第7話 鳥籠の鳥、恐るべき監視者

私はエカテリーナだけれど、前世の千早としての記憶を取り戻した私が優先的に考えるのは、個人の人権や尊厳について。


千早として人権を学んだ日本国と、後世異世界ドルネシア帝国では人権意識や文化そのものが違うため、同一に語ることは出来ない。


だけれど、普遍的人道主義の見地に立ってみれば、文化価値観は違えど個人の自由や尊厳は同じく等しいものであり、絶対に守られなければならないものであるはず。


前世では人権の尊重なんて当たり前でろくに考えたこともなかったのに、この世界に転生してまず最初に浮かんだことが「どうやって自分の人権を守るか」なのだから、全くおかしな話だと笑えてくる。


もっとも、ユニセフやアムネスティーインターナショナルのような人権団体と違って、他者の人権を守るための行動を起こすほどの気概はない。いつかは、いずれはと思うが、されどもまずは自力救済が先決だ。


前世世界で人道意識が急速にではなく、ゆっくりと時間をかけて醸成され、ようやく基本的な価値観や倫理観となったように、この世界でもいずれは前世21世紀のように発達していくのだろう。


ならば今は自己保身、自己の幸福追求こそが最優先課題であると認識する私は、だからこそ皇族の身分を脱出したいと願う訳だけど。


記憶の回帰以前から嫌だ嫌だと思っていた政略結婚は当然断固として拒否。絶対にありえない。


義務の兵役もまもなく終わるが、最後の試験も出来れば避けたい。恐らく避けることは出来ないだろうが、その後の軍へ任官はご免だ。


そもそも軍隊に入ろうだなんて思ってしまった自分が信じられない。かと言って、やっぱり軍には入りたくないなんて今更言い出す訳にもいかないし、急にそんなことを言い出すのは、ただの聞き分けのない我儘な子供だ。


千早と私の共通項は政略結婚を避けるという一点だけ。


これまでのエカテリーナという自分はドルネシアという祖国を愛するパトリオットであり、帝国という国家機構を信仰するナショナリストでもあった。


千早も生まれ育った日本に郷土愛とも呼べる感情は持っていたが、ナショナリストであるかと聞かれれば否定する。


千早としての私は学んだ歴史から、行き過ぎたナショナリズムが国家に利用され、また国家に煽動されたナショナリズムが結果として数多くの悲劇を起こした事実を知っている。


政略結婚を避けるための手段としての任官は有効だろう。この世界に生まれ育った時から千早の記憶を有していたとしても、他に選択肢がなければそうしていたかもしれない。


だけどこれまでの私は、そこから更にキャリアを積み、国家を維持するための装置の一部品として自らを捧げようとしていた。


帝国に貢献しようと熱意あるエカテリーナ・バラシオンのままであればそれも吝かではなかったのだが、今の私は千早でもある。


国家を守るための軍隊を否定するつもりはないし、自己犠牲的に国家へ軍へ奉仕する軍人達は尊い役目と責務を負っている尊敬すべき人達だ。


しかしその役目は熱意ある人達に任せておけばいい。前世の記憶が戻りが覚めてしまったエカテリーナが背負う責務ではない。何より千早は帝国に愛着も無ければ、ナショナリズムの殉教者になるつもりもなかった。


こうして自分の現状や意識ばかりが段々と明白になっていくけれど、肝心の逃げ出す算段だけがまるで立たない。


ただ思案にばかりくれて、元は参謀本部の情報将校ミリタリーインテリジェンスで、今は近衛師団司令本部付きの参謀将校でありながらエカテリーナ監視の任務——表向きは侍女——に就いているユリア・ニコリスカヤ大尉に、思い切り腹を探られてしまうはめになった。それも探られて痛い腹を。


エカテリーナの評するユリアという人物は、知性的で頼りになるが恐ろしい女性だ。


日頃のユリアは寡黙とまではいかないが、口数少なく物静かな女性だ。だがそれだけでは恐ろしいとは言えない。私がユリアを恐ろしいと感じる理由、それは彼女の持つ情報将校という肩書にある。


情報というものの価値は、軍隊の近代化が進むと共に高まってきた。中世、近世のように、ただ軍勢をボードゲームの駒の如く前に進めて戦う時代は過ぎ去り、今では高度に近代化された軍隊に情報は必要不可欠なものとなる。


その必要な情報の収集、分析、処理を担当するのが情報将校だ。


国家戦略規模での周辺国の情勢、戦略戦術規模での敵部隊の規模、配置、周辺住民の民族構成や感情など、作戦行動に必要と思われるありとあらゆる情報を扱い、軍隊の持つ戦闘能力を十二分に発揮させるための支援を行う。それが情報将校。


