十八章



 箭楼とりでは燃えている。断続的に響く振動が門と城牆を揺らした。

 壁上では次々に立てかけられる梯子を排除するために兵が集められている。投石が続けられ、長斧でじ登ってくる敵兵を叩き落とす。


谷蠡こくりさま!」


 斂文を呼んで兵卒が悲鳴を上げる。みし、と嫌な音がしたのは門扉の中心が裂けた音、扉を押さえている兵の顔に焦りの色が見えた。

「皆、耐えろ!」

 門に叫んだ斂文は雉堞じょしょうに上がり込もうとする敵を連挺ぶきで力任せに払い落とした。

「きりがない……‼」



 西で街の郭壁と交わる城牆の交点は外部を天衝壁で塞がれており、そのきわから南東側の城牆まで隙あれば敵兵が登ってくる。途中、街から出てきた砂熙に当主への言伝ことづてを頼んだが、はたして伝わったかどうか。


 馮垣はすでに破られた。敵の侵入を許すのはもはや時間の問題だった。北からは攻めきれはしないだろうと兵を郭壁に回してしまったから、守りが薄い。

 下からまた悲鳴があがって思わず門を見る。吹き飛ばされた梁の隙間から一瞬、鋭利な鉄槌が見えた。

大表はたを揚げよ!」

 斂文は伝令に叫んだが、否と返される。

「燃やされました!」

 では苣火のろしを、と言おうとして横に跳び退すさる。矢が突き立ち、目の前の伝令が喉を射抜かれ血泡を噴いて倒れた。崖裾から弩が次々と放たれて壁上の兵に降り注ぐ。

「済まぬ!許せ!」

 絶命した味方を盾にがなる。

「螻羊を狙え!」

 雉堞を背にして指示したその時、背後で気配を感じた。振り向きざま連挺を後ろ手に振りかぶる。鉄棘の付いた棍棒は敵の頸部に当たったが、繰り出される矛槍を避けきれなかった。

 浅からず脇腹をえぐられて膝をついた。敵はまだ倒れていない。首を押さえつつもわらった相手は剣を振りかぶった。やられる、と思った時、敵は突然動きを止めて後ろ向きに壁外へ落下した。


「思ったよりひどい状況だな」


 冷静な声を振り仰ぎ、斂文は玉の汗をかきながら詫びた。

「面目もございません。当主が警邏けいらを厚くせよと命ぜられたにもかかわらず北の樹海を越えられはしまいと、どこかで高を括っておりました。みすみす敵の接近を許したは私の責任です」

「どのみち北門の防備では攻められれば厳しいことは分かっていた。なのに兵を南と郭壁にかたよらせた私のせいでもある」

 猋に乗ったまま敵を仕留めた当主は崖を見た。巨狼たちが螻羊を追い散らし、振り落とされた乗り手は次々と爪にかかってゆく。

「猋が」

「すぐに退かせる。問題ない。それより門扉だ」

 珥懿は顎をしゃくった。

「もう突破されるな。さて……どうしたものか」

 こんな時でさえ落ち着き払っている若い主に斂文は呆れつつも感心する。先代もそうだったが、肝の座り方が尋常ではない。脇腹を止血しつつ、下の兵卒に向かって声を張り上げた。


塞門刀車さいもんとうしゃ‼」


 前面に整列した刃を備える板を張ったくるまが運ばれてくる。門扉を押さえていた兵が離れた途端、かんぬきが弾け飛んだ。すぐさまそれで塞ぐ。二台ではばんだ向こう、木っ端の残骸を掻き分けて敵兵が長槍を突き出してくる。


 壁上もまだ争いは続いている。すでに突破されてしまった箇所もあった。東西に延びた上歩道を西へ向かう敵兵たちを見て斂文は顔をしかめた。

「城ではなく街狙いか。当主、郭壁に知らせて鐘を打たせましょう」

 珥懿は頷いた。

「郭壁はすぐには破れない。今のうちに街区にいる者を逃がさねばならない」


 街の郭壁は城牆よりも高い。城牆の歩道が交わる点には道上に懸門があり、それを抜けなければ郭壁の上に登れない。とはいえ、手前の壁下に降りれば東門へ至る下道が接続しているから、堅牢な正門は破れないとしても横の掖門えきもんを抜けてしまえばすぐ向こうは街区が広がっている。

「南向きの扉も閉じさせろ」

 いま珥懿が通ってきた隧道すいどうともいえる上歩道にも、岩山のあなの出入口双方に扉を備えている。この扉を封鎖すると壁上での南北の行き来は困難になる。


 話している合間にも敵が北壁を乗り越えようとしてきた。突破が叶った数人が族兵と斬り結びながらも西へ、郭壁へ向けて移動していく。それに釣られてか東側の攻勢は弱まる。どのみちこちらから西へ歩道づたいに向かうには燃えている箭楼を抜けなければならないから時間稼ぎにはなる。


