第2話

 あのときもそうだった。

 あの日、彼女は一仕事を終えて、いくつかあるねぐらのひとつに戻ったばかりだった。厳しい仕事だった。彼女のように、腕利きとして名が売れるようになると、持ちこまれる仕事は難しいものばかりだった。そのときは、白人至上主義ホワイト・パワーのバイカー・ギャング相手のヤマで、とにかく連中はしつこく、苦労させられたが、結局最後にはターゲットを全員始末してのけた。彼女はそのあと、身元抹消の専門家ゴーストマンの助けを借りて、州警察やFBIフェッドの追跡を振り切り、何とかかんとかねぐらまで帰りついたというわけだった。

 とにかく疲れ果てていた。そのときの彼女の望みは、とにかくただ眠ることだった。彼女は服を脱ぎ捨て、簡易寝台の上に下着姿で横たわると、そのままストンと眠りに落ちてしまった。……

 彼女は夢を見た。正確には、夢とは言えないかもしれぬ。走り詰めに走り続けたこの10年間のダイジェスト版。吹き荒れる暴力、飛び散る血しぶき、怒号、悲鳴、銃声、積み重なる死体。

 この果てに何が待っている?

 彼女は思った。こうやって生き続けて、その先に待っているのは何なのだ?

 わからなかった。何も。闇雲に、脇目も振らず生きてきて……〈その先〉のことなど、これまで真剣に考えたことがなかったのだ。しかし、ここ最近、こういう夢は頻繁に彼女を訪れるようになっていて、それが彼女をひどく悩ませ、苦しめるようになっていた。……

 物音がした。

 彼女は一気に覚醒した。これはもう習い性のようなものだった。どんなに深く眠っていても、脳のどこかが常に覚醒していて、ほんのわずかの刺激にも反応する。彼女は素早く、枕の下に入れておいた、S&Wエアウェイト・ボディガードを取り出し、物音のした方向に向けた。

 人影がそこにあった。

 黒い礼服を着た、細身の……男? 女? 彼女には判断がとっさにつけられなかった。そいつの顔は、汚れを知らぬように白く、繊細で整っていたが、男とも女ともつかぬ、不思議な雰囲気を持っていた。彼女は、いつだったか気まぐれで見に行った東洋美術の展覧会で見た、中国だかインドだかの仏像を思い出した。

 しかし、それよりも重要なことは、そいつが、彼女しか入り方を知らないはずの、このねぐらの中に、いつの間にやら侵入していたということだった。

 「やあ、はじめまして、〈スカーレット〉。あなたのことを待っていたんだよ」

 そいつは、やたらと親しげな口調で言った。彼女は用心深くそいつに銃を擬しながら、こういう状況に直面した人間なら誰でも言いそうなことを言った。

 「お前は誰だ? ここにどうやって入った?」

 「ぼく? ぼくは〈鬼火ウィル・オ・ウィスプ〉。あなたに用があってやってきた。ここに入った方法については聞かないで。企業秘密だから」

 冗談めかした物言いだったが、彼女は別に心ほぐされはしなかった。こいつはわたしのねぐらに堂々と侵入してきた。そのくせ、わたしが気づくまで何をするでもなかったのだ。何が目的なのだ? それが読めなかった。それにしても、〈鬼火ウィル・オ・ウィスプ〉とは、何とまあふざけた名前であることか。身なりといい言動といい、訳が分からない。目覚めたてということもあって、彼女の頭は混乱していた。

 「ねえ、ところで、どうしてあなたのあだ名は〈スカーレット〉なの? もしよかったら教えてほしいんだけど」

 〈鬼火ウィスプ〉が聞いた。何でそんなことを聞くのだ、と彼女は思ったが、どういうわけか、素直にその質問に答えてしまった。

 「見りゃわかるだろ。髪の色だよ。ほら。赤毛スカーレットだろ。……母親譲りなのさ。最も、わたしは母親のことはほとんど知らないけれどね」

 「ふうん」〈鬼火ウィスプ〉は感心したようにうなずいた。「お母さんのことは愛している?」

 「愛してるも何も、物心つく前に死んじまったからね。親父が話して聞かせてくれたことしか知らないよ。その親父も、死んでもう10年以上に──」

 彼女は正気に返った。何でこいつにそんなプライベートなことを話してしまっているんだわたしは。それに、よく考えたら、わたし下着しか着てないじゃないか。何たること。クソッ。

