9
いったいぜんたい、どうすればいいんだろう。
幾度となく繰り返し読んだ手紙の文面を眺めながら、ダレンはふかぶかと言葉にならないため息を吐き出す。
人の悩みや迷いごとならいくらだって聞いてあげられるつもりになってはいたのだけれど、こと自分のことになった途端に、こんなにも不自由な気持ちになるだなんて思いもしなかった。
「まだ悩んでいるのかい?」
「……うん、」
力なくそう答えれば、しばしばそうしてくれるように、牧師さまのひんやりとつめたくてすこし骨ばった指先はダレンのやわらかな耳の付け根をさわさわとやさしくなぞりあげてくれる。
途方もないぬくもりと安堵感を与えてくれるその魔法に酔いしれるようにしたって、たちまちに胸のうちを巣食った迷いごとがかき消えてくれるだなんてことは当然ありはしない。
『――もし時間の都合さえつくのなら、君と会ってゆっくりお話をさせてもらいたいです。その日がくるのを待ちわびています。』
いつになく明るく弾んだその文面を前に、裏腹にこちらの心は曇るばかりなのは、我ながら申し訳ないとしか言いようがないのだけれど。
一年ほどやりとりを続けている、遠い町に住むペンフレンド。このところのダレンを悩ませている手紙の送り主の正体がそれだった。
幼いころから病気がちで、三歳のころにかかった熱病をさかいに目が見えなくなってしまったこと。
それ以降も身体が弱く、生まれ育った町をでることはおろか、まわりの子どもたちとおなじように学校に通うことすらかなわなかったこと。
それでも持ち前の好奇心とひたむきさで熱心に勉強を続け、いつか広い世界へと自由に旅立つことを夢見て日々を過ごしていること。
ある日の新聞の投書欄で見つけた、二十歳をすこし過ぎたところだという彼の綴るまっすぐでおだやかな文面は、たちまちにダレンの心をやわらかに捉えてくれた。
『光のない世界に住んでいることは、たしかにすこしばかり不便かもしれませんが、決して悲しいことではありません。ある意味では閉ざされたこの世界は、引き替えに僕に無限の可能性と想像を与えてくれました。僕はもっとこの世界のことを知ってみたい。この世界に無限にあるはずの扉を開いてみたいと、そう思っています。
もしよろしければ、あなたが毎日目にしている世界を、それらをどんな風に捉えているのかを僕に教えてはもらえませんか? お礼になるかはわかりませんが、こちらからはあなたの言葉が僕に見せてくれたものをお伝え出来ればと思います。
ただひとつおねがいがあるのですが、僕に届く手紙はいつも姉に読んでもらい、この文章もまた、僕が口に出したものを姉にペンで書き記してもらっています。僕とあなただけの秘密にしておきたいことは書いてもらうことが出来ません、ご了承ください。(あなたが点字用のタイプを打てるのなら話は別です)』
『セオドア・ウェイラーさま
こんにちは、突然のおたより失礼いたします。先日掲載された新聞の投書欄を目にしたことをきっかけにこの手紙を書かせていただいております。
きっとあなたのもとには、たくさんの魅力的な手紙が殺到しているのでしょうね。それでもいつか、宝の山の中から僕のこの手紙にも目を通してもらえることを信じて、こうしてつたない文章を綴らせていただいております。
前置きはさておき、ひとまずは自己紹介をさせていただきます。
僕の名前はダレン・メイフィールドといいます。年齢は二十六歳、山間のちいさな町で、牧師さまのお家に住み込みをさせてもらいながら、神様へのお使い見習いの仕事をさせてもらっています―』
興味本位で教えてもらったタイプライターはもっぱら、練習がてらに聖書に記された神様の教えを書き写すことに使っていたくらいで、自分の中にわき上がるものを言葉に落としていく経験はそれがはじめてだった。
ダレンはその時、はじめて知った―『言葉』には無限の可能性があることを。心の中で形を持つことのないままふわふわとあてどなく漂っていた『それ』を誰かに伝えようと手を動かし、落とし込んでいったその瞬間から、みるみるうちに世界はこんなにも鮮やかに花開いていくことを。
