wish upon a star

 すっぱいぶどうに手を伸ばすことは悲劇だろうか。


 手の届かない場所にあるぶどう。それはすっぱいもの。近くに甘いぶどうがたくさんあるのに、それでも高く険しいところにあるぶどうを求める。


 届かせようとはしごを使ってみたり、ものを投げてみたり。けれど決して届くことはない。それがわかっていてなお足掻く。かけたはしごが倒れ投げたものが顔にぶつかっても、それでもと言い続ける。


 どんなにそうしても届くことはないのだ。


 届かないことは怖くない。恐れているのは別のこと。

 届かせようという意思が消えてしまうんじゃないかって。そのことが怖い。

 どうせ届かないと行動を、考えることをやめてしまうことが怖いのだ。


 私は強い人間じゃない。ときどき勘違いされることがあるけど、そうなのだ。全然強くない。別れは怖いし、これでいいのかなって思うことばかり。自分を貫いているように見えるのはそうあれと自分に言い聞かせているからだ。


 あのとき彼女が言ってくれた『憧れ』という言葉は、今でも心に焼き付いている。こんな私を目標にしてくれる誰かがいるのなら、私はそれに恥じない私でないといけない。


 だけど全部忘れてすがってしまいたいときがある。安易な解答に身を委ねてしまいたいときがある。幾度となく私はそんな解答を目の前に示された。


 例えば最初に『好きだ』と告白されたとき。


 あのときに承諾していればもっと恋愛というものを謳歌できたかもしれない。


 友達から『好きだ』と言われたとき。


 わかったふりをしてしまえば今でも彼と付き合いがあったかもしれない。


 後輩から『好きです』と告げられたとき。


 わからないふりをして誤魔化してしまえばよかったのかもしれない。


 二度目の『好き』を告げられたとき。


 後輩の言葉をその通りだと肯定してやれば、後輩は幸せになれたかもしれない。


 無数の『かもしれない』は私の心に過去の甘い果実としてしまわれている。けれど私はそんな『かもしれない』を否定して、すっぱいぶどうを求めた。


 けれど本当に、すっぱいぶどうなんてあるの?


 そんな疑問は私の頭に楔のように打ち付けられている。


 〇


「あ」


「ん? ……あ」


 完全に偶然だった。

 地元の山にある天文台、そこで上映されるプラネタリウム内にて、私と後輩は再会した。


「久しぶりですね、茜先輩」


「久しぶり、後輩……後輩っていうのも何か変な気がするなぁ。大学違うし」


「高校のときの先輩後輩なのだから、いいと思いますけれど」


「そういうものかな」


 実に二年ぶりの再会だ。少しだけ浮足立ってしまう自分がいて、何だか気恥ずかしい。大学でも相変わらず友人は少ないのだ。


 あまりプラネタリウムの中で話すのもよくはない。それからは二人とも押し黙っていた。もしくはプラネタリウムの中であるということを言い訳にしていたのか。


『この度は坂上天文台のプラネタリウムにお越しいただきありがとうございます──』


 少しこそこそと聞こえていた話し声もなくなり、館内が静寂に満たされる。人気のない映画の上映直前のような形だった。この雰囲気は嫌いじゃない。


『ペルセウス座流星群は多くの場合8月12日頃に極大を迎え──』


 ゆったりとした口調の解説音声が流れ続ける。知っていることが多く、ともすれば退屈とも感じるだろうそれは、何故か私の心を落ち着かせる。

 ペルセウス座流星群、昔はよく一人でベランダに出て見ていた覚えがある。十分に一個ほどのペースで流れる星に、否応なく心が高ぶったものだ。願い事を三回唱えてみることもしたような気がする。