 門内から呼び掛けが聞こえて二人は見下ろした。

「当主!ここはお任せを!弓弩兵を登らせます!」

「丞必、敵が郭壁へ向かっている。北門を加勢しつつ街の守りを固めろ」

「承知しました。すでに東門へは知らせております」

 珥懿は嘉唱を下り、傍らで身体を傾がせたしもべを見下ろした。「斂文、お前は城まで退さがれ。それでは無理だ」

 悔しそうに顔を歪める。なんとか立ってはいるが、裂いて止血した布はすでに赤く濡れそぼっていた。

「灘達と合流して指揮にまわれ。城は頼んだぞ」

「当主は」

「ここをある程度片付けて東門へ向かう。丞必、共に来い」





 鐘楼しょうろうがその巨大な釣鐘を振ってとめどなく鳴っていた。東の街区に住む者たちが大緯道おおどおりを波のように足早に流れる。ふと振り返った一人が、壁を越えて飛んできたものに血相を変えた。


「――火矢が」


 その者につられてちらほらと振り返る人影。炎を宿したやじりが家々の門窗とびらに、屋根に、庭に。

「火事になるぞこりゃあ」

「どうする。戻るか」

 火を消さねば、という思いが人々の逃げ足を鈍くさせる。もと来た道を戻る者も出始めた。早鐘が急き立てるように鳴り響くなか、東に家を持つ人々は大事になったと思いつつも、いまだ攻め込まれているという実感を持てずにいた。なにせ破られたことの無い街、天衝壁てんしょうへきが文字通り壁として外界と街をへだてている。不能渡わたれずは一生ここから出ないのが当たり前だ。先祖から続く営みに亀裂が入ることなど、誰が現実味をもって想像できるだろう。

 しかし、乾燥した北風のせいでたった数本の火矢でさえ植木や軒に刺さればすぐに引火し燃え上がった。自身の住居にきびすを返した男は門窗に刺さった矢を見て慌てて水井いどに走る。彼の妻も彼を追って戻ってきた。

 桶の水を振り撒いていたところで、妻が悲鳴をあげた。つられて男も上を見る。咄嗟に妻の腕を掴んで軒先に引き入れた途端、第二波の驟矢みだれやが降り注ぎ、火の渦がさらに拡がってゆく。それは東門にごく近い家屋から舐め上げるように北から南へ延びてゆく。


「……これでは、また家がくなってしまう……」


 やっとゆるゆると恐怖を実感して、消火を忘れて呆然と軒先で抱き合っていた夫婦を隣居の男が見つけた。

「これじゃあ大緯道を抜けられるか分かったもんじゃない。城に逃げ込んだほうがいいんじゃないか?」

「でも、外には敵が」

「このままじゃ火と郭壁に挟まれて焼け死んじまう。行ってみよう」


 東門に近い住居にはまだ多くの者が残っていて、同じように西へ逃げきれなかった民で掖門の門前は人だかりができていた。


 門卒は迷う。門を開けてはならないという厳命だったからだ。東門の上には箭楼、壁内部にも兵が寝泊まりできるほどの空間がある。しかし中は郭壁の防備を厚くした為にすでに兵ですし詰めになっていた。


 報告は郭壁を守る芭覇にすぐさま伝えられた。しかし彼もまた迷う。

「逃げ遅れた民はどのくらいだ」

「五百程度です」

「それくらいならば……」

 しかし、と郭壁の外側を窺った。敵兵は壁上の道幅に盾を連ねて周囲から弓兵を守り、弓兵はその内から火矢を放っていた。恐ろしいまでの練度で、一斉に弧を描いて街に落下する矢雨を壁の上にいる者は歯ぎしりして見送るよりほかない。撃ち落とせ、と言う声があったが、安易に矢を放てば味方に当たる可能性もある。気を配りつつ応戦するものの盾に阻まれる。壁の上からでは射手を狙いにくく、なおかつ火矢が確実に壁を越える位置に陣取っているのだ。


 東門から城へと続く下の溝道にはまだ敵影はない。

「やはりまず当主にご指示頂かねば。ひとまず郭壁内の兵を順次街区側の上歩道へ広げ、民が入れるようにするか?だが、隊形が崩れては指揮に障りがある。全ては入れられぬ」

「しかし、火の手が。高楼が崩れれば危のうございます」

 芭覇は唸る。遠く下、民衆の中に赤子を捧げ持つ女を見て心が揺れる。掖門に人が押し寄せて潰されるのを避けている。


 一人の兵卒ぶかが言った。

「ここで民を見捨てては当主はお許しにならないのでは。五百人程度であれば掖門の開閉にそれほどかかりません。幸い谷蠡さまの兵もいます。民を護衛し城まで送り届けては」

 決めかねているうちにまたどよめきが起きた。新たな火矢が軌道を描いて再び郭壁を越える。角度を少し南へ向けて。

漸将ぜんしょうさま!奴ら門前の民を狙っています!」

 目視の兵が訴える。

「早く弓隊を止めろ!投石機はまだか!」

 演習以外おそらく一度も使われたことのない投石機は組み立てに手間取っている。

 壁下で悲鳴が起きた。集まっている民の上に矢が降ってきたのだ。

 やむを得ぬ、と芭覇は声を張った。

「掖門を開けよ!民を助けるのだ!」





 けたたましい鐘の音に被さるように、金切り声と叫び泣きが聞こえる。郭壁の向こうからはどす黒い煙が立ち昇っている。珥懿は猋をんだ。どこからともなく現れた獣は歩道に陣取った火矢隊の盾に突進し、咬み裂く。溝道の丘を下った先、大門を見下ろして丞必は息を飲み、珥懿は舌打ちした。