情報将校とは情報の収集分析能力に長けた、情報戦のエキスパートだ。言い換えれば知性を武器に戦う軍人とも言える。


そんな人間がよりにもよって侍女として自分の間近に配置されているのだ。きっとユリアは自分のちょっとした愚痴や軽口から、そこに含まれる本当の意を汲み取ってしまうだろう。


日頃の生活における侍女としては、これほど優秀な人材はいないだろう。何故ならカーチャが何かを望む時、それを口にする前に先回りして用意しているのだから。


それまで軍人として過ごしてきたユリアにとって、侍女として誰かに仕えた経験など無いのだろうに、これほどまでに気が利く使用人として振る舞えるのは、やはり持ち前の知性や器用さが一因なのかもしれない。


人格的にもユリアは問題はなく、積極的に仕える主である私と交流を持とうと努力もしている。


時に真剣に悩みを聞いてくれるユリアは、侍女として古き伝統でもある貴族令嬢の姉代わりの役——貴族家の令嬢では基本的に侍女ではなくホームメイドであるが——さえも果たそうとするのだから、とても仕事熱心で素晴らしい使用人だ。


そんな使用人だからこそ、つい気を許してしまいそうになり、忘れがちになってしまうのだ。ユリアが情報将校であることを。いや、記憶が戻らなければユリアの存在と情報将校という肩書は問題にはならなかった。


軍部に属し今では皇室庁とも密接に関わるこの情報将校の任務を推測するに、私の動向を監視し、逐一軍や皇室庁へ報告することだ。


私的にそれは決して愉快なこととは言えないが、かつて何代も前の時代、時の第一皇女がに唆され、皇位を皇帝から簒奪しようと試み失敗して処断された事件があった。


事件の衝撃度から未だに国民に広く知られている「皇女事変」以降、皇帝直系の女性皇族は皇室庁と陸軍近衛師団を中心に、常に行動の監視、思想の把握が行われている。


表向きはそのような監視は行われていないことになっているが、最早公然の秘密と言えた。だから私も監視されていて当たり前のことであると割り切っているし、自分の思想には何の問題もないと確信していた。


だがこれからは違う。帝位簒奪など夢にも思わないけれど、自分が「皇室離脱希望」だと近衛師団に知られたらどうなるのだろうか。過去に結婚以外で皇室を離脱した者がいない現状、予想はつかないがとびきり厄介なことになりそうだ。


計画が立つまで、そして段取りを整えるまで自分の願望は誰にも知られてはいけないものだ。


だからこそ、自分の感情や思想の全てを読み取らんと軍から派遣されてきた恐るべき侍女——些か無愛想なれど親切な姉のように振る舞い、「今朝の御衣装はこちらがよろしいかと思います」と朝食用のドレスを手に取って見せるユリア・ニコリスカヤ大尉——を警戒する。


千早・エカテリーナにとって彼女こそが、現時点における最大の障害であることは間違いないだろう。


皇室を鳥籠に例えるならば、エカテリーナという鳥を閉じ込め所有はすれども、眺めるばかりで一切面倒は見ない主人の代わりに世話をするのがユリアだ。必要な時に欲しい餌を与えてくれるが、しかし外へは絶対に逃がしてくれない監視者。


彼女が一つ、鳥がという病気に罹ったことを主人に報告すれば、逃げ場のないエカテリーナは即座に殺処分される。


歌を歌わなくなったカナリアに価値がないのと同じで、帝国の道具と成り得ない皇女もまた無価値なのだ。


それまで頼れる姉として、信頼のおける侍女として接してきた者が、価値観の変容と共に変貌して見えてしまう。


私はユリアに勧められたドレスを丁寧に断り、幼年学校より支給されている常装軍服を身に纏う。


昨日までと違い、最早牢獄の拘束着にしか思えない窮屈な装いであるが、この服でさえ現時点において、私なりの皇室に対する反抗の意思になる。


いずれ、豪華なだけのドレスや軍服ではなく質素な平服を着た自分を想像しながら、今は表向きの意思を侍女に示す。


皇室から軍へ移ることも、所詮は自分を閉じ込める鳥籠が変わるだけだ。鳥は自由に青空を羽ばたいてこそ、羽を持つ意味があると言える。


ならばこそ、私は――いや考えることはやめよう。


私は、自分を見つめ微笑む美しい侍女に微笑み返すと、ドレッサーの前から立ち上がった。


今はまだその時ではない。僅か数時間の思考で自由が得られるほど、自由ははない。


急いで無用心に動いて目の前の聡い軍人に悟られてはいけないのだ。


恐るべき強敵は目の前にいて、だからこそ慎み深く動くべきだ。必ず隙はあると信じて。


鳥籠にも扉がある。その扉が開く時を待てば良い。


鳥籠の扉が開かれる時が、自分の最後の時ではないことを切に祈りながら。

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