第8話 夜道

 夜の静かな住宅街には、二台分の自転車を突く音がカチカチと響いた。家はたくさんあるのにやけに静かで人気ひとけがない、街灯があって暗くはないけど決して明るくはない道を、ふたり隣を気にしながら合わせるように一歩ずつゆっくりと進んでいく。


 彼女の望みの『ふたりきりで話す機会』として、俺を途中まで送ってもらうことになり、こうやって二人並んで歩いてるけど……



 さっきからふたりの間に会話はない。



 食卓で家族の話の中でなら自然と喋れたけど、いざ二人きりになると急に気まずくなってしまう。


 それでもずっとこうしているわけにもいかないから、自転車をつきながら彼女の方を見て「あのさ……」と口にすると、彼女もこっちを見ていて、まるで鏡を見ているように「あの……」と同じように口を動かす。

 

 重なった声はふたりの間に響いてからすぐ止む。そして、お互いに黙り込んでしまう。それでも話が進まないので、俺は重い口をひらいた。


「お先にどうぞ……」

 

「いえ、私のもそんな必要なものでないのでお兄さんからどうぞ……」


「じゃあ、朝のことなんだけ……」

 

 そこまで言ってから、俺はふと口が止める。彼女は止まった口を不思議に想い、首を傾げながらこっちを見た。


 考えてみれば俺が今言おうとした言葉はずいぶん表面的な話だ。でも、俺が伝えたいのはもっと根本の話であって、表面をでるように避けていても仕方がない。俺は周り道せず、想いをストレートに伝えようと決めて、拳を軽く握る。


「やっぱ俺たちわ……」


「ストップ!」


 俺が言葉を口にし終える前に、割れんばかりの大声で俺の言葉を遮った。


「お兄さん何早まってるんですか!」


 彼女は今にも泣きそうな顔をしながら、怯えていた。その逼迫ひっぱくした表情をみて、今朝けさ自ら口にしたことを思い出す。


 今日の朝、俺は別れるという言葉を「つぎ口にするときは本気の時だけだ」と言っていた。だから、ここで「別れる」と言ってしまうと本当の別れの時が来る。俺はそんなことを軽く口にしてしまった事を反省し「軽率だった……ごめん」と謝る。


 すると、彼女はすごく悲しそうな顔をしながら投げやりにつぶやく。


「それは、やっぱり私が重いからですか? 聞いてたんでしょう?」


「確かに『存在が好き!』と言われた時は、恥ずかしかったけど……嬉しかったよ!」


 俺が嘆く彼女にせめてもと、明るくふるまったのと対照的に、彼女はゆっくり首を横に振りながらより暗いトーンで口から吐き出す。


「そっちじゃなくての話。 隣の部屋で私が泣いていたの聞こえてたんでしょ?」


 その彼女の冷たい嘆きに俺は凍りつく。とても返す言葉なんて思いつかなくて、ただ力なく「ごめん……」と言うことしかできない。


「いえ、いいんです。どうせ一夜が仕掛けたことなんですし、状況的にはお兄さんは悪くありません。幻滅したでしょう? 明るく見せていた軽そうな女が、実はあんな根暗だったなんて」


「そんなことは……」

 

「いいんです。優しいお兄さんなら気を使ってきっとそう言うってくれると思っていましたけど、もう私に気を使わなくていいんです」


 彼女は天を仰ぎながら、深いため息をつく。


「遅かれ早かれバレることは覚悟していましたが、こんなに早くバレるなんて。もうちょっと夢を見させて欲しかったのに……」

 

 そんな絶望に似た表情をする彼女を、「そんなことはない!、別に重くても気にしたりなんかしない!」と俺の意思をはっきりと言えたなら、彼女をこれ以上悲しい顔にさせなくて済んだのかもしれない。でも、俺の心の奥深くに根付いてしがらみあう感情は、彼女が夢を見続けることを許さなかった。


 何か言おうとしても喉に突っ掛かって言葉にならない。唇だけ噛んでも、拳をいくら握っても、口に出さなきゃ意味がないのにそれができない。


 もがいた末に、かろうじて出た言葉はずいぶん言い訳じみた弁明だった。

 

