四十三章



 金州穫司かくしから燕麦えんばくはじめ礼鶴らいかく軍が合流した。鎖南さなん斂文れんもん軍は高竺こうとく軍と合流し、そのまま悠浪平原を突っ切りろう州を抜けて帰領の途についた。

 二泉の使者が訪れたのは半月後、斉穹を自国に護送する軍と四泉泉畿せんきを訪泉する先遣の使節団に分かれ、沙爽に厚い謝罪と和解の奏上を述べると速やかに曾侭を離れた。四泉側は斉穹から聞き出した全ての真相を伝え、書面をしたためて二泉朝廷へ送った。



 二泉泉畿へ連れ戻された斉穹はその後、ひと月と経たないうちに死んだ。ある晴れた日の朝、下官が牢房を訪れたところおらず、探せば高楼の遥か真下の主泉に背を浮かべていた。外傷もなく溺れた様子もなく、ただ呆然とした顔のまま絶命していたという。皆口々に黎泉の天譴てんけんだと言ったが、真相は誰も分からず、生前あれだけ派手に武勇を飾った王の死に様としてはなんともわびしくつまらない最期であった。追降ついこう梟悖庶人きょうはいしょじん、しかし簒奪者さんだつしゃであったものの、数々の内乱を鎮め軍制を改革した功を鑑みて贈諡おくりなした。彼の気性をよく表したそれは烈海帝れつかいてい。本当の出身地である桂州に小さな塚を築き葬られた。







 とろりとした熱気が肌を撫で、燦々と照りつける陽を見上げた。戦の後片付けに追われてすでに季節は七月中気を過ぎ、じっとりと汗ばんだ額を拭って沙爽は曾侭の上歩道から閑地のさらに向こう、青々と広がる穂波を眺め渡す。思わず笑みをこぼした顔に、横で野牛をいてきた暎景と茅巻もまた笑い返した。

「いやにご機嫌ですね、泉主」

挿秧たうえが間に合ったようで良かったと思って」

 そうですな、と茅巻も目を細める。玄鳥つばめがそこかしこで風を切って飛んでゆく。まるでついこの間まで戦をしていたとは思えないような静穏とした光景だった。


 沙爽はあれから一旦、撫羊の遺体を泉畿へ持ち帰り、母親である泉太后と共にひとまず別れを告げた。彼女は大逆人として死後も裁かれるが、よう州での支持はいまだ根強く、民の反発も考慮して慎重な処遇が下される見通しだ。ずっとついていてやりたかったがそうも言っていられない。急いで曾侭へと取って返し、そしてこれから国を横断して牙族領へ向かわねばならなかった。


