コシノアワユキ

不可逆性FIG

コシノアワユキ

 どんなに無味乾燥とした狭い安アパートに住んでいても、季節は平等に巡ってくる。

 ベランダとは名ばかりの隙間に置かれた鉢植えに今年も何輪かの花が咲いた。

 枯れたら全てを捨てよう。そう思い続けて、およそ三年が過ぎた。俺はいつの間にか社会人になっていて、ふと気付けば日々の生活で色鮮やかなのは部屋にあるこのアザレアだけになっていた。着慣れてきたスーツ、摩耗した玄関の取っ手、無造作に積まれた通販の残骸ダンボールにはきっと干からびた溜息ばかりが堆積しているのだろう。淡い彩りの花弁を見るたびに思い出すのは、二歳下のエミリと過ごした日々ばかりだった。


*****


 当時、大学三年生だった俺は近道にしていた構内の目立たない中庭で迷子の女の子に道を訊かれた。どうも新入生らしい。それしかわからなかったが、顔のパーツから欧州系のハーフだろうと推測。その日から一週間と経つ前に彼女とは同じ場所で再開を果たす。赤色ペンキの剥げ落ちたベンチにちょこんと座って昼ご飯を一人で食べていたのだ。「あ! あの時の先輩だ!」と猫がじゃれついてくるように近寄ってきて、俺たちは初めて互いを知ることになった。

 名はエミリ。華奢な十八歳。性格は陽気。くしゃっとなる特徴的な笑顔。俺の鼻先くらいの身長。ベースは黒髪、毛先だけ明るい栗色。瞳は綺麗なブラウン。どうやら父が東欧の出身とのこと。

「日本でも外国でも違和感のない名前にしたかったんだって!」

「えっと、エミリさんさ、俺は気にしないんだけど普段から誰に対してもタメで喋ってるの?」

「さん付けやめてよ、呼び捨てでいいって。タメ語なのは先輩だけ! 先輩とは仲良くなれそうだったし、タメでいいと思った」

 ちょっとズレてるのかな、外国人の親だし。価値観が世界基準なのだろう。そう思い込ませることにして、俺はハーフの可愛い女の子と仲良くなる道を選んだ。敬語かどうかなんて些細な問題に過ぎない。

 それから、驚くべきことにエミリとの交流はしばらく続いた。中庭でお昼を一緒にしたり、図書館でレポートの参考資料を探したり、悪くない関係性だったと思う。それ故にだろうか。知り合っておよそ一年後の春に、歯車は無情にも大きく動き出していく。まったくもって予期せぬ軋み方で。

 

 俺は四年生、エミリは二年生になる少し前の暖かな日。

 自堕落な春休みを満喫していたある日の昼前、滅多に鳴らないスマホに珍しく着信がかかってきた。電話というのは不思議なもので、声で伝えなきゃいけないほどの内容というのは大抵が悪い知らせである。居留守しようか迷ったがとりあえず誰の電話か確認するだけのつもりでスマホを拾い上げる。画面に表示されていたのは〈エミリ〉の文字。俺は慌てて通話ボタンを押した。

「先輩こんちわー。今って寝てた?」

「いや、起きてたけども。どうしたの電話なんて」

「先輩ん家に行こうと思って最寄り駅に降りたんだけど、そこから道がわかんなくて、ははは」

 はあっ!? なんて言った今。俺ん家?