 彼女は舌打ちし、ボディガードの撃鉄をカチリと起こした。

 「用があると言ったよな。何の用だ?」

 「ああ」〈鬼火ウィスプ〉はうなずいた。「ぼくというよりはね、こいつの方が用があると言ってるんだよ」

 次の瞬間、銃声が轟いた。狭い部屋は揺らぎ、埃が天井から降ってきた。

 彼女は呆然と自分の手を見つめた。持っていたはずのボディガードが消えていた。手がじんとしびれていた。ちょっとして、銃を撃ち飛ばされたのだ、という理解が脳に染みこんできた。

 〈鬼火ウィスプ〉の方を見た。その手には、いつの間にか、銃身の長いルーガーが握られていた。あれを抜いたのか? 服の下から? 早抜きクイック・ドロゥ? しかし、それにしたって、いったいどうやって──

 混乱する思考を一旦脇に置いて、彼女は意識してゆっくりと言った。

 「わたしを……どうする気だ?」

 「勝負がしたい」〈鬼火ウィスプ〉は言った。


 〈鬼火ウィスプ〉は彼女が着替えを済ませ、武器を身につけるまで、壁の方を向いて待っていた。それから、二人は彼女のねぐらを出て、彼女のクルマ──マツダのミアータ──に乗って、夜の街をひたすらに走った。街並みが途切れて、人気がなくなるところまで。

 二人が辿りついたのは、昔、簡易飛行場エア・ストリップだった、だだっ広い空き地だった。その脇の赤錆びた倉庫の影にクルマを止めて、二人は空き地の中に足を踏み入れた。

 しばらく歩いて、風が気持ちよく吹きつける、かつての滑走路の真ん中まで行った。そこで、〈鬼火ウィスプ〉が、彼女の方を見て、言った。

 「ここらにしよう」

 彼女はうなずいた。そうするより他になかった。

 二人は相対した。風がひゅうひゅうと吹きつけて、のび放題にのびた草むらがざわめいた。中天にのぼった月だけが、二人を静かに見下ろしていた。

 「さあ」〈鬼火ウィスプ〉が言った。「準備はできた?」

 できたとは、到底言えなかった。何が何だか、彼女にはさっぱりわからなかった。ひとつ言えることは、この勝負に負けたら、自分は死ぬ、ということだった。生きるか死ぬかの局面は何度も経験してきた彼女だったが、こんなに理不尽で、わけのわからぬ状況ははじめてだった。しかし、だからといって、あきらめるわけにはいかなかった。

 「さあ」〈鬼火ウィスプ〉が言う。「どうするんだい。夜は長いようで短いぜ……」

 腰に吊したグロック19がひどく重く感じられてきた。いつものことだった。生死を賭けた状況のときには、いつもこうなるのだ。彼女は全神経を集中させた。相手は、先ほどと同じように、特に力むでもなく、全身をリラックスさせて立っている。どこが動くのか。その動きを──

 ひときわ強い風が吹いた。

 相手が動いた気がした。彼女は銃を抜いた。できる限りの高速で構え、照準をあわせ、引き金を引く。

 確かに発砲はできたはずだ。

 当たったかどうかはわからなかった。

 青白い鬼火をまとったルーガーが一瞬見えた。

 ひとつながりの銃声。

 身体中に弾が食い込んだのがわかった。

 「ぐふ」

 彼女は強烈なショックに打ちのめされて、その場にしばらく立ち尽くし、それからドサッと倒れた。

 息ができない。全身が痛んで、指も動かせなかった。どんどん視界が暗くなっていく。これが死か。彼女はただそう思った。これが死か。こうやって、みな死んでいったのか。わたしがこれまで殺してきた奴らも、わたしの両親も……

 きみは死なない。

 どこか遠くで声がした。

 きみは死なない。きみは見所がある。よくあそこで見切ったものだ……他の奴は、ああはいかなかった。

 彼女にはもうそれに答える気力がなかった。

 チャンスをあげる。再戦のチャンスだ。もう一度ぼくらは会うだろう。そのとき、きみがもっと腕を上げていることを祈る……

 それが限界だった。彼女は無明の闇に落ちていった……

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る