二十一章



 霧ともやで視界の霞む街道、山林のただなかに里標をみとめて少女はその石に刻まれた文字を読んだ。荷を背負い直して後ろを振り返る。

「どうかしたかい?」

 後ろから続いてきた男は持っている木の棒でとんとんと湿った地面をつついた。少女は男の手を取る。

「……そうか、あと少しだね。休まなくて平気かい?」

 少女は手を繋いだまま足を踏み出す。連れ立って歩いていると、後ろから荷馬車がやってくる音が聞こえた。

 親切な馭者ぎょしゃが霧界を抜けるまで乗せてくれるという。馬車には二人と同じように少しばかりの荷物を抱えた者がちらほら。その他は鉱山の人夫だろうか、粗末な短褐のらぎを着た男たちが乗っていた。

 少女が男を引っ張るのを見ていた老齢の女が乗るのを手伝ってくれる。

「あんたたちも逃げてきたのかい?大変だったねぇ」


 四泉の最南西の郷、ろう阯阻しそと二泉最北西、まい然濤ぜんとうとの国境の霧界はこのあたりでいちばん距離が短い。徒歩で三日、馬なら一日で抜けられたので、不能渡でも比較的容易に通過が可能だった。ゆえに相互間の行き来は古来から盛んである。

 埋州は鉱山で名を馳せる地、鉄だけでなく金銀玉鉱、かつていにしえは泉の濾過に欠かせない麦飯石も少量ではあるが採掘されていた。鉱夫も二泉の民だけではなく、允許いんきょをもらえば四泉の民も従事することが出来たのでなおのこと街道は拡げられた。いつもなら霧界を抜けた道沿いの郷里は活気に溢れているはずだが、いまはひっそりと静けさに包まれていた。


「食べるかい?」

 向かいの老婆が干し芋を前にかざした。正面を見つめた男は不思議そうに首をかしげる。横から少女が男の手を握り、ややあって男は頷いて笑った。

「ああ。どうも、ありがとうございます」

「……驚いた。あんた、目が見えないのかい」

 様子に気がつき、感心する。男の所作があまりにも自然だったからだ。現に、今も難なく老婆の手から干し芋を受け取った。男は微笑したままそれを割き、大きなほうを少女に渡す。

 老婆は少女が芋にかじりつくのを見ながら憐れんだ。

「やっぱりあんたたちも泉が涸れるのが心配で?行くあてはあるの?」

「ええ、まあ。二泉に知己がいるので、そこを訪ねようかと」

 そう、と老婆は頷き、憂鬱げに馬車の走ってきた道を振り返った。

「戦だなんてねえ。この歳になって経験するとは思わなかった。しかも四泉で、なんて」

「あなたはどうなさるのですか」

 憂い顔のまま老婆も微笑んだ。

「息子の家族がこっちで働いてるの。二泉にも家があるから、そこにお邪魔するのだけどね。でも、隣には牙族がいるでしょう?四泉と同盟したって聞いたから、二泉に攻めて来るんじゃないかと気が気じゃなくて」

 そうそう、と老婆の隣の鉱夫が寒そうに首を竦めた。

西戎せいじゅうと仲良くして大丈夫なのかね。一泉を見てみろ、北狄ほくてきの言いなりみたいになってるじゃないか」


 四泉と二泉はいまこの話で持ちきりだった。


「牙族は九泉きゅうせん全ての朝廷に密偵がいるらしい。弱味を握って泉国を思いのままに操っているとか」

「狼みたいに牙が生えているそうよ」

「四泉に来た牙族の軍はみな虎のような顔だったそうだ」

「牙族の王って、男?女?」

「なにも分からない。なにせ領地に忍び込んで無事に帰ってきた奴はいないって話だ」

「恐ろしいねえ。四泉主はだまされたか、脅かされたかしたんじゃないのかい」

 それより、と奥の男が首を傾げた。

「本当なのかい、実は公主さまが正当な泉主だってのは。王様ってふつうは男がなるもんだろ」

「二泉主は認めているらしいぞ」

「だが、まだお若い公主の言うことを真に受けるべきなのかねえ。よう州のやつらは信じている奴が多いけども。だいたい、公主が王なら、いまの四泉主が嘘をついてるってことじゃないか」

