捨神無尽ダストリア

@pershey

第1話 望外より来たるもの

俺は今まさに行き倒れようとしている。

名も知らぬ土地、人の通らぬ森の中、絶望に打ちひしがれそうになりながら歩く。


「なんでだ、なんでこうなった」


もはや自立の役には立たない左足を引きずり、杖代わりの木の枝に縋って、真琴は何度も自問していた。


俺は橋川 真琴(ハシカワ マコト)。

25歳のしがない会社員(独身)だった。

有能だとか無能だとか、そういった言葉で表すには特徴があまりにも不足している、平均的な資質の持ち主だ。

身長も普通、体重も普通。大学も中堅、スポーツもそこそこ嗜み、業務成績だって特に咎められるいわれはない。

生活だって爛れちゃいない。

朝は重量超過の電車に揺られて会社に行き、夜は家で夕飯を食べてテレビを見て寝る。

酒は付き合いで飲んだり飲まなかったりで、要するに、「平平凡凡な一般人」の典型例だった。


彼はそんな生活にある程度満足を感じていたし、当然ながらこの日常が変わる事を特に望んではいなかった。

しかし、"異変"と呼ばれる現象は――その中でも特に"災い"と言われる類の物は、

望外にやってきてそうした平和的日常を蹂躙するのが常であり、彼もその事実を十分に堪能する事になるのであった。


~~~~~


その日、上司から急に振られた仕事を残業で何とか終わらせた真琴は、最寄り駅に降り立つ。

草臥れたYシャツからネクタイを外し、首を鳴らすと疲れを自覚せずにはいられなかった。

家路を辿りながらいつものように晩飯のメニューについて逡巡する。


(あーあ、今日も疲れたな・・・。適当に惣菜買って帰るか。あ、牛乳切らしてたんだっけ)


買い物リストを作り上げながら近所のスーパーへ向かって歩き始める。


既に辺りはかなりの暗さになり、駅から徒歩5分のスーパーへ続く道は、ところどころが街灯に照らされ、ともすれば怪しげな雰囲気を醸し出していた。

真琴はその中を何ともなしに通っていく。

献立の組み立てに集中し始めていた真琴にとってこんな雰囲気など何の影響も及ぼさない、筈であった。


と、ここでまず一つ目の"異変"が起きた。

道なりにある街灯の電球が突然、全て同時に煌々と輝きだしたのだ。

爆発的な光量の増加により、まるでオレンジの太陽に向かって歩いているかのような錯覚に陥る。

その膨大な光量と不可解な現象が幻惑によって視界を奪っていく。

真琴は急な出来事に鞄を取り落とし、両目を強く瞑る。

瞼を貫通してなお、圧倒的な光が眼球を責めたてるのに耐えかね、真琴は両腕で顔を覆って立ち止まってしまった。


実際の時間にしてほんの10秒ほどであったろうか。


腕の隙間からも暴れがちに侵入して来ていた光は次第にその勢いを減少させ、異変の終焉を告げているのが瞼ごしに分かりはじめた。

光の爆発が収まった事にとりあえずは安堵し、恐る恐る目を開けると――――

そこにあるはずの道路とオレンジ色の街灯はなく。


俺は幾分かの経年を感じさせるタイルで覆われたトンネルと、

周期的に配置された松明の群れを視界の中に収める事となった。


この景色の変化こそが、真琴の体験した初めの"異変"。もとい"災い"である。