「早いじゃねぇか、孩子ぼうず


 馬上あらため牛上で声を掛けてきたのは侈犧しぎ。彼らは先行して團供だんきょうその他に安置している仲間の遺体を連れ帰る。沙爽も同行したかったが、いいさ、と笑われた。

「泉主さまに気を遣ってもらうほどじゃねえのさ。死体に詫びたってどうしようもない。俺らは死んだやつの為じゃなくてそいつらの家族の為に連れて帰るだけ」

 ちょっと侈犧、と隣で徼火きょうかが頬を膨らませた。

「冷たい言い方ねぇ。四泉主、気にすることないわよ」

 寂しげに笑い、それから後ろの姚玉ちょうぎょくを窺う。気の強い表情は変わらなかったが胸を反らして息をついた。

「四泉主を怨んではおらぬ。戦とはそういうものだ。母上の死はいまだ受け止めきれぬが、我らは進むしかないのだ。大事ない。ほれ、次期姚家大人たいじんもここにおる」

 姚玉の隣で姚絹ちょうけんが、え、と顔を強ばらせた。

「いや、俺はこれからも穫司に」

「もう身分もなにもかもばれてしまったではないか。それは諦めてくだされ叔父上」

「ええ……」

 二人の言い合いになおも苦笑していると、男が隣に牛を進めてきた。沙爽はその首を厚く巻いた布に驚く。

唯真ゆいしん、どうしたのだその怪我は」

 彼は曾侭に着いてから珥懿のもとで忙しくしていたから今まで落ち着いて話せなかったのだ。

 問われてああ、と眉を下げた。「二泉兵のなかに子どもがいましてね。我らに兄を殺されたと向かってきたのです。少し油断してしまって」

 唯真もまた哀しげに笑った。

「どちらも、沢山味方や家族を失いましたね……」

「そうだな……」

 でも、と笑う。「新たに多くの仲間ができました」

 励まされて頷く。

「そうだな。まずは私たちの同盟をきちんと完全なものにしなくてはな」

 そして、気配を感じて振り向く。ひときわ大きな野牛に乗るのは鉄面の麗人。曾侭であつらえた、季節を先取りした墨染め地に竜胆りんどうの花をぬいとった女物はおろしたてだ。

「暑くないのか」

 暎景が呆れたように言ったのを聞き咎めてぞんざいに手を振った。

「お前を見ていれば暑苦しさ倍増だ」

 なに、と色めき立ったのをいつものごとく茅巻がなだめる。沙爽はそれらを微笑ましく見やり、牛に跨った。







 大声で自分を呼ぶ声にはっと振り向き、しぜん笑みがこぼれた。豆粒のように小さいが徐々に近づいてくる見慣れぬ騎馬の群れ、先頭にいて手を振るのは銀の髪の主。



「――――瓉明さんめいっ!」



 近づく自分を白い城壁を背にして待っているのは四十手前の大柄な女、こちらが駆けてくるのを見て微笑んだのが分かった。


 牛を下りて息を切らした沙爽に再度笑み、瓉明は草むらに膝をつく。他の兵も同様にした。

「ご無事で何よりでございます。泉帝陛下」

 一斉に拝礼をしてみせた四泉軍に、王はやめてくれ、と鷹揚に言って彼女の手を取った。

「すごく久しぶりだ、瓉明。そなたもよく無事で」

「はい。しかし書簡を送らせて頂いておりましたので、あまり久しい感じが致しませんね」

 そうだな、と弾ける笑顔を見せたのに笑い返したが、痛ましげに首を振るともう一度頭を垂れる。

「……蓮君れんくんのことは、まことに残念でございました」

「……うん。しかし、悔やんでも仕方ない。いまはこの先のことを考えなければな」

 瓉明は驚いて主を見返し目を細めた。少し会わないうちに逞しくなった。

「こちらが牙族族主だ」

 追いついた黒衣の者が顎を引く。「牙紅がくという」

さく瓉明と。族軍をお貸しくださり感謝申し上げる。高竺どのと驤之じょうしどのにはかなり助けられました」

「なんの。四泉軍とて劣勢のなか目をみはる攻防だったと聞く」


 悠浪平原で瓉明軍は二泉軍の濠の罠や巧みな攻城戦に手を焼いたがなんとか戦況を盛り返した。勝敗決す前に敵軍は撤退したものの、平原に八万いた敵兵は半分ほどになっていたという。長大な城壁を守りながらほぼひとりで全軍を主導指揮した彼女は大胆に攻めつつ、弱兵ばかりで玉砕全滅だろうと言われていた損耗も六割ほどに抑え、さすがは禁軍将軍と言わしめるほどの働きぶりだった。


 瓉明は残念そうに首を振った。

「早い段階で穫司の将帥ぶかを失ってしまい痛手でした。なにぶん、他国との戦は私とて初めてで勝手も分からず己の手腕に恥じ入るばかり、死んだ兵に顔向けも出来ません」

 沙爽は口を挟む。

「そんなことはない。瓉明がいなかったらもっと苦戦していた」

「私があたふたと後手にまわる合間に儀同三司ぎどうさんしどのが各地に的確に指示を出してくださり感謝の極みにございます」

 そう言って顔を向けると、燕麦は困ったように頭を下げた。

「こんなにお若い方だったとは」

「申し訳ございません」

「ああ、違います。決して皮肉ではありません。泉主と儀同三司どののおかげで、私は水涸らしの汚名を被らずに済みました。ありがとう存じます」

 瓉明は戦時と平時で全く印象の異なる武人だった。いまは柔らかく笑って殺気もないが、軍を率いている時の勇壮果敢なさまは歴戦勇士の五泉の将軍でさえ唸らせるものだと有名だ。


