四十二章



 目の前の男がいったい何を言っているのか、飲み込むのに苦労した。珥懿もまた同様のようで、腕を組み睨んでいる。


「泉根では………ない………?」

「そうだ」


 斉穹は周囲の反応がさぞ面白いのか肩を揺らした。

「ばかな。泉根でないのに王になれるわけがない」

「そうだろう?まったく信じられないだろう?だが事実だ。我は一滴たりとも二泉王家の血を継いでおらぬ」

 笑いながら手を叩いた。「赤の他人だ」

「ふざけるのも大概にして頂きたい。そんなことは不可能だ。いまあなたが説明したとおり、誕生時の血判、王統譜への登記、落血の儀、そして降勅、どれをもすり抜けて偽物が王になど、なれるわけがない」

 捕囚はなおも結んだ口から愉快が漏れ出るのをこらえている。珥懿が檻を強く蹴った。

「いいからさっさと話せ。それで、どうやってまんまと王にのし上がった」

「牙公、真実だと?」

「この期に及んでこんな馬鹿げた嘘をついても何にもならんだろう」

 それもそうかと沙爽は向き直る。斉穹は髪を掻き上げた。

「無論、斉穹朋嵒は正真正銘二泉の太子たいしで、尚且つ母親から四泉王家の血も受け継いでいた。快活で幼き時より文武に優れていたと聞く」



 しかし、と遠くを見ながら語る。本物の斉穹が六つになった年だった。珍しく長く病をこじらせた彼は宮医の勧めで離宮のある桂州でしばらく療養することになった。しかしおりしも滞在中に州で内乱が起き、近くの小泉がき止められ涸れる事態になった。あろうことかそこで発生した熱病が下官から斉穹に伝染してしまったのである。


「我は桂州の小郷で毎日畑を耕すいち泉賤せんせんでしかなかった。それがたまたま隣郷となりまちに遣いに出ていたところを斉穹の母親……時の湶后せんごうに目を止められ、離宮で引き合わされた」


 驚くべきことに、その小汚い孤児に太子のものを着せるとどちらが本物か分からないほどに瓜二つだったという。

 湶后は斉穹の病状が日々悪化していくのに恐々としていた。もし彼が死ねば、王宮での権力は失墜し、男子を新たにせなければ最悪降格、廃后される。妃嬪になる為だけに育てられた彼女にとってそれはとてつもない恐怖だったに違いない。だから斉穹が健康であると周囲に思わせるため、また将来的にも護身のための替身みがわりを探していた湶后にとって、息子と同じ顔をした者と出会ったのは奇跡以外の何ものでもなかった。斉穹はすぐに召し上げられて作法を叩き込まれた。太子の病状は熱病が治った後も一進一退を繰り返し、一向に快復のきざしを見せなかった。


 そうして一年ほど経った時に、内乱を平定した王が見舞いに訪れることになった。湶后は慌てた。太子はいまだ起き上がれるような状態ではなく、そんな様子を見れば武断の王はもしかすれば継嗣にするには頼りないとして本来斉穹に与える立儲りっちょを他の公子に下すかもしれない。そうなれば自分も座を追われ、息子は処断され神勅を逃し後宮における権威は地に落ちる。それは絶対にあってはならなかった。

 そこで苦肉の策が偽物を仕立て上げることだった。斉穹と父王とは二年ほど顔も合わせていなかったから、七つになった斉穹は成長して以前の面立ちとは少し変わっている。それを王が見破れるはずはないと湶后は確信したのだ。召し抱えられて一年、偽物は礼儀や作法がかたちになっていた。やはり直接対面してぎこちなさはあったが、息子の元気な姿を見て安堵したのか王は疑いもせずに偽りの子を撫でて泉畿みやこへ帰還していった。



 ――――偽物は思った。いつまでも具合の良くならない本物よりも、自分はなんでも上手くやれる。弓も剣もすぐにこつを掴めたし、今では湶后さえも実の子のように自分を可愛がっていた。そして王。父親さえも入れ替わっていることに気がつかなかった。それでは、斉穹朋嵒は二人も要らない。本物の斉穹がいなくなれば、泉畿でもっと自由になんでも出来る。



