第9話 体育倉庫が熱かった

 壁が、いつまでも火照ほてっている。

 ここは体育倉庫。その外壁にアタシは、もたれかかっていた。

 一日中たっぷり陽を浴びた壁は、夕方になっても熱かった。


 

 ここに居るとちょっと切なくなる。

 なぜだろう、少し湿った、なんか懐かしい匂い。

 それはここに出入りする皆んなの汗が、いろんな感情とともに入り混じっているからかな……


 青春だ……

 これは間違いなく、青春。

 体育倉庫には青春が結びついている……


 放課後の空いた時間、そして帰宅するとき、アタシはいつもここに立ち寄る。特に夕陽が綺麗に見えそうな日なんかは、必ず。


 ここから校庭全体を見渡しながら、夕陽が沈む方向に、彼のシルエットを想像してみる。

 そうすると、少し心が元気になる。


 明日もガンバローってなれるんだ……



    * * *



「お疲れー」

「じゃぁーなー」


 一足早く部室を出て帰宅する陸上部員が、練習を終えたメンバー達と挨拶を交わす。いつものありふれた光景だった。

 それを横目に見ながら、アタシも校門に向かう。なんか家に帰っても、つまんないしな……そんなことを思いながら。


 もう誰もいないと思っていた校庭。けれどもまだ一人、何かの用具を片付けている陸上部員がいた。


「えっ、もしかしてテツロー……」

「ぉぅ…… あっ、奈緒なおじゃん。いま、帰り?」


 互いに、ちょっとビックリという顔だった。


「えー! 陸上部だったんだ。知らなかった」

「へへっ、だよね」

 

 運動音痴で走るのが苦手な、あのテツローが、まさかの陸上部って……

意外だった。

 それは当の本人が一番よく分かっていることである。


 テツローのバツの悪そうな照れ笑いが、ちょっと可愛かった。


 それはともかくとして、テツローが手にしている道具が気になっていた。

 カラフルなプラスチック製の道具は、まるでオモチャのロケットのようだ。


「何?それ……」

「あぁ。これ、槍投げの道具なんだ」


 それは近年登場した小・中学生向けの槍投げで「ジャベリック・スロー」と呼ばれる競技だった。

 そこで使うは、奈緒にはやはりオモチャのロケットに見えた。


「でも、なんで陸上やる気になったの?」

「それは、ね……」


 奈緒がどうしても知りたかったその理由を、テツローは恥ずかしそうに話しだした。


 テツローの運動神経の悪さを見かねた体育教師が、それをなんとかしようと取組んでくれていること、また、その教師の強い勧めで、新規導入されたこの競技を始めることになったことなどを、テツローは奈緒に説明した。


「体育の先生って……女性の?」

「いや、男の。アミノサンのほう」



 体育教師は、二人いた。網野あみのという、従来からいる年配男性教師に加えて、本年度赴任してきた新卒女性教師も陸上部の顧問をしている。


 網野先生は、保健の教科書授業で「筋肉とアミノ酸」の説明をした時以来「アミノサン」というアダナで呼ばれていた。


 テツローはを片付け終えると、体育倉庫の横に並ぶ手洗い水栓へと歩み寄る。

 

 なにを思ったか、いちばん端の足洗い場で手と顔をザブザブ洗った。そして上体を苦しそうに屈めて水を飲む。


 半袖シャツの前がビショビショに濡れていた。そこを掴み顔を拭く。


 頃合いを見計らい、奈緒が声をかけた。

 壁がすごく熱かったという、つい先ほどの小さな発見を、早くテツローに知らせたかった。


「ねぇ……ちょっと来て。熱いの……」

「えっ?」


「ここ、触ってみて」

「……どこ?」


 意味深いみしんな奈緒の言葉に戸惑いながら、テツローは奈緒の視線の先を辿る。そこは奈緒の顔のすぐ横だった。

 なんの変哲もない、ただの壁。テツローは、言われるがままに手のひらをそこに当てた。


「えっ! テツロー……」

 奈緒はハッと何かに気づく。


……これって、壁ドンじゃない。

 もぅアタシ、何をやらせてんだろう。


「熱い…… ね……」

 

 感じたそのままの言葉を、テツローは奈緒に伝える。

 ただ二人の顔が近すぎた。


 鈍感なテツローでも、さすがに何かに気づいていた。


 どうしたらいいの、この体勢……


 ウブなテツローが固まっていた。壁に手をあてたまま、戸惑い立ちつくしている。


 校庭の向こう側には、大きな夕陽が沈もうとしていた。ふとそれに気づく。


「綺麗ね…… 夕陽……」


 奈緒は、視線の逃げ場所をようやく見つけた、と言わんばかりに夕陽を見つめていた。


「うん、キレイ… ってぃぅか…かわいい」


 えっ! かわいいって……やだ……


 奈緒は沈みゆく太陽を見つめたまま、視線を戻せないでいた。


 校庭の反対側には、二つの影が長く伸びている。

 その影が一つに重なり合った。


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