「俺がさっき言い出したのは君のことじゃない」


「詩乃!」


 俺が「え?」と聞き返すと「もうっ」と膨れっ面になる。でも、彼女のその膨れた頬には滴がつたう。


「ちゃんと名前で呼んでくださいお兄さん、どうせ最終通告ならそれくらいしてくれてもいいじゃないですか。むしろ名前言うまで聞きませんよ」


「そうじゃなくて、君が悪いわけじゃ……」


 彼女はそっぽを向いて聞こえないフリをしていた。

 

「え、えと……今回の話はし、し、詩乃が悪いわけじゃないから」


 変なところで上ずり、間抜けな感じになってしまったが、彼女にとってはそれはどうでもいいようだった。彼女は俺の言葉を聞くなり「えっ?」と言い、食い気味につっかかる。


「それはどういうことですか? またお兄さん一方的な思い込みで変なこと口走ったんですか?」


 俺はばつが悪くて彼女から目をそらす。そうすると、彼女は大きくため息をついた。


「私、言いましたよね、お兄さんが残念なことは知っているから、別に気にしませんって」

 

「一夜から昔のことを聞いたんだよ!」


 すると彼女は驚いたような顔をする。


「え? それはなんですか? 毎晩枕元で妄想会話してたとかも聞いちゃったんですか?」

 

「あ、それは聞いてなかったな……」


 彼女は「ああ……」と顔を真っ赤にして下を向いていた。でもその言葉に俺の心は締め付けられる。

 

「そこで、俺が詩乃の人生狂わせたのは間違いないと思ったんだ」


 俺は一夜から聞いたエピソードを思い返して、今の彼女のを見て、言っていることが間違っていないと確信を得る。


「でも、お兄さんのおかげで変われたのは事実なんです! 私良い方向に狂わされたんですよ?」


「でも、詩乃をめちゃくちゃにしてしまった。それなのに、都合よく付き合っていこうなんていう自分が許せないんだ!」 

 

 そう言い切る俺にと、彼女は負けじと食らいつくように言葉を詰める。

 

「それ、私どうすればいいんですか! 自分が許せないなんて言われたらどうしようもないじゃないですか!!」

 

 彼女は怒りを含んだ声をして俺を睨んだ。でも、その険しい目には涙が浮んで、俺はそんな彼女を見ないように目線を下に落として言う。


「だから、やっぱ一緒にいない方がいいと思う」


 その時、自転車を押す彼女の足が止まった。だから俺も足を止めた。


 立ち止まった彼女を見ると、彼女は拳を握り体を震わせながら俯く。そして、顔をあげると、泣き声で俺に訴える。


「で、でも、仮にめちゃくちゃにしたと思っているのなら、そんな私をもうどうしようもないから捨てるのもひどくないですか!」


「うっ……ごめん……」


「ごめんじゃなくて勝手に責任感じるなら、ちゃんと責任とってくださいよ!!」


「俺はそれができない甲斐性無しなんだ……」


「そうやって逃げるの本当ズルくないですか?」


「ごめん、でもやっぱ離れよう……」

 

 そう言うと彼女はピタッと言葉を止める。そしてまた俯いた。


 今度はさっきよりも深く下を向いているから表情は見えないが、街頭に照らされ微かに光るものが地面へと落ちる。


 しばらくしても立ち尽くす彼女からもう返事はなかった。だから、これでちゃんと終わったんだ。


 俺の心の中の六年前という奥深くから根付いた彼女に対する罪悪感は、その行動に満足しただろう。俺の罪悪感は彼女が俺を好いていると気づいた時から徐々に成長していき、近づけば近づくほど大きくなっていった。


 だから、俺の罪悪感はこれまで彼女が俺を好いていることを、夢だと誤魔化し、勘違いだと誤魔化し、冗談だと誤魔化して来た。そうしてずっと離れることを望んできた。


 その望みが叶った今、俺の感情は、その絡みついた根が全て解き放たれてスッキリとした気持ちで満たされているはずだ、なのに、それなのに…………


 俺の頬には温かい何かがつたう。

 

 俺の心からしがらみが解き放たれて、クリアになったはずなのに、残った何か不思議な感情は、彼女ともう会えないことを悲しいと訴えて、温かなしずくという形で現れる。

 

 なんで俺は今泣いているんだ! 今泣いていたら、話に全く筋が通らないじゃないか! 俺は自分で自分に苛立ち、涙を止めようと必死に何かをしようとしたけど、涙を止める方法なんてなくて、どんどん勝手につたっていく。