 門前の閑地は血の海だった。待ち伏せしていたと思われる二泉兵が掖門から溢れるように出てきた丸腰の人々を片端から襲っていた。敷き詰めた砂利は赤黒く染まっている。もはや誰が敵で味方なのか分からないほど混乱し、門卒は殺されて開け放たれた無防備な掖門では箭楼を占拠しようとする敵兵とそれを死守しようとする族兵が入り乱れ、郭壁内の通路の入口には新たなしかばねが積み重なり惨憺さんたんたる有様。

「珥懿さま……猋を」

 丞必が促したが、珥懿は首を振った。

「だめだ。もう限界だ、これ以上血を吸わせては」

 なだめるように嘉唱の鼻面を押し、行け、と命じる。獣は窺うように頭を低く下げると、仲間を連れてあっという間に天衝壁の奥へと駆け去った。

「我らも加勢するぞ。門前の民を殺せば次は街と城の二手に分かれるつもりだ」


 遠目に十五、六人の敵兵が向かってくるのが見えた。


「ここを片付けても北壁を完全に塞がなければ」

 丞必が並走して敵に向かう。弩を構えるのが見えた。放たれた矢、しかも複数。しかし珥懿は後腰にげた剣を逆手で抜きざま、飛んできた矢を全て刃で弾いた。

「北門は斂文と灘達に任せておけ。あの二人はそれほどやわではない。それより東門だ。……焦げ臭い。鼻が利かない」

 交差した影を撫でるように剣で払い、あるいは突いた。

大釤たいさんが欲しいな。持ってくればよかった」

 一息も乱さず、いくらもかけずに敵を散らした二人は溝道には下りず、再び上の丘を縫うように移動する。


 壁上からさらに敵兵が来たが郭壁から応戦に出た族兵に押し負けて次々に討たれた。敗走しそこねた兵、郭壁内に入り込んだ敵も排除された。後に残ったのは死体と伏して動かない街人、呻き声と泣き叫ぶ声。


「当主!申し訳ございません!」


 青い顔で足許に額をついた芭覇には答えず、珥懿は剣を鞘に収める。丞必が珍しく怒気を滲ませて迫った。

「なぜ掖門を開けたのだ。敵が待ち伏せているのが箭楼から分からなかったのか!見ろ、いたずらに民が死んだ!」

「敵は丘の死角に隠れていたのです。まさか既に入り込んでいるとは思いもよりませんでした」

「どうして斥候を立てなかった!」

「そんなことをしている余裕はありませんでした。では、どうすれば良かったのですか。あのまま民が焼け死ぬのを見ていればよかったのですか。私は当主ならば門を開けると思い、厳命にあえて逆らいました。街を守る兵がみすみす民を見殺しになど出来るはずがありません」

「何のために郭壁の兵を増員したと思っている。実際には彼らの死期を早めただけだろう!守りきれもせず、民を敵の眼前に晒してよくぬけぬけと」

「やめろ」

 うずくまっていた珥懿は膝に虫の息の子どもを抱えていた。

「当主」

「いい。……もう助からない」

 丞必も芭覇も、腹の血溜まりを見て目を伏せた。小さな手指が弱々しく珥懿の衣を握り、かすれた息で母親を呼んで事切れた。虚ろに光を失った瞳を閉ざし、ゆっくりと立ち上がる。二人を振り返る。

「北門外の敵を掃討する。芭覇、お前の手勢と斂文の兵をくぞ。お前は民の手当てと街の消火を」

「…御意」

「行くぞ丞必。今は憤っている場合ではない」

 当主、と呼び掛けたものの、続いて走りながら何を訴えたいのか分からなくなった。ただひどい既視感がした。燃える街と死体。怒号と悲鳴と垂泣すいきゅうと。

「……また子供が死んだ」

 ぽつりと風に紛れて聞こえた珥懿の言葉に丞必は目を見開いた。



 ――――決して失われてはならない万朶ばんだ。私たちの希望。



 耳の奥で懐かしい声がこだました。珥懿がふとこちらを見る。その表情に、不覚にも泣きそうになった。

(なぜいま、そんな顔をなさる……)