 偽物は湶后が王の末弟で桂州封侯王ほうこうおうしょうを頼って良薬やら滋養のある食物やらを調達してきているのを知っていた。その礼という名目でやしきを訪ね密かに姦通していることも、幼心になんとなく分かっていた。だから彼女が離宮を留守にする日を狙い、人の少ない奥の院へ忍び込むのは容易たやすかった。


 本物の斉穹とはそれほど仲が良かったわけではないが、話し方や仕草を真似なければならなかったからよく話した。悪い奴ではなかったし、正直気に入っていた。



 しかしもう必要だとは思わなかった。



 忍び込んだ臥室しんしつ、斉穹は月明かりに照らされて静かに眠っていた。細い手足、削げた肌。こんなの、どうせいくらもたないと冴え冴えとした心地だった。ずっと苦しみの中にいるよりは、自分の手で楽にしてやったほうがいい。そう結論するやいなや、すでに体は動いていた。枕を顔に押しつけ、腹に短刀を突き立てた。もがくのが収まるまで何度も同じことをした。長く感じた。


 帰ってきた湶后は愕然としたが、予想どおり自分を追い出したり殺したりしなかった。小間使いが宮で死んだと偽り遺体を葬り、関わった下官の口も封じ、さも息子が全快したかのように泉宮へ帰還したのである。


 偽物の斉穹は本物になった。それは本当に素晴らしい生活だった。早々に立儲し王太子となり、斉穹の未来は開けていた。十になる頃には二泉じゅうにその有能さは知れ渡るほどになっていて、百官は誰一人斉穹の出自を疑わなかった。少しばかり自由にしすぎて父からは年々良く思われていなかったが、彼はすでに病に伏して誰もうわ言など聞きもしなかった。


 しかし、最初の壁に突き当たる。王になるための過程そのものが、斉穹の欺瞞ぎまん全てをあらわにしようと待ち構えていた。



「賭けだった。我が黎泉に見咎められて裁かれるか、許されて生き残るかの大いなる賭け。どうせ拾った命、今まで好き放題してすでに死んでもいいくらいの気持ちであったし、そのほうが国のためには正しいとは思った」



 しかし湶后はどこまでも隠蔽に奔走した。まず、王統譜の継承者の名を斉穹の異母弟の名で登記した。続いて侍医を買収し、圧力をかけ、異母弟の体の容態は芳しくないと嘘八百を並べ立て瀉血しゃけつを行わせた。そうして採った血を血璽と落血の儀に使う算段だった。


「本当の継嗣である異母弟にそうと知らせずに降勅させることが第一。これがまずはじめの段階だった。降勅のしかた……どのようなしるしで当人にくだるのかはその時々で異なる。だから湶后は異母弟が極力人目に付かぬよう、外を出歩かせず隔離させた。その間に我を昇黎させ、偽りの血を用いて新たな王を誕生させることに成功した」


 ひとまず、斉穹が王としておさまったが問題は山積みだった。万一異母弟が斉穹より先に死ねば王が存命しているのに泉が腐り果てることになる。これはまずい。加えて、王は斉穹であるのに、いずれ生まれる新たな泉根に神勅が降りなければこれもどういうことかと徹底的に調べられる。



 笑った。「まったく、人というのは恐ろしいものだ。我が内乱平定や施策のために各地を飛び回っておる合間にも、湶后は――そのときには泉太后せんたいごうだが、偽りの王という痕跡を徹底的に消すことに執心した。目下の心配は次代の継承者をどうやってつくりあげるか。これには長年関係を築いてきた昌湖王こおうを利用することを思いついた」



 異母弟が泉主として生きている限り、その初子の男子は継承順位一位として資格が受け継がれる。それを阻止するために、おぞましいことに泉太后は異母弟に生まれた泉根は女児だけを残し、男児をことごとく謀殺した。幼い湖王を夭折させ、また、まだ生まれていなくとも男児の気配があれば妃嬪ごと闇に葬った。さらに異母弟以下八人の弟妹たちを叛逆を画策した罪で殺すよう斉穹に指示した。斉穹が十五で即位してから五年の時点で同い歳の異母弟以外はまだ成丁せいじんを迎えておらず、婚姻しないうちに消しておきたかったのだろう。しかし斉穹はそれをすぐには行わなかった。泉根のいない状態で行えば官たちの反発が抑えきれないと思ったからだ。


