八七橋くんがわたしを見ている

 今日は休日だというのに大雨だ。テレビで気象予報士が梅雨前線の話を熱心にしている。きっとみんな、こんな日は出かけられずに落ち込んだりするんだろう。人魚姫テルクシノエーになれるわたしにはあまり関係の無いことだけれど。

 シャワーを浴びて、冷房を付けて、ヘッドギアを装着する。電脳空間イヴェンチュアの世界に浸っている間は孤独を感じずに済む。それが逃避でも、この二進数で作られた世界の美しさはわたしにとって本物だ。人魚姫テルクシノエーは水の中を浮遊する。七色の尾ひれを輝かせながら、歌を奏でる。と言ってもこの水槽の配信音声はミュートに設定してあるから、水槽の外の人だかりに声が届くことは無いのだけれど。ターコイズブルーの水の流れは、アクリルガラスの向こうにいる人だかりを歪ませる。みんな、わたしの姿を見て何がそんなに楽しいのだろう。音も無く、話も出来ず、ただ1匹の人魚を眺めているだけ。もしかしたら、みんなわたしなんかよりもっと病んでいて、人生に疲れ切っているのかもしれない。それで、無意味な映像を眺め続けることで狂った脳を休めているとか…。もしそうなら、余計なものが一切なくて人魚を眺め続けられる配信が人気になるのも必然ということなのかも…?水の中を漂っていると、ついついそんなことに思いを馳せてしまう。

 じゃぼじゃぼっごぼぼっと、泡の音が耳に響く。空を飛ぶように、自由に泳いでいると、ふと、人だかりの中の黒い影が気にかかった。くるっと身を翻して目線でその影を捉える。黒髪黒目、少し長めの前髪が、その少年の整った眉を覆い隠している。どうして歪んだ人影でもはっきりとその姿を感じることが出来るのだろう…と、その疑問はわたしの視線を彼の姿に釘付けにする。その時、はっと気が付いて、思わず泳ぐのを辞めてしまった。


「えっえっ…そ…そんなこと…あるの…?」


狼狽えて思わず洩れ出た自分の言葉に驚いた。普段は絶対にしないのに、気が付くと、彼の目の前までふらふらと近づいて、アクリルガラスに左手を付いていた。彼の黒い大きな瞳が潤んでいるのが分かる。彼の熱っぽい視線を感じ、目が合ったと思った瞬間、七色に輝く尾ひれが私と彼の間に入り込んではっとする。空気の泡が、わたしの首筋を撫でながら通り過ぎていく。わたしはわたしが彼を見に行ったのを悟られないよう、急いで壁から離れて泳ぎ回る。わたしは不安で胸が高鳴るのを感じた。電脳空間イヴェンチュアに居たその少年の姿は、クラスメイトの八七橋やなはし なつめくんにそっくりだったからだ。

 電脳空間イヴェンチュアにいる人々は、現実世界と同じ見た目の人は殆ど居ない。みんな現実世界のしがらみを捨てて、夢を見るためにこの世界に来ている。だからわたしは八七橋やなはしくんそっくりの少年を見てとても驚いたのだった。わたしは、ログアウトした後もずっとドキドキしていた。これまでも、クラスメイトが見ているってことはあったのかもしれないけれど、こんなにもはっきりと意識したことは無かった。…もしかしたら、八七橋やなはしくんにそっくりな赤の他人かもしれないし…電脳空間イヴェンチュアの中なら、気の狂った誰かが八七橋やなはしくんに成り済ましている…なんてこともあるかもしれないけれど…。でも、この鼓動の高鳴りは、身近な人に見つけられたという不安?それとも、八七橋やなはしくんに成り済ました誰かが覗きに来たのかもしれないという恐怖?胸の中がざわついて、なんだか眠れなかった。時計の針が深夜も過ぎた頃、まだまだ寝付けなさそうなわたしは、仕方なく部屋の片づけをすることにした。


***


「あぁ…眠い。眠たいわ。本当、眠い…あと暑い…」


 校舎に向かいながら、わたしは愚痴をこぼす。苦手なくせに深夜に片づけなんてやるんじゃなかった。きっと昨日のわたしはどこかおかしかったに違いない。それに、疑念も消えなかった。八七橋やなはしくん…わたしのいる2年A組の一番人気の男子生徒。美男子だし、何人もの女子生徒からラブレターをもらったりしてるって聞いた。とにかく、わたしみたいな根暗幽霊とは世界の違う人だ。そんなことを漠然と考えながら、教室へ急いで向かう。昇降口で靴を履き替えていると、通りがかった保健室の先生がわたしに声をかけてきた。


