狂信に神は降臨す

犬井作

本文

 神なるものは実在せず降臨するものだと理解したのは、第六移民船が木星のそばを通り過ぎているときだった。私はその巨大なるものを見た。私たちの船も、きっと私たちの由来する惑星も軽々と飲み込む木星表面のガス流の模様を。その大赤斑を。そして、乱気流が生み出す生成し消滅し再び生成する無限の流転を。そこに神が宿っていると私は直感した。神は巨大である。神は壮大である。神は生成と消滅を司る。神は、神は。私は神に触れた。そう実感した。その瞬間、私に応えるように木星は不思議に蠢いた。むしろそれこそが神の御業を示していた。私は私に与えられた褒美を得た。木星は怪しく輝いた。内側で生じたプラズマが表面まで吹き出すように。その発光があちこちで生じた。大気は秩序を失った。無秩序が生まれた。生まれ崩壊し再び生まれている雲は白と青と赤と黒とエメラルドと様々な色とが混濁しマーブルを産み、溶け合い砕け融解し、ふたたび一つ秩序を生み出す寸前、整然としたフラクタルを生み出した。そこには無限の連なりがあった――惑星表面すべてが同じ構造を表現しそれがどこまでも続く刹那があった。神はそこに宿っていた。そしてそのことを理解した瞬間刹那は消滅した。気づけば木星はふたたび普段の秩序を取り戻していた。蠢く色彩の神秘、神の影たる混沌。

 だが確かに刹那は永遠となった。

 私たちふたりの証人、バラード彼女ジャズの脳内に。

 その神経ネットワークのすべてに、焼きついた。


 ○


 ――神は私たちに罰を下した。人びとは自らのために楽園を食い荒らした。楽園は自らを生み育てそして潰え再び生まれるものだったのに人々は不朽の永遠を求めた。楽園こそ永遠だったのに。ゆえに神は罰を下した。私たちは楽園を追放された。

 しかし神は慈悲深かった。私たちに方舟を作る時間を与えた。その猶予は私たちに楽園から脱出し新たなる楽園をもたらす試練を意味していた。我々はこの試練に背いてはならない。そして神の意志に従わなくてはならない。――

 天啓を受けた詩人に自動筆記で記述されたこの文言を含む一連の文書は「サイセイの福音書」と名付けられ、第六移民船における教えの中核をなしていた。

 地球を出発した同時期に生じたこの聖典はヨハネの黙示録の取りこぼし、すなわち神の国に行くことの許されなかった人びとへの啓示の書として受容されている。

 人口約四〇家族組のこの小さな移民船で、聖典は絶対である。人びとは神を失望させてはならず神を畏れ敬わなくてはならずそこに「わたし」の感受性なるものはおおむね許されなかった。絶対的解答の用意された問いに答え続けることが要求された行いである。

 だからジャズとバラードは神を見たとき決意したのだろう。神がどこに宿るかを示さなくてはならないと。それが正しい行いだから。


 

 ○



 廊下に足音が響いている。左手のガラス窓の外には蠢く木星の表面があるが記憶のものと位置が異なる。前の方に進んでいる気がする。硬い足音がカツーンカツーンと響いている。起きなさいと言われているような気がしてくる。だんだんとそれを止めたくなって立ち止まって辺りを見回す。すると静かになった。ようやく足音が私のものだと気がつく。そしてはじめて私は私が歩いていたことを理解する。

 片手をぐいと引かれたのでそちらを見るとジャズがまだ歩こうとしていた。私は踏ん張って彼女を引っ張った。ジャズはよろけて、驚いて辺りを見回した。


「ジャズ」

「バラード」


 ジャズの青い瞳が私をじっと捉えた。私はゆっくりと頷いた。ジャズは長く息を吐いた。

 私たちはお昼ごはんを食べたあと、日課の散歩に出た。船中心の居住区画を取り巻く廊下を歩いて書庫までの道を窓の外を見つめて歩く。

 神を見てからずいぶんと時間が経っているらしかった。第六移民船は太陽光を受けて航行する帆船だから基本的には等加速度直線運動を行っている。それに従えば感覚的に二時間は経っていた。

 ジャズは私をじっと見ていた。彼女を見ると瞳が鏡みたいに反射して私の顔がうすぼんやりと映った。ジャズは困惑を表明した。


「バラード、私、神を見たわ」

「わたしもだよジャズ」


 堰を切ったように私たちは話した。神は宿るものだね。神は壮大なものだね。神は巨大なものだね。神は降臨するものだね。私たちは確認しあった。廊下を歩きながらずっと話した。