 しっ、と女が指を立てた。

「滅多なことをお言いでないよ。雲の上のことなんて、あたしらに分かるわけないじゃないか。穫司の水が涸れたそうだ。どのみち泉南は終わりだよ。これからもっと良くないことが起きるんだろうさ」

 荷馬車の中は重苦しい空気で満たされる。誰もがみな、不安に息をひそめていた。



 せきを越えて男と少女は二泉に入った。街道に沿って南下し四日ほど、日の暮れる頃には石杉せきさん鹿射ろくしゃ、埋州の州首都に辿り着いた。

 鹿射泉の周囲には旅舎やどが集まっている。泉は郷の中心であり、旅舎の前の通り道には競うように露店が密集して立ち並び人が行き交う。多種多様な品が売り買いされ、各地を回る行商人がそこかしこで商品を広げていた。



 二人は大途おおどおりを一本入った裏道、寂れた露店のいすに座り込む。少女と男の二人が座っただけですでに一人分の余裕もないほどに狭い店内、飯台つくえの上の鍋には何かが煮え立っていたが、主人は気にするふうもなく独り言のようにうそぶく。

「今日は風が強いなあ」

 男は目線を下に向けながら答えた。

「おそらく西の山風でしょう」

 主人は二人分の粥の椀を目の前に置いた。男は呟く。

「―――見つけたかい?」

 少女が粥の中に入っていた石を口に含んだ。男の手を握る――というよりも、丸まったてのひらに指で文字を書いた。

「そうか。よし」

 男は杖を取る。粥を一口も食べずに立ち上がった。



 旅舎は牀褥ねどこと小さな火鉢がひとつずつあるだけの粗末な小房こべや、暖を取るために横たわった男の腕の中で少女は石をねじって開く。

「なんとある?仄夏そくか

 仄夏は見上げ、掌を指でなぞって文の内容を伝えた。

「おやおや、人使いの荒いことだ」

「……」

 仄夏が口に手を当ててきた。暗くてなんと言ったのか見えなかったのだろう。

「疲れると言ったんだよ」

「……ぐ、ん」

 つっかえるように音を出した。続けて何かを訴える。冷えた手をあやすように握ってやった。

「壁が薄いからね。あまり大声を出してはいけないよ」

 今度は不満そうにく。おそらく自分の名を呼んだのは分かった。寿玄じゅげん、と。

「なに?おや、全部食べていなかったのかい?」

 ふところから差し出された干し芋の欠片かけらを口に押し当てられ、寿玄は笑んだ。ありがたく頂戴して、もどかしそうに再び掌に意思を伝える仄夏の頭を撫でる。

「そうだね。粥は飽きたね……やはりか。……そう、呼びかけは風が強い、だったよ。少し演技臭かった」

 明日からもう行くの、と訊いてきたのに寿玄は頷いた。

「寄り道だが、しようがないね。ご命令だから。よしみをつくれということだろう」

「……」

 うつらうつらと瞼を閉じてゆく仄夏に衾衣ふとんを掛けてやりながら、寿玄は耳を。風の音、隣の房のいびき、ぱたぱたと旅舎の下女が走る音。しばらくそうして異状がないことを確認すると、自身もまた眠りの中に落ちていった。





 急遽予定を変更し、寿玄と仄夏は鹿射から東の街道を通って緩やかに北上した。さらに数日をかけて目的地である埋州の隣のしゅく州は北の郷、安背あんはいに辿り着いた。


 こぢんまりとした風体の閭門りょもんで人も多くはなかったが、郷自体はそこそこに広い。しかしとりたてて人が寄るような様でもない。寿玄は暮らしに困って親戚を訪ねてきた浮浪者になりかけの親子という体で門卒もんばんに入郷を請う。鷹揚な門卒は二人を通しながら、泉は護岸工事をしているから無闇に近づかないように、と丁寧に教えてくれた。