 一瞬ののちには、いつもの無感動に戻る。

「壁を越える敵兵が減っている。門外ですでに食い止めているようだな」

「斂文と灘達の兵でしょう。鈴家は道に上がらせ、弓矢で狙います。――緒風しょふう!」

 ここに、と若い女が声を上げる。

「二十をお前に委ねます。できますね?」

「お任せを」

「くれぐれも同胞に当てないよう」

「滅相もございません」

 緒風は兵を連れ内壁の馬道を駆け上がって行った。珥懿がそれを見上げながら珍しく褒めた。

「あれは弓の才がある。霧界で螻羊を一矢で仕留めたのも大したものだった」

「これが片付きましたら伝えておきます」


 壁内の敵兵は減ってはいるものの、相当数入り込んでいる。現に正面から歩兵が向かってきた。珥懿たちは再び剣を抜く。

 駆けながら剣を交え、あとは芭覇の兵に任せる。先へと進んでようやく北門に戻ってきた。


 箭楼は既に燃え落ちていた。刀車で阻んだ北門は隙間に土囊や石を積んでなんとかたせていたが、外から突かれて揺れている。それを交代で押さえ、その周囲をさらに味方が死にものぐるいで守る。

 壁上ではまだ小規模に攻防が続いていた。見下ろした壁外では狭い範囲で押し返そうとする族兵と、なんとか上がろうとする二泉兵が虫のようにうごめいている。


 珥懿は顔を上げて隘路あいろを注視した。丞必も向かってくる歩兵に気がつく。

「敵の援軍です。いかがします。外の兵を一旦退かせますか」

「負傷した者を上がらせよ。弓兵は退却を援護」

 しかし敵は門前に辿り着く前に矢を放ってくる。

「弓兵!新手も狙え!」

「丞必、私は外に出る。城牆は任せる」

「それならわたくしが」


 言ったところに珥懿を呼ぶ声が城方面から聞こえた。

 野牛に乗った人影は二つ。後ろに歩兵が束になって続いていた。一人は片腕に大釤を担いでいる。近づいてくる途中でそれを振り回して敵を三人ほど殴り散らした。

「忘れもんだぜ、当主。俺には無駄にでかいこの得物は使えないんだが?」

南側おもてはどうした」

 野牛で馬道を登りきり、大釤を投げて寄越した侈犧は笑う。

「甕城の中はあらかた片付いた。いまは跿象の兵が閑地まで逃げる奴らを追ってる。ったく、人使いが荒いぜ。矢面ってのは雑魚ザコがやる仕事だろ?」

「ほんとに。疲れたわぁ」

 徼火がげんなりとした顔のまま無造作に矢を放った。

「損耗は」

「心配ありがとうよ。甕城はともかく俺たちはお陰様で軽微だ」

 そうか、と珥懿は受け取った大釤を担ぐ。

「褒美ははずむ。北門をしずめろ」

 はいはい、と侈犧は首をすくめる。徼火は既に鈴家の兵と共に弓で応戦している。丞必が侈犧に声をかけた。

「当主を頼みます」

 言葉ににやついた。

左賢さけんはいつまでも当主を子供扱いだな。悪いが俺はこましゃくれた小鬼ガキの子守は嫌いでね」

「私も老耄としよりの面倒は御免だ」

 なに、と言ったのには返さず、珥懿は雉堞の上に立つ。曇天に朔風が頬を刺すように撫でた。丞必と鈴家の兵が珥懿を囲って外に弩を構える。

 狙ってくる矢を払い落としながら、声を張った。


「聞け‼亡状ぼうじょうなる二泉の者どもよ!黎泉の掟を軽んじ四泉を手中に収めんとすれば、貴様らの主には必ずや霆撃いかずちによって天譴てんけんくだるであろう。それでも四泉主をしいし、領土を侵し醜穢しゅうわいな行いを改めぬと言うなら、我らは我らの誇りと四泉国との血盟においてふつくにお前たちを勦滅そうめつせしめ惨烈の極みを見せてやる!それが不服ならば、この牙一族は主、牙紅珥懿を討ち取ってみせるがいい!」


 言い終えたと同時にするりと飛び下りる。あおってどうするんだ、と呆れつつ侈犧も続いた。

 着地しないうち、壁を背にして全方位から矛が突き出される。それを一薙ぎし、体重を感じさせずに下り立った姿を見て敵は驚愕の顔をしてたじろいだが、その隙を逃すような珥懿ではなかった。一拍後、血飛沫をあげたそれらを避けて、次の一振りを繰り出す。新手は千に満たないほど。味方は門外に六百。


不羈ふきなる我が一族よ、闘え。おのが手で愛する者たちを守り抜け」


 発破に士気が上がる。峡谷を抜けた新手に南側から応援に来た万騎が応戦する。

 纏めて三人ほどの首を胴から斬り離し、珥懿は自分の聞得キコエが正しかったのを確信した。機械的な攻撃を刃で受ける。練度は高いはずなのに覇気が感じられなかった。虚ろな目には何も映っていないかのよう、中身のない技巧だけの剣技で、ごくたまに妙に生気のある兵が突っ込んでくる。おそらくこれが生来の由歩ゆうほで、その他はなぜか由霧で死なない不能渡だろう。


「族主の首級しるしれ!」


 号令は威勢がいい。わらわらとまた珥懿の周りに黒い人だかりができる。なるほど、やはり命令に逆らわぬ傀儡くぐつというわけか。

 殺意の少ない攻撃を止めることは容易いが、いかんせん数が多い。数十を仕留めてさすがに少しばかり息が乱れる。血脂のまわった剣で敵を斬るというより叩き潰していた侈犧と一時背を預け合った。