 ジャズは口数が多い。確認が終わっても、あれはなんだったんだろうとか、どうしてあんなことが起きたんだろうということをしきりに話していた。私は別のことを考えていたが、適当に相槌を打っておいた。すると突然、ジャズは昔の話を蒸し返した。


「バラード、約束のこと覚えてるわよね」


ジャズはむかしこう言い出したことがある。


「私たち、きっと同じところにいくわ。もしその時がきたら私バラードについていくから」


 たしか食堂でチーズケーキを食べているときだった。四つ前の誕生日だったと思う。チーズケーキは三つ前の長老の大好物で船内の設備でも自動製造できるように調整した結果食べられるようになったそうだ。私はチーズケーキが好きだったから幸せだった。ジャズの言葉に悪い気がしなかったからうんと答えたが、いまにして思うと悪い気がしなかったのは口の中が甘かったからかもしれない。ところがジャズにとってそのときの約束はえらく大事なものだったらしく、なんども念押ししただけでなくたびたび蒸し返した。このときも、唐突だったけどその一貫だと思った。私はまた適当に相槌を打った。


「うん、まあね」

「本当に?」

「うん」

「そしたらちょっと話がしたいんだけど」


 私は考えていたことを中断してジャズを見た。ジャズは陶器の人形めいた白い肌の上に肩口までの長さで整えられた金髪を揺らして青い瞳で私をじっと見ていた。その瞳に私が反射していた。ジャズと同じようにきれいな、だけど色だけは真逆の褐色の肌と濃い藍色の瞳。ジャズの青が藍色を見つめていた。


「確かめてなかったことがあるの。確かめたいの。いま聞いていい?」

「いいよ」


 急かすときは気が立っているときだ。十年一緒にいると覚えてしまう。私はつま先を見ながら答えた。ジャズは答えに気を良くして私の腕をとった。


「バラードは私が行くべきところに来てくれる?」

「それって、最初の約束とどう違うの」

「あなたが行くところに私はついていくけど私の行くところにあなたがついてこないかもしれないじゃない」

「でも同じところに行くんでしょう。じゃあ同じところじゃん」

「違うのよ、わからないのね」


 わかりっこないよと口のなかで私は言った。私は読書が好きだからジャズより多くの言葉を知っている。言葉は思考を象る。象られた思考の輪郭はすなわちそこに彼我があることを理解させる。私はつねに私ではないしどうじに私はあなたでもない。完全な同一はありえない。ただ読み取ることはできる。そういうことを学んでいた。ジャズはそれを理解していなかった。


「わかりっこないこともわかっていたから教えてあげるけれどね、あなたの行くところと私が行くところが同じかもしれなくてもあなたが行きたいとき私がついていくことと私が行きたいときあなたがついてくことは違うでしょう。バラードならわかるでしょう」

「まあわかるよ」


 私は床を蹴るように歩いた。


「それでなにがいいたいのさ」

「約束してほしいのよ」

「それを?」

「うん」

「わかったよ、約束する」


 繋いだ手をつねられていたからそう答えた。ジャズはニコニコしてつねるのをやめた。ジャズは私の前に駆けるとアニメみたいにクルッと回って振り向いた。


「じゃあ私の行くところについてきてね」

「うん」

「長老たちのところへいこう」


 そしてジャズはまた歩きはじめた。まっすぐ廊下の奥へと向けて。私は左手の木星を見た。タロットにおいて木星は審判を象徴する。そのことを私は思い出した。



 ○



 長老の住まいは船首側の奥にある。このまま進めばそこに行き着く。ジャズは迷わずまっすぐ歩いた。途中、大人たちとすれ違って挨拶をされても、会釈するだけでスタスタ歩いた。無礼を承知で彼女は進んだ。


「ジャズ」

「なによバラード」

「なにする気なの」

「わかるでしょう」


 ジャズはそれしか答えなかった。その様子からなにをしたいのか私は察しはじめていた。

 私は、彼女がまどろっこしいことをやろうとしている気がしたけれど、約束もあるし口にしなかった。頭の中にはある風景が浮かんでいた。最終的にはそれを実行すればいいと考えていた。

 行為の中に神は宿る。

 長老の部屋に入ると、正面の壁に架かった十字架に張り付けにされていた贄がかすかにながい眉毛を動かした。贄は年齢不詳の毛の長い男性である。私たちは贄にお辞儀をした。

 長老室は円形の部屋で家族組の代表が全員集まってもなお余りある大きさを誇る。手前には円卓があり奥には椅子がある。その足元に長老はひざまずいており、頭上の十字架に祈りを捧げているようだった。