 戦場の跡のいまだ生々しい白壁づたいに歩みながら近況を報告し合い、瓉明がでは、と一同を見回した。

「これからすぐに牙領へ?」

「ああ。最も重要なことを結局後回しにしてしまったから、急いでまとめなければ」

 言えば羨ましげについて行きたそうにして、それを配下が察知し渋い顔をされる。

「だめですよ、将軍。片付けが終わったら太后たいこう様にすぐ帰ってくるよう言われているのでしょう」

「う、うん。そうだな」

 沙爽はくすくすと笑う。「母上は相変わらず瓉明、瓉明か」

 お前もではないか、とぼそりと珥懿が呟いた。

 城壁の途切れまで来て沙爽は手を挙げた。

「瓉明、ではまた泉宮みやで」

「泉主。どうかくれぐれもお気をつけて」

 頭を下げた兵たちに見送られ、一行は西へと手綱たづなを振った。







 盛夏でも標高のある領地では泉地ほど蒸し暑くはない。そのかわりに肌を刺すような陽脚ひあしが昼のあいだ弱まることなく降り注ぐ。日中と晩の気温差の激しくなる時期、体を壊す者も多いが、領地は夏からが実りの季節である。子牛が生まれ早熟れの果実が採れる。そしてなにより祭もあり、人々は極寒の冬の記憶を一時忘れて楽しい忙しさに身を投じなければならないのだ。


 吸い込まれそうな青い空と光を散乱させて目に痛いほどの白い砂丘を背景に臨んだ黒い城で、少女は城壁沿いの小道を足早に駆け下りる。迷路を越え、水音の涼やかな沢を渡って甕城おうじょうへ辿り着き、少しだけ開けられている懸門もんの隙間から外へ滑り出た。

 馮垣かきねをすり抜け、ほりに架けた桟橋を渡り、閑地へと続く緑絨蒿けしの咲き乱れる広い道の前でようやく立ち止まる。

 息を静めながらあたりを見回す。木々の間から覗く広大な庭、杭が等間隔に並んだ草原は風に葉先をさざめかせつやめく。その向こうは晴れることのない深い霧と聳立しょうりつする岩の山嶺。

 その霧中がわずかに揺れたように思い、背伸びする。また。それで再び駆け出した。

 長い一本道、少し速度を緩めた足に、今度は確かに地響きを感じて顔をほころばせた。閑地に現れたのは野牛と馬の群れ、どれも毛艶が大変荒れている。早々にうまやに連れて行って手入れしてやらねば。そんなことを頭の端で思っている間に群れはどんどん近づき、待ち人に気がついた前列の者が声を上げた。


歓慧かんけいどの!」


 屈託ない笑みを見せた少年に呼びかけられて歓慧もまた微笑んだ。

「お帰りなさいませ、鼎添さま。よくご無事で」

 うん、と頷いたが、その肩にはきつく布が巻かれていた。沙爽だけではない。多くのものが傷だらけで、帰領の喜びで浮き立った顔ではあるがひどく疲れているようだった。

「急いで帰ってきたんだ。四泉からの使者も来る予定だから」

 沙爽はそう言いつつ牛を下りた。

「歓慧どの、乗るといい。怪我をさせてしまって、さすがに二人乗せるのは今は不憫だから」

 とんでもない、と手を振った。

「どうぞそのまま進んでください。私は歩けますから」

「しかし、わざわざ待っていてくれたのだろう?」

 泉主を歩かせるなど到底できない。押し問答になりそうな雰囲気になって眉を下げた。と、その横から別の手が差し出される。

 高い鞍座を見上げると、自らの主が少し不機嫌そうに騎上から腕を伸ばしていた。歓慧は驚いて大きな目をさらに広げる。

「当主……おぐしが」

 髪は胸下あたりまで短くなっており、結わえていないままさやりと風になびく。ついでに言うと面もしておらず、珍しい姿にしばし呆気にとられた。

「乗れ」

 有無を言わせない一言に内心ほっとして野牛の山のような肩にじ登る。前に乗せた珥懿は悠々とかかとを蹴った。満開の青い花の道を進む一群をみとめ、甕城で角笛が鳴る。地鳴りを立てて鋼鉄の懸門が上昇していく。

