二十章



 絢爛豪奢の玉座、正面の御簾みすは揚げられ、左右には彫像のような王を守りし虎賁郎こほんろうたち。その壇下で騰伯とうはくは蹲り、自分の皺だらけの両手を見つめたままじっと耐えている。壇上の主は文を見ながら鼻を鳴らし、盃をあおった。

「忌々しいことだ。あのように小さき部族、五万でも苦戦するとは。騫在けんざいを遣わしたはやはり見込み違いだったか」

「畏れながら泉主。不能渡わたれずを無理やり渡れるようにしても、あのように幽鬼のようではあまりお役には立てませぬ。加えて今は早春。残冬厳しく、山間ではいまだに雪は融けておりません」

「山城攻めには最悪の時節であることは分かっておったわ。しかし、四泉主が牙領にいる以上、宮にこもられるより遥かに捕らえやすし、殺し易しであろうが。せっかく牙族の間諜という餌も用意してやったのに、どいつもこいつも使えぬ者ばかりだ」

 斉穹せいきゅうは苛立たしげに紙を投げ捨てた。

「同盟とはな。馬鹿め。泉民の誇りまで捨てたとは四泉主はかなりおめでたい頭をしておる。早く叩き割ってやりたい」


 騰伯は内心嘆息した。二泉と牙族の国境、その霧界はおよそ人智を越えた峻峰、由歩ならともかく不能渡が安易に山越え出来るような環境ではない。それでも攻めるというから、最も由歩兵の多い、大司馬大将軍である自分の直轄軍のうちから優先して掻き集め、西伐せいばつ将軍に任じられた騫在に貸し与えた。それなのに斉穹は別の不能渡も由霧を渡れるようにしたと言ってどこからか寄せ集めた由歩兵を寄越した。おそらく不能渡だった州軍や地方軍の兵のようだったが、どうやってそのようなことをしたのかは定かではない。騰伯が相まみえたときにはすでに不能渡の兵たちは中身の無い傀儡かいらいと化していた。


寡兵かへいではやはり無理がございました。族軍六万に万騎兵四千、はじめから西伐軍より多いという話だったではないですか」

「主力はあくまで四泉だからな。それに、昌湖王しょうこおうめ、兵を出し渋りおって。他の州もだ。なにが軍備に不安がある、だ」

「仕方がございません。謀叛を起こされても鎮圧の容易いように他州の軍を縮小したのは他ならぬ泉主でございます」

 騰伯、と斉穹は声を荒らげて下僕を一喝した。ものの、こちらは毅然と見上げる。

「私は何度も申し上げました。牙領攻めは無謀にございますと。このままではいたずらに兵を失うだけ、それに、四泉と牙族が同盟したのであれば、牙族は四泉のために加勢をしに泉地へ出てくるということです。二泉と四泉との国境ならば馬で十日前後で街道もあります。不能渡の兵をそれほど消耗させずに四泉へ送ることが可能です。牙族との一騎打ちは泉地でなさればよろしいでしょう」

「ふん、そんなこと分かっておるわ。だが牙族の兵力と練度がどの程度のものなのか測るのに牙領攻めは必須だった。無駄にはしない。撫羊から穫司が涸れたと報があった。おそらく四泉の虚言だが用心に越したことはない。各都水台に問い合わせて異状がないか奏上させろ」

「では、牙領からは撤退を?」

「騫在によればまだ余力がある。引き続き仕掛ける予定だ。終わったら一軍はそのまま四泉へ合流させる。……ああ、そうだ、碇也ていやの輿の準備は整ったか?」

 騰伯は眉を下げた。

「やはり、本当に王太子殿下をお連れになるのですか。あまりに危険です」

「それは聞き飽きたぞ、騰伯」

「なれど、湶后せんごう陛下のご心痛が大きく最近は食も喉を通らぬと聞き及びます」

 捨て置け、と主はどこまでも非情だった。

「碇也ひとりしか子をせなかったあれの責任でもあるのだ」


 それならば、側妾を置けばよかったではないか、という言を騰伯は飲み込んだ。斉穹は即位以来自分に逆らうあらゆる勢力を排除してきた。特に外戚が勢力を増すのを防ぐために、概ね五人から十人はいていいはずの妃は正妃つまり湶后ただひとりしかめとっていない。その湶后も叔父である封領ほうりょう桂州、その封侯王ほうこうおう・昌湖王の娘であり斉穹とは堂妹いとこにあたる。外戚といえども同じ王統であり斉穹も一目置かざるを得ない関係だ。とはいえ桂侯自身は先代の時代から泉畿から遠く離れた土地に住まわされ、中央にはほとんど影響を及ぼさない人物。権力など無きに等しかった。