 ジャズは私の手を握ってきた。ジャズの手は少し震えていた。私が握り返すとジャズは私を見て小さく頷いた。怯えていてもしなければならないと決意したようだった。


「長老様」


 ジャズが呼びかけると長老は緩慢な動きで振り向いた。代々の長老に受け継がれてきた聖職衣がたなびいた。


「どうしたんだね、ジャズ。バラードも」


 長老は巨大なかぼちゃから首が生えたような姿をしている。膨れ上がった胴体は延命措置の副作用だ。がん化させて機能させ続けている内臓の細胞が過剰分裂している。そのせいで喉も圧迫されており、声はシミュレータで亀に人間の言葉を話させたときのようだった。


「お話があります」

「なんだね、ジャズ」

「神様のことです」


 長老は重たく垂れていたまぶたを持ち上げた。白く濁った瞳が驚きを示した。


「どういうことだね、ジャズ」


 まあ座りなさいと長老は自分がいた場所の近くにある椅子を引いて座るよう示した。私とジャズはそっちへ歩いて腰を下ろした。長老は私たちの向かいに腰を下ろした。椅子がぎちぎちと床に食い込んだ。


「神様について、なにを話したいというのだね」

「私たち、神様が宿るものだと理解したんです。神様は降臨するものであると。神様は実在しないのです」


 長老様は信じられないものを見るように私たちを見た。それから贄を見上げた。贄は静かに私たちを見下ろしていた。長老は再び私たちを見た。


「神様は……そこにいるじゃないか。降臨したりはしないのだよ、ジャズ」

「けれど私たちは見たんです」

「ジャズ」


 説明しようと口を開いたジャズを長老が制した。それから、聖職衣の下をごそごそやると、その大きな手にはとても小さな聖書を取り出した。そのどこかのページを開くと長老はジャズに手渡した。


「マタイの六、その第一節にはこう書かれている。『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません』。私たち第六移民船の教訓としてこれが守られてきたのは、善行を日々積み立てることこそが大切なのだということを真理だと理解してきたからだよ。いいかね……」

「はい」


 私といっしょにジャズは頷いた。


「私たちの船には贄がつねにあった。言葉を発さず、身動きも取らず、しかし不変であり続ける贄が……これが神様の御使いだと初代の長老は考えた。そして私たちは贄を通じて神様に見られていると考えた。贄こそが神だ、と。

 贄の苦しむときあれば私たちの行いに誤りがあると考えられ、それで私たちは七世代に渡り安寧を得てきたのだ。それは、教えが正しいことを示す」

「本当にそうでしょうか」


 ジャズは声を震わせながら言い返した。


「聖典にはなにが正しいか示されていません。もちろん、船がいままで取ってきた方針に誤りがあったと言うつもりはありません。しかし我々の目に真実はつねに一面でしか現れません。もう一つの一面があるのではないかと私は思うのです」


 長老は困った顔をした。それから私のほうを見た。私はゆっくりと首を横に振った。長老は溜息をついた。げっぷのような溜息だった。


「公会議を開こう」


 それが長老の答えだった。


 公会議は各家族組の長の出席で開かれる会議で船の方針について話し合うものだった。本来の意味で用いられるのはおそらくこれが最初の事態だった。長老は家族組を呼び出す間ずっと困った顔をしていた。ジャズは不安そうにしていた。私はどうなるか予想がついていたからジャズに耳打ちしてこういった。


「ジャズ、わたしは公会議は無駄だと思う」


 ジャズは困惑した様子で私を見た。


「わたしたちだって神様が宿っているところを見たから神様が降臨するものだと確信したでしょう? 言葉でどうにかなるようなもんじゃないわ」

「でもバラード、それはあんまりよ」


 ジャズは私の手にすがりついた。


「一緒にいてくれる約束でしょう?」

「同じところに向かう約束はしたけれど、それはずっと一緒ってことを意味するわけじゃないでしょう?」


 私の言葉にジャズは目尻に涙をためた。私は溜息をこらえてジャズの金髪を撫でてそっと額に口づけした。ジャズは私に抱きついた。

 ジャズは臆病だ。そのくせ頑固だ。理想主義者でまっすぐだった。現実主義で無駄が嫌いで怠惰な私と逆だった。ジャズは上目遣いに私を見た。


「一緒にいてくれないのね」

「悪いけど」私は目を伏せた。「無駄だと思うから」

「でも、最後は同じところに行き着いてくれる」


 私は小さく頷いた。

 ジャズは私の額に口づけし、いってらっしゃいと言った。

 行き先をジャズに伝えたあと、私は長老と贄に会釈して、部屋を後にした。

 