 業を煮やした泉太后は異母弟の娘のひとりを死産とみせかけてさらった。昌湖王と自分の間にできたのだと偽り、長年正妻との間に子のいなかった彼に育てるよう言ったのだ。

 泉太后の肚裡はらは見えた。斉穹は邪悪なる所業に半ば呆れつつも、全てをお膳立てした彼女に乗ることにした。乗る以外になかった。





 沙爽は息を飲んだ。

「では、現在の王太子とは……」

「異母弟の娘の子、つまり先代の曾孫そうそんだ」

「そのこと、桂封侯と現湶后は」

「まったく知らぬ。昌湖王は我がいまだ実の甥で、湶后のことを実の娘だと思い込んでいる。やつが我に頭が上がらぬのはかつての泉太后との不義を明るみにされて罰せられるのが恐ろしいからよ。湶后も自身の出生についてはなにも疑っておらぬ」

 そして斉穹が弟妹とその息子たちを粛清し始めたのは王太子碇也ていやが生誕して後からだ。

 それまで黙って聞いていた珥懿が口を開いた。

「神勅が異母弟に降っているのならば、粛清した時点で王が不在となり泉が腐るはず。しかし二泉の泉は濁ってはいるが腐りきっているともいえず。それにもからくりがあるということか」


 斉穹は指を二本立ててみせた。


「我が落血の儀を成功させたことで分かったことがある。

 ひとつ、昇黎は降勅を奏請するのがたとえ本人でなくとも、落血に用いる血が正当なる後継者のものであれば良いという確証を得たこと。

 ふたつ、たとえ降勅した者が王として国を治めずとも泉は腐らないこと。

 ひとつめについては最初から自信はあった。継嗣本人が昇黎に耐えられない状態であるにもかかわらず生存している際には代理の者が伺いを立てるのはまかり通っている。であれば請願を実際に執り行う者自体は別人であっても可能だな」

 それで、と面白そうに顎を撫でた。

「その二点を踏まえて、我は自分のしたことを繰り返せば良いだけだったのだ。真の現王である異母弟を殺してなお泉を存続させる唯一の方法は、継承者に昇黎させること、これに尽きる」

「……今現在、王太子には、すでに神勅がりている……」

「その通りだ。異母弟が死んだ時に泉は一時は悪化した。しかしすぐにもとの濁りに戻った。それは世代交代者、つまり仮王がすでに存在することの証だ。四泉もそうだったはずだ。本人は降勅したことに気づいてさえおらぬ。碇也の昇黎も我が行ったのだからな」

 沙爽は顔を険しくしたままこぶしを握った。

「真の二泉帝だった異母弟を殺さねば孫の碇也さまに神勅が移らないという理屈は遺憾ではあるが分かる。しかし、なにも弟妹を亡き者にするほどのことだったのだろうか」

「泉太后とて異母弟妹の全ての泉根を秘密裏に殺すのは限界があった。我の即位当初、我が偽物なのではという噂が特に王族によってまことしやかに流布された。そもそも泉が澄まなかったからな。異母弟の降勅はお前のように派手なものではなく、ただ身体からだが痙攣し倒れたという、泉太后と我にとっては都合のいい降勅だったが、本人はなにか勘づくところがあったのだろう。我を常に疑いの目で見ていた。自身の子が女ばかり生き残るのも不自然、我がいつまでも妃を迎えず子をつくらぬのもなにか理由があるのでは、とな。他の弟妹も同様だ。泉太后は我が偽物であることが露見する可能性と継承に関わるあらゆる不安の種を摘むよう幾度となく進言した。しまいには湶后ともっと子をつくれと五月蝿うるさくてかなわなかったから、酔いにまかせて斬ってしまったのだがな」