「見つけられるかなあ、仄夏」

 寿玄は安背泉の祠廟しびょうの前で膝をつきながら、耳をそばだてる。仄夏はほど近いところであたりを見回す。そうして徐々に北に移動しながら目的のものを探した。


 泉の外淵はそれほど高くない隔壁が巡らされている。青いいらかと白い漆喰の壁には等間隔で欞花もんようかれた玻璃の入っていない漏花窓すかしまどがあり、泉の様子が見てとれた。隔壁の内側にはさらに柵があって、窓から侵入はできない。南側には天帝と諸神、初王や歴代名王の廟堂があり、都水台の官衙かんががある。都水官はそこから壁の中へ入れた。通常、泉から放射状または波紋、円環状に引いた疏水を郷の隅々まで巡らせ民はそれを利用するが、安背より下流へ続く泉川せんせんは下流域の民のものなので水を使えないようにこちらも塀で囲っていた。


「お前、何してる」


 安背泉の形状は特殊だ。北辺が由霧にかかってそのまま霧界の谷にまで泉が広がっている。ゆえに郷の壁は北辺の無い矩形くけいで閉じられておらず、壁の途切れた先は濃霧が揺蕩たゆたう断崖に直結していた。その境界まで来たところで、泉を守護する兵卒に怪しまれ仄夏は声を掛けられた。