「……言いたいことは山ほどあるけど、とりあえず駅で待ってて。なるべく早く行くから」

「はーい! てか、コンビニが無い方の南口だよね?」

 ブチ。なんでそこまで知ってるんだ。過去に言ったからか。そんなことはどうでもいい。しかし、どうしていきなり俺に会いに? 仮に恋人同士だったならば理由はいらない。とりとめもない不安を芽吹かせながら急いで着替えて、部屋を後にした。

 歩いて、駅に付くと彼女は本当にいた。曇り空の下、横断歩道の脇、自販機のすぐそばで何故かワインレッドのキャリーバッグに寄りかかって暇している。そして、花粉症なのか大きめのマスクが口元を覆っていた。

「エミリ、来るんだったら前持って連絡してくれよ」

「遅ぉい。だってついさっき先輩に会おうって決めたんだもの」

 思い付きの行動かよ。俺にもし予定が入ってたらどうするのだろうか。そんな予定は滅多にないのだけど。いわゆる杞憂。

「まったく……それで? 今日はどんなお誘いなわけ」

 呑気な俺は冗談交じりに肩すくめてエミリの反応を伺う。予想外の言葉が飛び出してくるとは知らずに。

「うーん、傷心旅行のお誘い?」

 

*****


 ホームに降りるとアナウンスが流れる。

 ――軽井沢、軽井沢に到着です。お忘れ物のなさいませんよう――

 目を丸くしたエミリの発言から二時間後、俺は状況が未だ理解できぬまま、東京駅から新幹線に乗り、上野、大宮、高崎を経て辿り着いたは軽井沢。曇天も影響しているのだろう、春めいてきたとはいえ、標高が高いのでまだまだ肌の上をひんやりと冷気が撫でる。

 俺の部屋まで付いて来て荷物を詰め込むまでに一悶着あったのだがここは割愛。俺は暇していただけだ。そう自分に言い聞かせて。

「でさ、なんで行き先がここ?」

「避暑地といえばでしょ」

「避暑する季節じゃないのは突っ込むべきか」

「夏に来たら大混雑じゃん」

 広義で解釈するなら避暑なのだろうが、今まさに俺はこの場から避寒したい気持ちだった。

 キャリーバッグを転がしながら改札を出て、エミリはさっさと歩き出してしまう。二階部分からのスロープを下りて、寂れたお土産屋を真っ直ぐ、初めの十字路を右折。他愛のない会話をしながら、彼女に付いていくと、やがて落ち着いた外観の大きな平たいホテルに辿り着いた。え、ちょっと待って。どういうこと。

 またしても状況が読み込めない俺を置いて、彼女は慣れたようにフロントの従業員と会話しながら、何かにサインをする。

「エミリって実はお嬢様なの……?」

「わかんない。パパがここの会員だから少し割引で泊まれるってだけ」

「泊まり!?」

「そーだよ。私の予約分以外にもう一部屋あるか確認してもらったけど無かったみたい。相部屋だけど変なことしないでね」

 するかアホ、と言うだけ言ってみる。

 部屋に着くなり、靴を脱いで窓側のベッドにダイブするエミリ。やりたい気持ちはわかるが大学生にもなって実際にやるのはどうかと思うぞ。

 そういや今日、ずっと気になってたことを今さら思い出した。

「今日さ、ずっとマスクしてるけど、どうしたの。風邪引いてるってわけでも無さそうだし」

「ああこれ」

 そう言って、ごく普通に自然に気取らずになんでもないような仕草でマスクを外す。俺はそれを見つけたとき、血の気が引き、心臓の底がすうっと冷たくなって、ベッドに座っている彼女がまるで非現実のような錯覚に陥ってしまいそうだった。

 痣。

 それは彼女の口元に。

 青黒く変色したエミリの頬は痛々しく、腫れていた。

「ブサイクでしょ、これ。だから先輩が逃げられないとこまで来たら見せよーって思っててさ」

 弱々しく気丈に振る舞って笑う彼女に、俺は咄嗟に「大丈夫?」と声を出すことも出来ずにただ阿呆のように立ち尽くすだけだった。

「どうしてそんな……じゃなくて、大丈夫? 痛みは?」

「そう訊かれたら痛くないっていうしかないじゃん」

「本当は?」

「――ズキズキする」

 

