ぼくは人生で大切なことを学んだ


「何を言っているのかさっぱり分からないや。何かあったの?」


 佐藤さんは眉間に深いしわを寄せた。そして,大きく息を吸った。


「ばか! なつみさんの胸ばっかり見ていたくせに! コウシくんのえっち! 勉強が出来て優しくても,下心が見え見えで恥ずかしくないの? 男の人ってほんとに嫌!」


 あまりにも大きな声で佐藤さんが怒鳴るので,野次馬のように窓から身を乗り出して廊下に人の顔が集まった。ぼくは恥ずかしくなったが,ここで逃げるわけには行かない。ぼくは今日、なんとかして佐藤さんの心を動かすというミッションを自分の中に課しているのだから。


「そうか。三浦くんの家での事を言っているんだね。それで,不快にさせてしまったのなら謝りたいと思う。でも,ぼくにはそんなつもりは一切無いし,佐藤さんの見間違いという可能性はない・・・・・・」

「言い訳しないで!」


最後まで言い切る前に佐藤さんは正面にいるぼくを押しのけるようにして駆け出していった。「コウシが佐藤を泣かしたぞ」とか「何をしてあんなに怒らせたんだ」と言った声が耳に届いた。

確かに,何が佐藤さんをあんなに怒らせたのだろう。君たち野次馬のようにぼくにもその答えは分からない。だれか教えてくれたら良いのに,と思う。

 どうしたらよいのかも分からず,とりあえず席に戻ろうと教室に入ろうとした。中川くんと三浦くんは,まるで外国の映画の俳優のように,肩をすくめて両手のひらを天井に向け,お手上げのポーズを取っていた。



 学校が終わると,ぼくたちは三人で一緒に帰った。もうクラスの皆はぼくたちが一緒にいても好奇の目で見ることはなくなっていた。

 誰が何を話すでもなくぼくたちは歩いた。あぜ道が続く開けた場所で,あかとんぼを見ながら秋が深まってきたなあ,などと考えていたら,中川くんが口を開いた。


「コウシ、佐藤は何て言っていたんだ? あいつがあんなに取り乱して怒るなんて珍しいだろ。ていうか,おれ初めて見た


 それには三浦くんも同意した。


「確かに。佐藤さんが人のために怒るのは見たことがあるけど。中川くんが誰かをいじめた時とか」

「悪かったって。おれも反省しているんだ。これからはもっと人の気持ちを考えようとしているんだからさ。許しくれよ~」


 中川くんは手のひらを顔の前で合わせて三浦くんと話をしている。「これから次第だね」と三浦くんは楽しそうに話した。

 それでさ,と中川くんはまたこちらを向く。


「何を言われたんだ?」


 うんうん,と三浦くんもうなずいている。佐藤さんが何に怒っているのか気になっているようだ。


「それは非常に答えにくい問題というか,ぼくにもいまいち分からないんだ」


 中川くんはうんざりしたような様子を見せた。


「もうさ,この際分からないことがなんだって良いんだ。何を言われたのかを教えてくれよ」


 口に出すのは恥ずかしかったが,話すことにした。


「佐藤さんが言うには,ぼくの視線が気に入らなかったと言うことなんだ。具体的には・・・・・・その・・・・・・」

「なんだよ。コウシはむっつりスケベだもんなあ」

「ど,どうしてそんな風に思うんだい?」


 まさか中川くんに核心を突かれるとは思っていなかったため,舌が回らなかった。こういうことにかけてはどうやら勘が働くらしい。この手のことなら,中川くんの方が得意なのかも知れない。


「その,こんなことを言うのも何だか変なんだけど,三浦くんのお姉さんを見る目がいやらしかったみたいなんだ。それが,佐藤さんにどんな不都合なことだったのかは疑問なんだけれど」

「三浦の姉ちゃん,おっきいもんなあ。天は二物を与えずっていうけど,あれは嘘だよな」


 よくもまあ三浦くんの前でそんなことが言えるなと思う。案の定,三浦くんは顔を真っ赤にしてうつむいていた。まあそんな無神経なところが中川くんの良いところでもあるのかも知れない。


「それで,ぼくはどうしたら良いのだろう?」


 ぼくが中川くんを頼るのはこれが最初で最後かも知れない。それぐらいぼくは分からなかったのだ。

 

「何の話をしているのよ」


中川くんから返事を聞く前に,後ろから声がした。ぎょっとして振り向くと,そこには今一番会うのを先延ばしにしたい人が立っていた。



 赤とんぼが佐藤さんの周りをくるくると飛び交い,いかにも神秘的な場面を演出している。


「何の話をしていたの?」


 佐藤さんは仁王立ちして繰り返す。その姿は真夜中にいる神社の銅像よりも何倍も恐ろしかった。


「きっとまた男達でこそこそとスケベな話をしていたのね。もう知らない」


 そう言って風を切るようにしてひょうひょうと歩いて行った。

 しばらく進んだところで立ち止まり,くるりとこちらを振り返った。肩の上で切りそろえられた髪がなびく。少し遅れるようにしてスカートも世の中の物理の法則に従うようにしてくるりと回った。

 ぼくたち三人は身構えた。佐藤さんがぼくたちの横を通り抜けたとき,三人とも身動きを取ることが出来なかったため佐藤さんとの距離は三十メートルほどあった。

 佐藤さんの肩が持ち上がり、全身にくうきを取り込んでいるのが分かる。


「私だって,なつみさんみたいに素敵な女性になって見せるから! たくさん勉強して,本も読んで,出るところだってこれから出るんだから!」


 肩を上下に揺らして息を整えると,またきびすを返して去って行った。

 中川くんはほっぺたを赤くして,佐藤さんが立ち去っていく姿を見送っている。

 ぼくからこれからもたくさん勉強して,立派な大人になりたい。でも,どれだけ勉強したって,女心は分からないのだろう。この答えは世の中のどこを探しても見つからないのだ。

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小学生日記 文戸玲 @mndjapanese

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