 制御室に入ってきたジャズは泣きべそをかいていた。コンピュータの前でシミュレーションを走らせていた私にジャズは走り寄って抱きついた。そしてわんわんと泣いた。

 わかっていたことだったが、大人たちは彼女の言葉を聞き入れるつもりはなかった。はじめから、いかにジャズを説得するかと腐心していたそうだ。

 大人たちは幻覚や夢をまず疑い、脳解釈術と俗称される神経の発火パタンの読み取り診断をし、ジャズの体験が肯定されると今度はそれを未知の病気だと主張した。

 これにはジャズも反発した。家族組の長からかけられるやさしい暴力にもめげず、ジャズは外部カメラの映像を調べるように求めた。

 第六移民船は周囲を三百六十度全体を観測できるように外部に向けたセンサ類があり、観測記録はつねにつけられている。移民先の惑星へのルート調整を怠ることはできないし、飛来する隕石類やデブリの観測も急務である。センサ類は移民船の命綱だ。とうぜん、そこにはジャズとともにみた木星の景色が存在するはずだった。

 しかし、私たちが木星を見ていた時間帯にはセンサ類はエラーを起こしており、記録が一部消失していた。ありえてはならないことだったが、機械である以上エラーも生じる。ありえないことではなかった。

 それがちょうどジャズの証言を否定するような形でなければジャズも納得していただろう。しかしジャズは、彼女の訴えを退けるために大人たちが謀ったのだと非難した。誰かがその時間帯のデータを削除したのだと。通常どおりセンサ類は動いていたはずだと。

 これは悪手だった。センサ類の異常は移民船の出発以来初めてのことだ。大人たちはプライドを傷つけられた。そしてジャズと私に、混乱を招いたとして謹慎を命じた。

 移民船で謹慎といえばつまり船尾の倉庫での一週間のお勤めを意味する。誰とも会うこともなく、誰とも話すこともできず、食事も最低なものを与えられる。つまり、与えられる食事の原料となる栄養ペーストを無加工そのまま、だ。

 子供に対してやりすぎだという非難の声もあったらしいがジャズの頑なな態度が拍車をかけてしまったらしい。


「バラード、ごめん、本当にごめんね」


 巻き込んでしまったことをなんども謝るジャズを抱きしめて私は頭を撫でた。わかっていたことだったからだ。大人たちは信じない。自分の世界を維持することが彼らにとって最も大切なことだからだ。


「いいよ。大人たちはくそったれだ」


 そう口にしたとき、ふと私は自分がこんな言葉遣いをしていたか疑問を抱いた。


「くそったれ、ってなに?」


 ジャズはキョトンとしていた。確かに、私はくそったれの意味を理解していた。しかし考えてみたら、そんな言葉、この移民船で聞いたことはなかった。だから私は首を横に振るしかなかった。


「くそったれはくそったれだよ」

「くそったれか」

「そうだよ。大人たちはくそったれだ」

「くそったれだ!」


 ジャズは大声を出した。

 驚いてジャズを見ると、目から涙が引っ込んでいた。

 ジャズはけらけらと笑い出した。

 私たちはコンソールに体を預けて二人で抱き合って、笑いあった。

 くそったれと口にするとき気持ちよかった。

 胸がすっとした。

 くそったれという言葉は神からの贈り物だと私は思った。きっと私の知らない言葉を与えることでより正しく世界を見つめられるようにしてくれたのだ。

 ひとしきり笑ってから、ジャズは立ち上がった。そしてコンピュータの画面に表示されたシミュレートの結果を見つめた。三十秒ほど経ってから、ジャズはわからない、と目で訴えた。ジャズは数学が苦手だった。


「木星の大気流のシミュレートだよ。移民船のコンピュータなら木星全体をエミュレートすることができる。どのような条件ならあの結果が出るのか調べていたんだ」

「ふうん……でも、そんなことできるの? 科学の学びのときは、木星の大気流やその諸現象は解明されないまま、人類が散逸したため正体不明だって聞いたけど」

「わたしたちだって脳解釈術を使っているだろ。それは神経パルスがどうして生じるか、どのタイミングでどのように生じるかのメカニズムを理解しているからじゃあない。脳を含む身体をまるごとエミュレートすることで、どのような刺激が与えられれば同一の神経発火パタンが見られるかを見ているだけなんだ」


