奥の部屋

王子

奥の部屋

 島を出て全寮制の高校へ進学しようと決意したのは当然だった。

 全ての私物はダンボール一箱に収まり寮に送られた。制服、教科書や筆記用具、下着と私服。漫画もゲームもぬいぐるみもなかった。それが普通だと思っていた。

 狭いながらも愛着のある部屋。この家で唯一心休まる場所。片付いてしまうと、よそよそしく感じられる。勉強机だけがぽつねんと取り残されていた。

 これで、【奥の部屋】とも離れられる。


 一つ屋根の下、女三人で肩を寄せ合って生きていくのは、あまりにも息苦しかった。母と、祖母と、私。家の中では皆が他人のような顔をしていた。食事の時間以外はそれぞれの自室にこもり、お互いが何をしているのか知れなかった。食事の席でさえ会話は無く、ただただ口に押し込まれていく品々と、終始無表情の三人を、ワット数の低い電球がぼんやりと照らしていた。暗黙の内に干渉無用であったし、興味も無かった。

 中学二年生の夏休み、初めて友達の家でお泊りをした。‪夕方五時‬の門限と外泊禁止のルールを固く守り続けてきたことを母に訴え、「今回だけ」という条件をのみ、ようやく勝ち取った機会だった。思えばこれが一番のわがままだった。胸を躍らせながら、洗面用具と着替えをバッグに詰めた。‬‬‬

 ミナは一人っ子で、優しそうな父親と愛想の良い母親を持っていた。私には父親の記憶が無かったから、まじまじと観察したのを覚えている。一般の家庭には父親と呼ばれる大人の男性がいると知ってはいた。夕食の時間も、動物園で初めてオランウータンを前にしたみたいに父親を眺めていた。話を右から左へ聞き流し、箸すら止まっていた私を見て、ミナは「私のお父さんだからね」と目を吊り上げた。父親は「まいったなぁ」と笑い、母親は席を立って私を後ろから抱き「またいつでもおいで」と囁いた。私の家庭事情を知っていたのだろう。

 たったの一泊二日が、忘れられない経験になった。暖色系の照明の下、皆で顔を突き合わせて温かい料理を口に運び、微笑んだまま子供の話に相槌を打つ大人がいて。各々食器を流しに置いてトランプをすれば、真剣な表情でカードを睨み、誰かが「上がり!」と声を上げれば突然わっと湧くように全員が笑う。あれが普通の家族のようなのだと思った。

 うちにも父親がいたら、母が結婚と離婚を繰り返していなかったら、私も毎日あんな風に笑えていたのだろうか。

 翌日、自宅の玄関を開けると母の怒号が聞こえた。台所に駆けつけると、祖母が手にしている茶碗に土が盛られていた。この日から母は介護に追われることになった。

 祖母はたまに、うわ言のように呟く。静まり返った食卓で、あるいは廊下ですれ違いざまに。話すことは様々で、支離滅裂なことも多かった。「水が来るよ」とか「あの子のためだったんだ」とか「かわいそう、ごめんなさい」とか。その度に母は「やめて」とたしなめた。祖母の呟きには「水」がよく出てきた。始めのうちは、喉が渇いているのかとコップに水を汲んで差し出したり、トイレに行きたいのかと思って「早く行ってきなよ」と声を掛けたりしたものだが、首を横に振るばかりだった。そして「水が来る、水が来る」と低く唸りながら自室へと引っ込む。最近では、私も母も放っておくようになった。孫にも実の娘にも無視される祖母。それでも、かわいそうだとは思えなかった。祖母に可愛がられた覚えが無かった。

 祖母の呟きは形を変えて繰り返されていたが、その中で一度だけ、母が激昂げきこうしたのをよく覚えている。何かの儀式みたいに、いつもどおり黙々と夕飯を食べていた。祖母がふいに「リョウ、ごめんね」と言った。母が動きを止める。「何?」と地をうような声。祖母は涙声になり「ごめんね、ごめんね」とうつむく。涙をそのままに、また「リョウ、ごめんね」とはっきり口にしたとき。

