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 翌日は、真っ直ぐ帰るつもりでいた。

「ちょっとトイレいってくるから先帰ってて」

 僕は返事も聞かずにわざわざランドセルを下ろしてからトイレに行った。すこしゆっくり歩いて教室に帰ってくると、ハカセたちの姿はもうなかった。

 川のほうをちらちら見ながら歩いているが、足取りは緩めようとしない他の小学生にまぎれて帰るつもりだった。川沿いの道を歩くときも、川の側ではなく、住宅の側を歩いた。

「あ、きたきた」

「おーい、まだ間に合うぞ」

 小細工もむなしく、橋にさしかかったところでハカセと怪獣マニアに呼び止められてしまった。昨日より少ないとはいえ観測隊ができていて、まだ競争には決着がついていないようだった。

 僕だけが、担任の先生が歩いてくるのに気づいた。しかも、先生と目があってしまった。蛇睨みといったら大げさだが、それでも寄り道を目撃されたことには変わりなく、僕はなにもできずに固まっていた。

 集団の一番外側にいた僕の前に、先生は腰を落とした。

「君たち、先生ちょっとききたいことがあるんだけど」

 みんな静まり返った。今思えば、あのときの先生は怒ってなどいなくて、むしろ心配していたのだろう。

「通学路で携帯電話をつかっていた子がいると学校に電話があってさ」

 先生は一同の顔を見渡した。ハカセと怪獣マニアがそばに来てくれた。

「誰か知らないけど、なんで携帯電話を通学路でつかったのかな」

「えっと、俺たちのクラスじゃなかったような」

「はい、同じ階で見ない顔でした」

「僕もそう思います」

「いや、誰かっていうのは、いいんだ。なんで、携帯電話をつかったのか、ちょっとききたいんだ」

 理由を聞かれたら、黙っているしかなかった。このときはまだ、クロちゃんのことは、大人には秘密だった。

「たしかに校則では携帯電話禁止だけど、このご時世だし、親御さんもお子さんを心配してこっそり持たせてるなんて話も、きいたりするし」

 沈黙を続ければ続けるほど、先生は雄弁になった。

「別にここで怒鳴りつけようってわけじゃないんだよ。ただ、なんでかってのを知りたいだけで。本当、怒ったりしないから」

 怒ったりしないからと言われて、ますます何も言えなくなってしまった。だんまりを決め込んでいると、先生は何かに思い当たったような表情をして、急に立ち上がり、あたりを見回した。

「もしかして怪しい人がいたのか。どこにいた、いやどこにいるんだ。口止めされてるのか。脅されたのか」

 通行人がいたとしたら、子どもたちを相手に一方的に話しかけたり、急に立ち上がってきょろきょろして、早口でまくしたて始めた先生こそ、あやしい人に見えたはずだ。

 あらゆる角度に首を向け、橋の上を右往左往した挙げ句に、先生は鉄棒選手みたいにして橋の下まで覗き込んだ。

「ああ、アレを見つけて騒いでたのか」

 噛み合わない、一方的な話を聞き続ける決まりの悪さを、クロちゃんが解決してくれた。

「市役所に新種の生物かもしれないって報告してくる。それと一応、携帯電話は持ち込み禁止だぞ。寄り道もな」

 一言釘を刺すなり、先生は小走りで去っていった。僕たちを証人として連れて行かなかったのは、寄り道になるからだろう。一人特別扱いすると仲間はずれを生むという、教育者としての気配りだったのかもしれない。


 先生が市役所に行ってから、大人が信じて、報道や調査を始めるのはあっという間だった。大人たちもやはり、UMAをクロちゃんと呼ぶようになった。

 僕たちは子どもだったから、何が起きているのかを直に見られなかった。行政や大学による調査、テレビ局の取材はどれも、平日の昼間、学校のある時間だった。つまり、ここからはニュースサイトや新聞、夕方のワイドショーの受け売りだ。

 まずは形態について、足が四本で下肢が発達して水かきがある、耳が二つ、長い鼻、皮膚に鱗は無い、という僕たちの観察はあたっていた。眼が見当たらないが護岸や石に衝突することはないのも同じだった。