 ジャズは生物学で見せられた猫のネット動画そっくりな顔をした。


「パソコン使っただろ大人たちは。ジャズを調べたとき」

「くそったれ!」


 ジャズは突然叫んだ。怒りを思い出したらしい。ジャズはごめんと謝って、うんと頷いた。


「あれと同じことを木星に対してやったってこと」


 なおのことジャズは猫のような無関心を表した。たまに私は彼女が現実主義ではないかと疑う時がある。いまがそうだった。


「つまり木星に神が宿った瞬間を再現することができれば、私たちが見た神の降臨をみんなに見せることができるってことだよ」


 ジャズは戸惑ったように私を見た。


「それって不可能じゃあないの? だって、木星に対して特定の状態を惹起するために必要なエネルギーって、途方もないものじゃあないの」

「うん。だから、その幻覚を見せようと思っているんだ」


 つまり、すべては脳解釈術がキーなのだ。

 私たちが見たものと同じものを人びとに見せることは不可能だ。しかし脳に見たと思わせることは可能だ。

 私たちがなにかを見たと思っているとき、それは外界から与えられる刺激を身体の諸反応によって再現しているにすぎない。当然、外界からの刺激は認知に一致しない。つまり、あるものを見落としていることもあるし、逆にないものを見ている場合もある。

 すべては脳に帰着する。


「私の生体記録を用いればどのような神経発火パタンを与えればいいかは特定できる。だけどそれだけだと一般性が不足するから、このデータをもとにコンピュータ上に身体をエミュレートする。エミュレートした身体にどのように木星の風景を見せれば得たい変化が得られるかをシミュレートすることで、本当にほしい反応が求められる。それがわかれば必要な化学物質の組み合わせも求められる」

「よくわからないんだけどさバラード、さっきやってた木星のシミュレーションじゃ足りないの?」

「私たちはご飯を食べて、散歩に出て、それから木星を見たよね? 私たちに起きた反応は要素が複雑なんだよ。どれがどのように作用するのかわからない。厳密に特定しなくちゃいけないんだ。それも、みんなに対して再現したいとなると……」

「けっこうめんどくさいわけだ」


 ジャズはそう結論づけた。私は頷いた。それから、私は考えていたことを話した。どのようにみんなに木星を見せるか――すなわち神を見せるか。私の話を聞き終えると、ジャズはますます渋い顔をした。


「本当にそれは正しいことなの?」


 ジャズは両腕の肘を両手でそれぞれ掴んでぎゅっと自分を抱きしめた。怯えている様子だった。


「そんなことをしたら、大変なことになるわ。なにが起きるかわからないじゃない」

「わたしたちだってなにが起きるか解らなかっただろ」


 私は言った。


「でも神様が宿っているところを見た。それは正しいことなんだよ。今日だって、贄は私たちが部屋に入っても苦しげな顔をしたりしなかった。ジャズの公会議の最中もそうでしょう」


 ジャズは頷いた。


「わたしたちが神様の降臨を見たことが運命づけられていたとするならば、わたしたちがこうすることも運命なんだよ。ジャズ」


 ジャズはつま先を見た。それから、いっしゅん、背後を振り向いた。ふたたび私の目を見た。わたしはジャズと見つめあった。ジャズは頷いた。


「そうね、バラード」


 ジャズはわたしの手を握った。


「私たちの行くところ、おなじだもんね」


 わたしは頷いた。



 ○



 私はひと晩かけて必要な化学物質の組み合わせと必要な換気制御を特定した。群衆の移動をシミュレートし、それがごく単純な誘導によって実現することを確かめた。

 これほどうまくいくなんてありえなかった。コンピュータにより再現された現実は現実そのものではない。複数の要素が関わる特定行為への誘導はきわめて成功率が低くなる。それなのに、試算は確実な成功を示した。

 しかし私は納得もしていた。私が見たものが奇跡であるならば、それを再現しようとする試みに奇跡が起きてもおかしくはなかった。

 プログラムを組んで、手はずを整えた。私はジャズと抱き合って、制御室で夜を過ごした。大人たちはわたしたちの居場所を理解していただろう。だけど、特になにもしなかった。後から知ったことだが、このときからずっと、贄が恍惚とした笑みを浮かべていたため、大騒ぎになっていたそうだ。

