十七章



 跿象としょうは甕城の馬道を歩きながら前方に目を向けた。阻塞を崩し始めた敵は交替で休みなくおのを振るい、領門から甕城に続く道をひたすらひらきにかかっている。時刻は辰七刻たつななつ。思ったりよりも進軍が早い。もう少しでいしゆみの範囲に届く。

 次いで閑地に目を向けた。背の高いものがいくつか見て取れる。ここ数日動かないと思っていたら、やはり木をって城攻めの準備をしていたらしい。

「そろそろか」

 不意に声がかかって振り向く。親族の男がとげのある蒺蔾くさの束を壁外に投げ捨てたところだった。

「やはり懸門もんは破れないと知って搭天車はしごを作ったか。しかしその前にほりを越えられやしないが」

「だろうな。そもそもあちらは分が悪い。なんだってこんな無謀な真似をしてるのか俺には理解出来ないね」

 周囲は険阻な岩山に遮られた山中、地の利を活かして壁を築いているこちらに対してあまりに勝機が無い。とはいえ、このまま攻めなければまず兵糧が枯渇する。

「だから猋を使えなくしようとしたのだろう。平原側からも攻められればこちらの守りがばらけるからな。まあ城外に万騎も控えているから、時間の問題だ」

 親族の男は跿象に頷き、前方に目を細める。

「開戦の鏑矢は当主が?」

「いや、我らに一任だ」

「それはなんとも、喜んでいいのか、適当だと責めるべきか」

 阿呆、と笑う。「それだけ信を置かれていることの証左だろう」

「では周家大人かとくの弓さばきをとくと拝見しようかな」

「お前がしても良いぞ」

 男も快活に笑う。

「見せ場は大人の特権だろ。お譲りするよ。良い音を聞かせてくれ」

 任せろ、と跿象も揚々と笑い返した。





 窓の外、鈍色の空は朝陽を十分に通してはくれず、それは玻璃を通して弱々しく白くぼんやりとしか影を落とさない。その光に淡く照らされた小さな手を、珥懿はそっと被衾ふとんの中に隠した。次いで肩先までに切り揃えられた短い髪を撫でる。いつも笑顔を浮かべていた顔は今は生気を失って青白い。


 呼ばれて駆けつけた時にはすでに歓慧の意識はなく、薬師いしゃによれば疲れが溜まったのだろうとのことだった。だからあれほど泉主に構いすぎるなと言ったのに。

 丞必によると目覚めても朦朧としているという。まだ熱もある。しばらくは安静が必要だ。

 名を呼び、眉間に皺を寄せた。こんな時でなければ、ずっと傍にいてやりたい。どうして具合が悪いと気がつけなかったのだろう。妹は自分のことを隠す。いつもこちらや他に気をまわしてせわしなく立ち働いているから、それが自身も楽しいと言っているから、ずっと監視しているわけにもいかないし離さず傍に置いて束縛するのも可哀想でできない。

 守ると誓ったのに。必ずお前を傷つけるもの全てから守ると誓ったのに、こんな有様にしてしまうなど不甲斐ない。


 自己嫌悪に飲み込まれてゆく珥懿の耳に、甲高く嚆矢こうしの一音が聞こえた。


 隔扇とびらが開いて丞必が入ってくる。

「当主。そろそろご準備を」

 言われて、もう一度愛しい妹の頭を撫でると丞必と一緒に入ってきた面紗ふくめんの女に顔を向ける。「頼んだぞ、茜」

 茜は恭しく頭を下げた。珥懿は傍らに伏す獣の頭も撫でる。「ついていてやってくれ」

 彩影かげである茜に託すからひとまずは安心だが、下仕えもいる。完全に安全であると信用は出来ない。最も信じられるのは己の片割れだ。歓慧に害をなそうとするなら即刻首を咬みちぎってくれる。


 珥懿は振り返った。主の鬱屈とした気分が敵への闘争心に昇華したのを見てとり、丞必は黙って道を空ける。

「髪をお結いになりますか」

「久しぶりにお前にしてもらおう」

「私は歓慧さまほど器用ではありませんよ」

 珥懿は笑む。

「殺し合いをするのにそれほど美しく結う必要はないだろう。邪魔にならなければいい」

 当主は基本的に自らがどんな姿をしようがあまり頓着がない。なぜなら自分が美しいと知っているから、着飾る必要を感じていない。歓慧に任せる時以外は装飾性より機能性を重視した。