「失礼なところやおかしなところはない? 文章を書くことなんてはじめてだったから自信がないんだ」
夢中で書き上げた手紙の文面を前に、牧師さまがかけてくれたのは「すばらしいね」の一言だ。
「きっとこの手紙は彼にとっての宝物になるはずだよ。それにしたってダレン、君はほんとうに立派になったね。いつの間にかこんなにもすてきな贈り物を手渡せるようになっていたんだね」
すこしかさついたおおきな掌が、大好きなしぐさでやわらかに耳やあごを撫でてくれるのにまかせるまま、ダレンはうっとりと瞼を細める。
ああ、僕はなんて幸せな犬なんだろう。(もちろんこんなこと、彼には打ち明けられるはずもないけれどね)
あの時、あの瞬間に感じた、きれいな水をごくごく飲むように隅々まで満たされていくかのようなあの感情はきっと忘れられない。――だって、あれがもう季節をひとまわり以上さかのぼった前の出来事だなんて、おおよそ信じられないくらいにはいまでも心の中で色鮮やかに咲き誇っているのだから。
はじめての返事が届いた時のことだって、もちろん忘れるわけなんてあるはずもなかった。
「ねえダレン、あなたに手紙が届いてるわよ」
いつものように郵便の整理をしていたお母さんからかけられた言葉に、ダレンは思わず伏せていた耳をぴょこんと跳ねさせるようにして一目散に駆け出す。
「セオドア・ウェイラーさん。ダレンが手紙を書いていた男の子ね」
アイボリー地に深緑でつる草模様の描かれた上品な封筒には、色とりどりのきれいな切手と、いくつもの町を越えてきたことを知らせてくれるスタンプ、濃紺のインクで書かれた宛先は『ダレン・メイフィールドさま』
間違いなどあるはずもなく、ダレン『その人』へと送られたものだ。
「よかったね、ダレンの気持ちがきっと彼に届いたんだよ」
「いいなあ、私もほしいなぁ」
「見せなくっていいから、よかったらどんなことを書いてくれたのかだけ、あとで教えてくれる?」
最愛の家族がそれぞれにかけてくれる言葉にじっくりと耳を傾けながら、大切な宝物を手にした指先がぶざまにふるえる。
大切な手紙に傷をつけてしまわないように―お母さんが丁寧にはさみで封を開けてくれたその中から、爪の先にひっかけるようにして慎重に慎重に、折り畳まれた便せんを取り出すようにする。
クリーム色のなめらかな便箋に濃紺のインクで書かれたすこし丸みを帯びた文字を前に、いまにも飛び出しそうなほどに心は強く跳ね上がる。
――いままで目にしてきたものとは、まるで意味合いが違う。これは、ダレンのためだけに書かれた文章なのだから。
『ダレン・メイフィールドさま』
一行目に記された自らの名前に、思わずじいっと目をこらすようにする。牧師さま一家の家族の一員として授けてもらった、紛れもない大切な名前がそれだ。
もういちど深く息をのむようにしたのち、続く言葉へと視線を落とす。
『ダレン・メイフィールドさま
すてきなお手紙をありがとうございます。あんまり楽しくてすばらしいお手紙だったため、何度も繰り返し読んでほしいと頼んでは姉を困らせてしまいました。
老若男女、さまざまな立場の方がお手紙をくださいましたが、神様のお使いとして仕事をされているというのはあなただけでした。天使さまからお手紙をもらったんだよ、と話したところ、家族はみんなひどく驚いて、それから詳しい事情を聞いたあとはみな笑ってくれました。
あなたがともに暮らすすてきなご家族のこと、日々目にする光景のこと、あなたの就かれているとてもすばらしいお仕事のこと。お手紙で聞かせてくださったひとつひとつのことに、僕の目の前にあたらしい世界がみるみるうちに色鮮やかに広がっていくのを感じました。
こんな風に言えばきっと、光のない世界に住んでいるのになんでそんな風に? と不思議に思われるのでしょうね。たしかに僕は物心がついてからはもうめっきりと、この世界に存在するはずの色や光をこの目で捉えたことがありません。それでも僕の中には、僕が出会ったたくさんの大切なものが届けてくれる色鮮やかな色彩が、それらが心の中に描いてくれる景色が見えるのです。