 決して見られてはいけないこの滴を、俺は陰でこっそりと手で拭う。そして目を大きく見開き、深呼吸をする。つぎに涙があふれてしまう前に、俯いた彼女に本当の別れを告げるために、彼女の方に目を向ける。


 すると、顔を上げてこっちをじっと見ていた彼女とバッチリ目が合う。


 彼女は泣き腫らしてもなお、透き通って大きな瞳で俺の瞳をじっと見つめると、無言で自転車のスタンドを下ろし、自転車から手を離すと俺の目の前へと歩いてくる。彼女の瞳には俺が泣いたことくらいお見通しなのかもしれない。


「なんで泣いてるんですか?」


 彼女は真っ赤な目をしながら、俺を真剣な眼差しで覗き込むように見る。


「泣いてねえ!」


 俺は意地を張ってぶっきらぼうに答えると、彼女は悲しそうな声音で言う。


「なんで彼女フろうとしている時に、お兄さん泣いているんですか? 最低ですね」


 俺は彼女の悲しそうな表情かおを見て、自分の中で生じた想いを感じずには居られなかった。


 これだけ狂わせておいて、これだけしてもないことに感謝されて、これだけ自分だけいい思いをして…………そんな自分にはどうしても許せない。


 でも、その彼女の悲しそうに訴える顔を見たとき、また心の奥底から想いが強くこみ上げるものがあった。この想いは、夕日の中立ちすくむ彼女を助けようと決心したあの時の想いと似たものだが、他に別の想いが絡みついていた。


 あの時は、彼女の悲しい顔を笑顔にしたいと強く思ったが今回はそれだけじゃない自分でもわからない衝動に駆られる。そして、また彼女から目が離せなくなって、今度は心臓が壊れるほどに脈打つ。


 俺の気持ちは心に深く根を張る罪悪感と、その根に絡み付くように存在するよくわからない感情の狭間で、荒波のように激しく揺れてどうすればいいかわからない、いますぐにで大声で叫んでしまいたい気分になる。

 

 ぐちゃぐちゃになった頭の中で、俺は歯を食いしばり、拳を強く握りしめる。そして、俺は心に根付いた罪悪感から逃れるように、心が流されてしまう前に全てを終わらせるため、口にしたら最後となる短い言葉を口にする。


「だから、やっぱりわか……」


 彼女は一瞬信じられないと驚いたような顔をして、下を向く。俺はそんな彼女から目を逸らし、終わりの言葉を口に出そうとする。


 でも、それ以降が口から出てこない。


 いくら喉から搾り出そうとしても、吐き出そうとしても出てこない。


「わか、わか……」

 

 必死に声を出そうとするも喉の奥でつっかえる。そして、それに抵抗し声を出そうとすればするほど、目から大粒の何かが溢れる。一向に言うべきその言葉は口から出てこないのに、涙だけが目から流れていく。






 でも、そんな葛藤かっとうも一瞬で全てふいになる。






 その瞬間、俺の開きかけていた口は、柔らかくて甘い唇の感触で塞がれた。




 彼女の整った顔はあり得ないくらい目の前に見えて、息遣いさえはっきり鮮明に聞こえる。そして、俺の頬には彼女の麗しい髪が少し触れる彼女の甘い香りが俺の鼻を刺激する。

 

 永遠にも感じる一瞬を終えた彼女は、俺から一歩離れると湿った瞳のまま笑顔を浮かべた。


「せめて、フるなら自分の気持ちに整理つけてからにしてください。お兄さんが泣かずにその言葉を口にできるまでは付き合ってもらいますからね」

 

 彼女そう言った後、無理にわざとらしい悪戯っぽい声で言う。


「それとこんなに私を悲しませたんですから、今週末はデート確定です。それはもしお兄さんが私をフることができたとしても、強制です!」


「じゃあ、私はここまでにしますね。じゃあまた明日……」


 そう言って彼女は自転車のスタンドをがちゃんと蹴ると、来た道を自転車で引き返す。


 俺は一人になった夜道で、胸に手を当ててしゃがみ込む。


 まるで壊れたように激しく打ち続ける心臓の鼓動が、俺の全てを支配して身体がうまく動かない。

 

 脳なんてとっくにショートしていて、頭は朦朧もうろうとする。そして、だんだん熱くなっていく頬に、手に、全身。


 俺の目からつたう滴は止まる気配が無く、涙が枯れるまでその場で泣いた。


 

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