「お母さん、やめて!」

 母が立ち上がった勢いでテーブルが激しく揺さぶられ、味噌汁がこぼれた。

 あまり叱られたことがなかったから、母の大きな声を聞いたのは、祖母が茶碗に土を盛ったとき以来だったと思う。そのときよりも激しく、明確な敵意がにじんだ声だった。祖母は碗から広がる茶色い液体をじっと見て、おもむろに母の顔へと視線を移し、何事もなかったように米を咀嚼そしゃくし始めた。母はこぼした味噌汁をざっと布巾で拭き取ると、まだ半分以上は残っていた白米を三角コーナーへ乱暴に放り込み、部屋を出ていった。祖母がたくあんを砕く音だけが響いていた。

 リョウ。

 なぜか懐かしい言葉に思われた。人の名前だろうと見当を付けたものの、この日以降祖母の口からその名が呼ばれることは無かった。祖母が泣きながら謝った人、リョウ。どこかで会ったことがあるだろうか。付き合いのある親戚も無く、思い当たる人はいなかった。

奥の部屋が意識されるようになったのは、その日の夜からだった。ここは物置部屋になっていて、普段は誰も立ち入る用が無く忘れ去られていた。窓は厚手のカーテンで覆われていて、何年も開け放たれてはいなかった。掃除もされず、無造作に放られた不用品達にほこりが積もっている。使われなくなって久しい化粧台や、二間の和室の間仕切りだったふすま、捨てるタイミングを失った衣類が死んだように積み重なり転がっていた。

 要らなくなったものを運び入れるときだけ開かれる扉、邪魔になったものを視界からどけるためのスペース。ただそれだけだった。それだけのはずだった。その日までは。

 壁一枚隔てて隣り合っているのが私の部屋だった。誰も足を踏み入れない部屋の隣、でもゴキブリを見たことも無ければ、ネズミの足音を聞いたことも無かった。

 寝る前、図書館で借りてきた本を読んでいるときだった。

 ギュッ。ギュッ。

 音。自室ではない。でも、さほど遠くにも感じられなかった。家鳴りはよくあった。ミシッ、パキッ、といった音だ。でもこの音は違っていた。まるで、忍び足で床板を踏むような。

 気のせいだろうと本に意識を戻した。読んでいたのは短編ホラー小説集だった。


 ある日、少年は釣りをしようと川におもむく。大人から、流れが早く鉄砲水も起きるから近付いてはいけないと言われている川だった。そんなのは嘘だ、と少年は考えていた。大きな魚がたくさん泳いでいて、大人達だけでひっそり釣るために、子供を近寄らせないのだと。早朝。少年は川に糸を垂らす。川面に魚影が揺れる。穏やかな流れは朝日を受けて光り輝く。初夏の風も、この時間はまだ涼しい。

 ぽたり、ぽたり。

 少年の頬に水滴が落ちる。空を見上げる。快晴だ。雨粒を落としそうな雲は見当たらない。魚が跳ねたわけでもなさそうだ。

 ぽたり、ぽたり。

 どこからともなく頬に落ちる水の粒。少年は辺りに視線を走らせる。何も無い。誰もいない。ゆっくりと間隔を空けて、でも確実に落ちてきて顔を濡らす。水。水。水。

 ぽたり、ぽたり。

 気味が悪い。少年は何もかからなかった釣り針を引き上げる。さっきまでは何も感じなかったのに、誰かに見られているような気がして、ぶるりと体を震わせる。爽やかな早朝の空気が、急に湿り気を帯びて重くなったように感じられた。日陰でもないのに、冷気が足元に忍び寄る。

 ぽたり、ぽたり。

 ここにいてはいけない。頭が危険信号を告げている。下腹のあたりがきゅうっとなる。少年は、絶えず頬を滑り落ちていく水に構わず、河原を駆け出す。大人の言うとおりにしていればよかった。来なければよかった。急に心細くなる。近くには誰もいないし、普段からめったに車もとおらない。

 ごろごろと小石が敷き詰められ足場は悪い。全力で走って逃げたいのにもどかしい。

 逃げる? 何から? 分からない。ただ、全身がその場から離れろと叫んでいる。

 あっ、と思った瞬間、もう遅かった。受け身をとる間もなく、顔から全身までしたたかに打ち付けた。石だらけの河原に転がる少年。痛みにうめく。息ができない。起き上がれない。でも、早く、早くここから逃げなければ。少年は頭の片隅で冷静に考える。足がもつれたのではない。石につまずいたのでもない。持ち上げたはずの右足が、地面から離れなかった。いや、さっきの感覚は、まさに。