あなたのくださったすばらしいお手紙は、またあらたに僕が感じたことのなかった思い、いままで見ることの出来なかった世界を広げてくれました。
ほんとうにほんとうに、心から感謝しています』
あたたかな思いだけを溶かし込んだかのような感情が、胸の内側、心の隅から隅までをくまなく照らし出していくのを感じる。
遠い町に住む『親友』と、心と心で通じあうことの出来たはじめての瞬間がそれだった。
気づけば一年とすこしばかりが経っていた言葉を介しての交流は、このところ急展開を見せていた。
幼いころからの病状にもすこしばかり回復のきざしが見え始めたとお医者さまからお墨付きをもらったのだということ。それを期に、かねてから誘いをくれていた陶芸の仕事に就く叔父の家にすこしばかり滞在することになったのだということ。
そしてなんとも奇遇なことに、彼の住む町から遠く離れた叔父の家は、このオレンジの屋根の教会の町からもほど近い場所にあるというのだ。
「その子は目が見えないんだろう? 話をすることくらいならいいんじゃないかい? 付き添いの人には席をはずしてもらえばいいんだし」
「……そうなんだけどね」
ソファに深く腰を下ろし、くつろいだようすでこちらの言葉に耳を傾けてくれる牧師さまをそうっと見上げたまま、ダレンはもう何度目なのかわからない力ないうなり声をかすかにあげる。
顔を見せないまま話をすることは、もはや日常茶飯事とも言える行いだった。
あの部屋で話を聞いてくれるのは牧師一家に飼われている犬のダレンらしい―誰が言い出したのかも定かではないうわさ話をまともに信じているものなどいるはずもなく、ダレンがこんなふうにおしゃべりがじょうずなこと、あまつさえ、遠い町に住むペンフレンドがいることは牧師一家だけが知るおだやかな秘密だ。
姿を見られさえしなければきっと大丈夫。なんなら、はじめから身を隠す必要だってありはしない。光を宿さない彼の瞳には、つややかな黒い毛皮に身を包み、四つ足で歩くこの姿ははじめから見えやしないのだから。いくらそう言い聞かせても、幾重にも絡まった迷いはそうかんたんには断ち切ることは出来はしない。
差し出した掌をぎゅっと握りかえしてほしい、頭を撫でてほしい、お母さんや妹が丁寧にブラッシングしてくれたご自慢の黒い毛皮に触れてほしい、目に見えないのならせめて、触れることでこの姿形を知ってほしい。
遠い町に住む大切な『ともだち』に会うことが叶うのかもしれない、そんな大切な機会なのに、嘘をつき続けるだなんてそんなこと。
「お父さんは僕が嘘をついてしまったのが悪いことだと思いますか? 神様はいまごろきっとあきれてるよね。ほうらみたことか、これもみんな、大事なともだちをだました罰なんだよ。隠し通せるとでも思っていたのかい? そんな失礼がゆるされるわけないでしょうって」
「君が信じている神様がそんなにも意地悪で辛辣な性格をしているだなんてことが私には悲しいね」
ぽつりと落とされる優しい言葉に、ダレンの心はますますぶざまにやわらかく揺れる。
「いいかい、ダレン」
おだやかに瞼を細めるようにしながら、ゆったりとした優しい口ぶりで牧師さまは答える。
「私はいつだって君の味方でいたいと思っているよ。それもこれもみな、君のことを大事な家族の一員としてだけではなく、迷える人たちを導いてくれる優しい心の持ち主として心から信頼しているからだよ。君の言葉には遠い町に住む大切なともだちを動かすことの出来るとびっきりの力が宿っていた。それはなんてすてきなことなんだろうね。それでも、手紙の文面だけでは伝えられないことがいくらだってあるはずなのはわかるよね? 時間なら幸いまだたっぷりあるんだ、君のためだけじゃない、彼のためにもどうするのがいちばんいいのかを考えてみればいいんだよ。ねえダレン、君はどうしたい? 彼に会いたい?」
促されるような心地で、振り絞るようにダレンは答える。
「……すごく会いたい」
