8

 小高い丘の上、町を見下ろすシンボルのようにゆうゆうとそびえ立つオレンジ色の屋根が目印の教会では、いつからか、とある奇妙な噂がささやかれるようになっていた。

 なんでも、毎週土曜の昼下がりに解放される告解室で町の人たちの悩みを聞いてくれるのが、牧師一家の飼っている犬のダレンだというのだ。

 はじめにそんなおかしなことを言い出したのが誰なのかだなんてことは、いまでもわからない――なんでも、おしゃべりの途中で彼がしばしばそうする鼻を鳴らす声が聞こえたのだとか、部屋の開く時間に合わせて、夢中で遊んでいたのをぴたりととめて駆け足で教会へと走る姿を見たのだとか、牧師様の呼びかけに「はあい」とお行儀よく返事をする姿を見たのだとか――誰が最初にそう言い出したのかも定かではない不可思議な噂話は、姿を見せない彼の存在をよりミステリアスなものへと昇華させていた。

「ねえ、あの噂はほんとうのところはどうなんですか?」

 神妙な顔をして尋ねる者を前に、得意げににっこりと笑いながら牧師様は答えてみせる。

「ごめんなさい、私にはお答えすることは出来ません。ただひとつだけ言えることがあるとすれば、私は彼のことを心から信頼しているからこそ大切な役割を勤めてもらっていること、彼はなによりもみなさまの幸福を願い、みなさまの心を覆う憂いを晴らすことが出来るようにと願っていること、ただそれだけです」

 ぱちりと目配せを送りながら答えてくれる牧師様の足下には、艶々と光輝く琥珀色の瞳でまっすぐに彼を見つめながらじいっと耳を傾けるしっとりと美しい毛並みの黒い犬―噂の張本『犬』が、お行儀よく座ったまま、時折ぴくぴくと首を傾げるようにして問いかけを投げかける主のようすを伺い見ていたというのだ。

 ただの荒唐無稽な噂話だと捉えるのか、牧師様の態度は真実をはぐらかすためのポーズにすぎないと捉えるのか―解釈はきっと、受け手の数だけ存在するのだろう。それでも、確かに言えることはある。

 告解室を訪れたひとりひとりがそうっと胸の内から取り出した告白を前に、彼はいつだってじいっと優しく耳を傾け、朴訥な優しい語り口で彼らの心に寄り添えるような言葉をそうっと差し出し、前を向いて歩き出すための力を貸してくれること。そんな彼から手渡される思いのひとつひとつに、いままで幾人もの人たちが救われ続けてきたこと。そのふたつだ。


 果たして、奇妙な噂話の真相はと言えば――おおよそ信じてはもらえないかもしれないけれど、どこから洩れたのだろう? と牧師一家が思わず身構えてしまうほどにはすべてほんとうのことなのだった。

 知人からの紹介によって譲り受けた、なめらかな美しい黒い毛並みに、こっくりと深くやわらかな琥珀に輝く瞳の持ち主――今年で三歳になるのだという牧師一家のもとで飼われている愛犬、ダレンの特技は人間と同じ言葉を話すこと、毎日欠かさない大切な日課は新聞を読むこと――近ころではタイプライターの使い方をおぼえ、文章を打つことすらはじめたのだというのだから驚きだ。

 飼い主一家には、特別に『それ』を教えたつもりは一切ない。

 当『犬』曰く、実の兄妹のように育ったひとり娘のマディが言葉をおぼえていくさまを横で見守るうちにごく自然と自らもそれを身につけたのだとは言うのだけれど―おおかた、気まぐれな神様がいたずらのような気持ちで彼に授けた不思議な能力なのだろうと、一家は至極おおらかにそう捉えている。

 はじめはほんの偶然―牧師様が席をはずしていたその時、衝立越しに呼びかけられたあまりに切実な痛ましい声に思わず返事を返してしまったことが、すべてのはじまりだった。

 かたく禁じられていた家族以外とのおしゃべりはたちまちに彼の世界を広げ、沸き立つような気持ちを呼び起こした。

「もっとたくさんの人と話をしてみたい」

「みなの胸のうちで巣くっている迷いや不安に対して、自分なりの答えを示してあげたい」

 息を潜めるようにして一部始終を見守ってくれていた牧師様がダレンに与えてくれたのが、『悩める人々の話を聞き、助言を与える』という、神様の使いとしての役割だった。


 かくして毎週土曜の昼下がり、週に一度だけ開かれる告解室には、評判を聞きつけた遠い町からも、相談ごとを聞いてほしいというありとあらゆる人々が訪れては順番に扉を叩く。