「うろうろとなんだ。親は」

 仄夏はじっと兵士の顔を見上げる。

「親はどうしたと言ってる。なんだ、口が利けないのか」

 すると遠くから男が杖をつきながら足早に歩いてくる。

「申し訳ありません。どうかお許しください。なにぶん、耳が聞こえませんので」

「お前の豎子こどもか。水工の邪魔になる。近づけさせるな」

 言って兵士は男をためつすがめつした。

「見ない顔だが、どこの者だ?」

「私共は西から親類を訪ねて来ました」

「ほう。儂は生まれも育ちも安背だ。その親類とやらも知っているかもしれん。なんというのだ?」

 寿玄は頭を下げた。「これはご丁寧にどうもありがとうございます。お申し出はたいへんありがたいのですが、家を知っておりますので大事ありません」

「不自由しているようだが」

 なおも言い募る兵卒の老婆心に内心辟易し、どうしたものかと思ったとき、突然澄んだ声が響いた。


「おじうえ!ここにおられたのですか!」


 小さな少年だった。腕には大きな包袱ふろしきを抱え、寿玄の袖を引いた。

「探しましたよ、もう!ほら、早く行きましょう。兵隊さん、お勤めご苦労様です」

 兵卒に笑いかけてぺこりと頭を下げると、ぐいぐいと引っ張って歩き出した。仄夏が慌てて寿玄の手に追い縋る。


 泉から離れて大途まで戻ると、少年はくるりと向き直った。

主公だんなさまのお客人でございますよね?」

「……さて、人違いでは?」

 微笑んで首を傾げられ、少年は、あ、と声を出すと次いで、ええと、と宙を見る。


「――鳥が飛ぶ。白い翼に白い足。もとはからすだったのかしら、羽の先だけ黒い鳥」


 仄夏が目を輝かせた。彼女も知っている、牙族の詩歌。


「呼び交わす声は人とまごう。は鳩か、はたまた、けだし人の子か」


「……その鳥、名はあるのだろうか」


 寿玄が問うと、少年はほっとして嬉しそうに笑った。


「水にむらがり葉をそそぐ。小さきものにて名を灌灌かんかん


 仄夏が声を出すのを我慢して自分の手を口に当てた。彼女はこの詩が好きで、音程が分からないなりによくひとりで口ずさむ。寿玄は少年に笑いかけた。

「ご主人にお会いしに参りました。台月たいげつと申します」

 少年は一揖いちゆうする。

「お迎えに上がりました。軒車くるまを外に待たせてあります。どうぞこちらへ」

 幼い声で先導して歩き出す。仄夏が手を引きながら安背ではないのかと訊いてきたので、寿玄は小さな案内人に話しかけた。

「ご主人は、ここにはいないので?」

 それが、と困った声色で答えた。

「急用が出来てしまい、州都にいます」

 粛州州都というと、亜糺あきゅう。ここからさらに半日ほどの距離の大都市だ。


 壁沿いに質素だが高価な二頭立ての馬車が停まっていた。中は外からは目隠しされていて広く、火鉢まである。興味津々に見回す仄夏に少年が包袱を開いてみせる。

「ここまで歩いてきたのでしょう?おなかが減ったのでは?」

 馭者が鞭を打って軒車が動き出した。仄夏は取り出された饅頭と寿玄を見比べた。

「……ん?ああ。すまない。いつも私が半分にしてからなんだ」

 少年から饅頭をひとつ貰うと、半分に割って少し齧った。「うん。美味しいよ」

 仄夏は嬉しそうに湯気を立てている半分を貰う。やり取りに自分まで嬉しくなった少年が問うた。

「名を聞いても?」

「こちらは仄夏です」

「お幾つですか。ぼくは今年十になりました」

「おや、では同い歳ですね。仄夏、ご挨拶。こら、恥ずかしがりは直さなければならないよ」

 注意を向けられて饅頭を持ったまま隠れる。

「おふたりは、ご家族なのですか?」

「いや、違いますよ。正確には、私はこの子の従叔父いとこおじにあたります」

「そうなのですね。なんだか、本当に父娘おやこのようです」

 少年は笑っているようだった。そうですか、と寿玄も微笑んだ。どうやら、会おうとしている主公しゅこうの信頼する少年のようで、鳥のさえずりのようによく喋るが核心に触れる話は一切振ってこない。そのうち仄夏がれてきたので、少し休むと言い置き、胡座あぐらをかいて揺れる壁に背を預けた。



 掌にくすぐったい感触がして目覚めた。小さな指は目的地にもうすぐ到着することを伝える。

「台月さま、お目覚めですか?もうすぐやしきに着きますよ」

 少年の声も降ってきて、昼下がりの匂いを感じ取りおおよその時刻を把握した。膝に寝そべっている仄夏をやんわりとどけ、いちおう乱れた衣服を整える。

「申し訳ないが、仄夏の髪は荒れていないだろうか。なにぶんお転婆ゆえすぐに髪紐がほどけてしまう」

 少年は考えるふうにした。

「主公さまはそんなことは気にしませんけども。仄夏さまがぼくに結わせてくださるでしょうか」

 本人は寿玄の袖を握って逡巡のにおいをさせる。

「私は括ってやるしかできませんから。お願い致します」

 わかりました、と少年が了承して、仄夏は渋々離れた。彼女は寿玄に反抗したことがない。父と呼んだことはないが、いつも親に対するように従順だった。


 そうこうしているうちに、軒車は門をくぐって邸の敷地に入った。広い邸宅、門窗いりぐち近くに植えられた柿の木には取り残した実がまだ付いていたが、鳥につつかれたのか所々に穴が空いていた。しなった一枝は仄夏にも届きそうなくらい、思わず橙色の実に手を伸ばす。


「それは渋柿だからそのままでは食べられませんよ」


 ふいに声が掛かり、仄夏が警戒するのが寿玄には分かった。少年が主公さま、と呼んで膝をつき、衣擦れの音をさせて新たな者が戸口に立つ。

「申し訳ない。私も安背の様子を直接確かめたかったのだが、野暮用が出来てしまって。あなたが、台月どの?」

「左様でございます」

阿透あとうはきちんとご案内できたでしょうか」

「それは、もう。おいしい饅頭も頂きました」

 阿透が誇らしげに胸を張った。それに微笑んだ主公は二人にどうぞ、と邸の中を示した。



 一般的にはひとつの庭を四方で囲む造りの家が多いが、この邸宅は母室へやごとに隔扇とびらを使わずに備え付けの簾があり吹き通しで、ひと空間が大きい。くつは脱いで入った。東南の大国、八泉国風の平屋造りだった。

 中庭には郷を巡る環泉かんせんから引いた池があった。個人でこのように水を引く特権を得られるのはそれなりの身分か財を持つ者だけだ。水は澄んでいて水草の生える底が見えた。それは環泉から引き入れる前に濾過しているからなのだが、寿玄には分からない。


 庭を臨む一室、板張りの縁庇えんがわを越えて入った母室はいかにも高そうな調度品が置かれた客室だったが、あちこちに文具やら書き付けやらが散らばっていた。気がついて阿透が慌てた。