「では、僭越ながら」

 連れ立って走廊ろうかを歩む。微かに雨音のように矢弦の音が響く。

「……はじまってしまいましたね」

「そうだな」

 気のない返事だ。

「当主のことですから、緊張はしないと思いますが。どうですか」

「昔と比べると随分気が楽だ」

「そうでしょうね。悪く言うやからもおりますが、あなたはそのままで良いのですよ」

 分かっている、と珥懿は前を見据えた。

「それよりも、例の件だが」

 ひそめいた声に同じように答える。「叔母上には了承頂き鈴家のみで探っております」

「くれぐれも悟られるな……特に耆宿院には」

「城に残っているのは夭享ようきょう老茹ろうじょさま、それに助老じょろうの一人。常に目の届くところに置いております。今のところ不審な様子はございません」

「引き続き警戒しろ。耆宿は信用できない」

 丞必は目を伏せた。珥懿は先代の彩影だった人物ですら、自分に仇なす者なのではと疑っている。そもそも老茹が耆宿院に入ったのは当主との仲を取り持つ為だというのに。





 開戦からいくらも経たないうちに伝令が血相を変えて飛び込んできた。


「当主――くるまが」


 絶望した顔でくずおれる。


「二泉の間諜が―――‼」


 みなまで聞かず、珥懿は足早に南に向かう。ちょうど走廊ろうかの一方から駆けて来た灘達なんたつと鉢合わせた。この男が取り乱しているさまを見たのは初めてだった。

「当主、二泉各州にもぐっていた者たちが捕らわれていると」

「何人です」

 連れ立って走るように歩きながら丞必は強い口調で問う。

「七人」

「丞必。お前は来なくて良い」

 探れ、と暗に言われ頷く。一瞬ののちに姿を消した。皆が動揺している今、が動くかもしれない。

「他と連絡は」

「いまだ取れず。もしかしたら捕縛された可能性も。……当主、これは」

 珥懿が首を振る。「今は考えても仕方ない。跿象はまだ甕城か」

「ええ。弓弩兵には待ったをかけております」

「よし。お前は伴當を集めよ」

 御意、と呟き灘達も消える。珥懿は階段を音なく駆け下り、甕城の上へ続く道へ駆け出す。


 その馬道の上で周家の者たちが泡を食っていた。

「――当主!」

 主の姿をみとめて一様に縋るように疾呼しっこする。珥懿はぐるりと見回した。

「気を鎮めろ。跿象はどこだ」

「箭楼に」

「敵は動いているか」

「いいえ。轒轀車くるまに間諜を吊り下げて――」

 そのあとは詰まったように声が出ない兵卒たちを通り過ぎ、駆け抜けたきざはし、箭楼に上がると跿象が腕を組んで物見窓から前方を睨んでいた。珥懿を迎えて一層険しい顔をする。

「当主、二泉担当の間諜です。しかも皆要所に潜っていた者ばかり」

 姿を確認する。監視の兵が傍らで目を手で囲っている。

烏薄うはく、見えるか」

 男は手振りで見えたものを示した。

「蘭家が四人にさい家が二人とそう家が一人か。確実に内通者がいるな」

 跿象も声を低める。

「ですかね、やはり。妙に猋のことに詳しかったのも合点がいきます」

「調べている。泳がせたいから広めるな」

「承知。攻撃はどうします」

「あれ以上進むようであれば人質に当てないよう矢で脅せ。要求があれば聞いて時間を稼げ」


 跿象が拝承して、珥懿はひとまず城内に戻る。伴當たちを前にして面をいだ。扉はぴたりと閉ざされているがそこにさらに帷帳とばりを張り、音消しの香を焚く。この香を焚くと音が響かず籠もる。