「お帰りなさいませ、当主!ならびに四泉主!」

 箭楼やぐらの上から跿象としょうたちが叫ぶ。しらせは連携して伝えられ、街の鐘楼も遠くで響きはじめた。


 ――――死力を尽くした戦士たちの凱旋である。







 申し訳ございません、と湯浴みした肌も乾かないうちに城を守っていた兵たちに詫びられ、珥懿は眉間に皺を寄せた。

 白い透けのある羅衫なつもの一枚で凳子いすに腰を下ろし、おもむろにたばこを丸める。

老茹ろうじょめ。どうやって自尽した。見張りを付けていなかったわけではあるまい」

 ひれ伏した兵たちはそれが、と萎縮する。

「針を隠し持っていたようで、気づいた時には」

「いつだ」

「は。牢に繋いでから、伴當はんとうや監老の方々が足繁く様子を見に来られていたのですが、昨晩夭享ようきょうさまがお会いした時には至極変わりはなかったと」

 今日か、と手の甲を額に当てた。隣に立っていた高竺が訊く。

「他の者は」

「変わりありません」

「引き続き見張れ。私が裁くまで死なせるな」

 是、と兵たちは退さがっていく。溜息とともに煙を吐き出した。

「まさかあの老茹が自ら命を断つとは」

 長靠椅ながいすに背を預け、丞必しょうひつが呆然として言った。主は疲れたように首を傾ける。

「これでは最後まで一族の恥晒しだ。私が自ら叩き斬ってやるはずだったのに、とうとう手を出させなんだ」

 高竺が憮然と言う。

「むしろ、老茹なりの責任の取り方だったのかもしれません。我々が直接手を下して、これ以上耆宿きしゅくの反発を招かないための」

 どうだか、と吸口を噛んだ。動かした頬の肉が少々削げているのを二人は心配そうに見る。

「ずいぶんお痩せになりましたね。ずっと水を飲むのを控えていたのですか」


 姚綾ちょうりょうの話を真に受けたわけではないが、泉地の水は極力飲まないに越したことはないと四泉滞在中のほとんどを塞水玉そくすいぎょくに頼った。水分を控えていたからしぜんと体が渇く食べ物も口にしなかった。


 珥懿は肩を竦める。

「そういうお前こそやつれた。傷の調子はどうだ」

 丞必は目を伏せた。

「腰と腹を両側から裂かれて多く血を失いましたから、炮眇ほうびょうどのからは生きているのが不思議だとまで言われました」

「さらにおとなしく寝ていればいいものを無理をするから」

 美女は俯いたまま微笑んだ。

「珥懿さま。見立てでは、私はもう子を産めないだろうということです」

「……そうか」

 瞳を逸らさずにただ見返した。

「以前申しましたように、元来私は子を得たいとは思っておりませんから、特に差し障りはないのですが。ですから珥懿さまのさいになるという万に一つの可能性も消えてしまいましたね」

