今日が終わる前に

360words (あいだ れい)

 今日が終わる前に、君に伝えなきゃいけないんだ。

 と、ここまで書いて、手が止まる。

 一体僕は何を伝えたいのだろう。


 8月の31日の夜11時43分。

 今日で今年の夏が終わる。

 この夏の終わりは、いつもとは違う。

 いつもの夏が、今日終わる。

 もう二度とやってこない、あのふざけた夏の日々は。

 そんなことを思うと、目のあたりが熱くなってくる。

 涙は出てこないが、ただ、熱い。

 僕はキーボードに置いていた手を放し、何となく窓を開けた。


 時計は11時45分を回った。

 あと15分。

 こんな日だから熱帯夜かと思っていたが、どうやら雨が降っているらしい。

 月も、街の明かりも見えないさみしい夜だ。

 僕は何時間か腰を掛けていた椅子を立ち上がり、何となく部屋の電気を消した。


 11時48分。

 部屋の中で光っているのは、PCと読書灯の明かりだけになった。

 鈴虫の声が外から聞こえる。

 窓の外から特徴的なにおいがしてきた。

 窓の下をのぞくと、タクシーの運転手がちょうど窓の真下でタバコを吸っている。

 毎年夏になると、毎日のように部屋の中に入ってくる煙たいにおいの犯人が何年越しかに見つかった。

 この煙のせいで、夜窓を開けて寝るのが嫌だった。


 11時54分。

 運転手に、文句を言ってやろうかと思った。

 しばらく窓に張り付き、運転手を観察する。

 彼の横顔は疲れ切った人間そのものだった。

 なんだか、彼の一服を邪魔するのはやめとこうと思った。

 昔、祖父が言っていた言葉を思い出したからだ。

『大人が一服するときはな、死ぬほど下らない事を考えているか、死ぬほど大事なことを考えているかのどっちかだ。だから、一服をじゃましちゃいけないぞ』

 愛煙家だった祖父は、ただ単に自分の一服を邪魔されたくなかっただけなのかもしれないが、この時のための言葉だったな、なんて思えてくる。


 11時58分。

 僕は机の引き出しからタバコを1本取り出した。

 同じく引き出しから取り出したライターで火をともす。

 タバコを吸うのは、祖父に同じく愛煙家だった父の葬式以来だ。

 口にくわえ、一息に煙を吸い込む。

 肺に入れた煙は、死ぬほどまずかった。

 舌の根元が悲鳴を上げるほど、まずい。

 ベランダに1歩でて、煙を吐き出す。

 吐き出した煙は、雨降る闇夜に溶けて消えていった。


 0時02分。

 人生2本目のタバコをベランダのサンダルで潰す。

 ラジオを付けると、軽快なパーソナリティーが語りだす。

 話題は「秋」。

 夏が終わった。

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今日が終わる前に 360words (あいだ れい) @aidarei

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