「だったら、なんでそんなに会うことを怖がっているの?」
「嫌われたくないから」
ぽつりと放たれた力ない言葉にかぶせるように、優しい言葉が落とされる。
「私たち家族や町の人たちみんながこんなにも愛している君のことを嫌う人がいるだなんて、そんな風にはとうてい思えないね」
自信に満ちた口ぶりで告げられる返答に、泣きたくなるようなあたたかな気持ちがこぼれ落ちていく。
「……楽しみだね」
「うん、」
力なく答えるダレンのふかふかとやわらかなのどの裏を、牧師さまの優しい掌はさわさわとやわらかになぞりあげる。
すっかり見知ったその優しいそぶりは、まるで魔法かなにかのようにみるみるうちに、わだかまったいくつもの感情をゆっくりと静かに押し流していってくれる。
……彼がこの物語を読んでくれたら、どんなふうに思うのだろう。ひょっとしたら、怒ったり傷つけてしまったりだなんてこともありうるのだろうか。
ぶん、と勢いをつけるようにして頭を振り、ふかぶかと息を吐き出す。
書き掛けのまますこしばかり手の止まっていた物語には、ふいに新しい登場人物が加わっていた。『彼』の親友となった、遠い町に住む盲目の男の子だ。
それが彼の聞かせてくれた、幼いころにともに過ごした大切な相手や、ほかにもいくつもの彼の聞かせてくれた思い出話の登場人物たちをパッチワークのようにつなぎ合わせた末に生まれた人物であることは明白だった。
導かれるままに書いただけ――そんなの、ただのぶざまで無責任ないいわけに過ぎない。
たしかめないと、ちゃんと。それは書き手である自分が果たすべき最低限の義務のはずだから。
ぱたり、と手を止めてすっかりぬるくなってしまったカップに手をのばそうとしたそのタイミングを見計らうかのように、すっかり耳慣れてしまった電子音のメロディがこちらを呼び止める。
「やあ、もしもし? 久しぶりだね」
どこかしらかしこまった心地で尋ねてみれば、半透明のくぐもった響きは静かに鼓膜をふるわせるように、ささやかな言葉を紡ぐ。
『ご無沙汰しています。すみません、休暇中なのにたびたびご連絡をしてしまって。すこしご確認させていただきたいことがありまして』
「いいよ、別に。気にしないで。憶えてくれているだなんてありがたいことだからね」
『……なにかありましたか、ところで』
おだやかにそう答えれば、遠慮がちな問いかけがささやき声にくるまれるようにして静かに落とされる。
「さぁ、特には思い浮かばないけれど」
『失礼しました。心なしか、以前よりもお声が明るく感じられたので』
「あぁ、」
ごくり、と息を呑ようにして、僕は答える。
「物語を書き始めたんだ、あたらしく。もしかすれば、そのせいかもしれないね」
『ご自身のために?』
「それも勿論あるけれど、大切な人のために」
『……それはよかった』
「怒らないの? それともあきれているだけ?」
『そのどちらの権利も僕にはありません』
感情の色を排するようにして告げられるささやき声は、途端にいくつもの波紋をこちらの心の内へと落とす。
「どうなるのかはわからないんだ、最後までちゃんと書ききれるのかも。でも、なにかをつかめるような気がしている。また君に読んでもらえるあたらしいものが書けるのかもしれないってこともね」
『お待ちしております、あまり期待をしすぎずに』
「君らしいね、すごく」
『プレッシャーをかけすぎてしまうのを好まないだけです』
「どうもありがとう」
答えながら、いつになく心が軽やかになっていることにいまさらのように気づく――まるで、ささやかだけれど確かな魔法にかけられたみたいに。
「うん、すごく素敵だね」
書きかけの原稿の束を手に、真っ先にかけてくれた言葉がそれだった。
「ほんとう?」
「信じてよ」
思わず気弱な口ぶりで尋ねれば、打ち消すような明るい言葉がかけられる。
「なんだか身近に感じられるようになった気がする。彼のこと、まるで万能のヒーローかなにかみたいに思っていたから」