「お前は立派に務めを果たした。その姿は私の誇りだ」

 丞必は可笑おかしそうにする。

「おありがたいですが慰めは不要にございます。そうですね、もし寂しくなったら子のいる寡男やもめのもとにでも後妻として行きましょうか」

「お前は城が好きだろう。なんなら私の彩影かげになってもいいぞ。一人いなくなるからな」

 高竺は険しく悲しい顔をした。

鞠訊とりしらべはほぼ済んでおります。……やはり、」

「聞かない。あれは私だ。私がこの手で葬り去る」

「……はい」

「四泉の使節が到着する前にきりをつけておかなければならない。早々に準備しろ」

 高竺と丞必は頭を垂れた。背反した者たちを裁かなければ自分たちも四泉と同じ場所に立って進めない。





 牙族の刑場はいくつかあるが裁かれる者の立場や罪状で使われる場所が違う。謀叛者百二十人弱のうちほとんどが耆宿院の者、罪が軽いと判断された者でもなべて一家からは排斥され、街区で定められた期間徒刑に服すか、領地を永久に追放となるかのいずれかだった。大耆たいき枯残こざんは叛逆者たちを全面的に支持していたわけではなかったが、長年くすぶる火種を知っていてなお全てを黙認していたことは民を主導する院の首長として許されざる怠慢であり信頼への裏切りとして斬刑しょけいが決まった。彼女自身もそれを望んだ。刑は他の重罪と定められた院士院生と共に東門の門前、砂利を敷き詰めた閑地において民に公開のもと行われた。


 黒い巨大な門は全て開け放たれ、門から真っ直ぐに伸びる石畳の向こう、集まった人々の頭に見え隠れして廟堂びょうどうが霞んで佇む。


 一族においては罪人の処刑も天に高覧されるべき儀式である。当主は皆の代弁者として力を行使することを公にし、式次第を全く正しく進行することを誓う。罪人を不必要に長く苦しめず、また、見守る民の同胞への信頼が裏切られたという怨みを増長させないために速やかに悪しき魂を断たねばならない。

 処刑人は当主が選出する。その身分は絶対に明かされない。ために真っ白な外套を着込み、面兜かぶとをつける。

 引き出されてきた者たちは山の方角へ頭を差し出してひざまずき、間隔を空けて列に並ぶ。それを端から執行してゆく。


 しんと静まり返る刑場、街の中にも民は溢れているがただ見守るのみ。ほんの時おり、ぼそぼそとかそけいた弔詩を呟いた。罪人とはいえ、安らかな終焉を祈るのが礼儀だからだ。彼らはめぐらない。天葬されず、砂丘に定められた墓地に埋められる。

 ただ聞こえるのは処刑人が刀を振るう音、振るわれて胴から離れたものが砂利の上を転がる音だけだ。じりじりと照りつける熱射、こんな時に限って風はなく、鼻をつくなまぐさい臭気が門前を包んでいた。


「――――私たちは悪くない!」


 沈黙を破り突如として中ほどにいる院生が叫んだ。

「私たちはただ民の為になることを考えてきた!こんなことを繰り返しても不満が消えるわけではない!私たちは、殺されなければならないことなど、なにひとつしていない!」

 群衆はざわついた。若い男はなおも叫び、訴え続けたが上げた顔を必死の形相にしたまま横から首を落とされた。手慣れた処刑人なら心が乱されはしない。ずっと口を開かせていれば民の同情を煽る。

 刑場は塋域えいいきと同じく神聖な場所、今際いまわきわくらい、己と向き合って欲しかった。珥懿は心の中で嘆息した。



 残念なことに、死ぬべき人間というのは存在する。珥懿はそう思っている。それは斉穹のように自覚して非道を行ない、条理を曲げるような者もいれば、他者がいくらいて聞かせても己の考えを矯正できず、自らの信じる盲目な正義の名のもとに酷悪を行う小物もいる。後者のほうが、自分は無辜むこだと思い込んでいる分救いようが無い。耆宿院にはそんな者が多かった。みな口々に民の為、一族の為『かれ』と。仮に彼らの言が真実正しいとしても、対立者をおとしいれ不意に襲撃し、殺すようなやり方は狡猾で卑怯な恥ずべき行いだった。



 罪人の遺骸が集められる。人波が門の内側へ戻り始めた。耆宿院の斬刑はこれで終わった。城に仕える由歩の刑はなべて城で行われる。族兵とは富貴なる誇り高い戦士、その分失態や裏切りに対する民の批判が強い。もともと民の間で、由歩で聞得の兵とは自分たちを守ってくれる存在として敬うべき対象だ。普段は一個人で見ることが少ないから、余計に罪を犯したのはどこの家の誰だ、となり風当たりが強くなる。ために大きくは罪人の親類縁者に対する私刑を予防し、その戦士を輩出した一家がそしられたり、迫害を受けない為に刑は公開されない。

