4/4(それとエピローグ

 卒業したあと、僕は地元の公立校へ進んだ。ハカセはよその私立へ電車通学を始めて、怪獣マニアは親の転勤で引っ越した。

 ある夏の日、学校から帰って居間を覗くと、妹が母の背中をじっと見つめながらべそをかいていた。母は妹には取り合わず、掃除機をかけていた。父は留守だった。親戚の法事だったと思う。僕は何も聞かず、足音を忍ばせて自分の部屋に上がった。

 夕飯のときも、妹は泣いてこそいなかったが、なにやら未練がましい様子で母のほうを見つめるかと思えば、僕のほうをちらちらと見てきたりした。母は、黙って箸を動かしていた。僕も同じようにして、ご飯を手早くかき込むとすぐ、部屋に引き上げた。

 お風呂に入ろうかというとき、ドアが開いた。

「クロちゃんが見たい」

 妹は一枚の写真を突き出した。二年前に怪獣マニアが渡してくれた写真だった。

 戸惑っていると、妹はぐずり始めた。大きくため息をついて、どうにかして妹をなだめすかし、以下のような経緯を聞き出した。

 一週間ほど前、妹は僕の部屋に忍び込み、なにかのはずみで机の上に出しっぱなしにしていた写真を拝借した。被写体が何か分からなかったので、写真を保育園の友達に見せてまわって、年上の男兄弟がいる友だちから、まとまった知識を得た。

 べそをかいていた日は、保育園のお散歩ルートが、黒石川沿いになる日だった。橋の上まで来たところで、妹は駄々をこねて、一歩も動こうとせず、保育士さんをたいそう困らせた。そのことが、連絡帳という形で保育園から母へと伝わって、妹のもとに雷がおちた。

「クロちゃんが見たい」

 妹は繰り返した。

「写真を持ってるじゃないか」

 妹は首を大きく横にふった。

「本物が見たい」

「どうせもう居なくなってるよ」

「いるもん。絶対いるもん」

「もう少し涼しくなってからじゃ駄目か」

「やだ。絶対やだ」

 とうとう根負けして、土曜日の朝に黒石川まで連れて行ってやるとしぶしぶ約束した。写真も妹にあげた。妹が写真をどうしようと興味はなかったが、とにかく捨てずにとっておいたことだけは確かだ。

 土曜日は雲ひとつない青空で、川を見張りたくなるような天気ではなかった。中学生にもなって、妹と一緒に出かけるなんて恥ずかしかったが、約束を反故にしたらどうなるかは目に見えていた。

「ご飯食べたら、クロちゃんの件で川まで連れてくことになってるから」

「あらそう。見つかって、気が済むといいんだけど。落っこちないよう見ててね」

「分かってるよ」

 いつもは食後に着替える妹が、その日に限っては先に着替えを済ませていた。誰よりも早く朝ごはんを平らげ、歯磨きまで終えるなり、催促にかかった。

「早くして。お兄ちゃん」

 

 川沿いの道を歩くのは疲れる仕事だった。妹が首をずっと横に向けながら歩くものだから、転ばないように気を配っていた。川には水鳥と鯉しか見当たらず、まもなく橋にたどり着いた。

「お兄ちゃんはあっち。晶はこっち。見つかったら、ちゃんと教えてね」

 勝つつもりのない競争にエントリーさせられたあと、保護者として、ときどき下流のほうを振り返って妹の様子を見ること以外に、どうやって暇をつぶそうかと思案していた。

 夏の太陽が首筋を容赦なく焼いてきた。シャツも肌に張り付いてきた。一緒にコンビニに行ってジュースと、ついでにアイスでも買い与えて、気をそらして家に連れて帰ろうと企んでいたとき、妹の甲高い声が響いた。まさかと思って駆けつけると、クロちゃんがいた。

 なにひとつ、あの頃と変わっていなかった。ずんぐりした体つきで、灰色の肌、下肢を屈伸させるたびに、川底の泥が舞い上がる。舳先のように突き出した鼻と水面の接点から生まれる波に夏の日差しが当たり、明暗を作り出す。僕たちにも、陽の光にも無関心でいた。

「クロちゃーん。クロちゃーん」

 妹は、瞳を輝かせて、呼びかけていた。

 眩しくて、僕は目を背けた。

 クロちゃんは橋のすぐ下まで来たところで下流に向きを変えると、妹の熱心な見送りと一方的な再会の約束を受けながら、姿を消した。

 僕がクロちゃんを肉眼で見たのはそれが最後だった。妹は、両親が買い物にいっているあいだ、夕方のワイドショーに目を光らせていて、その日のニュースで定点カメラの映像が流れたときには小躍りしていた。


 こうして僕の追憶は終わる。両親も帰ってきた。

 僕が女の子を追いかけはじめたときに取り落として、どこかへ流れ去るままにしてしまったものを、妹は拾いあげて、落とさずにしっかりと抱きかかえていたのだ。

 これから、川を見に行こうと思う。

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