第9話 教授夫人の告白

そのお話ですか・・・。そうでございましょうね。わざわざこんなところまで尋ねていただいて。ここはね、主人と旅をしていた時にみつけたの。いいところでしょう?東京からは遠いけど、もう東京にいても仕方ないですからね。

あなたが、橘さんの娘さん。もうすっかり大きくなられて。こうやって昔の知り合いと再会する事で人は歳月が早いって思い知るのでしょうね。

桜子さんと、おっしゃるのね。聞いておりますよ。一度だけ、あなたにお目にかかったことがあるのよ。私の主人がなくなった時、ご両親があなたを抱いてわざわざ来てくださったから。お母様があんな事故でなくなられて・・・お父様もさぞかし気落ちなさっておられることでしょう。お葬式にもいきたかったのですけど、もう足が言う事を聞いてくれなくて、ごめんなさいね。


そのイヤリングね。ええ、私が差し上げたものです。

ふふふ、嫌ですねぇ。男の方は。なんていうのでしょうか、どうもお話が直截すぎて陰翳と言うものがないのね。お父様の悪口を言ってるのではなくてよ。

確かに、お母様が夫にしたことはそういうことです。でもね、あなたのお母様はとても清純なお方。あなたとは少し印象が違いますけど、ね。あなたはどこからどう見ても清純なお嬢様にしか見えないけど、お母様は、言葉は悪いけどちょっと誤解されるようなところがあったのかもしれませんね。でも心根はとっても優しくて、清純な方だったわ。

あら、そう。お父様もそうおっしゃっているのね。それは良かったわ。

そのイヤリングはね。私が結婚した時に夫から貰ったものです。本当は揃いで価値が出るものなのでしょうけどね。でも石も土台もしっかりとしたものですから。お礼というのでしょうかね、、、記念と言うのはおかしいですからね。


そうね、あなたは清純そうなお嬢さんですけれど、もうご結婚もなすっているのだから、男と女の事もあけすけにお話してもよろしいのでしょう。


私も夫の様子がおかしいのには気づいていたのですよ。或る日を境に、夫は人が変わったようになりました。そう、あなたのお母様とあんなことがあった日以来だったのね。最初はそんなことがあったとは知りませんでした。

それまでの夫は頑固で、厳しい人でした。

結婚当初はそうでもなかったんですけど、大学で助教授になったころから・・・今は准教授というのね。ええ、学問に対してはもとから厳しい人でしたけど、それがどんどんと生活の中にも浸み出して。そうね、私も一時は離婚することを考えましたよ。女だけかは分からないけど、夫婦っていうのは一度はそんなことも考えるものですよ。あら、失礼。まだあなたは結婚なすったばかりですから、そんなことはないのでしょうけど。


その夫が、その日を境にときどきため息をついてはあらぬ思いに耽っているような日々がそうね、半月か一月ほど続いたのですよ。でも、時折その顔に若い頃の夫が見せた純情さのような少年ぽい表情が時折混じるのが不思議でした。

誰か女性でもできたのかしら、とそんな風にも思いました。それまで女性と云うものに全く興味を示していなかった人だけど、そう云う人ほど病膏肓に入るというのかしら、そんな話を聞いたことがありますからね。あの人は子供ができにくい体で、私たちにも子供が授からなかったから、たとえそんなことがあったとしても子供ができるわけでもないでしょうし、その頃にはまだ熟年離婚という言葉はなかったけれど、周りにはそういう方もいらしたから、私たちもそんな風になるのかとも思ったのですよ。さもしい話ですけど、そういう事になったらやはり子供ができるかどうかというのは遺産とかそういう経済的な事で、気になることですからね。


ですから、ある日の夜、主人から呼ばれて話を聞いた時にはもう、大変に驚きました。主人が病気に冒されているというだけではなくて、一度は死のうと思った事やあなたのお母様がそれを見抜いてくださって、あなたもお聞きになったような・・・そんなことがあったんですからねぇ。暫くは心の整理がつかないほど呆然としました。

主人は話し終えると、

「というわけで、もしかしたら僕は職を失うかもしれないが、もうその事はどうでもいいんだ。破廉恥な話に聞こえるかもしれないが、実際には破廉恥なことをしたわけでもないし、死を目前にすればそういうことは些末なようにも思える」