今はどうだろうか。


『同じ流星群の一つにふたご座流星群というものがあり──』


 時折混ざる梢のような小さな言の葉が耳を通り過ぎていく。きれいだね、本物みたい。そのようなさわさわとした音が隣から発せられることはなかった。

 ふたご座。神と人。明確な二人の違いによる別れ。ずっと空で共にいることは果たして幸せなことなのだろうか。その答えはポルクスとカストロ、彼ら二人にしかわからない。


『流れ星の中でも明るいものを火球と呼び、日本では一か月に──』


 ふと隣を見る。

 相変わらず赤いフレームの眼鏡。高校時代よりも伸ばしている栗色の頭髪。眼鏡に触れそうなほどに長いまつげ。その瞳はただ上を見上げ、架空の流星を映している。


 後輩の瞳に、私は映っていなかった。


 そのことにどこか安堵しつつ、私は再び空を見上げる。

 すっと音もなく、不規則に流れる星たち。他の明るい星々に彩られたそれはとても綺麗で、このままずっと眺めていたくなる。けれどこの星空は偽りだ。

 暗く目立たない星はプラネタリウムでは見ることができない。たとえどんなに明るい星でも、太陽に隠れている星は現実の空でさえ見えないのだ。


 ありのままの空でさえ見えないものが、どうして偽りの空で見えるだろうか。


『しばらくの間、星空をご覧ください──』


 その一言を皮切りに、館内にはっきりとした音が生まれ始める。先ほどまでの梢のような囁きとは違う、はっきりとした会話だ。それでも小さな声で、みながこの雰囲気を壊さないようにしている。


「何だか懐かしいですね。プラネタリウム」


 後輩もその流れに乗ることにしたようだった。私も同じようにする。


「まあ、私のプラネタリウムはこれと似ても似つかない陳腐さだったけどね」


「あれはあれで味があったと思いますよ。今でも誰か使っているんでしょうか」


「さあ……天文部自体なくなっていてもおかしくないからね。でも誰かが使ってくれているならうれしいと思う」


 南半球のない小さなプラネタリウム。星座が天井に映し出されるそれにもなぜか流れ星を映す機能が付いていた。結局使うことはなかったのだけれど、後輩はたぶんそれを知らない。


「先輩が卒業した後、一応一年生が何人か入ったんですよ」


「そうだったの?」


「はい。まあわたし含めてそこまで積極性のある子じゃなかったので、一か月に一回くらいしか活動していませんでしたね」


「知らなかったなぁ」


 当然のことなのに、私の知らない後輩がそこにいるということに驚いてしまった。その驚きはおくびにも出さず適当に相槌を打つ。


「……何だか返答がおざなりじゃありませんか?」


「よく気づくね」


「それはそうですよ。昔好きだった先輩のことですから」


「うん、そうだね。そうだった」


 後輩はもう、私のことを見ていない。進んでいるし、変わっている。そのことがうれしくて、つい微笑んでしまった。


「先輩はわかりましたか。『好き』っていう言葉の意味」


「まだまだ、全然わからない。後輩は?」


「わたしもです。よくわかっていません」


 後輩は嘘吐きだった。けれどその嘘は優しさでコーティングされていて、だからその嘘を暴くことはしなかった。私のための嘘だから。


 代わりにこう言う。


「ありがとう、私に憧れてくれて」


「何ですか、急に」


「急かな」


「急ですよ」


「急だったかぁ」


 〇


 後輩と別れた後、空を見る。秋の夕暮れ、やけにノスタルジーを刺激する光景だった。紫紺に移っていく途中の赤は今このときしか見られなくて、儚いものだと思う。


 真っ赤な太陽、それに呼応して染まる空。反対側にはもう真ん丸の月が浮き始めている。

 

高校時代に、後輩と最後にした話を思い出した。



「後輩はさ、ピストルスターって知ってる?」


「聞いたことないですね。スターってことは、星ですか?」


「そう。一番明るい恒星って言われていて、太陽の200倍近く質量がある。とにかくものすごく明るい星」


「シリウスとは違いますか」


「シリウスは見えるけど、ピストルスターは見えない。少なくとも地球から目視することはできないね」


「へぇ~……それがどうしたんですか?」


「憧れって聞いて、この星を思い出したってだけ」」


「ロマンがある星ですよね」


「そう。見えないけどそこにある、ただそれだけがわかっている強い輝き。それってすごく素敵だと思わない?」


「確かにいい星だと思います。いつか、見てみたいですね」



 ただそれだけの話だ、と思う。


 すっぱいぶどうはあるのか。その答えを私は持っていたのだ。


 私に見えるすっぱいぶどうは、ピストルスター。


 届かなくて見えなくて、眩しくて目がつぶれてしまいそうな、弱くて強い星だ。


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ピストル・スターに届かない 時任時雨 @shigurenyawa

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