「私は桂封侯から、あなたが王太子を傍から離さないのは昇黎させない為だと聞いたが。彼がすでに神勅を受けていたのなら、なぜ危険な戦場にまで連れて来るようなことを?」

「もし我の不在に碇也が昇黎したとして、昇黎の重複ちょうふくの是非、再度の降勅が起きるのかどうかは前例を見つけられなかった。起きなければ新たな混乱が生まれる。それになにより血璽をされたのなら碇也がすでに二泉主であることが判明し、我は禅譲しなければならなくなる。まあ、まさに今それを待っている状態なわけだが」


 沙爽は溜息をついた。珥懿が冗長な話に半ば飽きたような雰囲気を醸し出しながら、それで、と組んだ腕の指を打ちつけた。

「降勅と民意とには結局なんの繋がりがある。今までの認識どおり、神勅とは基本は長男の泉根にくだるのだろう」

「それは先ほどのふたつめに分かったことに関わる。我の即位以来、王権を使用していたのはこの我であり、神器である玉璽印璽を用いることにはなんら支障はなかった。血璽は使えなかったがそんなもの、どうとでも誤魔化しがきく。王として行うあらゆることを王でない我が代行していた。

 では、王とは一体なんの為にいるのか。これではただのお飾りだというのに、王がまつりごとに関わるあらゆる執行権を放棄しても泉が腐ってしまわないことに、我は疑問を抱いた。同時に逆説的に言えば、降勅しているのは碇也で正当なる泉主だというのになぜ水は濁ったままなのか、というのもよくよく考えれば不可解だった。そうだろう?

 そしてある仮説に辿り着いた。泉に影響するものは二つあるのだ、と。澄明さには紛れもなく黎泉の神意が介入する。『神勅を授ける王によって権力を行使させ泉を統べさせる』という絶対条件だ。そして付随したもうひとつは、『黎泉が認める者が治めし泉は絶対に腐らない』。つまり民の信仰だ。これは息を吸って吐くのと同じほど、民にとっては当たり前として認知されていることだ。大前提を喪失した時は腐り果て、この二つのうちどちらかの均衡が崩れれば濁る」

 沙爽は難しげに斉穹を見返した。

「つまり、二泉には降勅した王がいるけれど玉座にいないことが黎泉には神務の放棄とみなされているということか?しかし民はあなたを正当な王だと信じているから、泉は腐りきってしまわない、と?」

「まあこの点に関しては最初に言った通り民意が指標だというのはあまりに突飛な考えなのかもしれんし、理解は微妙なところだ。全ては憶測にすぎぬ。だが二泉が異母弟の降勅当初から……いいや、すでに先代の治世中からもたいして濁りが晴れていないということはやはり民意との関連は間違いではないのかもしれない。異母弟と碇也に神勅が移行してからも変わらないのは、我が黎泉にはじめから簒奪さんだつを指摘されているということの現れでもあるのか、はたまた、二泉は先代の頃から内乱続きだ。民の中には天がそれを怒って泉を濁らせているのではと考える者もいる。だから国のありように不満はあっても、正当な泉主そのものの存在に疑いが向くことはなかった。つまり我そのものに対する信仰は揺らいでいないということだ。だから泉は持ちこたえているのかもしれない。

 ――――しかし、考えてみよ。さっき仮定した絶対条件が誤りで、黎泉が『王は降勅さえければあとはただ存在するだけで良い』とみなしているのだとすれば」

 にやついて檻の外を見た。



「お前ははじめから全てを沙琴に投げ出しても良かったのかもしれんな」



 沙爽は鎖を思いきり引っ張った。鉄棒の狭間に腕を突き出して襟を掴むと両手で引き寄せる。

「今さら何を言っている!撫羊を殺したくせに‼」

 斉穹は一瞬ののち爆笑した。「あながち、これがこの世の真実なのやもしれんぞ。王とはただ血を繋ぐだけの存在なのだ。王統を絶やしたくない黎泉と、泉がなくては生きていけない民を和解させるあがないというだけの」