 もうひとつの理由としては、由歩の濃い結びつきを考慮してのものである。同家出身の者が多数出仕している僚班りょうはん十三翼じゅうさんよくの背反は衝撃が大きい。彼らは民とは違い、役目を簡単に離れられないから罪人が兄弟であっても多少の融通はあれど時間をとって十分に話すことができない。領地外の任務に就いている者ならなおさらだった。最期に罪人に少しでも声を掛けたいという者も多くいる。由歩の斬刑とて儀式としては同じく神聖なものだが、この段階での見守る者の切な願いを無下にするのは道義に反する。


 式ではなるべく御岳みたけが見えたほうが良い。罪人の数にもよるが今回は城庭の西の広場で行われることになった。


 城に仕える由歩の叛逆者の罰は全て死刑に決まった。城の中枢陣にとって由歩と耆宿院の立場はかなり異なる。耆宿よりも近く深く重責を任せている仲間が裏切ったのだから、失望も怒りも大きい。


 静まり返った中で斬毅ざんきが膝立ちの男に平手打ちした。首を竦ませる痛ましい音が響く。

「この不埒者!十牙じゅうがの一にまでなったお前が。孟家もうけから一家をおこした逸材が、なぜこんなことに。なぜ儂に相談せなんだ!……馬鹿者……馬鹿者が」

 肩を揺すって悔しげに泣いた。芭覇ばはも震えながら瞳に涙をたたえている。

「私は、いつも頼もしい兄上が大好きでした。兄上の背を追って、兄上がいたからこそ右漸将うぜんしょうにまでなれた。だからこそ、あなたの信頼するものに異を唱えては、もう私を愛して下さらないのではないかと恐ろしかったのです」

「そんなわけがあるか!たとえ理念をたがえようともお前はたった一人愛する我が弟だ」

 さらに頭を掻き抱く。芭覇は泣きながら微笑した。

「そのお言葉を聞けただけで、私はもう、なにも思いのこすことはありません」

 嗚咽おえつこらえてやりきれず喉を鳴らした大男はもう一度腕に力を入れると振り仰ぐ。

「………当主。どうぞこやつの首を儂に下さいませ」

 珥懿は色のないかおで問うた。

「実の弟の首をねるというのか」

「何卒」頭を地に擦りつけた。

「………………良いだろう。許す」

 しばし見つめ、涙で濡れた赤い目に頷いた。それが、彼が弟へ愛を示す最後の方法なのだ。


 覇徳はとく、と呼びかけた兄は心を決めた顔で鬼頭刀かたなを構えた。私は果報者だ、と弟は目を閉じた。敬愛する者の手で死ねるのだから。

 皆には、差し出した頭が感謝するように微かに頷くのが見えた。





「牙公」

 呼びかけた声が広場を去ろうとしていた影に近づく。

「終わったのか……?」

「いや。まだだ」

 珥懿は沙爽の不思議そうな目を無視しながら答える。隣で歓慧が言った。

「あと一人残っています」

「誰が?」

「…………白生はくせいです」

 彩影さいえいは主の分身であり主自身、当主が命尽きるまで影だから、いかにこれから命を失う儀式としても公衆の面前で顔をあらわにはできない。立ち会うのは存在を知る伴當と監老、その他ごく少数の者だ。

「私も良いか?」

 訊いて首を縮めた。「いや、大勢いる中私が見ていたら目立って混乱を生むと思い先ほどまで控えていたのだ。けれど私とて猶主ゆうしゅであるし、本当は見守りたかった。……見世物のようになると言うのなら我は張らないが……」

 珥懿はふんと鼻を鳴らした。

「騒がないなら来ればいい。ただし独りでだ」



 大広房おおひろまの西を開け放ち、えんの斬刑は粛々と準備される。ただひとり連れられた彼は用意された壇上に鎖を鳴らし膝をつく。長く牢に入っていて白んだ顔で俯いていた。自身の彩影を処断するのは主だと決まっている。