神志名かしなさん。今日もまずは保健室かしら?」


「いえ、先生。今日は教室です。」


わたしがそう言うと、先生はとても驚いた表情を浮かべていた。わたしは返事も早々に小走りに階段を駆け上がり教室の引き戸を開いた。

 朝一番の教室の中は驚くほど騒々しい。あまりの騒音に頭が割れるかと思う。不快感とイライラが全身を支配する。クラスメイトは根暗幽霊のわたしなど居ないかのように意に介さない。わたしはそそくさと席について、八七橋やなはしくんを探す。綺麗な八七橋やなはしくんはすぐ見つけられる。彼は他の男子生徒と楽しそうに話をしている。教室の中の彼の姿は、やはり水槽の向こうで見たあの少年と全く変わらない。漆黒の髪と瞳がとても綺麗。

 彼が他の生徒たちとどんな話をしているのか、聞き耳を立てる。どうやらみんなで電脳空間イヴェンチュアのサイバーアイドルの話をしているらしかった。どのアイドルの胸やお尻が大きいだとか、獣風なキワモノのアイドルが如何に官能的だとか、男子学生らしい話の盛り上がり方をしている中で、八七橋やなはしくんは人魚姫テルクシノエーの話をしているようだった。つまり、八七橋やなはしくんは人魚姫テルクシノエーのファンで、あの日のあの綺麗な少年は、やっぱり八七橋やなはしくんに違いないのだった。

 わたしは期待に高鳴る鼓動を感じながら、彼に声をかける想像をする。彼は驚いて、わたしを見つめる。わたしが人魚姫テルクシノエーだということに気が付いて、わたしを熱っぽく見つめる。思わずにやけそうになって頬をつねる。そう…そんなことにはきっとならない。暴露などして何になるのか。彼はクラスの人気者で、わたしは根暗幽霊。もちろん見た目も地味。彼氏いない歴=年齢。もしわたしが彼女テルクシノエーだということを暴露しようものなら、彼はきっと落胆して、幻滅して、悲しんで、人魚姫テルクシノエーをあっさりと捨てるに違いない。そうなれば、わたしは泡と消えるしかない。…八七橋やなはしくんが好きなのは人魚姫テルクシノエーで、わたしではないのだから。妄想むなしく、結局のところわたしは言葉を奪われた人魚姫のように、口を噤むしかなかった。ぼうっとそんな暗いことを考えていると、突然声を掛けられた。


神志名かしなさん。珍しいね?」


 びくっと身体が反応した。いつの間にか、八七橋くんがわたしの席の傍まで来ていた。


「あ、あ、あ、あ、あの、なんでもないです…あの…わた、わたし何か…その…」


ああ、もう。どうしてこんなにも挙動不審になるのかしら。言葉がうまく出ないし、きっと今すごく変な顔しているに違いないわ。手のひらに汗が滲んできた。変なにおいとか出てないかしら。あと顔。赤くなってない?わたし大丈夫?…と、そんな風におろおろするわたしを見て、八七橋やなはしくんはにこりと微笑む。


「ふふっ。神志名かしなさん、面白いよね。ぼくの席はここ。君の隣の席なんだよ。知らなかった?初めて会った時も、言ったんだけどなあ…」


「あっ、そそそ、その…ごめんなさい…」


「ううん、いいよ。気にしないで。ところで神志名かしなさんは”Θελξινόηテルクシノエーの水槽”って知ってる?ぼく、すごく好きなんだあ」


「あっうっ、うんっ、し、知ってる…よ…」


神志名かしなさんはどう思う?とってもミステリアスな存在だよね、彼女は…水槽の中を泳いでいるだけで、一切何も発信しない。巷じゃあ男性説だとかAI説だとかいろんなことを言う人たちがいるけれど」


「ど、どうかしらね…意外と生活感たっぷりの部屋に住んでたりして…はは…」


急に自分の話題を振られて、ひゅっと喉が鳴った。それにしてもわたしは何を言っているんだろう。嘘ではないにしても、もうちょっとましな話があった気がするわ。八七橋やなはしくんは屈託のない笑みを浮かべている。本当に人魚姫テルクシノエーが好きなのね。

 始業のチャイムが鳴り、クラスメイト全員が一気に静かになる。彼ももう黒板に視線を向けていて、真剣な表情をしていた。

 

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