「隘路からどんどん来るぞ。これでは埒があかない」

 侈犧が息を整えながら額を拭い見上げる。

「矢も尽きそうだ。猋はもうだめなのか。このままでは崖にも登られる」

「猋はもう使えない。螻羊はここにいる分はあらかた始末した。馬では登れまい」

「それはひとまず安心だが門外そとで戦うのは無理だ。まだ奥に四千はいるぞ。籠城して雉堞から攻撃したほうがいい」

 珥懿は答えず侈犧の真横から斬りかかった敵の顎を峰で砕く。峰といっても諸刃もろはだから敵は血水を散らしてひっくり返った。また二、三人を撲殺し、やはり侈犧は呼びかける。

「なあ、門外の味方を退かせよう。壁を越えるだけなら猋が使える。守りに入るのはお前の性に合わないのは知ってるが、こんな狭い中でやり合うんじゃあ、同士討ちしちまう」

 門前は人間で溢れている。閑地とも言えない狭い敷地は人の群れで両腕も伸ばせないほど。

 しかしなおも無言で口を拭い、珥懿は柄を握り直した。敵に向かおうとするその頭を侈犧は憤然と掴む。

「おいコラ聞け。いい加減にしろ阿呆。らしくねぇぞ、いつもの余裕っぷりはどこいった。もう死体がごろごろして足の踏み場もねぇ。これでは戦えない。退却を指示しろ」

 掴まれて巻きつけていた辮結みつあみがほどける。不愉快そうに見上げる顔のまま、一度大きく溜息をついた。放せ、という手振りを受けて侈犧は離れる。珥懿は大釤の石突きを地に打ち鳴らすと指笛を鳴らした。それは長く甲高く、異様さに思わず動きを止めてしまう音だった。ざわめいた峡谷の敵の上を素通りして呼応した猋の群れがどこからともなく現れた。


「後退しつつ離脱しろ!壁に近い者から猋に乗れ!」

 大声で言った侈犧に、珥懿は不服げに呟く。

「……猋を足止めには使えない」

「分かってるさ。殿軍しんがりは万騎に任せな。お前は先に戻ってちゃんと指揮しろよ」

 次いで見上げる。

「徼火!楽させてやったんだ、最後くらい手伝え!」

 壁から飛び下り一回転して着地した徼火は頬を膨らませた。

「なにが楽なものよ。敵味方入り乱れてる中で精確に射るのがどれだけ大変だと思ってるの」

「そんな顔してもちっとも可愛いくねぇよ。ほれ行くぞ」

 放られた剣をつまらなさそうに受け取って、一転徼火は珥懿に微笑んだ。

「珥懿さま。ひとりで戦ってるんじゃないんだから、そんな顔しないで。私たちがいる。お命じになったらいいだけのことだ」

 分かっている、と吐き捨てる珥懿が徼火にはたまらなく愛おしい。きっと予想外に苦戦して苛立っているのだ。盤上と実践では計画通りに事は進まないもの、それは珥懿や十三翼よりも場数を踏んでいる万騎のほうがよく分かっている。


 珥懿は俯くと息を吐き、顔を上げた。

「徼火、敵を止めろ。――私の為に死ね」

 氷のような眼で命じられて背筋にぞくりとしたよろこびがつたう。

おおせのままに。我が王」

 ああ、これだから、と徼火は抜剣しながら敵陣に斬り込んだ。

(だから、あたしはあなたについていく)





 蟻のように忙しなく動いている黒い粒、沙爽は城裏の丘陵と溝道、天の帷帳とばりを分断するような郭壁が少しいびつに見える玻璃窓から目を背けられないでいた。気にかかるのは暎景も茅巻も同じだったが、燕麦に促されて渋々顔を戻す。


「して四泉主。穫司が落とされ、いまだ動きはないが、なにか策があるそうで」


 烏曚うもうが皺の入った手を杖頭の上で交差させた。ええ、と頷き沙爽は夭享が淹れてくれた茶に口をつける。小房には下仕えを入れない。いつ敵が侵入してくるかも分からないから、扉にはかんぬきがしてある。いるのはあと姚綾ちょうりょうというふくよかな年嵩の女と、老茹ろうじょという耆宿院の者。老茹は仕草や装いから老爺に見えたが近くで見るとそれほど歳でもなさそうだった。当主の許可が降りたのか、引き続き皆素顔のままで、沙爽は改めて彼らを見回した。