「主公さま!またこんなに散らかして!」

「ああ、そうだった。すっかり忘れていた」

 主人は間の抜けた声で言うと客に謝る。

「お恥ずかしい。私はどうも夢中になると周りのことに気がつけなくて」

「お構いなく。こんな身姿みなりでお邪魔する所ではありませんし、軒先でも良いくらいです」

「すぐ片付けますから!」

 阿透が言って、では、と微笑んだ。

「片付けてもらっている間、仄夏に池を見せてやっても?」

 もちろんです、と主人が柔和に笑った。話は聞いている。家の、というよりこの男の養い子。よほど可愛いがっているのか、水面に手を遊ばせた少女と傍に佇む男の様子は一見して本当の父娘のようだ。

「ぼくも同じことを言ってしまいました」

 呟きを聞かれたようで、阿透が紙冊ほんを積みながら言った。

「台月さまは本当に見えていないのですか。まったくそんな感じがしないのですが」

「そうだろうね」

 人と話す時、彼は自然に相手の顔を見ている。音の出処が分かるからだろう。しかし、目が合うわけではない。

「牙族の方にお会いしたのは初めてですけど、二泉の人と違いが分かりませんね」

「見た目はね。まれに変わった容姿の者もいるらしいが。阿透、失礼なことを言わないようにね」

 分かっています、と阿透は頷いた。

「ぼく、お茶をれて来ますね」

「ありがとう」

 阿透が出て行って、あらかた片付けたところで二人を呼ぶ。


「さて。ご挨拶がまだでしたね」

 柱間はしらまから寒風が吹き込んでくる。さすがに簾だけでは冷えるので外側の蔀戸しきりどは下半分を閉めた。火をおこし、並べた坐墊ざふの上に座るよう促す。

「粛州刺史しし温匯仲おんかいちゅうと申します。牙族におかれましてはこの度の騒擾そうじょう、当主や幕僚、ならびに郷間きょうかんの方々はさぞ骨を折られていることでしょう」

 こちらも頭を下げた。「牙夜寿玄がやじゅげんです。泉国では台月と名乗っております。私はこのとおり役立たずですから、それほど大変な思いはしておりません」

 匯仲は微笑した。

「ご謙遜を。かように遠大な距離をつかわされておきながら。それで、牙族からはなんと?」

「実は、別件で桂州に向かっていたのですが、安背の様子を見て来いと大人かとくから命ぜられまして。無事安背の汚穢を見届けてから――仄夏が、ですよ――本来の任に戻ろうかと」

 なるほど、と匯仲は頷いた。「やはり泉人である私には信がないのでしょうね」

「そんなことはないと思いますが。なにせ、温刺史さまは長年こうして内間ないかんとして危険な立場を務めていらっしゃいますから」

「しかし実際に牙族の方と面と向かってお会いするのは長い任務のなかで初めてのこと、よほど安背泉の件は牙族にとって重要事のようですね」

 寿玄も頷き返した。

「それで……状況はどんな感じでしょう。先ほどの安背の様子からすれば、いまだ混乱なども起きていないようだったので泉は無事なのですよね」

 問うたところで、阿透が茶器を揃えて帰ってきた。丁寧に茶を注ぐと、盆を持って立ち上がる。

「ぼくは退さがっていますね」

「阿透どの、差し支えなければ仄夏と遊んでやってくれないだろうか。ここにいては飽きてしまうから」

 不満げな唸り声がした。いる、と書いた手を握って、寿玄は少年にもう一度頼む。

「分かりました。中庭で遊んでまいります」

 仄夏はなおも嫌がるようにぐずっていたが、阿透に連れられてふてくされて出て行った。足音が遠ざかるのを確認して向き直る。匯仲は優しげに笑った。

「年端も行かぬ彼らには聞かせたくありませんか」

「仄夏はまだ一族のことがよく分かっていないのです。内容が内容ですから、混乱させたくなくて」

「まあ、私も文を頂いた時は驚きました。まさか、泉を涸らせと言われるとは思いもよりませんでした。職掌の範囲外ですし」



 刺史とは、割り当てられた州の視察、監察を主な業務とし、州の長官である州牧しゅうぼくを補佐し、各郡郷を治める太守たいしゅの行政に介入できる権限を持つ官である。年俸である秩石ちっせきは州牧が二千石に対して刺史は六百石と明確に分けられているが、泉畿から直接指示を受け州内を巡行するという職務は州牧と大差ない。むしろその州の在留期間の長い州牧より短期間のうちに泉畿と治領を行き来する刺史が中央との橋渡し役をする。しかし、泉川に関するものだけは独立組織の都水台に任せなければならなかった。