 即位から三十年あまり、二泉は斉穹の思いのままだ。浪費家で戦好きの彼がそれでも泉主としてやってこれたのはその狡猾さにる。

 二泉の民は五泉ほどではないにしろ血の気の多い気質で、斉穹の統治に不満を持つ者が今も多数いる。しかしいざ叛乱が起きたとなると、斉穹はその拠点より下流の泉川を封鎖してしまう。乱が平定されるまではこのままにすると布告を出す。そうすると水の流れの止まった都市の民は叛乱民を責める。そうして同じ民を反目させ合い、隙に乗じて誅伐ちゅうばつを行うのがここ数年の斉穹の戦い方だった。

 そういうわけで斉穹の苛政かせいの被害を主に被ったのは南の州郷だった。主泉は大抵北にあり、最も下流で遠い南は貧しくなる傾向があったが、そのぶん租税も賦役も軽い。だから内乱で家を失った者や本来の給田を受けた土地にいられなくなった流れ者は南に集まりやすかった。しかし、税が安いだけ生活も苦しい。なにより貯水槽と濾過装置の少ない小泉は人が増えれば飲水を切り詰めなければならず、泉の手当を厚くするよう奏上しても、税が安いのだから我慢しろと言われるのが常態化していた。とは言うものの、税も賦役も泉の使い勝手も、不満はあるが必要最低限とほんのわずかばかりの余裕があって生活をなんとか安定できるほどには整えられている。斉穹はそういう、民が限界を感じる一歩手前の情勢をつくり出すのを得手とした。


 また、不思議なことに彼は京師兵けいしへいの兵卒からは慕われている。戦好きが高じたのか、逆に素質があったから血を好むようになったのか、斉穹は兵を鼓舞し士気を高めるのが天才的だった。おだて上手と言ってもいい。また、戦そのものの作戦立ても自ら行ったから、泉主であるにもかかわらず先陣を切る姿に将帥しょうすいからも尊敬を受けた。今回の遠征も大司馬である騰伯は大反対したが、その他の武官の主だった者からは強い批難の声は上がらなかった。二泉主が四泉の血を引いているという根拠を盾に表立って糾弾はせず、むしろ消極的な賛成の意を示していた。


 結局のところ斉穹は、自分が死ねば泉も腐り果て、民が困窮すること、だからもしも内部で叛乱が起ころうと決して自分が弑逆しいぎゃくされないことが分かっていて悪政を布いている。王太子の碇也を親征に同行させるのも、反勢力が自身の不在に碇也をまつり上げて黎泉に次王の神勅をはかっては困るからだ。万一神勅が碇也にくだれば斉穹は用無しになる。現王の存命中に神勅が新たに降れば――それは滅多にあることではなかったが、その王はもはや泉を清浄に保つ力は失くなり、穏便に事を運ぶなら禅譲ぜんじょうして王位を明け渡すしかなくなる。



「騰伯、お前には親征へ同行してもらうぞ」

「泉宮の守りが薄くなるのではと危惧致します。それに、拙は碇也さまをくれぐれもお守りするようにと湶后陛下に命ぜられております」

 斉穹は溜息をついた。空の盃をもてあそびながら頬杖をつく。

「案ずるな。城には充分の数を残す。お前には望み通り碇也の護衛を任せてやる。二泉の唯一の泉根だ、羽林うりんも付ける」


 騰伯は腰を折り、斉穹は周りを見回す。彼は度重なる遠征にしばしばわたくしにおいての護衛である虎賁も羽林騎に同行させていた。


「誰ぞ四泉に随行したい者はいるか。望む者は名乗り出よ」


 これには全員が声を上げた。よくしつけられている、と騰伯は内心複雑な思いを抱く。今いる虎賁郎は幼い頃に戦で親を亡くし、軍に引き取られた孤児から登用されている。まだ物心つく前から文武において養育され、王を無二の主として尊崇するよう刷り込まれる。盲目的なまでに泉主に忠実であり斉穹もそれを信頼し寝所には彼らしか寄せつけない。