 炎は珥懿を見、周りにいる者たちを見、それから眼前にそびえる雪山を睨んだ。

「……因習に縛られた愚か者たちが」

 すべてを諦めたように呟く。珥懿がすぐ横に立ち、一振りを握る。

遺言いげんはあるか」

「……妹には」

「彩影の死は親にも伝えないのが掟だ」

 は、と炎はわらった。「莫迦莫迦しい」

「他に心残りは?」

 くまを浮かべた胡乱な顔で見上げた。

「お前の白生になるくらいなら俺もヒョウに食われて死にたかったよ、紅珥くじ。俺はお前を羨んで妬まずにいられなかった。そうさせたお前たちを憎まずにいられなかった……遺言はないがひとつだけ、訊きたいことがある」

 無言で許可する。炎は遠巻きにやりとりを見守っている者たちを窺いながら声を潜めた。

「……なぜ、お前には俺が必要だったんだ?物心つく前から共に育って来たからか?単なる情か?憐れみか?それとも俺が怨んでいるのを知った上での当てつけか。最期くらい教えろ」

 低い問いかけに、しばらく見下ろしていた珥懿はそっと屈んだ。ふっと息を吐いて耳に聞こえた言葉に、不覚にも炎は動揺した。それから、反芻し顔を伏せる。


「…………お前は本当に糞野郎だな…………」


 小さく呟くと、もう一度額を上向け、やがて息をついて笑い、首を差し出した。

 主は得物を上段に構える。心を静めて待っている半双かたわれに渾身の一を振り下ろした。



 がつ、と床を食んだ衝撃に珥懿は瞠目どうもくする。刃は首を断ち切らず、すんでのところで避けた炎は体を引き起こして脚を払った。

 高い金属音を響かせ腕を拘束した鉄の輪が外れる。石火、その場を跳び蹴りまっすぐに取り巻きのなか、少女に突っ込んだ。長く繋がれていたとは思えない素早さで手に持った針を顔前に突き出す。その間に影が割り込んだのと、珥懿が腕をさばいたのが同時だった。



 自分の荒い息が聞こえる。血の垂れた口端を上げた。振りかぶった手は目標ではなく異国の少年の左眼に、そして自らは眉間とうなじを飛刀で貫かれていた。

 目の前の二人は呆然とした顔、少女の温かな指が冷たい刃と共に額に触れていた。


 ばかめ、とくずおれながら毒づいた。もっと早くに分かっていたなら、俺だって違う道があったかもしれないのに…………。



「鼎添さま‼」

「歓慧‼」



 叫び声が錯綜し騒然となる。異状を聞きつけて扉の外の者が呼びかける声がする。

「薬師を呼んでくれ。炎の顔を隠せ。たんせんは退りなさい」

 斂文が指示を飛ばすと倒れた沙爽を上向ける。呻いて眼を押さえた指の合間からは赤が溢れ、白い髪がみるみるひたされていく。立ち尽くして狼狽うろたえた歓慧は絶命した炎と苦痛にのたうつ沙爽とを見比べ顔を覆った。混乱してきびすを返しそうになったところを珥懿に抱きとめられる。

「歓慧、落ち着け」

 引きれた息遣いで何度も首を振る。

「どうしよう。どうしよう。どうして、炎が、鼎添さまが。私、炎を」

「殺したのは私だ」

 項に命中したものを見て、しかし納得できずに自分の身を抱く。眉間に刺したほうが早かった。先に仕留めた。絶対に。何を思う暇もなく、危険だ、と勝手に体が。震えながら、床に仰け反る少年をどうしようもなく見た。


 扉が開け放たれ、指示を受けた僚班たちが沙爽を運ぶ。走廊ろうかで彼の麾下が怒声を叫ぶのが聞こえた。

「当主」

 こしかけにいた丞必が歓慧を寄越すように言う。歓慧は膝に縋ると赤子のように泣き出した。その頭を撫でながら珥懿に頷いてみせる。頷き返し、伴當たちと共に指示を出す。

「四泉主の眼に刺さった針に毒が仕込んでないか至急調べろ。炮眇を呼べ。夭享ようきょう

「は、はい」

「あの針はおそらく老茹のものだ。まだあるかもしれん。入手経路を突き止め、牢に隠し所がないか調べろ」

 次いで伴當たちを見回した。

「ここで起きたことは一切他言無用。同盟の完全締結を阻む可能性のある障害はいま四泉に知られれば不安を掻き立て、最悪反故ほごになりかねない。もちろん四泉主自身にも口をつぐんでもらう」