 優しい声のその主は、どんな話を持ちかけても時折相槌を打つようにしながらじっくりと丁寧に耳を傾け、迷える人々の背中をそっと押してくれるような助言をくれるのだという。

 頑なに姿の見せない声の主の正体を巡り、町の人々のあいだではいくつもの憶測が飛び交う。

 その中でもとりわけ奇妙なものは、衝立の向こう側にいるその人は、牧師様一家の愛犬のダレンだというものだ。

「ねえダレン、君が話を聞いてくれているっていう噂はほんとうなの?」

 教会を訪れる人々の投げかける問いかけを前にしても、ダレンはすました顔をして、くぅんとかすかなうなり声で答えてみせるのみなのだとか――


 あまりに荒唐無稽な『はじまり』を前に、思わず苦笑いをちいさくこぼす。

 編集者に読ませてみればはたしてどんな顔をするのだろう。あきれるか、それとも――。迷いをふりきるようにぶん、とおおげさに頭を振り、いまいちどプリントアウトした紙束とじっと見つめあう。

 いまはいいのに。そんなこと。

 心の声に従うまま、ただすなおに、手の動くままに―まるでうんとちいさな子どものころ、はじめて『それ』に出会った時のような無垢な気持ちが語り始めた物語の入り口を前に、胸が高鳴るような心地を味わう。

 たぶんずっと忘れてしまっていた、こんな感情が自分の中にあることすら。

 ねえ、最後まで語り尽くすことを、『終わり』を迎えてしまうことを、君は許してくれる?

 物語の中でだけ生きている大切な友人を前に、僕は心の中でだけそうっとそう問いかけてみせる。言葉はなくとも、そこにはただおだやかな祈りに似たなにかがいつだって静かに横たわってくれているのを知っているから。

 決意を込めるようにゆるく唇を噛みしめるようにしながら、残り少なくなってしまった、すこしぬるくなったコーヒーの残りにそうっと口をつける。

 いかなくちゃ、そろそろ――待ってくれているから、きっと。備え付けられていたごくシンプルな白黒の壁時計の示す時間を確認してから、思わずぼうっと息を吐く。

 無造作に貼ったポストカードの横には、フレームに入れて飾ったいくつかの空の写真――彼にもらったものが、まるでもう何年もずうっと前からそこに居場所を見つけていたとばかりにしっくりと馴染んでいる。



「……うん、すばらしいね」

 ところどころに但し書きの入った無造作な紙束を手にした彼が、開口一番にかけてくれた言葉がそれだった。

「気をつかってくれなくたっていいからね」

「なんでそんな弱気になるの?」

 ようすを伺うようにそうっと投げかけた返答を前に、すぐさまかぶせられたやわらかな言葉がそれを打ち消してくれる。

 ――ああもう、ほんとうに。こらえようのないあたたかさと、おなじだけこみ上げる気まずさを前に、思わず首に巻いたままにしていたマフラーでわざとらしく口元を隠すようにして下を向いてみせる。

「もし君に信じてもらえてないっていうんならいささか心外だけれどね」

 いじけた子どもを装うような口ぶりを前に、思わずさあっと顔が熱くなる。

「……そんなことないよ」

「ならよかった」

 目配せとともに告げられる得意げな言葉を耳にすれば、途端にひたひたと染み渡るような安堵感が押し寄せる。

「いいなって思ったんだ。心を脅かすようなことがなにひとつなくて、ただ安らかで優しい気持ちになれる。それもみんな、すべてがあたりまえのようにはじめから与えられているからなんかじゃなくって、そこに集う人たちが優しい気持ちを寄せ合っているからこそ生まれてきたんだろうなって」

 うっとりと瞼を細めて告げてくれるその表情の奥には、無防備な子どもの影がかすかに揺らいでいる。

「聞いてもいい? このあとどうなるのか」

 茶目っ気たっぷりの目配せとともに告げられる言葉を前に、精一杯にぎこちなく笑いかけるようにしながら僕は答える。

「情けないけれど、まだなんとも。ただ、ハッピーエンドにできたらとは思ってる。たとえ悲しむ人がいたとしても、きちんとそれに寄り添って、ほしい答えを差し出してあげられるような」

「君らしいね」

 おだやかな言葉は、ただ静かに心を縫い止めてくれる。

「応援してるよ」

「……うん、」

 心の中で、幼い子どものころの自分がそうっと顔を覗かせてくれるのを僕は感じる。ずっと昔にもこんな時間があったような気がする―まるで、幾度となく彼にも聞いてもらった作り物のはずの不確かな思い出が姿を現していくかのように。