橘さん・・・あなたのお父様がそんなことをされるとは思わなかったけれど、私は頷きました。

「お前には済まないことをしたと思うが、松尾君の事も許してやってくれたまえ。彼女がいなければ私は何をしたか分からん」

「ええ、もちろんですとも」

そうは言ったけど、心はざわつきましたよ、その時は。主人が死ぬ、という事自体よりももしかしたら私の心はそのことにざわついていたかもしれない。でもなんだか怒る気にはなれなかったのですよ。それが性的な事に思えなかったからかしらね。水難にあった人を体で温めるとか、息をしていない人に唇を当てて人工呼吸をするとか、そういう事のようにも思えたのね。

「それでね、・・・」

主人は突然、恥じらうように頬を染めたの。

「お前に・・・」

「?」

最初は何を言われたのか分からなかったわ。でも、

「いや、何も松尾君の代わりにというわけではないんだ。そんな失礼な気持ちではない」

という言葉に驚きました。でも・・・なんだか恥じ入っている主人を見て愛おしいという気持ちになったわ。だって、そんなことを主人が私に言ってくるなんて思いもよらなかったから。

「いや・・・無理にというわけではないんだ。ああしているとなんだか、死を忘れることができてね」

「いいですわよ」

自分でもちょっと驚くくらい私ははっきり言ったの。

「でも、こんなおばあちゃんで良いんですか?」


ふふふ。もちろん電気は消してね。だって、恥ずかしいから。でも、ろうそく・・・ほら、アロマの香りがするろうそくというのが最近あるでしょう?ちいさいろうそくを一個だけ灯して、その灯が消えるまでの間、私は主人と抱き合ったの。最初ね、

「おまえはだいぶ軽くなったな」

と主人は言ったわ。

「僕が迷惑をかけたからかな」

私は何にも言わずに主人の胸に顔を埋めました。そうして毎晩、毎晩、旅先でも同じようにしていました。

でも小樽でね。病院に入ってからはできなかった。代わりに病院では手を繋いでいたわ。苦しそうな時も、痛そうな時も、許される限り。

でも病院に入ってからはすぐね。一週間も経たないうちに主人は亡くなったの。


せっかくだからあなたのお母様もお父様も知らないことを教えて差し上げるわ。これはねぇ、それこそお墓の中にまでもっていこうと思っていたのだけど、なんだかみんなお話した方が気楽になりますから。ごめんなさいね。あなたを心の整理に使うようで。実は亡くなってすぐ主人の持ち物を整理していたら、主人の持ち歩いていた巾着の中にハンカチが仕舞ってあって、その中に毛が一本入っていたの。大切そうに仕舞ってありました。たぶん、あなたのお母様が主人にしてくださったときにね、抜けたのだと思うわ。それを見た時、ほんとうは一番心が揺れたのですよ。

貴女のお母様はもう橘さんと結婚されていたし、天女のような方だったですからね。最後は主人が生まれ変わったら貴女のお母様のような方と連れ添いたければそれでいいし、私でよければそれでもいいって思ったけど。でもね私もね、悔しいってわけではないのだけど、自分のを二本抜いて、遺体を焼く時に一緒に入れたのよ。二本っていうのが、私の心です。


そんなことはありましたけどね、本当に今思い起こせば、あなたのお母様は菩薩様のようなお方に思えますよ。もしもそんなことがなければ私たちはそのまま心を再び通わせることもなく、私は主人の事をもう忘れていたかもしれません。

でもお父様があなたにそんなお話をされたなんて思いもよりませんでした。何もおっしゃらずにお墓までもっていくのかと思っていましたけれど、あなたがたは本当に仲がよろしいのね。


そうそう、片割れのイアリング。ここにもう一つのがあります。ほんとうに桜の蕾、、、そうはいってもよくあるソメイヨシノとかではなくて、もっと昔からある桜ね。その蕾の色にそっくりでしょう。桜はね、ひととせをかけて色をためて花に放つというの。だから、桜の染め物は花が咲く前の枝を切ってそこから色を取るというんです。

どこか人と似ているわね。花を咲かせるにはそれなりに桜にも時と努力が必要なのでしょうね。

このイアリング・・・片割れ同士では淋しいでしょうから。差し上げますわ。私たちには子供もいないから。あなたに持っていていただきたいのよ。

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枝垂桜奇譚(しだれざくらきたん) 西尾 諒 @RNishio

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