「安背都水台からは手出し無用と怒られました」

 匯仲は眉尻を下げた。「なにせ、急に刺史が口を出してきたのですからね。よもやなにか叱責を受けるのではないかと警戒しておりましたよ」

「安背は岸がもろいとか」

「北辺は特に由霧で徐々に腐蝕してまいりますから。定期的に水工に手を加えねばならないのです」

 寿玄はそれで、と湯呑みに手を伸ばした。

「護岸工事が終わるまで待っているというわけですね」

 妙齢の男は笑んだ気配を絶やさず頷いた。

「といっても、今回は特に崩れてきている箇所の修復という名目ですよ。ひと月程度で終えられるものといえばそのくらいしかありませんから」

 汚穢させた水がなるべく流出しないよう、牙族うえからは最大限に注意するよう言われている。

「それに、終えてからじゃないと人が多すぎますからね。どこで誰が見ているか分からない。工事はあと二日もすれば完了です。すでに霧界には工作兵が来ているのでしょう?」

「詳しいことは聞かされておりません」

「私もですよ。与えられた任は安背の北辺の護岸工事を行うよう指示することだけでしたから」

 寿玄は首を傾げた。

「伺ってもよろしいでしょうか」

「なんでしょう」

「温刺史さまは、なぜそこまで我々に協力を?」

 匯仲は族民でもなければ泉外人でもない。生まれも育ちも泉国だ。地位名誉もこの上ないのに、なぜこんな危険を冒してまで忠義を尽くすのか、寿玄にはよく分からない。

 彼はそうだろう、というふうに頷いた。

「私が牙族の侠客として立ち回ろうと決めたのは命を救われたことがあるからです。聞いたことはありませんか、昔領地の境界に泉人の小童こわっぱが居着いたことがあると」

「ひょっとして、青い小鬼こおにのことですか」

 それです、と苦笑した。「今ではそんな呼ばれかたになってしまったようで」

「子供らには好かれる昔話ですよ。話はかなり改変されていると思いますが。まさか、ご本人とは」

「当時、私はとにかく親の示す道に反抗したくて。そんな折に万騎はんきに助けて頂いて、で、なんとしても仲間に入れてくれと押しかけたのです。当然牙族は門を開いてはくれなかったが、それほどまでに仕えたいなら証明してみせろと言われました」

「というと?」

「二泉で地位を高めて内間として働けと。最初は簡単な偽装やら吹聴やらをしておりましたよ。油断して危険な目に遭うことも沢山ありました」

「それはさぞ大変だったでしょう」

「最初のうちは。しかし、私がいいように使われているのではと疑って牙族を裏切ったり失望しなかったのは、万騎を信頼していたのはもちろんですが、二泉での活動に具体的な年数を設けて下さったからです。私が間諜を続けて四十になれば牙族の一として迎えるという盟約を」

 そして、と匯仲は期待を込めて宙を見据えた。

「今年がその年です」

 寿玄は匯仲の純真さに少し驚いた。

「失礼ですが、盟約というのはその…、口約束ではなく?」

「口約束でしたよ。しかも出来るわけがないと侮蔑されながらのね。でも与える試練に私が器用にこたえるので、牙族の依頼内容は年々責任の重いものになっていった。それは信頼のあかしでしょう。こんな私を今更捨てても、一族は損しかしません。特に二泉は中枢に行けば行くほど間諜は少なく、情報を得にくい。かつての粛清をも逃れることが出来たということは、私の存在は良い具合に内輪にしか知られていないのでしょう。それだけ期待されているということだと、私は思っています。この騒動が終わり次第、牙族をおとなうつもりです」