「牙族として恥ずべきことに陛下がご指示したその命を間諜が掴みきれておりませぬゆえ、我らは穫司でなにがなされるのか分かりませぬ」

 姚綾が言い、沙爽はさもあらんと頷いた。

「私と丞相じょうしょう、大司空それに大司馬だけで練った案だ。もちろん瓉明さんめいには連絡済みだ」

「三公とだけで通した策が無事に発効されると?」

「丞相がそうしたほうがいいと。泉宮おうきゅうのどこに敵がいるかわからないから」

 烏曚と姚綾は顔を見合わせた。「それは同盟を果たした我らにもお教え願えないのですか?」

「丞相を信じていないわけではないが、私とて実際に報があるまでははたして上手くいくのかはわからない。結果が出るまではぬか喜びしたくないし」

 そうですか、と正面の二人はなんともとらえ難い顔をしている。特に、四泉の南域に一族を派遣している姚綾は複雑そうだ。


 それはさておき、と口を挟んだのは燕麦だ。

「今はこの戦況をどう見るかのほうが重要でしょう。甕城を開けたと聞きましたが、勝ち目がありますか。私にはとても愚行に見えるのですが」

 燕麦、と沙爽はたしなめたが、彼は続ける。

「数人の人質のために何故そこまで。それを助けるために一体どれほどの仲間が犠牲になると思っているのです。理解に苦しみます」

 ふ、と烏曚が笑った。

「いかにも、そうだろうとも。しかし当主はそう考えなかった。我らはそれに従うのみ。それに、あの人質たちは二泉各州の間諜の頭たちなのです。寧緯ねいいどのは、間諜をひとり育てるのにどれほどの歳月がかかるかご存知かな?」

「いえ、不束ふつつかながら泉外人の風習にはうといもので」

「では、お前たちは?」

 無表情に返した燕麦の隣、暎景と茅巻に問いかける。

 暎景が腕を組んだ。

「まあ俺たちも似たようなものだが。大抵は幼い時から武芸をはじめ気配の消し方だの身振りの仕方だの一通りの訓練を受けるな」

「左様。間諜というものは一朝一夕になれるものではない。ことに敵地に溶け入り何年ももぐるとなればそれに耐えうる胆力や用心深さがなにより必要なのだ。それを身につけるには途方もない時間がかかる。加えて、我らは寿命が短い。ひとりの間諜を送り出す傍らで、新たな後継を見定め養育しなくてはならぬ」

「ひとりひとりが貴重な人材というわけか」

「易々と見捨てられるものではないのです。それ以前に、あれらは我らの大事な息子や娘たちでありますから、当然惜しい。もちろん、甕城を開けるなど論外だという声もあった。それが定石では正しい。しかし我らは由歩や聞得の血を絶やさば生きる道がせばめられ、やがてはついえる。絶対に血は継いでいかねばなりませぬ」

「由歩や聞得は、やはり血統なのか」

「絶対、とは言いきれませんね」

 茅巻が言った。「俺の親は不能渡でしたから。不能渡から由歩が生まれることはあります。ですが確かに由歩の出た家系には由歩が多い。そもそも泉国ではそんな家系自体少ないですが。対して、泉外部族は不能渡のほうが少ない。牙族は民の間でも由歩なのがふつうでは?」

 姚綾が頷いた。

「近年不能渡が増えてきたとはいえ由歩が多い。牙族の血統一家のうちで能の高い者は霧界を渡れると同時に六感すべて、または一部が鋭敏な者、つまりは由歩の中の聞得である場合がほとんどだ。聞得を輩出する家系の場合も茅巻どのの申したように、偏りがあり血筋にる能力であることは否めない。とはいえ由歩ではあるがその他は只人と変わらない者もいるし、中にはまれではあるが逆もいる」

「逆、とは?」

「不能渡なのに聞得の才がある者。これは滅多におらぬ。ましてや生まれついてはな。それらとは別に、生まれ持った由歩の能を幼い時分にうしなう者があるが、こういう者たちのことを我らは毋食ぶしょくと呼ぶ。ある程度は修練を積めば取り戻す方法もあるが、大抵は能を喪うと同時に聞得の才も消失する。だから我らの間で不能渡と言えば泉人のような只人を指す」

 沙爽は話を咀嚼しつつ顎に手を当てた。

「聞得というのは、大変だろうな。それほど耳目が鋭敏であればさぞ緊張が抜けないだろう」

 これには老茹が笑った。

「常にあらゆる音やにおいが体に流れ込んでいるわけではありませぬぞ」

「そうなのか?」

「陛下も『耳を澄ます』ということがあるでしょう。ある音を聴こうと集中することです。しかし常には遠くの音は単なるざわめきでしかない。それは聞得も同じです。意識的に聴いたり、見たり、においを嗅ぐその結果として得られる情報が只人よりも多いということなのです。聞得はそれを開くとか閉じると申します」

「耳を開く?鼻を閉じる?」

「左様でございます」

 老茹の横に控えた夭享が言を継ぐ。

「しかしながら、能が高すぎる者は無意識に『開いて』しまうこともあるとか。ゆえにより静かで清浄な場が好まれるのです」

 それでこの城はこんなにも静寂に包まれているのだろうか、と沙爽は小房を見渡した。石造りで音が響きそうなものなのに、足音ひとつしない。

「それでは戦場に出ては不利だな。只人でさえ血と熱気にせ返るのに、鼻が利かなくなって弱点になりうる」

 暎景が言って、沙爽はでは、と窓を向く。

「牙公は大丈夫なのか。やはり城で指揮を執ったほうが良かったのでは」

 素人目から見ても、珥懿の立ち居振る舞いは常人とはかけ離れている。

「泉国とは違い、我らの首長はひとつの家から続くわけではない。ここでは王がいなければ水が涸れるなどということはありません。ゆえに指導者は民を導く力があることを己で示さねばならぬのです。誰よりも優れた聞得と、敵を撃破する為に手足である十三翼や万騎を有効に運用出来ることを証明せねば、民の支持を得られないでしょう」

