夏の魔物

きさらぎみやび

夏の魔物

 夏には魔物が住んでいる。

 そいつは最高気温39℃越えの日でもぴんぴんしているんじゃないかと思う。


 全力で冷房を効かせて温度に対抗している電車を降りたとたんに強烈な熱気が襲ってきた。


「うへぇ」


 自分でも分かる情けない声を上げながら私は改札口へ向かう階段を上る。

 あまりの気温差にくらくらしてきた。



 人波であふれる駅の改札を抜け、駅前の予備校へ向かう途中で憧れの顔を見つけると、私はさっきまでのへろへろ具合はどこへやら、慌てて除菌シートで汗をぬぐって駆け出した。


「おはよう、高瀬くん」


 追いついてから声をかける。彼は振り向くとおはよう広橋さん、と返事を返してくれた。それだけで今日一日がいい日になりそうな気がするから不思議だ。


 普段は女子高に通っているけど、夏休み期間の予備校の夏季講習は付近の高校生が集まってくる。もともとあんまり乗り気じゃなかったのだけど、夏季講習最初の合同説明で彼を見かけてからは私の夏季講習にかける意気込みは一気に燃え上がった。情熱の向く先が勉学の方向性でないことは確かだから親には申し訳ないとは思うものの、17歳の夏だって人生に一度しかないのだ。恋に燃やしてなにが悪い。


 とはいえ予備校でいきなり逆ナンパができるほど私も図太いわけではない。たまたま一緒の授業になったときだけ、なるべく近くの席に陣取ってみるくらいしかできていなかった。

 それが昨日、あまりに冷房のあたる席を選んでしまったがために体が冷え切ってしまい、廊下のソファで震えていた私に、なんと高瀬くんの方から大丈夫?、と声をかけてきてくれたのだ。


 お願いして買ってきてもらったあったかいコーヒーで回復しているうちに次の授業が始まりそうになってしまった。

 どうにかその時出来たのは、


「あああ、あの私広橋って言います。ええと」

「あ、高瀬と言います」

「あの、コーヒーありがとう。あとでちゃんとお金返すから」

「いいよ別に、気にしないで」


 というやりとりだけだった。


 だから今朝のやり取りは、私にとってみればとてつもない前進だったのだ。



「いいかお前ら、この夏は勝負の夏なんだからな!」


 講師の先生が教壇で声を張り上げている。

 勉強に身が入っていない私だけど、勝負の夏だというところだけは深く同意できた。

 予備校の夏季講習の日程も残すところあと一日。それまでにどうにかして高瀬くんの連絡先を聞き出さなくてはならない。


 と、思っていたのだけれど。


 今日一日あればどうにかなるだろうと思っていたのが甘かった。元々志望コースが違うのは分かっていたけれど、見事なまでに受ける授業がかみ合わない。授業が終わる度に教室を出て探し回るのだけど、やっと見つけたという時には次の授業が始まる始末だった。


 頼みの綱の昼休みの時間も普段はお弁当なのに、今日に限って友達と外に食べに行ってしまった。聞こえてきた友達との会話では夏の暑さで母親がお弁当を用意する気力がなかったから、とのこと。


 くそう、夏の魔物め。


 結局今日一日のすべての授業が終わるまで、高瀬くんとちゃんと話す時間を見つけることは出来なかった。


 がっくりと意気消沈したまま冷房の効いた予備校から外へ出ると、ふたたびあまりの温度差に私は気持ち悪くなってしまった。頭がくらくらする。今日一日やたらと動き回っていたのが良くなかったのかもしれない。


 ガードレールに掴まって、しばらく休んでいると


「広橋さん、大丈夫?」


 と声がかかる。

 顔を上げると、心配そうに高瀬くんがこちらを覗き込んでいた。


「ごめんなさい、ちょっと頭が痛くなっちゃって。大丈夫、休んだら少し良くなったから」

「とりあえず、駅まで送ろうか?」


 あまりの展開に、頭が痛いのだか胸が苦しいのだか分からなくなってきた。


 夢見ごこちで二人並んで駅までの道を歩く。

 改札まで来たところで、思い切って切り出した。


「あああ、あの、この間はありがとう。連絡先、交換しても?」


 彼は照れくさそうに、「うん、いいよ」とスマホを差し出してくれた。


 夏には魔物が住んでいる。


 良いやつではないかもしれないが、まあ悪いやつでもないんじゃないかと私は思うのだった。

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