 行動について、いつも川のなかに留まっていて、上陸は確認されなかった。信じられないことに、クロちゃんには口が見当たらなかった。テレビ局の取材班が、何日もかけて取材しても口を見つけられず、食事の風景を撮れなかったのは驚きだった。したがって、ハカセも気にしていた食性は、不明のままだった。眼が退化したウナギの一種みたいに死んだ魚から体液を吸っているのかもしれないと推測されたが、その可能性を示す魚の死骸は見つからなかった。

 あとになって聞いた話だが、怪獣マニアは、学校を抜け出してテレビ局の取材についていこうとしたらしい。

 先生や両親が気にしていたのは、悪い病気の有無や、あるいはなにか悪いもののせいで生まれた生き物じゃないかということだった。映画じゃないんだから、と思ったが、環境ホルモンによる突然変異種じゃないかという質問が、市役所の環境課に寄せられて、臨時の水質調査が実施された。結果は、特別なことはない、ただのどぶ川だった。捕獲の試みは、ことごとく失敗に終わった。捕獲用具を携えた大人が来る日に限って、クロちゃんは姿を消した。巣を探して待ち伏せする試みもあったが巣は見つからず、捕獲の試みはバードウォッチングの会からの苦情もあって中止となった。

 これもあとになって聞いた話だが、ハカセが親の名前を借りて質問したらしい。


 結局のところ、普通の生活が続いていた。たとえ何か病気を持っていたとしても、ずっと川に留まっていて人間と触れ合う距離には来ないから、大丈夫だろうという雰囲気が広がりつつあった。

 人間の生活に与えた影響といえば、一種の町おこしと、橋の上にたむろする観測隊が通行の妨げになることくらいだった。後者の問題は、時間の問題だった。個人差はあったが、代わり映えのしない様子に、みんな飽きてきたのだ。

 無害そうだということが広まると、クロちゃんを使った町おこしが始まった。クロちゃんまんじゅう(犬みたいな焼印)、クロちゃんどら焼き(象みたいな焼印)、クロちゃんカステラ(黒糖味)、蚯蚓のクロ焼(漢字をカタカナにしただけ)などなど、いろいろな商品が出てきた。

 ハカセは、糖分は脳が喜ぶんだとか理屈をつけて、よくこの手のお菓子を買っていた。母もこの騒ぎを面白がって、子どもたちのおやつにクロちゃんカステラを買ってきてくれた。今日まで残ったのは、ただの黒糖カステラに名前を変えたこのカステラだけだ。帰省するとたまに、母が黒糖味のカステラを出してくれたが、今日にいたるまで、僕は黒糖カステラの前身を忘れていた。

 このちょっとしたお祭り騒ぎのなかで、クロちゃんの住民票が発行された。住民票のニュースが出た翌日には、ハカセが怪獣マニア相手に、UMAの誕生日と年齢をどのように推定するかという話題を持ち出していた。

「放課後に図書室でなにか調べてみようと思うんだけど、君たちもどうかな」

「分かった。母ちゃんから学校の勉強もしろって言われてるから、ちょうどいいや」

「うん、僕も付き合う」

 梅雨の終わり頃のじめじめした日に、屋根の下にいることと、友達付き合いを犠牲にしないことを両立できるなら、それにこしたことはなかった。

 二人は動物図鑑を取り出して、ときどき小首をかしげながらページをめくりはじめた。なかでもハカセは、オタマジャクシからカエルに変わるまで経過についての図版をじっと見ていたけれど、結論は出なかった。僕はテスト勉強になるかと思って、横から図鑑を覗いて時間をつぶしていた。

 お菓子や住民票のニュースが一段落すると、一時期は大人まで混ざっていた見物人はだんだんと数を減らしていき、常連はハカセと怪獣マニアと僕くらいだった。観測隊の人数が減ったせいか、目撃談も減っていった。

 この三人が、橋の上で揃う日も少なくなってきた。クロちゃんのことを忘れさせてしまうものはいろいろあった。怪獣マニアは課金制のオンラインゲームにハマって、資源を集めるとやらで川沿いの道を脇目も振らずに走って帰るようになった。ハカセは塾と家庭教師のおかげで、寄り道の時間が減った。僕はといえば、思春期を迎えた。

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