 振りかぶるようにしながら顔をあげ、張り付けたように明るい口ぶりで僕は尋ねる。

「ねえ、それよりよかったらまた君の話を聞かせてもらってもいい? 約束してたでしょう、前に聞かせてくれた話の続きがあるって」

「あぁ、」

 途端に彼に浮かぶのは、花の咲きほころぶようにおだやかな、それでいて、どこか寂しげな色を潜ませたようなやわらかな笑顔だ。


 あれ以来、まるでこちらの話との引き替えかなにかのように、彼の口からすこしずつ、子どものころの思い出話を聞かせてもらえるようになっていた。

 たくさんのきょうだいに囲まれ、いつも下の子たちの世話に追われていたすこし口調は荒っぽいけれど思いやりにあふれていた優しい男の子、うまれつきの特性でうまくしゃべることが苦手だったふたつ下の男の子、舞台女優になるのが夢だと話してくれた歌が上手なおない歳の女の子、おなかを空かせているとこっそり食べ物をわけてくれた真っ青な髪に蛇のタトゥーが目印だったレストランのお兄さん、子どもむけの本や雑誌をわけてくれた古紙回収業者のおじさん、若かりし日の旅の思い出話を聞かせてくれた白い犬をつれたおじいさん。

 なにひとつ不自由がなく恵まれている、とはいえなくとも、彼らにはそれぞれのあたたかな暮らしがあり、時に不自由を強いられるような日々の中で、だからこそ寄せあうことの出来たおだやかな思いがあったこと。

 それらの優しいつながりのひとつひとつが、いまの彼を育んでくれたこと。

 きっと長いあいだ胸の奥にしまわれていたのであろうその気持ちに触れさせてもらえることは、あたたかな宝物をそうっと差し出してもらえたかのようなぬくもりに満ちていた。


「それでね、彼女は言うんだ。手術を受けられれば目が見えるようになるかもしれないけれど、それでもこのままでいいんだって。ほかの人が持っているものを持っていないっていうのは、多くの人と違う世界を見ることが出来ることでしょうって。それなら、それを生かしたほうがいいはずだって」

 以前にも聞かせてくれた、生まれつき目が見えなかったおない歳の女の子が聞かせてくれた言葉がそれだったのだという。

「ディディは心がとてもきれいだからきっとすごくきれいなんでしょうねって言ってくれるんだ。そんなことないよってこっちは答えるんだけど、そのたびに笑われて」

 照れくさそうに肩をすくめて笑うその表情は、まばゆい光のその奥に、ほんのすこしだけの憂いの色を潜ませているのがありありと伝わる。

「こればっかりはよかったなって。きっとがっかりさせることになるからね。でも彼女は言うんだ、私は生まれたころから世界をみたことがないから、私の心がきれいだって感じたものは誰がなんていってもとびっきりきれいなの。だからお父さんもお母さんもディディもみんなうんときれいなのよって」

 うんとまぶしげに瞼を細めながら告げられる言葉の端々からは、こらえようのないぬくもりがひたひたと満ちあふれていく。

「大好きだったんだね、君のことが」

「どうだろう? 仲のいい子ならほかにもいたからね。もしかしたらみんなにそんな風に話してたのかもしれないね」

「きっと初恋だったろうね」

「さぁ」

 わざとらしく茶化すように答えれば、曖昧な笑顔がそっとやさしく、言葉を包み込んでくれる。

「そういう君はどうだったの?」

「わからない。まだうんと子どもだったからね。大事だなって思う気持ちならあったけれど、それはそばにいてくれるみんなに等しく分けあうものだと思ってた気がする」

「君らしいや」

「そうなのかな? ありがとう、でも」

 ぽつりとおだやかに落とされる言葉は、いくつもの優しい波紋を心へと落とす。

「……あの町を、離れることになったころは」

 たおやかな慈愛の笑みを浮かべるマリア像の姿をじっと見つめるようにしながら、ぽつりぽつりとほつれた言葉がこぼれ落ちる。

「ほんとうに急なことだったから、みんなにお別れがちゃんといえなくって。新しい暮らしに飛び込んだそのとたんに、それまで感じていた苦しいことや不自由なことはびっくりするほど消えて、まるで、夢みたいで。―恵まれてたんだと思う、すごく。でもどこかでずうっと後ろめたかった。僕だけがほんとうにいいのかなって。それでも自分の体が目に入るそのたび、思い知らされるような心地になるんだ。そうだ、僕はあの日からずっと地続きのいまにいるんだ。これは夢なんかじゃないんだって。でもそれも別に、悲しいことや苦しいことなんかではすこしもなくって」