「七人も捕らえられていると。一体全体、どうしたことか」

 斬毅ざんきが動揺して目を泳がせている。

「他は」

「今のところ確認できているのは七人だけだ。三層の轒轀車に吊り下げて進んでいる」

 灘達が少し落ち着きを取り戻しつつ唸る。姚綾ちょうりょうこらえるような顔をして言った。

「灌鳥がないのはこのせいだったか。いかがいたします、このままでは各州の架け橋であるあの者たちが輛と懸門にし殺されてしまいます」


 泉国の都市機構に深く入れた者がその地域一帯の取りまとめ役になる。各都市から集められた情報を整理し、また一族の中枢から伝えられた指示を伝達する役割を担った。火急の際にはこの経路はとばされるが、いずれにしてもこの役を中心にその都市での間諜の動静の方針が決められた。吊り下げられた七人はいずれも各州のまとめ役、名家の精鋭たちだ。


 すぐに伝令が来た。二泉軍は俘虜とりこの解放を条件に開城を要求しているという。今からひる過ぎるまで返事がなければ一人ずつ、あるいは全員が殺される。斬毅が憎々しげに床を叩いた。

「どこまでも道義を無視する連中め。夷狄ばんぞくはどちらか。すぐに甕城を開けましょう」

「だめだ。そのような危険を冒すことは出来ませぬ」

「しかし、このまま殺されるのを指をくわえて見ていろと?」

 芭覇ばはが悲鳴のように言い、伴當たちは黙り込む。灘達が組んだ指を忙しなく甲に打ち付ける。

「轒轀車は急拵えの三層、城壁には到底届かぬから壁からの侵入は考えずとも良い。しかし入れるなら懸門の三分の二を揚げなくてはならぬ。その後にすぐ閉めてもかなりの敵が入ってきます」

 姚綾も同意した。

「懸門を通りきるまでに速度を落とし、兵を少しでも多く入れようとするはず。甕城を落とされれば城が危ない。やはり開けるのはまずい」

「精鋭が州府に出入りできるまでどれほどかかったと思っているのです。みすみす死なせるとおっしゃるのか。ひとまず甕城に引き入れ、壁上から蟻地獄にすれば良いのでは」

「二泉のことだ。攻撃されると思えばすぐに人質を殺す。甕城の中に手間取っている間に外郭から搭天車はしごを四方八方掛けられるぞ」

 礼鶴らいかくが珥懿に問う。「おそれながら、そもそも人質はまだ生きていましたか。さきの事を考えるにまた二泉の挑発、もしくは罠ということも」

「……生きている」

 伴當たちが一様に目を開く。

「確かに?」

「手傷を負わされていたが意識があった」

 芭覇が耐えかねるように袖で口許を覆う。沈黙が流れた。


「……一族の間諜ではないと返してこちらから矢を射掛けるべきです」


 やがて、重々しく放った斂文れんもんの言に場にいる者すべてが硬直した。

「お前――なんということを!」

「それが最善です。甕城を開けるなど危険極まりない。轒轀車が懸門を通りきると本当に思っているのですか。甘い。これは間違いなく罠です。おそらく車は門に差し掛かった途中で停止する。門は閉められず、その間に甕城に敵兵がなだれ込む。二泉があの者たちが本当に間諜なのか確証を得てああしているのか定かではないが、いずれにしてもこちらから進んで状況を崩せばこの手は使えないと知るでしょう。間諜たちの他、関わってきた者たちの嫌疑も晴れる。とはいえ門と車に挟まれて潰されるのを見るのは忍びない。ならいっそのこと楽にしてやるのです」

「お前は仲間を殺せと言っているのだぞ。分かっているのか」

「無論です。当主、あなたもそれは思いついたはずだ。箭楼で跿象にそう指示することもできた。であるのに我らを集めたのは、やはり躊躇がおありということなのですか」

 当主は答えない。無表情に斂文を見返し、そして隅で俯いている男に顔を向けた。

蘭逸らんいつ。お前はどうすべきだと思う」

 憔悴した青い顔で蘭逸は口籠もる。いつものような覇気がない。

「最も損害をこうむっているのは蘭家だ。大人かとくの意見が聞きたい」

「……当主、私は……」

 苦吟するように声を絞り出す。短い逡巡の後に顔を上げた。

「……二泉を撃退すべきと申し上げる」

「蘭逸!貴様、蘭家の血を絶やす気か。助けを待っているのはお前の最後の息子なのだぞ!」

 斬毅が蘭逸の胸倉を掴んだ。蘭逸はその手を掴み返して斬毅を見上げる。

「確かにあれは私の血を受け継いだ最後の子だ。しかしもう間諜としては使い物にならぬ」

「お前……‼」

「私は息子たちには牙族としての身分が暴露され一族に累が及ぶ際には自刃せよとさとしてきた。あのように自らが一族の障碍しょうがいになるのは絶対に本意ではない。と考えると、すでにそのすべを奪われている」

