あしたの俺は

ナロミメエ

 

 都市伝説だと思っていた。

 みんなだってそうだろう。



 大学時代、イケメンの友達が女に痴漢されたと言った。

 その場の雰囲気で、一様うらやましいとは言ったものの、言葉とは裏腹に、俺はそれに価値を感じはしなかった。

 価値というと語弊があるけど、要は痴漢というものを理解できなかった。


 それは別に、偽善めいた理由じゃない。ただ、くだらないと感じるだけ。

 触ったり、あるいは肘や局部を相手に当てるだけの行為が、そのリスクに見合った価値があるとはとても思えなかった。

 もっといえば、される方にしても、それほど大した痛手ではないのだろうと思っていた。

 でも、これに関しては大学在学中に考えが変わった。

 付き合っていた彼女が痴漢にあったからだ。


 彼女は尋常じゃないほどに傷ついていて、正直、その反応に戸惑った。

 高校時代、クラスの女子らは、嫌がりながらも痴漢体験をどこか自慢気に語り、それは明らかにステータスだった。

 だから俺は、彼女はよほどひどいことをされたのだと思った。

 だから知りたかった。

 彼女がなにをされたのか、知りたかった。

 でもとてもじゃないけど、聞けない。

 彼女から言ってくれるのを待つしかない、でも、待ち方がわからない。

 俺は、むしゃくしゃしていた。

 なにより腹が立ったのは、同じ大学の連中だ。

 奴らは「たかが痴漢にあったくらいで電車に乗れなくなったり、憔悴したり、そこまでのことじゃないだろう」などと、彼女にも聞こえるように言いやがった。

 思わず拳を握ったけど、当時の俺に、自分自身を殴るほどの勇気はなかった。

 俺は必死に彼女に寄り添おうとした。でも、彼女の気持ちは何一つわからず、近くにいればいるほど、遠くなった。

 まもなく別れ、時と共に忘れた。


 そして、就職した俺は現在、電車の中で痴漢にあっている。



 二駅目から始まったそれは、もう一分ほど続いている。

 女は、180センチの俺より10センチほど背の低い、黒髪ストレートボブ。細身の黒スーツでいかにも気の強そうな顔つき。見た感じ、俺より十は年上の三十代半ば。

 容姿は決して悪くなく、その色香が鼻をくすぐってくる。

 始めは驚いたものの、これはラッキーなのではと思った。

 自分をブサメンとは思わないが、イケメンでないのはわかっていた。たまたま体格には恵まれたが、女にちやほやされた経験はない。

 そんな俺でも、あのイケメンの友達のように、女に痴漢される日がきたのだ。

 もしかしたら、自分は案外イケてるのかもしれないと、心が踊り始めた。

 しかし、そう浮かれていられたのは初めのうち。まもなくして、自分の顔が歪むのがわかった。


 そう、痴漢とは、暴行なのだ。


 彼らは、自分たちの性欲を他人の体を使って満たす者たち。

 相手の体など、ただの道具にすぎない。


 歪んだ顔からは脂汗が滲み、まもなく、痛みから自然と涙が流れた。

 女性が痴漢を恐れ、その行為に苦しみ、心と体を傷つけられるということ。性別は違えど、たったいま、それを身を以て痛感した。

 大学時代の彼女だって、こういう思いをしたのかもしれない。

 あの時わかっていれば、きっと。


 とはいえ、このまま黙ってはいない。

 女性が被害者の痴漢とは訳が違う。

 なんたってこっちは、相手よりも巨大な男なのだから。

 痛みに腹も立っているし、この手を掴んで……いや、できない。

 途端に顔の脂汗が消え、代わりに背筋を冷たいものがすべり落ちた。


 大学時代、あのイケメンの友達が痴漢の話をしたとき、なんとも言えない表情だったのを思い出した。

 あいつも、今の俺と同じ思いをしたのだろうか。

 たとえそうだとしても、まだあいつの立場のほうが今の俺よりはましだろう。

 大学生なら、イケメンなら……いや、それでも今の世の中はまだダメだろうか。


 もし、俺が今この女の手を振りほどくとする。

 女はどうするだろう。

 気を悪くし、あろうことかあのセリフを叫ぶんじゃないか。

 もちろん俺は否定するし、抗議もする。

 しかし、物証はどうだろう。

 女の手には俺のDNAが付着していて、無理やりにやらされたと言われれば、コネでもない限り、間違いなく俺は有罪だ。

 会社は首になり、犯罪者のレッテルを貼られ、這い上がることを許されない社会弱者の沼へ真っ逆さま。


 ならばいっそ、このまま痛みに耐え、女が満足するまで暴行され続け、穏便に済ませたほうがいいのではないか。

 本当にそうだろうか?

 状況は同じじゃないのか?

 事を終えた女が、何も言わずに去ってくれるだろうか?

 もっと恐ろしいことにならないか?



 動く箱の中。

 たくさんの息づかい。

 たくさんの知らない顔。

 一緒にいるのに、誰もが自分一人だけ。


 被害者はどれだけいるのだろう。

 なにも知ろうとはしなかった。

 きっと俺だけのはずはない。

 俺だけ特別なわけはない。


 もしも無事に降りられたなら。

 もしも無事に逃げられたなら。

 撲滅運動にも参加するから。

 二度と電車に乗らないから。


 ああ、もうすぐ駅に着く。

 優しくない爪が食い込んだ。

 きっと手に取るようにわかるのだろう。

 どうやら、もしもはないのだろう。



 彼女は、どうしているだろうか。

 きっと傷ついたままで、この社会で。

 本当はたくさんいて、でも、言えなくて。

 言わないからいないが、都合よくて。


 そうして明日も電車は走る。

 たくさんの言えない傷を乗せて。

 あしたの俺は誰だろう。

 あしたの俺は、だれだろう……

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