短いチュニックは少々子供っぽかったが、まあ、いいだろう。異様なのはチュニックの上に無理やり重ね着した黒いベスト{防刃ベスト}と、明るい紫の丸い兜{ジェット型のヘルメット}、そして大きな鏡でできた目庇まびさし{ミラータイプのシールド}、さらにめくれ上がったチュニックの下には腰から股間に回された何本ものベルト{懸垂降下用のハーネス}が見えた。異装である。出会ったのが町中だったとしても、できれば目を合わせないで通り過ぎたい人物だった。

 その人物はベルト{懸垂降下用のハーネス}に繋がった金具{懸垂降下用の下降器}からロープを外すと、首に下げた白いラッパ{拡声器}を手に取った。


「諸君には寛大な処置を約束する!」


 その小さな体からは想像できないような耳をつんざく大声は、先ほどから降伏を呼びかけていた声だった。ここまで近ければ間延びもしない。その声は紛うことなく少女のものだった。


「この私、イゾルテ・ペトルス・カエサル・パレオロゴスの名においてな!」


それは後に太陽の姫とも処女帝とも称された、プレセンティナ帝国の皇女の名であった。



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注1 ガレー船は主として人力で櫂を漕いで進む船です。

大きいのになると櫂と漕手を上下三段に並べた三段櫂船トリレームなんてものがありました。

漕手が大勢必要なのでその分運航コストもかかれば船倉も狭くなり、物資輸送には向きません。が、風向きに関係なく動き回れるので、主に戦闘用艦艇として使われました。

基本的には衝角(船首についたつの)で敵船に穴を開けるか、兵士が敵船に乗り移って白兵戦をするのが基本戦術でした。つまり近接戦闘です。

でも大砲が登場すると、近づく前にやられちゃうようになったので、より多くの大砲を積める(=船倉に空きがある)帆船が主力になりました。

ちなみに漕手はムチャクチャ重労働なので、多くの場合奴隷や囚人が使われました。もちろん消耗品扱いです。

往年の映画『ベン・ハー』でも、主人公が船漕ぎ奴隷になって死にかけます。

人生のどん底を表すのにとっても相応しい職業(?)だったのです。


注2 西洋の車裂きくるまざき刑は、罪人の四肢の骨を砕いてから車輪に括りつけて晒し者にする処刑法です。

ちなみに中国で「車裂き」と言うと八つ裂き刑の一種です。紛らわしいですね。


注3 西洋の鋸挽のこぎりびき刑は、罪人を頭から(あるいは股間から)縦にのこぎりで切断する処刑法です。

一方日本ではフツーに首を切ります。でも問題はそこじゃないのです。たまたま通りかかった通行人に少しずつ鋸を挽かせることで見せしめ効果を高めたのです。つまりは体験型処刑アトラクション! うわぁ……

信長暗殺(未遂)犯として有名(?)な杉谷善住坊もこの鋸挽にされました。宣教師フロイスの日記にも残ってるそうな。

「暗殺者は暗殺したことによってのみ歴史に名を残す」なんて言いますが、善住坊は暗殺に失敗したくせに酷い殺され方したおかげで名が残ったのです!(たぶん)

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