「しかし、こんな大規模な戦いは牙族とて初めてのはず。なぜそれほど落ち着いていられるのか…京師兵けいしへい十一万を持つ四泉でさえ狼狽うろたえているというのに」

「それは心構えの問題でしょうかなぁ」

 烏曚は髭をしごいた。「いつも鍛錬を欠かさず、あらゆる非常に備えるよう我らは幼い時から訓練を積みまする。それはもう、ことある毎に。我らは罪人の処刑を小童こどもにさせるのです。死とはなにも特別なことではない。常に隣にあるものです。死に慣れることは恐怖を除きます。僚班りょうはんになるための登狼とうろう伴當はんとうになるための登虎とうこ、さらに当主は当主になるために『選定』を受けなければなりません。それら全てには死の危険が付きまとう。心を壊す者もいれば四肢を欠く者もいる」

「なぜ……そこまで」

「泉人には理解し難いでしょう。あなた方には生まれた時から住むことの許された誇るべき土地がある。我らにはそれがない。本来はどこにも落ち着ける場所のない流浪の民なのです。幸いにも牙族は水脈のあるこの地を見つけましたが、いつ失うかも分かりません。その時には頼るべきものが何も無い。我らは何よりも生き残るために強くあらねばならず、そのために自らが滅ぼうとも、次の世代にそれを伝えられれば一族は永続する」

 しばしの沈黙があり、やはり沙爽が口を開いた。

「でも、この戦いが終われば四泉との同盟において黎泉に新たな泉地だと認めてもらえる可能性がある。そうすれば牙族は恒久的な定住地を見つける」

 燕麦が窺い見た。

おそれながら。そう上手くいきますでしょうか。四泉の泉を新たに引くのはまだ許されるかもしれませんが、私は黎泉が十個めの泉地を設けるとは考えにくく思います。同時に、牙族を泉民として公に認めることもないと考えます」

「なぜそう思う」

 燕麦は地図に目を落とした。

「前者の理由としては開闢かいびゃく神話があります。古に天柱の一である神山が折れ、地が割れ水が溢れ洪水となった。天帝てんていは水神にこれを鎮めるよう命じ、水神は自らの九人の子をそれぞれ水に封じて泉とし、自らもまた大泉となり、これを黎泉とした。神山の折れ跡がつまりは天衝壁であり、魑魅魍魎の跋扈ばっこする外界から守られたその地がいま我々が住まう大泉地である、という伝承です。一度ならず涸れたことはあれど過去に主泉が増えた例も減った例もございません。後者の理由は前例がございまして、一泉と北狄ほくてき――かく族の関係に見られます。一泉は泉地で掠奪を繰り返す角族をなだめるために和睦の証として公主を降嫁させましたが、いまだ角族の定住地は一泉として和合されたどころか泉地として認められてもおりません。同様に、四泉と牙族のこの同盟が達成されても、両者を隔てる由霧は晴れることはないと愚見ながら推察致します」


 開闢神話は世界のことわりである大綱たいこう泉柱せんちゅうの文言に深く関わっている。泉をおかしてはならない。九つの泉はそれぞれが独立した主泉として機能しなければならない。


「……ふむ。ではやはり四泉地に牙族を移住させるか、支流を引くしか方法はないわけか……」

 茅巻が難しげに首を唸る。

「あの博覧そうな当主がそれを知らないはずはないと思われますが。あなた方もそれは思い至ったことではないのですか」

 問われて牙族の面々は顔を見合わせた。

「無論知っているが、水司空の考えは我々の解釈とは多少異なる。そもそも我々はこの土地を黎泉に是非に認めてもらいたいとは思っていない。それに開闢神話自体が泉国と泉外地とでは異なるゆえ、今回の盟約について黎泉の判断がどうなされるか、伝承を元にして考えることは埒があかないと結論した。分かっているのは泉外部族が泉国にどう介入しようと黎泉は我らには不干渉であることだ。また、こちらも黎泉の大綱のりには触れることが叶わぬ。過去の例からすると泉主が他泉に侵掠し泉を混交することは禁忌のようだが、泉外への泉の拡張は前例がない。そして我ら臣下の最大の懸念は王統系譜に泉外民が名を連ねることが出来るのか、これに尽きる」

「……?しかし角族は一泉の公主を迎えている」

「族領に、であろう。角族は一泉の街や田畑を蹂躙じゅうりんしない代わりに血統と貢物を求めた。しかし、宗族そうぞくに迎え入れられて王統に取り込まれたわけではない。泉外地が黎泉から認められないのであれば、霧界は存続する。泉を引くことが出来ても相互の行き来は不能渡には困難だ。物理的に隔絶されているのに泉地と我々が融和するのは難しい。となれば、目に見えて明瞭な方法は王統に牙族が入ることだ。それも族領ではなく、泉地に」