人々の悩みや不安に寄り添い、そうっと心を掬い上げてくれるその存在は、その実、万能の神様にはとても及ばないささやかな一匹の――いや、『ひとり』の、まだ見ぬ親友に思いを馳せる悩める青年に過ぎない。
彼もまた、教会へと押し寄せる市井の人々とおなじように、日常を生きる中で、ひとりではとうてい抱えきれない不安や迷いを抱えたそのひとりに過ぎないことがあかされることで、物語は当初からは思い描けなかった方角へと舵を切り始めていた。
「なにか手がかりのようなものがほしくて――彼の心を捉えているようなものが。もしそこに、教会に訪れる人や家族にも見せられない顔があるのならって。そうやって考えた時、自然と浮かんできたんだ」
文字だけで心を伝えあう、異なった捉え方で世界を見つめている『ともだち』の姿を。
「ごめんね、こんなこと聞いてもらって。退屈だよね?」
「そんなこと」
ゆっくりと頭を振ったのち、彼は答える。
「すごくうれしいよ、僕でいいのかなって何度もそう思うくらいには」
「そんなことないよ」
気弱に答えながら、鈍い棘がいくつも胸を刺すのを感じる。
「あのね、」
すこしだけいびつにひきつった指先で分厚いカーディガンの裾を握りしめるようにしたまま、ぶざまなささやき声を落とす。
「言わなくちゃって思ってたんだ。こんど君に会ったら――君に聞かせてもらったことがきっかけになっているから。きっと、いくつも」
家族に囲まれ、おだやかな日々を過ごしながら人々の迷いや不安に寄り添おうとする優しい瞳をした黒い犬も、入れ替わり立ち替わり現れる悩みを抱えた人々も、彼の親友となった光の絶たれた世界で生きる男の子も―それらの影にまぎれもなく潜んでいたのは、彼自身と、彼の人生のひとときに寄り添ってくれた登場人物たちにほかならなかった。
「……そうなんだ」
やわらかに笑いかけるようにしながら、彼は答える。
「だからなんだね。はじめて会うはずなのになぜか懐かしくって、安心するみたいな気持ちになれて―でもきっと、そんな風に感じられるのは僕だけじゃないと思う」
「ありがとう」
「お礼を言わなきゃいけないのは僕のほうだよ。こんな素敵な物語のいちばん最初の読者にしてもらえたんだから」
天窓から降り注ぐおだやかな冬の光に包まれるようにしながら、あたたかな気持ちだけにくるまれた言葉は静かに広がっていく。
「――こんな風に言うのもおかしいかもしれないけれど。たどり着けてよかったって思ってる。この場所にも、こうして出会えた物語にも。まだきちんと仕上げられるのかもわからないのにね。でも、なんだかすごくわくわくしてるんだ。こんな気持ちになれたのなんていつ以来だろうって、そんな風に思うくらいには」
「不思議だね、自分のことみたいにすごくうれしい」
誇らしげに紡がれる言葉に、心はやわらかにさざめく。
「聞いてもいい? いつごろ書き上がりそうなのかって」
遠慮がちに投げかけられる問いかけを前に、ぎこちない笑顔を浮かべるようにしながら僕は答える。
「……クリスマスにはあいにく間に合いそうにないけれど、きっと春がくるよりは前に」
「そっか、」
とっておきのいたずらを思いついた子どものように、わずかに首を傾げての無邪気な笑顔を浮かべながら、彼は答える。
「サンタさんにお願いしてたプレゼントを取り下げてもらわないと。速達便で手紙を送ればまだ間にあうかな?」
「こないだ編集者から久しぶりに電話があったのはそういう意味だったんだね」
「ばれちゃったんなら仕方ないや」
瞳を合わせながらくすくすと笑い合えば、わずかに心の奥底に沈んだままの迷いや不安は、たちまちに泡のようにはじけていく。
「……もうそんな時期なんだね、信じられないや」
「ねえ?」
数十年の積み重ねにも、まばたきのあいだに通り過ぎていったほんの一瞬にも思える―こんな特別な時間を過ごせたのは、いったいいつ以来だろうか。
「聖歌隊のみんなも練習にますます熱が入ってるんだって、すこしだけ見学させてもらったけど、ほんとうにすばらしかったよ」
「ますます楽しみだ」