 御意、と返事をさせ、髪を掻きむしった。

「──くそ!炎のやつ、やってくれる。最期に派手に暴れて!」

 当主が声高に悪態をつくのは稀有だった。扉前に集まった僚班に八つ当たりするようにさらに命じる。

「四泉主の腰巾着が暴れないよう見張りを増員しろ。攻撃してきたら容赦なく牢にぶち込め。鳥も飛ばさせるなよ。とにかく薔薇閣しょうびかくから一歩たりとも外に出すな」

 人を散らし、くるりと向き直る。

「――叡砂えいさ

「はい」

「歓慧を連れていけ。あとで茜も寄越すからそれまで付いていろ」

「承知しました」

 妹の頭をひとつ撫で、立つよう促した。

「大事無い。お前は正しかった」

 顔をぐしゃぐしゃにしながらいまだ泣き止まないのを優しく抱き締め、ようようなだめて見送ると、たちまち苛立ちを抑えきれず丞必の隣に勢いよく座る。

「ああ、まったく、大莫迦が!あのまま問答せず殺してやれば良かった」

「致し方ありませんね。さすがに当主もあの状況で無視はできませんでしょう。とにかく、炎は最期まで卑怯な方法でしか抗えなかったということです」

 高竺が悲しげに目を伏せながら諦観したように言った。珥懿は眉間に皺を刻み瞼をきつく閉じて深く呼吸する。しばし黙してから、集う人々を見渡す。

「………炎が訴えたように、私とて、今の牙族に掟が沿わなくなってきていることはずっと気がかりだった。……皆は彩影のことをどう思っていた」

 難しいですね、と灘達なんたつが唸る。

「確かに人一人の生を当主が死ぬまで束縛しなければならないのは苛烈。しかし当主がひとりしかいないとなると商談に支障が出る」

「各国は我らに対する認識として当主が直々に会見に臨むことを期待している。でなければ大金を積んでまで泉外民の智恵ちからを借りようとはすまい。代理の者が出れば軽んじていると思われてもまずい。泉国に対して我らの扱いに偏りがあると判じられれば要らぬ軋轢あつれきが生じます」

 言を継いだ斂文に、烏曚うもうが難しげに髭をしごいた。

「しかしじゃ、僚班にさえ知らせず彩影となる者の親にも消息を教えぬというのはいささかどうかとは考えるのう」

「彩影のことを詳細に教えては万一話がどう泉国に伝わるかという点も考慮に入れて頂きたい。それを危惧して白生の生みの親には口止め料を兼ねて高い報酬を払うのです」

「それに民も、仮に当主と同じ役割をする者が自由気ままにしていると知れば信奉が揺らぐのではないですか。我々は代々掟に従って厳しい関門をくぐり抜けて来ましたから。由歩は由歩で出兵も常時の役割も無く特権を与えられている不能渡の彩影を妬みますし、不能渡のほうは自分たちと同じく不能渡なのに好き勝手に城に出入りして、となるでしょう。かといって彩影を由歩から選べば老茹のように才をもてあまし不満が出る」

 言った礼鶴に珥懿は溜息をつく。

「四泉と同盟すれば、警戒した他国は取引には来なくなるだろうから、もしかすれば本来の形である当主ひとりによる商談でも支障はなくなるかもしれないがな」

「伝統を変えるというのは並大抵のことではありませんから。それで我らが滞りなく回るように出来てしまっている。変えようと思えば絶対にどこかに生まれる齟齬そごをどうするかで命運が変わる。それに間違ったやり方で十有余年挑んでいて失敗したのが今日斬刑した彼らということになりますね」

 総括して高竺が肩を竦め、嘆息が満ちる。ともかくも、と丞必が顔を上げた。

「全ては我々が四泉とどのように協調していくかによって、今後の一族のありようは激変するということです。いまいちど、こちらの要求をまとめましょう」




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