「今の地位を棄てて?」

「私はこの二十数年、その為に働いてきたのです」

 泉地に下りることはあれど、泉外人が牙領に迎えられた例などない。

「もし、牙族が期待を裏切ればどうします」

 匯仲は寂しげに微笑んだ。

「むしろそちらのほうが確率は高いでしょうね。しかし、私は牙族の為に働きすぎた。罪を公にしてもゆるされる事は無い。なにも、牙族においての高位を求めているわけではないのです。ただ、せめてもう一度だけ、助けていただいた方にお会いしたいだけなのです。牙族の由歩の寿命はせいぜい五十。今もご健在かとは思いますが、泉下の人となるのも近い」

「その方は温刺史さまのことは?」

「さあ……伝え聞いているかは分かりません。ですから、これは私の一方的な願いなのです」

「よろしければ、その者の名をお訊きしても?私なぞが知っても詮無いかとは思いますが」

 そう誠実に言った寿玄だったが、匯仲の困惑したようなにおいを嗅ぎとった。

「実は、恥ずかしながらあざな、いえ、下の名なのかも分からないのです。しかも家姓かせいではなく傍姓ぼうせいであればもはやどこの家の誰なのか。ともすれば、ただの綽名あだなだった可能性のほうが大きい」

「しかし二十数年前に万騎にいたのならある程度は絞れるかと思います。万騎は入れ替わりが激しいですから、今もいるかは分かりませんが」

 これには驚いて呆気にとられた。

「寿玄どの、まさか探してくださるのですか」

「桂州での任を終えればいちど帰領しようと思っていたのです。霧界を越えたらすぐですから。その時にでも近しい者に尋ねてみるくらいしか出来ませんが」

 匯仲は顔を覆った。目の前の人物に自身の姿は映らないのは分かっていたが、動揺してたかぶった表情はきっと見せられない顔になっているだろう。

「私は誤解していたかもしれません。牙族はみなこちら側には踏み込んで来ない。もともと泉人を信用しない。間諜として用いられていても、牙族の内情やひとりひとりの為人ひととなりなど全く分からなかった。皆使命に忠実で冷徹なのだと思い込んでいました。……でも、あなたは少し違うようですね」

「私は仲間からは甘すぎる、優しすぎると呆れられ、今は四泉で細々と暮らしている役立たずの郷間にすぎません。もとより戦力外、いまさら有能さを知らしめようなどとは毛ほども思わない。しかし呆れられることが分かっていても、流れに取り零されたものについ情が移ってしまうさがなのです」

 寿玄は照れたように笑う。匯仲は思い返して目を細めた。

「……あの方も、あなたのようにとても優しかった……。間諜になってから初めてお会いした牙族があなたで良かった、寿玄どの。しかしあなたはやはり用いられるべくしてここに遣わされた。戦力外などでは決してありません。あなたと話して、より一層務めに対して気持ちを新たに出来ました」

 居住まいを正し背筋を伸ばす。

「二泉主の暴虐を止めましょう。いまや二泉の水は濁りきっています。このことが明るみになり水涸らしとののしられようと、私は二泉と牙族の為に安背を必ず汚穢させます」

 寿玄も頷いた。今になって、やはり匯仲も泉を穢すことには多少なりと躊躇ためらいがあったのだと思った。当然のことだ。それでもなお、彼は二泉ではなく牙族に信を置いている。

「……実は、安背泉を涸らすという案は当主直々のお考えとか。長年の働きによって匯仲どのが覚えられている証拠でしょう」

「なんと。それは恐悦至極です。寿玄どのは、当主にお会いしたことが?」

「現当主がまだ子どものころに、一度だけ。今お会いしても分からないかもしれませんね。大人かとくとも、仄夏が生まれてからは全く顔を合わせておりません、というか、仄夏を牙領に連れて行ったことがないのです。ですから今回私が用いられて、帰領の許しを頂けたのは僥倖ぎょうこうだと言っていい。あの子にもそろそろ自分がどうるべきか領地を見せてやりたいと思っていました。そこにおりよく、人探しという良い目的も加わりました。感謝致します、匯仲どの」