「泉地に」

「いずれにしてもそこを入念に話し合う暇もなく二泉との戦いが始まってしまった。事が落ち着き次第、四泉主には黎泉に伺いを立てて頂かねば困ります。神勅しんちょく同様、是か否かはなんらかのしるしで示されるでしょう」

 燕麦が呆れたように一同を見渡した。

「陛下も牙族も、そのようなあやふやな状態でこの同盟をしたと?にわかには信じられません。飯事ままごとではないのですよ」

 沙爽は微笑んだ。

「朝廷でもさんざん叱られた。しかし二泉の脅威を前にして最善の方法は何かと考えた。牙公がどう思って私に乗ってくれたかは分からないが、私も牙公も、黎泉がどう判断するにせよ互いがより存続できる可能性に賭けた……私はそう思っている」

「きっと当主も同じでしょう。我々一族はこのままでは同族どうしで争って滅びてしまいそうなくらいに不能渡と由歩の確執が大きいですから」

 老茹の言葉に首を傾けた。

「そこまでか?」

「民の間ではそうでもありませんし、今はだいぶんましですが。城と耆宿院の仲は昔からそれはひどいものでした。当主もそれを経験しておりますゆえ、泉主の提案に心惹かれたのやもしれませぬ」

「そうだったのか……ますます気が引き締まった。絶対に二泉には勝たなくてはならない」

「ええ。すべてその前提で動いていますから」

 笑い皺を作った男の隣で聞いていた夭享はふと腰を上げた。向かいの窓から見える黒煙に青褪あおざめる。

「老茹さま、街が……」

 悲鳴ともつかない声を受けて、暎景と茅巻も走り寄る。

「郭壁を越えられた⁉」

「そんな……ありえません。郭壁の前にまず北路を越えられるはずが……」


 狼狽した面々が窓に駆け寄ったところで扉を叩く音がする。符牒あいことばを言い交わし入って来た者は敵が北壁を越えたと告げた。


「城も危のうございます。皆さまはくれぐれも階下にはいらっしゃらぬようお願い申し上げます」

「城狙いか」

「いいえ。入り込んだ敵は郭壁へと向かっております。しかし北門前が混乱しておりますゆえ、状況が掴めておりません」

 なんということだ、と烏曚が首を振った。沙爽は立ち上がる。

「――私も」

「なりません。四泉主に何かあれば牙族が損害を被ります」

「でも!」

 窓の外の黒煙はいまだ消えないまま、微かに聞こえる悲鳴のようなもの、剣戟の打ちつける音。

「陛下に出来ることは今はございません。行っても皆の足を引っ張りますよ。護衛が無駄に血を流すことをお望みでないなら控えておられるべきです」

 歯に衣着せぬ物言いで燕麦が沙爽を押しとどめる。これには靡下二人も同意した。





 息の詰まる小房でじりじりと時を数え、ついには日が暮れても、外の喧騒は止まなかった。ようやく静まったのは宵闇にすっかり包まれてしばらくしてからだった。用意された軽食も口にする気になれず、沙爽は窓にかじりついて、ただ遠い郭壁のにじ松明たいまつを眺めているしかなかった。小房にいる全員が沈黙して、外が一体どうなったのか、誰にも彼にも問い尋ねたい衝動を抑え込んでいる。


 咳払いするのでさえ躊躇ためらわれるなか、待ちに待って扉を叩く音がした。


 入って来た人影と共に、むわりと血と煙のにおいが漂う。

「芭覇どの」

 呼ばれて男は頷く。くずおれるように床に胡座をかいた。

「敵はひとまず撃退した。だが油断はならん。夜陰に乗じていつ攻撃されるとも分からぬ――すまないが、水をくれ」

 夭享が差し出した水差しに直接口をつけて一気にあおった芭覇は大きく息を吐き出した。

「当主はご無事か」

「無事だ。今は南の門楼に」

「私は行く」

 いても立ってもいられず、沙爽はついに飛び出す。くれぐれもご注意を、とその背に呼びかけた姚綾はまだうずくまったままの芭覇を見下ろした。

「……伴當は皆生き延びたか」

 薄い肩を震わせた。てのひらで目を覆い、微かに嗚咽おえつを洩らす。そんな、と夭享は老茹と顔を見合わせた。咄嗟になにかの巧妙な嘘なのではないかと疑ったが、そう思いたいのは自分であるのに衝撃を受けた。それほどに信じられない思いで体を硬直させて立ち竦んでいた。登虎を通過した伴當がそう易々と死ぬわけがない。そう心で願っているのと同時に、打ちひしがれて絶望している芭覇を見て事実なのだと確信した。彼はそれほど心の強い者ではないから。

「……誰だ」

 静かに問う声に、芭覇は一度血の気のない唇を引き結んだが、やがて諦めたように再び開いた。





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