~~~~~~~~~


「えっ?」

と思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

不思議な事が起きて、目を開けたら良く分からないトンネルの目の前に・・・、なんて話は

リアルな世界じゃ聞いたことが無い。恐怖体験系のTV番組じゃあお馴染みの筋立てではあるのだが。


目の前で大口を広げているトンネルは、それを構成する床や壁のタイルの状態から察するに、

少なくとも建設から1世紀以上の時を重ねているように見える。


松明が目の前で煌々と光っている事を考えると、意外と人の往来はありそうだった。


「俺ん家の周りにこんな場所あったか・・・?こんなんが突然出てくるなんて今時の住宅地は変なギミック満載だな」


真琴はそんなことを独り言ち、平静を装いながらさっきの光の中で取り落とした鞄を拾おうとした。


無い。


さっきまでそこに現実感と重量を持って存在していたはずの真琴の鞄は、綺麗さっぱり消失していた。


まずい。このままではある事実を認めざるを得なくなってしまう。それはまずいんだ。俺は日常の中にいたい。

心の安寧を失う事態に直面し、冷や汗が真琴の脇の下から過剰に分泌されていく。

その時後ろから、ガサガサと"草むらをかき分ける"音が聞こえた。


まずい、まずい、振り向くな、振り向いたら「理解」してしまうから――


そうした理性の抵抗を無視し、恐怖と本能が真琴の体を回転させる。

まずその視界に飛び込んできたのは、鬱蒼と生い茂る樹木のカーテン。

蔦や草から分泌される咽るような青臭さと、どこかから漂う果実香のブレンドが鼻腔を刺激する。

遠くには猛禽類でもいるのだろうか、何かが飛び立つ羽音が真琴の耳朶を叩く。


真琴は三感を以て「未知の場所にいる」という事実を再確認せざるを得ず、

そしてその事実が一段と心の平静を奪っていった。


「ドッキリなら悪趣味だぞ?ここはどこだ?誰かいるのか?」


おおよそ答えを期待しない疑問が口をついて出ては、緑の暗闇の中に消えていく。

応える者がいない筈の質問はしかし、とある生物の出現によって解答がなされる事となった。


ガサガサと草むらをかき分け、緑のカーテンを鬱陶しげに振り払って出てきた音の主は、

異形というにはあまりにも見覚えのある頭部――西洋人のような顔つきの中年男性の貌を持つ一方で、

胴体は2mほどの漆黒の身体を持つ大きな鹿のような形を取っている。

尻尾は根元から10本ほどに分かれ、うねうねと意思を持った様にゆらめいているのが遠目でも分かった。


中年男性の貌は青白く、苦痛に喘いだように口が間断なくパクパクと動いていた。

ただの獣というには異様な要素が異常に多く、もはや"化物"と言っても過言ではないであろう。


異形の怪物を一目見た真琴は、瞬時に「何かしらの異変があって」「普通ではないどこか」に自分がいるという状況を理解してしまった。


あまりの異常な光景に一瞬固まる真琴であったが、次の瞬間、それまで口の開閉を行っていただけの中年男性の貌が

「アアァァァァァァアァッァッッ!!!!!!!!!!!!」

という絶叫を上げ、異形の鹿はこちらへ向かって猛スピードの突進を繰り出してきた。


「うわぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」

停止していた真琴の時間は怪物の絶叫によって再び動き始め、真琴自身も似たような絶叫をあげながらもかろうじて鹿の突進を交わし、地面に転がる。夜露に濡れた草木とそれらの根元を支える湿った土により、真琴の体は一連の回避動作で泥だらけになってしまった。


鹿はそのまま突進した先の大きな樹に激突し、半端に刺さった角を抜こうともがいている。

かなりのスピードと体重・そして低重心から繰り出される突き上げの威力には敵わなかったらしく、今や幹の部分が無茶な形に凹み裂けつつあった。


(なんだなんだどうなってんだまず目の前の生き物らしきものはなんなんだそもそも悪趣味すぎねぇか!?)


混乱した思考が矢継ぎ早に眼前の状況に対する疑問を投げかけるが、当然ながらそれに対する返答はない。

頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだったが、生命の危険を前にして思考を散逸させるのは最悪の選択肢である。

それだけは今の真琴にも十分理解できた。むりやり自分の思考の最終地点を一か所に持っていく。


(とにかく死にたくない!)


死への恐怖。それは生命がある限りどうしようもなく強く、そして統制力のある感情だった。


(…まずは逃げ切る事が第一、あのタックルは多分喰らったら死ぬ、命が一番大事、状況理解はそれからだッ)


死への恐怖への優先度が上がったことで、ある程度だが落ち着きを取り戻す。

湧き上がる疑問はひとまず脇に置き、真琴は目の前のトラブルを脱出する事に全神経を傾ける事にしたのだった。

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