ほんのひとときだけ瞼を閉じてみれば、いつもはこんな風に僕たちふたりきりしかいない聖堂に集うたくさんの人たちのおごそかな表情とともに、高らかに響くパイプオルガンの音色と荘厳な歌声すらうっすらと聞こえてくるような心地になれるのだから不思議だ。
「そういえば、聞きそびれてたんだけど」
「なあに?」
そうっとこちらをのぞき込むようにしながら、優しい問いかけが落とされる。
「年末年始はどんなふうに過ごすの? しばらく会えなくなるっていうんなら、事前に聞いておきたくって」
「あぁ、」
ぱちり、とぎこちないまばたきをこぼし、僕は答える。
「すこし前に連絡をもらっていたんだ。今年は親戚みんなでバカンスに行く予定だから、帰ってきても誰もいないよ、気をつかわないでいいからねって」
せっかくの長期休暇中なんだから気兼ねなんてせずに自由に過ごしなさい。顔を見せてくれるのはあなたの都合のいい時期でいいから。
口を挟む余地を与えないようにと繰り出される言葉と、そこに込められた飾り気のない思いのひとつひとつに心の底からの安堵をもらったことを、ふかぶかと胸の奥で噛みしめる。
「……そうなんだ」
やわらかに洩らされる言葉に、心は音も立てずに静かに揺れる。
「年末年始の休みになると、教会を訪ねてくれる人たちがいるんです。皆、それぞれに事情を抱えて、ここに身を寄せていた人たちばかりです。彼らはいつも、新しく移り住んだ町での暮らしぶりや、そこで出会った仲間の話を聞かせてくれます。中には、家族や恋人を連れだって訪ねて来てくれる人もいます」
追憶の色に照らされたまなざしを細めるようにしながら、うっとりと静かに語られた神父の言葉を、ふいに僕は思い返す。
「思い出さなくていいんだよ。あなたたちにはいまの暮らしがあるんだから、それでじゅうぶんなんだから。いくらそう言っても、首を振られるばかりです。積み重ねてきた時間の末に『いま』があるんだから、なかったことにするほうがおかしいでしょう? って。私の知っているそれとは違う、でも確かに、いまの彼らにしか見せてもらえないはずの笑顔で。もう会えなくなってもいい、思い出してもらえなくたっていい―確かにそう誓って送り出したはずなのに。おかしいですよね? この教会が彼らの『帰りたい場所』になることがいつの間にか出来ていた、そのことが、私には何よりもうれしかった」
「……素敵ですね、ほんとうに」
ぱちりと遠慮がちなまばたきを送るようにしながら、優しい言葉は続いていく。
「いつか―いつになるのかはわかりません。ほんの数週間、数ヶ月後なのか、何年も先になるのか。それでもいつか、彼もまた、ここを出て行くことになれば。そう考えたことが何度もあります。すべての選択は彼にゆだねるべきだとそう思っています。こちらには、指図を出す権利などはありません。だからこそ思うんです。彼がいつかここで過ごした時間を思い起こす時、それがおだやかで優しい時間であればいい。いつかここを出て行くことがあったのだとしても、『帰りたい』と、そう思える場所のひとつになってほしい。どうすればそれを叶えてあげられるのかを、いまでも日々、考え続けています」
幾筋もの皺の刻まれた目尻には、おだやかな追憶の色が滲む。
「はがきを送ってくれるって、バカンス先からね。いまからわくわくしてるんだ」
「遅れてきたクリスマスプレゼントみたいだね」
「そう考えると途端にロマンチックだ」
くすくすと笑いあいながら、天窓からこぼれる光の描く軌道を、目をこらすようにしてじいっと眺める。
「書き上げたらまっさきに君のところに持って行くね、だから待っていてくれる?」
「勿論だよ」
得意げに答えてくれる表情に、あたたかな思いが胸の奥で静かに広がる。
描き始めることの出来たこの物語にふさわしい、とっておきのゴールを導いてあげることが出来れば、その後は――。
ぎこちなく目をそらすようにしながら、骨ばった華奢な手首にまきつけられた腕時計をじいっと眺める。
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