 少年は苦痛にもだえながら、息も絶え絶えにやっとのことで仰向けになる。目を閉じて、呼吸を整え、転んだときの感覚を反芻はんすうする。転んだのではない。転ばされたのだ。間違いない。まだ、右の足首に掴まれた感触が残っている。

 ふと、顔に影が落ちる。閉じたまぶたの向こう、日光をさえぎるものは無いはずなのに、何かが影を落としている。

 ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 水が、さきほどよりも短い間隔で頬を打つ。ついに来たのだ、と少年は思う。目を開ければ見てしまうだろう。自分の顔を覗き込む、何者かの姿を。少年は体を強張こわばらせ、固く目をつむる。微動だにせず、それが立ち去るのを待つ。

 やがて、すっと日の明るさが戻ってきて、じりじりと顔を焼く。痛みは残っているが、体は心なしか軽くなった気がする。目を開けると一点の曇りもない青空が広がっている。少年は立ち上がり、釣り竿やら網やらかごやらを引っ掴んで駆け出した。去り際に川辺を見やると、赤い布らしきものが落ちていた。来たときには見かけなかった。

 一部始終を親に話して聞かせると、両親は顔を見合わせて「あの歌だ」と言う。その村だけで歌い継がれていた童歌わらべうた。不可解な歌詞だった。気味悪がった村人達はいつしか、理由を付けてあの川は危険であるとだけ伝え、歌い継ぐことを避けるようになった。


 晴れた川辺に雨が降る

 ぽつりぽつりと雨が降る

 赤いおべべの男の子から

 おいでおいでと手を出せば

 水が来るよ 水が来るよ


 両親から話を聞いた村人達が川を見に行ったとき、もう赤い布は無かった。この童歌は再び歌い継がれるようになったという。

 この話はここで終わっている。私の想像に過ぎないが、大昔に男の子が亡くなった川なのだろう。赤い服を着た男の子は、川に近付いた人に干渉する。理由は分からない。寂しかったのか、いたずらなのか。あるいは、歌い継ぐことをやめたからかもしれない。わからないからこそ、ホラーは怖いのだ。

 それよりも、この歌詞。


 水が来るよ 水が来るよ


 寒気が走る。祖母の言葉にも、何か意味が。

 布団をかぶった。寝入るまでに、何の物音もしないように祈りながら。

 夢を見た。

 煌々こうこうと道を照らす電球。屋台が立ち並んでいる。夏祭りのようだ。三歳か四歳くらいだろうか、幼い私が祖母に手を引かれている。祖母と祭に出掛けた記憶は無かった。覚えていないだけかもしれないが。

 もう一人、祖母の手を握っている子がいる。男の子だ。私よりも小さい子供。足取りはたどたどしく、歩けるようになって間もないのかもしれない。知らない子供だった。私に弟は無く、従兄弟もいない。派手な浴衣を着ていた。深紅の布に溶け込むように、鮮やかな赤の金魚が泳いでいる。

 屋台を巡り、花火を見て、ひととおり楽しんだ私達は家路につく。

 街灯の無い暗い夜道。祭り会場から離れるにつれ、人気ひとけも薄らいでいく。祖母はアスファルトの道を外れ、細かな草が生い茂る中へと入っていく。私は後ろを振り返ったり祖母の顔を見たりを何度か繰り返している。少し歩くと、音が聞こえてくる。川のせせらぎ。夜の川は墨汁が流れているようだった。月は痩せ細り、足元を照らすものも無い。何度か足を取られながら石の上を歩く。