 経緯はこうらしい。

 同じ学科の知らない男子に告白されて振ったら、それを知った片思い中の女子とその取り巻きに腹いせに殴られた。美人系のハーフということもあり、言い寄ってくる奴は多いらしい。以前にも似たようなことが起きて以来、あまり友達付き合いをしなくなったとのこと。まるでラブコメの話だ。こんな醜悪な出来事が、こんな身近にあるとは。

 俺はこの瞬間まで、どうして美人があんな場所で独り昼ご飯をしていたのか、思い至ることさえできなかったことを恥じた。当たり前に考察すればわかりそうなことである。俺はどこまでも俺に甘く、独善的で、何故彼女がこんな冴えない俺と交流していたのか今、思い知った。

 都合が良かったのだろう。

 壁いっぱいに縁取られた窓ガラスの向こうは重く厚い雲が広がっている。エミリ越しに濃い灰色の空を見て、俺は天気予報は見なくても良さそうだな、とぼんやり思った。


*****


 まだまだ夕飯には早い時間だったため、俺は初めて来るホテルを探索することにした。

 あの塞ぎ込んだ部屋よりはマシだと思い、彼女には悪いが付き合ってもらうことにした。目に映る全てが風情ある佇まいで、金額で主張せずとも高級感がそこかしこから香ってくるような雰囲気である。ブッフェレストラン、天井が吹き抜けのロビー、バーラウンジ、大浴場、そして散策できる中庭。

「私ね、ここの庭園好きなんだ」

「確かに静かで良い景観、小川まで流れてるし」

「あと、ここには私の好きな花もたくさん咲いてるんだよ」

 笑う彼女は綺麗だった、それ故に頬の痣が目立ってしまう。

 少し歩くと奥にお洒落な丸テーブルとお洒落な椅子がいくつか並んでいた。その周りにはちらほらと花が咲いている。手入れの行き届いた素晴らしい庭園だ。

「うーん、まだ暖かくないから葉っぱばっかり」

「本来なら何の花が咲くの?」

「あそこら辺にたくさんのアザレアが咲くんだよ」

 アザレア?

 聞いたことのない種類だ。もっとも花自体、まったく知らないのだけど。

「どういう感じの花なの」

「ツツジって言えば想像できる?」

「あー、ツツジなら中学校にあったな」

 それならわかる。大きめの花弁に鮮やかなピンク色。知ってるとはいえ、その程度の知識だ。

 それを伝えるとエミリは補足を加える。日本産のツツジがヨーロッパに渡り、品種改良を経てやがて再び日本に渡ってきた花だということ。開花時期は二月から四月。オランダツツジという別名もあるそうだ。ツツジよりも淡い色合いが特徴で、薄桃色と白のコントラストが可愛い……らしい。

「でもさ、なんでアザレアなの。もっとメジャーな花もあったんじゃ」

「私によく似てるの」

 まだ蕾だらけの植木を眺めていた彼女は、俺に背を向けるような立ち位置だったので、どんな表情をしていたのか窺い知ることが出来なかった。栗色の毛先が肩からするん、と流れるように落ちる光景だけが瞳に映る。

「アザレアってね、デリケートな品種だから育てるの苦労するんだって。日当たりとか、水やりとか、気温に敏感で、色々とお世話しないといけないらしいよ。しかも外国産だから土も工夫しないとダメだし、剪定のしすぎもストレスになっちゃうんだってさ」

 俺の方へ振り向いて、まるで授業するように育て方のレクチャーをする。これ全部ここの庭師さんの受け売りだけどね、と悪戯っ子の笑みで頬を膨らませる。そして、もう一度こうも付け加えるのだった。

「――だから、私によく似てる」

 深い淀みを隠したような瞳に翳った思いが垣間見えた。エミリの零した一言で、花が目の前の彼女を模した何かに変貌していく。彼女の言葉から俺は、その思いの上辺くらいには触れられたような気がした。