 それはこちらの言うことです、と匯仲は笑む。寿玄は仄夏大事だ、と思うと同時に、自分とて阿透を溺愛していることに思い至った。

「我らはもしかすると、似た者どうしなのやもしれません」

 不思議そうに小首を傾げた寿玄にさらに笑った。微かに、中庭で遊ぶ子供らの声がする。無邪気で、無垢なその声がいつまでも絶えないように、匯仲は手を悖理はいりに染めなければならない。

「安背が無事に潰れるまで、こちらに滞在なさいますよね。是非ここに逗留なさってください」

「良いのですか?」

「私は所帯をもっていないし、家人も信用できる者しかおりません。気安いが物寂しくて。阿透も遊び相手ができて良いと思うのですが」

「それならば、お言葉に甘えて」

 寿玄は素直に従った。本当のところは、間諜どうしが親密になるのはあまり良くないが、ここのところ仄夏には無理をさせていたからゆっくり休ませてやりたかった。桂州は川下だから亜糺から舟に乗れば問題ない日数で着くので、焦る必要もない。


「そうそう、大事な探し人の名をお伝えし忘れていました」

 匯仲が呼んだ名は寿玄には聞いたことがなかったが、彼が覚えている限りのその万騎兵はなかなかに情のあつい人物のようだった。万騎に集う者は血気盛んな者が多い。しかし匯仲の記憶の中の兵士は破落戸ごろつきのように荒々しいというよりは雄々しく品のあるように感じた。


 二泉は現泉主の登極以前からも内乱の絶えない国だった。泉畿よりも恵まれない地方州は鬱憤が蓄積されやすく、戦場になることも多かった。首都州より寡兵のいち州が兵力を補うために独断で牙族に万騎を借り、傭兵部隊として使った例はごまんとある。話を聞けば、匯仲もそうした混乱のさなか危ないところを助けてもらったらしい。


 寿玄にしては珍しく、この匯仲という男と話すのは苦ではなかったのでつい長々と話し込んでしまい、日の暮れかけた頃にさすがに遊び疲れた仄夏を伴って阿透が遠慮がちに母室を覗くまで時を忘れていたほどだった。

 眠そうに目を擦る仄夏を膝に抱えた寿玄に匯仲は穏やかに笑う。彼はついぞ笑みを絶やさない。しかし、たった一度の恩を忘れず、国を裏切るまでに牙族へ焦がれる秘めた情熱は、きっとその柔和な笑顔の中にはどこにも感じ取ることは出来ないのだろうと寿玄は思った。







 五日後、安背泉は突如として黒く濁った毒水に変じた。瞬く間に溶け入り環泉にも流出したそれは安背の郷を蛇のとぐろのように巻いて瘴気を発した。貯水槽の遮断も間に合わなかった。郷からは人が流出し、毒にあてられた人々が苦しみ救助を求めても助けてやれる人が足りない。溢れ出た瘴気は重く下に溜まりやすく、地に近い幼い子供らは鼻から血を噴いて次々に昏倒した。都水台は突然の恐慌に見舞われて混乱し、気がついた時には水虎が腐った水に腹を見せて浮いていた。


 粛州刺史はすぐに安背の水門を閉じさせ、下流に流れる川に濾過装置を動員するよう命じた。一度腐った泉は安背上流からの流れでも毒のほうが強くて洗い流せない。州牧は泉畿に差遣せずに残しておいたなけなしの州軍を投入し安背の人々を救助させたが、到着した時点ではすでに安背郷内は肌を青紫色にさせた者がそこかしこに蹲り、血溜まりに身を横たえていた。さらに、その症状は伝染するという流言が飛び交い、心無い兵の一部が郷を封鎖しようとして民と衝突、安背は酸鼻をきわめた。


 安背のによって二泉は激震した。まさに伝承どおりの黎泉の天罰、しかし奏上が国府に上がる頃には、召集された各州軍は到着次第順に泉畿をち泉主と国軍と共に霧界に達していたため、親征に随行した大司馬を除く三公諸卿はただちに伝令を走らせた。黎泉の忌諱ききに触れた、侵攻はまかりならず、と。




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