3-1

 翌日、結局私は交番に男の子を連れていけなかった。

 交番の前までは行ったのだ。だがそのまま通りすぎた。入口に立っていたお巡りさんは、私たちをみても不振に思うふうもなく、おかあさんとお出かけなの、いいね、などと男の子に話しかける。私は、ええちょっとお買い物に、なんて返して通りすぎた。いけない、いけない、と心の中で自分をしかりつつも、どうしても自分の足をとめることができなかった。

 そのまま町をひとめぐりし、公園のブランコで遊んでいると、通りすぎる子供づれのおかあさんたちから、可愛い子ですね、とか、お若いおかあさんね(注:実年齢より若くみえるだけだが)、などと声をかけられ、かけられているうちに、自分でもこの子供がほんとうに自分自身が生んだ子供のように思えてきたのだった。

 そして、決定的だったのは、この子のお名前は、と聞かれたときだった。

 私は反射的に、

「キンタ」

 と答えてしまった。

 そのお母さんは、面食らったような、笑いをこらえているような、妙な顔をして去っていった。

 キンタ。けっしてホワイトアスパラガスから連想したわけではない。金髪だからキンタなのだ。

「キンタ」

 今度は子供の顔をのぞきこみながら、もう一度、その思いつきの名前を口にだしてみる。

 子供は例のあのにっという笑顔をして、真っ白い歯をみせるのだった。

 この瞬間、この子供は、私の子供になった。いや、勝手にしてしまったのだ。もうそこには、自責の念も罪の意識も、霧散してしまって存在していなかった。


 そしてさらに一日たち、二日たち、いけない、このままではいけない、と心のどこかで思いつつも、私の生活のなかに、キンタという存在はなくてはならないものになっていった。

 キンタは感情をおもてにださず、笑いかたがヘンだというだけで、やっていることは他の幼児とさほど変わるところはなかった。好奇心がおうせいで興味をひくものが視界にあれば、無心にそのなにかをさぐりにゆくのだった。

 いまの季節で子供の興味をひくものといえば、セミである。

 セミはたいがいは人の手のとどかないような、木の高いところにとまっていると思うのだが、散歩中に出会ったその気まぐれなセミは、街路樹のしたのほう、キンタの目線と同じ高さにとまっていて、どうぞ私を観察してくださいと主張しているように鳴いている。

 それを目ざとく見つけたキンタは、無表情にじっと見つめる。やがてみているだけでは飽きたらなくなったのか、おっかなびっくりといったていで、ゆっくりと手をのばす。

 私はそれを見つつ、ああそんなことをしたら……、と不安を感じつつも、次におとずれるであろう悲劇をちょっと期待していた。キンタの驚く顔がやっとおがめるかもしれない。

 あんのじょう、キンタの指がセミにふれるかふれないかという瞬間、セミは突然飛びたつ。キンタの顔をかすめるように。さあ、どんな顔をしている、キンタよ。

 やっぱり無表情であった。

 ある日には、いっしょに服を買いにいき、いっしょに服を選んだ。どの服がいいのと聞いても無表情で何も答えないキンタに、棚から適当な服をひっぱりだしては体にあてていく。青色でソデだけが黄色いTシャツをあわせると、キンタがにっと笑う。そう、これがいいのね。あんまり趣味がいいとは思えないけど。

 ある日には、プールに行って泳ぎを教えた。子供用のプールでキンタの手をつかみ、バタ足をさせる。息つぎのタイミングがつかめず、苦しそうに水面から顔をあげるキンタ。ほら、顔をあげっぱなしにして、なんて教えてあげるのだけれど、キンタはかたくなに顔を水につけてはあげ、つけてはあげを繰り返す。なんのこだわりだろう。

 ほかにも、夕飯のときに魚の小骨をとってあげたり、爪を切ってあげたり、耳かきをしてあげたり、寝つくまで子守唄を歌ってあげたり。そんなキンタとの、子供のいる家庭ならばありふれた風景が、私の日常の一部として存在していた。私のキンタに対する行為は、まさしく愛情というものを内包していた。それは母が子供にむける恵愛であった。そして私とキンタの間には、親子の絆がはぐくまれていると実感していた。私はキンタを愛し、キンタは私を慕ってくれていた。

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