 斉穹は満足気に笑んだが、腕を組んだ。

「しかし、全員連れて行くわけにもいかぬ。――よし」

 何事か手を打ち鳴らした。

「久方ぶりに良い機会だ。この場で手合わせしてみよ。勝った五人は羽林と共に我の親征に随伴を許す」

 全員が拱手きょうしゅして左右に分かれ、進み出て向かい合ったふたりが真剣を抜いたのを見て騰伯は慌てた。

「お待ちを。いたずらに虎賁で遊ぶのはおやめ下さい」

「騰伯公。何を言っておられる。泉主の前で己の剣技をご覧じ頂けるのはまたとない光栄である」

 言ったのは若い郎で、雀斑そばかすの浮いた顔は本心からそう思っているようだった。斉穹は笑って声を張る。

「酒と妓女おんなを持ってこい。騰伯、こちらに避けろ。そんなところにいては剣先に掛けられるぞ」


 早速、虎賁郎が互いに礼をして打ち合いが始まった。騰伯は困惑して斉穹の座す壇上に登る。

「いつもこんなことをしておいでなのですか。どうりで虎賁の入れ替わりが激しいと思っておりました。兵は無尽蔵ではございません。仲間同士で、しかも真剣試合なぞ」

 斉穹は剣戟のゆくえを目で追いながら僕の叱責を聞き流す。そうしているうちに酒肴と妓女がやって来て、斉穹は隣に座った女の肩を抱いた。

「おまえ、誰に勝ってほしい?」

 問われた妓女は妖艶に口許を袖で覆って笑い、あの方、と無邪気に郎の一人を指した。斉穹は示された者を見て頷いた。

「あれは強いぞ。負けなしだ。おまえ、見る目があるな。あれが勝ったらねやでたっぷり尽くしてやるのだぞ」

「まあ、はしたないこと」

 くすくすと妓女がなおも笑う。そのまさに頽廃たいはいの画を見て騰伯は目を逸らした。壇下では敗れて血を流した者が周りの者に引きずられて端に寄せられているのが見えた。

「泉主、見るに耐えませぬ。どうかこのようなことはおやめ下さい。虎賁は泉主の守護を任せられる有能な者たち、しかも由歩です。貴重な人材をみすみす失わせないで下さいませ」

「お前はいつまで経っても堅いな。こんなもので死ぬなら親征に伴っても意味がないではないか。奴らとて望んでやっていることだ。なぜ止める必要がある」

 剣の触れ合う甲高い音はとめどなく響き、騰伯は倒れてゆく若者たちをやるせなく見つめることしか出来なかった。

 そうこうしているうちに虎賁中郎将ちゅうろうじょう――虎賁郎の長も呼び出されて大広間は熱気に包まれる。みな血に酔ったかのように興奮し、雄叫おたけびを上げた。中郎将は図体は大きいが中身は真逆で、その泉主に媚びることしか知らないような佞臣ねいしんが頭につけた鶡冠かんむりの羽が、彼が笑う度に揺れるのを騰伯は玻璃の向こう側の光景のようにめた心地で見つめていた。



 後には、研磨されて光る石床に散った血痕のなか勝ち残った者のみが立ち尽くす。放心していた騰伯は斉穹の拍手の音にはっと我に返った。


「素晴らしかったぞ。我の信足る下僕しもべたちよ」

 ひざまずいた少壮たちに階を降りて酒を振りかけた。特に、隅に並んだ男には濡れるほど浴びせかけた。先刻妓女が勝ち残ると見定めた男だった。


 銀兎ぎんと、と斉穹はその頬に手を当て、触れられて男がわずかに上向く。


「お前は今回も生き残ったか。弱々しそうな姿なりで毎回よくやる。動き回るさまはほんに兎のようだな」

幸甚こうじんの至りにございます」

 それだけ言って黙した男は先ほどまでの剣技が嘘だったかのように陰気で、これといって印象に残る顔ではなかった。斉穹は濡れ髪の張りついた男に笑い含むと手を離した。

「五人には約束通り随伴を許す。中郎将、あとで褒美を取り分けてやれ」

 是、と中郎将が揖礼ゆうれいし敗者のしかばねを片付けるよう指示を出す。まだ息のある者が医官によって運ばれて行った。





(知らぬ間に、なんと悪趣味なことを)

 騰伯は胸の悪くなる思いで辞した。泉を見渡せる開廊まで出て、緩やかな風にほっと息をつく。せ返る血のにおいには慣れすぎていたが、それを吹き消す凍てつく風が今は心地よかった。


 自分でも情けないとは思う。泉主の暴虐を止められず、諫言かんげんも聞いてもらえず。しかし、ことに最近の斉穹には目に余る行いを多く感じた。彼は騰伯の知る限り、戦は好きだが娯楽で不必要に血を流すような遊戯はしたことがなかった。まして、同胞どうしを目の前で闘技させるなど、騰伯は主がそんな非道をたしなんでいたとは考えもよらなかったのだ。


 近頃の斉穹はまるでたがが外れたように何かが歪んで行っているような気がしてならない。四泉への侵攻しかり、夷狄への侵掠しかり。その事が気がかりだった。自国など滅びても良いというように向こう見ずで刹那的な様子になんと声を掛けて良いか分からない。斉穹にしては長年曲がりなりにも慈しんでいたことが窺えた湶后にも拝謁を許さず遠ざけている始末、騰伯に禁中における剣履不趨けんりふすうを許し、あまつさえ勝手に幾度も湶后に謁見していても全く意に介した様子がない。


 騰伯は思う。どこかに勢いよく転がり落ちていっている。だが誰も意識していないし、しても気に止めていない。本当に、何故こんなことに。

 自分がせめても出来うることは泉根である碇也を無事に泉宮に連れ帰ることだけ、せめてそれだけは果たさねばならなかった。二泉五百万の民と泉の為に、なんとしても。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る