 しなやかな指先は、確かめるような手つきでそうっと、黒いニットに包まれたほっそりとした腕をなぞる。

「しばらく経ったころ、歳の近い子たちと知りあうようになったんだ。大きな痣ややけどの痕がある子もいたし、彼女とおなじように瞳が見えない子もいた。みんな僕の体を見ると言ってくれるんだ、大変だったでしょう。わかるよ。でももう思い出さなくっていいんだよって。それがほんとうにいいことなのかなんて、ずっとわからなかった。あの時あこがれていたものは確かに手にいれたのかもしれないけど――引き替えにしたものはあんまり大きかったから。だからって、いまさら戻れるわけもなかった。きっとみんなそれぞれに大事な荷物を背負っていて、これが僕の荷物なんだよね」

やわらかに告げられる言葉には、こらえようのない寂寥が静かににじむ。

意を決するような心地になりながら、ぐっと深く息を飲み、僕は答える。

「あのね、ディディ」

「うん」

 じいっとこちらを見据えてくれるまなざしに見守られるような心地を味わいながら、遠慮がちなささやき声を落としていく。

「むかし、僕がお世話になった先生が言ってくれたことで―すごくおぼえていることなんだけれど。あんまり重い荷物を背負ったままだと、どうしても歩きづらくなるでしょう? そういう時は一度ゆっくり立ち止まって荷物をおろしたっていいし、旅の途中で出会った人にいっしょに荷物を持ってもらってもいいんだよ。そのぶんだけ心が軽くなれば、そばにいてくれる大切な誰かの荷物を持ってあげることだって出来るのかもしれない。そうやって、そばにいてくれる大切な人と寄り添いあって生きていけばいいんだよって」

 不確かにもつれたおぼろげな言葉に、それでも、口にした自分自身が何よりも心をあたためられているのに気づく。

 ほんとうにみっともなくてぶざまで、口にしてしまうことが赦されるのかなんてことだって確かではなくって――それでも、いまここで、なによりも言葉にして伝えたい想いがそこには隅々まであふれていた。

「……ありがとう」

 深く息を飲み込むようにしたのち、彼は答える。

「聞かせてもらえてほんとうにありがとう、すごくうれしい」

「―僕の言葉じゃないよ、どれもみんな」

「そんな風に言わないで」

 遠慮がちに答えれば、覆うようなやわらかな返答がそこにかぶせられる。

「それを手渡してくれたのは、君自身の心だよ」

「……うん、」

 答えながら、ほんのひと時だけそうっと瞼を閉じる。

「ねえ、ひとつだけ聞いてもいい?」

「うん、なあに」

 遠慮がちに尋ね返せば、羽根の舞い降りるようなやわらかさで、優しい言葉がはらりとしずかに落とされていく。

「君にもきっと、ひとりでは抱えきれないほどのおおきな荷物があるんだよね。それを僕にも手渡してもらうことは出来ないの?」

 ささやくような声に引き寄せられるままに、盗み見るようにそうっと視線を揺らす――その先にいてくれるのは、子どものように無防備な澄んだまなざしでこちらを捕らえてくれている、とびっきりの優しい表情だ。

 ――こんな気持ちにさせたいわけじゃなかった。ただそばにいさせてほしい、安心させてあげたい、分けてあげられるものがあるのならそのひとつひとつを手渡してあげたい、ただそれだけなのに。

 たちまちに募る息苦しさをゆっくりと深く飲み込むようにしながら、おぼつかない言葉を紡いでいく。

「ずっと考えてる。ここにくる前からずっと――いつか物語に、言葉の中で形に出来るはずだからって。自分だけじゃなくって、いつかのどこかの、形の似た重荷をおろせずにいた誰かの支えになれるような形で」

 きっとそれが、何よりもの自分に果たせる使命のようなものだと信じているから。

「……おこがましいよね、ほんとうに」

「そんなことないよ」

 くぐもった迷いを打ち消すためだけにかけられる言葉は、心の隅々までを照らし出すようにあたたかくて優しい。

「言ってもいいんだよね? 楽しみにしてるねって」

 らしい、としか言いようのないあまやかな響きをたたえた優しい言葉に、心は音も立てずにしずかなさざ波を巻き起こす。

「ありがとう」

 心からの言葉は、たちまちにくすぶった曇りを流していく。

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