「ここで待ってて。戻ってくるまで動くんじゃないよ」

 祖母が私の手を放した。男の子だけを連れて、川沿いを進んでいく。呆然と立ち尽くしている幼い私。暗闇が恐ろしくて身動きが取れないのかもしれない。

 バシャッ。

 音がした。水を叩く音。

 バシャッ、バシャバシャッ。

 かすかながら途切れることなく耳に届く。闇の向こうで何が起きているのか。祖母は、男の子は、どこにいるのだろう。やがて川の流れる音だけが残り、静寂が訪れる。

「行くよ」

 祖母がぬっと現れ、私の手を取る。濡れている。袖から水がしたたっている。男の子を連れていなかった。どこに行ってたの、男の子はどうしたの、と尋ねる私に答えず、ぐいぐいと引っ張っていく。川の音から遠ざかる。

 祖母の袖から水滴が伝う。私の手を、腕を、わきを、つうっと濡らしていく。いくつもいくつも次から次へと水、水、水が。

 ぽたり、ぽたり。


 水が顔を這う感覚に飛び起きた。全身にじっとりと汗をかいていた。額から大粒の雫が垂れた。

 夢だ。これは夢だ。夢であるはずだ。それなのに、どういうわけか、記憶を強引に掘り起こされたような気がした。あの祭に、あの川に、私は行ったのかもしれない。祖母と一緒に。ただ、あの男の子のことは思い出せない。

 額の汗にひゅうと風が当たった。窓は開いていない。閉めたはずの部屋のドアが開いていた。そして、祖母が立っていた。間口から半身を覗かせ、上体を起こした私に向かって。

「水が来るよ」

 と言った。

 部屋の前をとおり過ぎ、廊下をきしませ歩いて行く。その先には奥の部屋しかなく、行き止まりだ。

 寝起きで足取りが覚束おぼつかない。ふらつきながら部屋を出る。奥の部屋の扉は閉じられていて、廊下に祖母の姿は無かった。扉を開閉する音はしなかったように思う。祖母はこの中にいるのだろうか。

 ドアノブを握る。手の汗でひやりとする。なるべく音を立てないよう、ゆっくり、ゆっくりと回す。普段使われていないドアノブ。ギッ、ギッ、と金属の擦れる音が響く。少しずつ扉を引くと、僅かな隙間からかび臭い空気が漏れ出た。

 鼓動が早まる。まだ中は見えない。開けてもいいのか。見てもいいのか。これ以上は踏み込むなと警告を発する自分と、確かめずにはいられない自分がせめぎ合う。でも、もう止まれない。私は既に、何者かに干渉してしまっている。

 一気に扉を開け放った。閉じ込められ行き場を失っていた空気が、逃げ出すように廊下へ流れる。暗さに目が慣れてくると、徐々に部屋の様子が見えてくる。それほど広い部屋ではない。長らく立ち入らなかったから、この部屋を知っているようで知らないような、奇妙な感覚に襲われた。

 祖母はいなかった。隠れられるような場所も無い。身を隠す理由も無い。あの一言だけを残して、忽然こつぜんと消えてしまった。

 誰かの痕跡は度々見られるようになった。奥の部屋や自室の前を歩くような音がした。閉めたはずの扉が、朝になったら開いていることもあった。ちょうど部屋の中を覗き見られるくらいの隙間で。部屋から一歩出たとき、足の裏にひやりとした感覚を覚え床を見ると、点々と水が続いていたこともあった。奥の部屋から、一滴、一滴。こぼしながら廊下を歩いたかのように。母には黙っていた。話したところで「やめて」と一蹴されるだろう。別にわかってくれなくていい。

 夏休み明け、ミナが青白い顔で「最近変なことがあって」と話し掛けてきた。聞けば、水の滴る音がするのだという。お手洗い・台所・洗面所・浴室……水周りで。「もちろん蛇口は閉まってるよ」と急いで付け足した。返答にきゅうした。「うちでも変なことが」とは言えなかった。あの夢のせいだ。私の上にぽたりと雫が落ち、波紋が広がっていく様を想像する。「気を付けてね」としか言えなかった。

 ほどなくして、ミナは引っ越した。父親は銀行員だった。急に転勤が決まり単身赴任するつもりだったが、ミナが「どうしてもこの家から離れたい」と強く訴えたようで、家族揃って東京へ移った。


