『純喫茶:集い』

あん

第1話 旅路

「今すぐ来い。待ってるから」亭主はそう言うなり電話を切った。


私は仕方なく旅支度を済ませる。急いで準備すればお昼の船に間に合うだろう。


慌ただしく準備をしていると娘が泣き出した。去年生まれた私の長女だ。


 ああ、娘のおむつも用意しなければ・・・

干してあった白いおむつを畳んで荷物に入れようとして、

先に娘のおむつを替えなければと引き返し、

泣き続ける我が子をなだめながら考えた。


 これから私はお腹に子供を抱え、1歳の娘を抱いて

遠く九州まで旅をせねばならない。

普通はこんな事周囲が許すわけがないのだが・・・


「あの子が来いと言ってるんだ。行っておやり」姑のさも当然そうなあの言葉には

逆らう術がない。ああそうだ。最近は確か紙でできたおむつが売られているらしい。


 街に着いたらそれを買って汽車に乗れば良い。

紙おむつなら汚れたら捨てれば良いのだからとても便利だ。

娘をあやしながら服を詰め込み、どうにかお昼の船に飛び乗れた。

30分ほどの船旅で街に着くと私は薬局を探し、無事紙おむつを購入した。


 これから汽車に乗らねばならないが、その前に何処かで何か腹に入れなければと

周囲を見渡す。視線の先に綺麗な喫茶店を見つけた。


『純喫茶:集い』ここに入って何か食べよう。


 カランカランとベルが鳴って、ドアの先に涼しい風と甘いシナモンの香りがした。煙草の煙で少しすぼった店内を見ると、人の良さそうな髭面のマスターが

出迎えてくれた。


「いらっしゃい奥さん。おやかわいいお嬢ちゃんも」とりあえず

近くの席につこうとすると、マスターが壁際の少し奥まった4人席に

案内してくれた。


ありがたい。


娘に授乳するにも人目が多いところでは流石に恥ずかしかったからだ。

荷物を降ろし、一息ついてメニューを見ると

新メニューと書かれた珍しい名前のスパゲッティを見つけた。


「あ、あのすいません。アイスコーヒーとこれひとつ」

「ああ、新メニューのミートソースだね。これうまいよ〜」

スパゲッティなどナポリタンしか食べたことがなかったが、

昔から横文字に弱い私は興味をそそられた。人目を忍んで娘にお乳をあげながら、

アイスコーヒーを飲んでどうにか落ち着けた。


 お店の本棚に最新号のnonnoが置かれてあったので、

胸を隠すつもりでそれを手に取り、授乳しながら雑誌を読んで料理を待つ。


 この雑誌は数年前に創刊された可愛らしいロゴマークの雑誌で、

私は創刊号から買っている。今月号は西洋民宿特集が載っていたので、

私は夢見心地でおしゃれな宿に泊まることをぼんやり思い浮かべながら

記事を読んだ。


 ああ、乳飲み子を連れた妊婦がこんなおしゃれな民宿になど泊まれるわけがない。そんな気持ちもないわけではないけれど、

せっかくこれから長旅をするのだから、

一度くらいはそういう気分を味わえてもいいなあ。


 やがてマスターが運んできた皿の上には、

ミンチを炒めたようなソースが乗ったスパゲッティが乗っていた。


おお、見るからにオシャレなランチ。


「この粉チーズかけるとすごく合いますよお嬢さん、ではごゆっくり」


 マスターが皿の横にそっとおいた粉チーズを指してから

すぐにまたカウンターに戻って行った。

どんな味か怖い気もしたけれど、好奇心には勝てずフォークを握り、

私はミートソースを口に運んだ。


 それは私が知っているスパゲッティとは随分違う食感だった。

あのボソボソして歯にまとわりつくような麺ではない。

むしろ固茹でと言えるかもしれない。


 しかしその分心地よい食感が涼やかに喉を滑り降りた。

もしかして私がこれまで食べていたスパゲッティは偽物だったのかもしれない。

だってイタリア人は毎日ナポリタン食べてるって思ってたけど、

あんなの毎日食べるのは正直しんどいと思っていたからだ。

でもこれなら毎日・・・と言わなくても3日に一度なら食べれなくもないかも?

などと考えながらあっという間に食べ終わってしまった。


 アイスコーヒーを飲み終える頃には娘もお乳を飲んで眠くなったのか、

スヤスヤと寝息を立てて乳母車の中で寝てしまっていた。

店内に流れる感じのいい外国の音楽が良い子守唄になったのかもしれない。

この音楽の楽器は一体なんなのだろう?ピアノはわかるけど他のトランペットだか

何かのラッパの音も聴き取れるけれど・・・・


「マスター。この音楽の楽器はなんていうんですか。なんていうかその・・・

すごく綺麗な音ですね。」

「ああ、これはヴィブラホンだよ。あ、えーと・・・鉄琴だね。私はどうも流行りの音楽が苦手でね。伴奏ばかりでつまらないかもしれないが、小さいお嬢ちゃんの方は気に入ってくれたみたいだね。この曲の良さがわかるなら将来有望だ」


 まあ洋楽の事は全然わからないけれど、少なくとも私の休憩時間には邪魔に

ならないしっとりとした素敵な響きだった。人心地ついた私は500円札をテーブルに置いて店を後にする。お勘定の際にカウンターに置いてあった店名入りのマッチを

名刺代わりに持って出た。


電車に乗るにはここからバスに乗って駅まで移動し、そこからまず大阪まで向かう

ことになる。


 果たしてどんな旅になるのか・・・列車の中では公衆の面前でお乳もやらねばならないし、お襁褓を替える場所もない。大阪までの車内では寝る場所もないだろうから床に寝なければならない・・・。そう思うと少し怖くなってきた。

お腹の子に触るのではないか・・。


流産したら・・・。


私は突然途方に暮れた。旅はまだ始まったばかりだった。

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『純喫茶:集い』 あん @josuian

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