第8話 雨雲を突き抜けて

 七夕たなばたのころは、いつも雨だった。

 延々やまない雨が、日本の各地で降っている。


「ただいま……あ、そうか」


──今日は誰も、家に居ない日だった



 学校から帰ってきたテツローは、それを思い出しながら、玄関の鍵を開ける。


 薄暗い静寂が、部屋を包んでいた。それに耐えきれずテレビをつける。どのチャンネルも、大雨関連の話題ばかりだった。


「次のニュースです。

気象庁は今朝けさ氾濫はんらんの恐れがある川の流域に対し特別警戒の……」


──川が溢れる? 

オイオイ、もうすぐ年に一度の七夕だっていうのにさぁ。あふれるのは愛だけにしといてくれょ、って。ねぇ、織姫さん……


 心のなかで「織姫」とつぶやいたとき、テツローの脳裏に「彼女」の面影が浮かんでいた。

奈緒なお……」

 声に出して、彼女の名を呼んでみる。つい今しがた、一本のビニール傘で一緒に帰ってきた、彼女の名前だった。


──うゎ、雨で背中がビチョビチョだ。早く着替えなきゃ


 風呂の脱衣場を兼ねた洗面所へと、テツローが急ぐ。雨に濡れたワイシャツと、ベタベタ張り付くVネックの下着を脱ぎ、洗濯物が溜まったカゴの中に放り込んだ。


──あぁ、まだドキドキしてる。

雨ん中、急に飛び出して行くからさぁ。呼び止めたらアイツ、ビショ濡れでオレの胸に飛び込んで来て……


 それは、つい三十分ほど前の、出来事だった。

 テツローと奈緒が、いきなり相合い傘で帰宅することとなった、その時の情景を、テツローは再び思い返していた。


 洗濯カゴに一旦放り込んだワイシャツを、もう一度取り出す。あのとき奈緒が顔を埋めていた部分、ワイシャツの胸ポケットの辺りを見つめていた。

 発作的に鼻と口を、そこに押しあてる。大きく息を吸い、匂ってみた。


「うぅ、奈緒…… 」


 ふたたび声に出して、彼女の名を呼んでみる。心なしか、花のような甘い香りがした。


──ん? 誰かに見られている……


 テツローは視線のようなものを感じていた。


──鏡か……


 一部終始を、洗面台の鏡に見られていた。

 そこには上半身裸で、自分のシャツの匂いを嗅ぎ、恍惚の表情を浮かべているテツロー自身がいた。


──何やってんだ、オレは一体


 ふたたびシャツを洗濯カゴに放り込む。

 恥ずかしさを誤魔化ごまかすかのように、鏡に映る自分の姿をチェックしてみた。 

 両腕を折り曲げ、握りこぶしに力を込める。チカラコブがほんの少しだけ、大きく成長したような気がした。


 好きな異性との、初めての相合い傘。おさえられない胸の鼓動、舞い上がる興奮。

 その余韻を抱きかかえながら、自分の部屋へと移動した。


 ベッドに転がる。

 テツローは大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと、胸に溜めたものを吐きだした。


 天井を見つめていた。

 自然と浮かんでくるのは、あのの姿。

 雨降りの中へ飛び出す奈緒。オレの胸に飛び込んで来た奈緒。


──せっかくのチャンスが、オレの緊張のせいで…… ガチガチだったしな。伝えたい気持ち、何も言えず……


 白い傘がひとつ、記憶のスクリーンに浮かぶ。

 身を寄せて歩く、幼いカップル。コンビニで買った小さなビニール傘では、どちらかの何かが、いつも雨に濡れていた。


──ほら、雨のしずくが肩にいっぱい着いてるし。もっと近くに、おいで……


 心では、そう囁くけれども。これが恥じらいのディスタンスというものなのだろうか。


──でも、あのとき、キミは言ってくれた。〈あたし、そばにいるよ、ずっと……テツローの〉って


 窓ガラス越しに、空を見ていた。

 ずっと見つめていた。穴が開くんじゃないかと思うほど、雨雲を見つめた。

 見つめ続けて、本当にそこに穴が開いたのなら……

 そこから見える景色は、たぶん青空なのだろう。それが、ほんとうの空のはず。



──オレの、このモヤモヤが垂れ込めた心の中も、ずっと見つめていれば……


──夜空の天の川も、下から見ると厚い雨雲に隠れているけれど……

織姫&彦星は、こう言ってるはず。

「雨?そんなの関係ねえし。ここは雲の上だし……」

そんでもって、激しい愛に燃えるんだろう。クゥーー羨ましい……

一年ぶりだものね、そりゃ色々ありますって。


──そしてオレたちは、笹の葉にサラサラって、願い事を書くんだ。

お願いしたいこと、いろいろあるんだけれど……



 リビングのテレビが、ずっとつきっぱなしだった。

 画面になにかのドラマが流れている。ちょっと目をひく、見知らぬ女優がいた。

 遊びなれた感じの、その女優が口を開き、ただ一言……

 寂しい人ね、だって。



──冗談じゃない、笑わせるなよ。

この夏、オレは絶対に……絶対、ポップな夏にしてやるぜ


 オレの脳裏には、眩しい太陽に目を細めている、オレ自身がいた。

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