「そんなこと……」

 そんなことない、と無責任に言うのは簡単だ。だけど、この旅行に同行した者として、エミリがどんな気持ちを抱えて今に至るのか、失望、はたまた希望なのか。想像すればするほど喉が涙で灼けていき声が詰まって何も言えなくなってしまう。俺はこのときほど口下手な自分を蹴り飛ばしたくなったことはない。それでも小川のせせらぐ響きだけが俺に優しかった。

 

 夜ご飯は旧軽井沢銀座まで歩いて買い出し。テレビで見たことのある店ばかりだったのが印象的だった。寝る間際、エミリが冗談めかして「襲ってきてもいいよ?」と挑発してきたが、俺は頬の痣に潜む心の傷に配慮して寝ることした。とはいえ、彼女の無防備なTシャツと短パン姿を、脳の空き容量いっぱいまで目に焼き付けたのはここだけの秘密である。

 明くる日、崩れた天気は朝から窓ガラスを雨でしきりに叩いていた。午前中はホテル内でうだうだ過ごし、小雨になった午後から傘を差して駅の向こう側にある巨大なアウトレットモールまで歩いて行った。

 色んな店を巡って、たくさんの話をした。疲れたらカフェに立ち寄って、規則的に伝う雨垂れを聞いたりした。濡れた緩やかな坂道で足を取られた彼女を支えようと初めて手を握ったりした。その全てが楽しくて、瑞々しかった。結局、旅行は二泊して三日めの昼に軽井沢から東京を経て、解散した。

 四月からはまた日常に戻るんだと思っていたが、何の前触れもなくエミリは学校から――姿を消した。

 

*****

 

 唯一の連絡手段も繋がらないまま、一年、二年が経ち、三年が過ぎようとしていた。

 そういえば居なくなって初めの冬、彼女からの便りがひとつだけ届いた。宅配されてきたのは小ぶりな箱に入った丸い鉢植え。葉の形に見覚えがあり、駅前の花屋に尋ねるとアザレア種の「越の淡雪」だと教えてくれた。

 彼女がアメリカに留学したことは判明したが、それ以外はわからず仕舞い。ジャンキーになったとか、IT社長の愛人してるとか、信憑性の薄い情報ばかりが流れていた。悪い内容ばかりなのは、つまりそういうことなのだろう。死んでないという事実だけでも上々の成果である。


 季節は春。枯れたら諦めようと思いつつ、なんとか枯らさずに育てている。結局は女々しい未練だったのかもしれない。

 しかし、運命とは悪戯なもので唐突に歯車を軋ませて稼働させるのだ。

 ある日の正午、知らない番号からの着信音。社会人になって電話にも嫌々慣れ、ごく普通に通話ボタンを押す。

「もしもし」

「――先輩? お久しぶり」

 押し当てた耳が熱を帯びていくのがわかった。鼓膜、心臓、視界を順に潤していくこの感情を表現する言葉が見つからなかった。

「……久しぶりどころじゃねーよ、エミリ」

 再び彼女の名前を呼べる日が来るなんて。

 積もる話は山ほどあった。だけど、最初に伝えるべき言葉はあの日彼女から真っ白なアザレアを貰ってからすでに決めてたような気がする。俺は花屋でこの花の名を教えてもらったとき、もうひとつ教えられたことがある。

 花言葉だ。

 俺はそれを聞いて留学直前、あの旅行でエミリが何を憂い、想っていたのか気付いたかも知れなかった。

「あーところで、先輩。ボーイミーツガールが物語として成立するのはどうしてだと思う?」

「それが一番ベタだからじゃないの」

「じゃあ、私が今、先輩の最寄り駅にキャリーバッグ持って待ってるって言ったらどうする?」

 また旅行か?

 相変わらずの唐突さ。そんなの決まってる。何を今更。

 もう躊躇わない。今度こそ、もうエミリを待たせたりしない。

 俺が紡ぐ言の葉、それは――。

 


「すぐ逢いに行く、待ってろ」



〈了〉

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