 決定的だったのは九月の終わりだった。奥の部屋の異変は相変わらずで、慣れてきてさえいた。何度も奥の部屋の扉を開いて確かめたが、変わりは無かった。部屋から床板の軋む音がする、廊下から足音がすると水が垂れている、その繰り返しだった。たまに自室の入り口にまで水が及ぶようになったことと、奇妙な現象の回数自体が増えているのは、気がかりではあった。

 その日も廊下に滴った水を雑巾で拭っていた。数滴を拭き終えて腰を上げようとしたときだった。

 ぽたり、ぽたり。

 背後で水滴が床を打った。振り返る。

 ぽたり、ぽたり。

 一体どこから。天井を見る。水の染みは無い。どこからともなく水が落ち、床に染みを作っている。

 ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 途端に、嗅ぎ慣れた黴臭さが鼻を突いた。顔を上げる。奥の部屋の扉にわずかな隙間、細長い暗闇。いつも必ず閉めているのに。どうして。

 ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 水浸しになっていく床に反比例するように、喉から水分が失われていく。

 ぎぃ、ぎいぃぃぃ。

 扉が、独りでに隙間を広げていく。少しずつ、少しずつ。誰も開ける必要の無い扉。誰もいないはずの扉。小さな悲鳴を上げながら、暗闇が口を開いていく。


 水が来るよ 水が来るよ


 ここにいてはいけない。頭が危険信号を告げている。下腹のあたりがきゅうっとなる。分かっているのに、あの少年のようには駆け出せなかった。

 ぎいぃぃぃ。

 中身をさらけ出すように扉は開き続ける。ゆっくりと、でも確実に、私を呑み込もうとするように闇を広げていく。ついに扉が開き切ってしまっても、身動きが取れずにいた。

 ギュッ、ギュッ、

 何度も聞いた音。聞きすぎて警戒心を抱かなくなっていた音。それが今、私の目の前に迫っている。

 ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、

 一回踏みしめるごとに、音が大きくなっている。徐々に近付いて来ている気がする。

 ギュッ。

 止んだ。誰の姿も無い。入り口付近で足音が途絶えたように思われた。

 ばさり、と私の足元に何かが落ちた。視線を落とす。目に入ったのは金魚だ。さっきまで水が滴っていた場所に、金魚が落ちてきた。鮮やかな赤い金魚が、深紅の布に描かれていた。

 鮮烈な赤が目に焼き付いた瞬間、ふっと体の自由が利くようになった。すぐさま体を反転し、自室に駆け込んだ。扉を乱暴に閉める。布団に飛び込み、うつ伏せになって掛け布団の中に身を隠す。耳をふさぐ。こんなことって。ありえない。現実と夢の間を綱渡りしているみたいだった。混乱していた。冷静に思考する余裕は完全に失われていた。


 おいでおいでと手を出せば


 干渉し過ぎた。見て見ぬふりをするべきだったんだ。あちらがどれほど干渉してきたとしても。後戻りできないほどに関わり過ぎてしまった。だから、来てしまった。

 ぎぎぎ、ぎぎぎぎ。

 扉が開く。奥の部屋にいた何者かが、廊下を濡らし、ついに私の部屋に。

 ギュッ、

 いつもは壁の向こうから聞こえていたのに。今はこんなにも近くで。

 ギュッ、

 息を殺す。なるべく気配を消す。絶対に干渉しない。無反応を貫き通す。もう、手遅れかもしれないけれど。

 ギュッ、

 標的を定めた捕食者のように、一歩ずつ足音が近付いてくる。

 ギュッ。

 止まった。静寂が訪れる。真横だ。すぐそこにいる。布団の中で酸素に喘ぐ。苦しい。大きく息を吸うことはできない。早く、早く過ぎ去って。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、

 初めは何の音か分からなかった。極度の緊張状態で研ぎ澄まされ過敏になった感覚が、手掛かりを脳に伝える。後頭部のあたりに、小さな振動。ぽつ、ぽつ、と音に合わせて。かぶった布団を何かが打つ振動に違いなかった。

 想像する。俯瞰ふかんする。

 布団に身を隠す私。すぐ横に影。顔を下に向け、小刻みに揺れる布団をじっと見つめている。その指先か、髪の毛の先端から、雫が一つ落ちる。ぽつ。乾いた布団を打つ。影は動かない。ただ私の側に立っている。その間にも布団は湿っていく。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、