 そしてわたしたちは奇跡を起こした。



 ○



 バラードとジャズの公会議から一夜明けた昼食の時間に計画は発動した。誰彼となく、船内に奇妙な芳香が漂っていることに気づきはじめた。誰かはそれまで気づかない程度に匂いのもとが撒かれていたのではないかと推定し、あるものは新たな植物の開花があったのではないかと考えた。いずれにせよ原因を調べるために大人たちが廊下へと出た。そして彼らの誰もが、窓辺に集まり、足を止めた。そして誰ひとり戻らなかった。

 大人たちが戻らないことに気がついて、ほかの大人たち、ひいては子供たちも廊下に出た。そして窓の外の宇宙を、どこまでも続く暗闇と、彼方にみえる星々の光。そして木星が反射する太陽光――それらを見るうち、彼らはみな船尾側に集まった。

 彼らの誰もが、芳香の正体に最後まで気づかなかった。それが幻覚作用や心理誘導作用をもつ物質を気化したものであり、自身の行動はその薬理作用をもとに換気の状態や周囲の人の行動によって誘導されたものだとわからなかった。彼らは木星を凝視していた。

 木星ははじめただ蠢いていた。普段のように。木星表面は五千キロもの厚みを持つ大気に覆われており、表面の対流圏では生成する雲は吹きすさぶ風によってつねに流されている。その風もまた領域ごとに異なる秩序を持っている。ジェットに区切られた領域ごとに、赤斑だとか、大渦だとか、そういったものを生じていた。それはひとつの生命のようだった。あまりに巨大な生命だった。すべてが現象に過ぎなかった。しかしその現象には過去から連綿と連なる未来が示唆されていた。

 流転が生成し消滅し再び消滅し生成するトートロジーめいた情景はしだいに観衆の脳に慣れを生み疲労ももたらした。誰もが多かれ少なかれ疲れを抱いた。しかし奇妙なことに眠気を感じなかった。心地よい倦怠感だった。そのなかで人びとは個を忘れはじめた。ただじっとものを見る集中力の中に自己があり自己を自己が見つめるメタ的視点が無限に連なりはじめた。人びとは蠢く赤と青と白とに見たことのない地球の青空を連想し、噴出するマグマを連想し、それからカマキリの孵化を連想した。知らないはずの景色を彼らは思い出していた。彼らはその風景の中にみずからの生誕と成長とを見た。そして神の不在を理解した。

 そのとき、神は彼らに応えた。薬理作用に神は宿った。神は彼らの意識に神を刻みつけた。彼らの視界のなかで木星はフラクタル構造を表現した。六角形と五芒星と正方形と正三角形の無限の連続が色とりどりのガス雲の制御により生じた。彼らは視界のすべてに木星を見た。ちっぽけな自身が宇宙に放り出され木星に落下していくさまをみた。そしてフラクタルの中に取り込まれみずからも繰り返されるものだと理解した。

 いのちは流転し生成し消滅しそれこそが永遠なる神の影であると。

 人びとは窓をたたきはじめた。木星こそが還る故郷だと知ったからだった。窓は割れなかった。理解するやいなや大人たちは窓を破壊するすべを模索した。制御室へ行き彼らは窓の一部を開放することにした。そうして、長老を含め、多くの人々が宇宙に放り出され、木星を見ながら絶命した。

 大量死が生じたのは第六移民船だけでではなかった。異なる運命をたどって木星周辺を航行していた移民船でも、同時期に同様の計画が発動されていた。数万に減少していた人類は、この同時期に発動した計画の連鎖により四千と少しにまで数を減らした。移民船は三〇隻存在していたが、大量死を免れていたのは先行あるいは追随していた一二の移民船のみだった。

 バラードとジャズはすべてが終わった後目覚めた。彼らは木星へと落下し続ける無数の肉体を見て、成功をたしかめた。そのとき、船内では船首から笑い声が聞こえていた。二人は船首の長老の部屋に向かった。そしてそこで、贄が大声で笑っているのを見た。贄の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。贄はバラードとジャズの来訪を祝福しているように見えた。

 その後バラードとジャズは救助にきた第三移民船に移籍した。そこで二人は、第六移民船の文化を伝える使命を与えられ、歴史家となった。贄がどう処分されたか彼女たちは知らなかったが、しかし贄は船とともに破棄されたことだけは伝えられた。二人は著作のなかで、贄は木星に帰還したと記した。

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