「黙れ!」

 弄舌ろうぜつを垂れる男はさらに壊れたように嗢噱わらいくるしたった

「その様子だと、なにかおぼえがあるようではないか。胙肉ひもろぎとして民に感謝されることのなにが気に入らない」

「ではなぜあの子を殺した!その考えが一欠片でもあったのなら、なぜ殺したんだ‼」

 斉穹は沙爽の腕を掴み返した。

「あれが傀儡の王は嫌だと言ったのだ。二泉のようににごみずを満たし民に辛酸を嘗めさせるのは御免だとな。あれは我が二泉王統の属尽ぞくじんですらないことを全て知った上でそれでもお前に叛逆し、天意を試したのだ。あれはあれ自身で公主として生まれた自分がどこまで黎泉に挑めるかをその身をもって証ししようとした」

「理由になっていない。なぜ撫羊に最後まで協力しなかった。お前にとっては私が死んでも特に困らなかったはずだ」

「身の程知らずと思ったからだ。最初は面白いことをする奴だといろいろ手助けしてやっていたが、よく考えれば、公主として血を継ぎ将来の立場も申し分のない小娘が、王統でもなんでもない、もと奴隷の力を借りてさらに僭越にも身に不相応な権を欲しがっている。我はこの三十年、自らが泉根でないことを隠し通してきた。それを知りつつも頼ってくるあれに苛立ったのよ。こちらは王としての基本的な条件にさえかなっていないというのに、それを手の届く範囲だとしてさらに欲張るおこがましさにとてつもなく腹が立った。あれを生かしておいたのはお前を捕らえて四泉を二泉の属国とする、ただそれだけの駒だった。だから用済みと殺したが……少し早かったか」

 さらに口許を歪めた顔に、渾身の一撃を喰らわせた。


「この―――人でなし!」


 なおも殴ろうとするのを、隅に立つ人物が止めた。

「それ以上なさるとお手を痛めます」

「そうだぞ沙爽。こんな塵芥屑ごみくずに労力を使う必要はない」

 珥懿も言い、倒れ込んだ斉穹はいさめた男を見上げた。

「まさかお前が牙族の間者だとはな、銀兎ぎんと。大いに見損なったぞ。我に幼き頃より仕えてきたお前が。忠実なる虎賁郎こほんろうが。騰伯に帰泉をそそのかしたのもお前か」

「騰伯公はご自分でお決めになりました。麾下きかが三公以下諸卿を説得し州牧に親書を出して出兵よりも国内の混乱を収めるよう嘆願して回ったのです。それを知って湶后陛下が賛同のご意見を表明され、公もこれ以上王太子を四泉に置いてはおけないと密かに軍をお離れになったのです」

「それをすべて知っていて黙っていたのか、汚らわしい裏切り者!」

 珥懿は高らかにせせら笑う。

蘭檗らんびゃく。もう何も答えなくていい。こいつとて国と民を騙し続けた偽物の王で国賊だ。そして我らの仇敵。仕えるふりも親切に言を重ねる必要ももう全く無い」


 蘭檗は一瞬間だけ斉穹と視線を交わらせ、それから二度と見ることはなかった。


「私もこの際だからひとつ訊いておこう。蜚牛ひぎゅう黒鎧くろよろいは誰の手先だ。お前の子飼いではあるまい」

「牙公、あいつらに会ったのですか」

叡砂えいさ山柏さんはくへ戻る途中で襲われた。それも届いていなかったのか。早くに鳥を落とされたな」

 斉穹は血唾を吐き出した。「それも使者の手勢だ。それ以外は知らぬ」

「その使者とはなんだ」

 さてな、と尻餅をついたまま首を傾がせた。

「我と接触するのは一人だけ。にやついたむかつく豎子ガキだ。いつも突然現れては消えていく。妙なやつだ」

 それ以上は本当に知らないのか、語り疲れたかのように壁にだらしなく凭れた。それでこちらも話を切り上げた。

「死なないよう見張っておけ」

「そんなことはせぬ」

「どうだか。お前のような屑にかぎって死ぬ時は臆病だ」

 檻にぎりぎりまで近づく。「あと言い忘れていたがな、私は男だ。この節穴め」

 斉穹は噴き出した。自分にか、珥懿にかは分からなかったが、獄舎を出るまで笑い声は止むことなく響いていた。




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