 途切れることなく続く音。秒針のように、あるいは扉をひたすらノックするように、私を追い立てる。このまま布団の中で溺れるとしても、これと面と向かうよりはまともだと思えた。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

 小さな振動が消えた。代わりに、ギュッ、ギュッ、と床を踏む音がした。枕元から遠ざかっていくようだ。諦めてくれたのか、何らかの目的が果たされたのか。とにかく、無限に続くかと思われた地獄から解放された。できる限りゆっくりと息を深く吸い込み、吐き出す。それだけで少し楽になった。

 ギュッ、ギュッ、ギュッ……、

 まだ顔を出す気にはなれなかった。目を閉じたまま、張り詰めていた体から力が抜けるのを待つ。浅い呼吸を繰り返し、高速で脈打つ鼓動をしずめていく。体中から大量の汗が吹き出ていて、寝間着の感触は最悪だった。急激に襲い来る眠気。体力も神経も極限まですり減っていた。起きたらすぐにシャワーを浴びよう。今はもう動く気力が無い。

 すうっと、足先に冷気。瞬間、足首に冷たいものが触れた。強い力で締め付けられる。えっ、と思っている間に体が布団を滑った。掛け布団から引きずり出された。反射的に布団を掴もうとして手が空を切る。右足首に加わる力が更に強まる。声が出ない。ただ後ろ向きに引きずられた。布団が遠のく。廊下の床が濡れていて冷たい。奥の部屋に引きずり込まれ、目の前でバタンと扉が閉まった。

 暗闇の中、べたりと張り付くような湿り気、足首の痛み、黴の匂い。そして、

 ぽたり、ぽたり。

 耳のすぐ横で、雫が床を叩いた。全身の電源が落ちるように、私は意識を手放した。


 感傷に浸っている暇はなかった。思い出したくない記憶に絡め取られる時間も。

 こざっぱりとした部屋を出る。奥の部屋の扉は閉ざされていた。あの後、目覚めたら布団の中にいた。でも、夢とは思えないほど生々しい感触を、右足首が覚えていた。他には何も残っていなかった。床に染みを作っていたはずの水滴も、鮮やかな金魚も。

 祖母が手を引いていた男の子が誰か、今になってぼんやりと分かるような気がする。母に男運が無かったのか、見る目が無かったのか、それとも母自身に問題があったのか。母は人生を仕切り直すように結婚と離婚を繰り返していたらしい。母の口から聞いたのではない。家に残るわずかな痕跡からでも、子供は敏感に嗅ぎ取るのだ。

 夫をとっかえひっかえする娘を見て、祖母は何を思ったのだろう。普通の親ならば、娘の幸せを願うだろう。そのために手段を選ばないことも、禁じ手を使うこともあるのかもしれない。

 これは私の邪推、到底信じがたい推測だ。例えば、母が何人目か分からない男と深い仲になり、その間に子供ができてしまったとして。男がのらりくらりと籍を入れない内に子供が生まれ、その子がリョウと名付けられ、ある日ふらりと男が姿を消したとして。過去の夫との子である私と、逃げ出した男との子である幼いリョウがいて。女手一つで二人の子供を育てていけるだろうかと、祖母は行く末を案じるだろう。祖母の頭を良からぬ考えがよぎる。あんな男の子供を、娘が育ててやる義理があるのか。いっそのこと、あの男と娘を結び付けるものは全て取り除いてやれはしないか。

 食卓での言葉は、後悔からの懺悔ざんげだったのでは。

 全く馬鹿げた空想だ。祖母と祭に出掛けた記憶が本当に夢なのであれば。


 玄関を出て、家を見上げる。あそこに私の部屋、その隣に奥の部屋。あの部屋には何がいるのか……考えたくもない。出ていく私には関係無い。戻ってくる気も無い。母と祖母にとっては、この家がついの棲家となるのだろう。死ぬまで、ずっとこの家で。奥の部屋を抱えながら。

 幼い頃の記憶があやふやな私ですら、あんな目に遭ったのだ。母と祖母には、どんな干渉があるのだろう。私の知ったことではない。この家では互いに干渉無用なのだし、あの二人の行く末には興味も無い。

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