 黙って聴いていた烏曚うもうが髭をしごいて珥懿へ問うた。

くつわはしていなかったので?」

「……そう見えた」

「顔をられた以上他泉での任さえまかせられない。聞得キコエとしての役から外されるのはあれにとって恥辱以外の何物でもない。自らを餌に二泉が甕城に入り込むなどすれば、たとえ解放出来たとしても責めを感じて一族に殉ずるだろう。ならいっそ、斂文の言ったようにその思いを汲み取ってやるべきだ」

 蘭逸は斬毅の腕を放すと、主に平伏した。

「当主。七人のために領地を危険に晒すことは出来ません。どうか英断をお下しください」

「なりません当主!ここで俘虜を助けなければ十三翼の、ひいては伝え聞いた民の心が離れます!」

 珥懿は顔色なく黙る。当主がこんな態度なのは考えている時で、皆一様に口を開くのを待って房は静まりかえる。


 長い沈黙が降り、刻限が迫る。さすがに誰かが静寂を破ろうとするほど無音を刻み、


「……猋を使うしかない」


 時がとまったかのようななかで呟いた。斂文が即座にしかし、と口を挟む。

「まだ早くはありませんか。これ以上使えば血酔ちえいに」

「十頭だ。それ以上は許さない。轒轀車を甕城に入れる。懸門を降ろすと同時に猋で車と後続の歩兵を分断させる」

 蘭逸が腰を浮かせた。珥懿は図面を指差す。

「車が入ったら、または途中で止まったら即座に懸門を降ろせ。人質は前面にいる。懸門より内には確実に入るだろう。門が引っかかっても良い。降ろしたら猋で襲わせ、人質を助ける」

「そう上手くは行きません。懸門を降ろした時点で車に乗っている兵は人質を殺しますし、猋が前にまわり込めば後続の兵が一気に来るのですよ」

「懸門の降下を皮切りに侈犧しぎ隊を先行して送り、追加で他隊を投入して甕城への道を塞ぐ。そしてこちらも甕城内に兵を置く。門洞もんどうの灯火をすべて消し、毒煙を流し込むよう指示しろ」

「種類は」

夾竹桃きょうちくとうを」

「いくらなんでも無茶すぎます。これでは懸門を開く意味すら無いのでは。払う犠牲に対して実が少なすぎる。むしろ人質を助けられない可能性のほうが高い」

 卓を叩いた斂文に、ある者は同意し、ある者は苦渋の顔をする。しかし当主は動じなかった。

「もとより無かった命だ。私が人質を助けようとしたという事実があれば良い。十三翼の信を失うのは私も避けたいからな。生き残れば儲けものというくらいに甕城に入った者は何人なんぴとも生かさぬつもりで動く。……それで良いだろう、斂文」

 言われ、蟀谷こめかみを押さえる。やがて諦めて溜息を吐いた。珥懿に頭を下げる。

「お心のままに」

 斬毅が満足気に頷いた。

「人質を助ける機会を設けて下さるだけで充分です。感謝申し上げる」

「すぐに伝令を出せ。万騎に城牆の援護を要請しろ」

 蘭逸が珥懿の前に進み出た。

「当主。私も甕城へ行かせてください」

「許さん。いまお前を死なせるわけにはいかない」

「どうか。あそこには私の息子がおります。実の息子を助けずしてどうして父親を名乗れましょうか。私が高みの見物をしていた間にせがれを死なせたとあっては私は蘭家末代までの恥となります。どうかお願いします」

 縋るような目を受けて珥懿はひたと見据えた。

「息子がそんなに大事か。お前が腹を痛めて産んだわけではないだろう」

「人に苦痛をいてまで生を受けさせた私の宝です。一族の為に捧げるならまだしも、悖乱はいらんの敵兵にもてあそばれた挙句討たれるくらいなら私がこの手で殺します」

「……いいだろう。しかし折角甕城に入れるのだ。お前にも息子にも死なれては私が大損だ。絶対に生きて戻れと誓え。戻らなかったら蘭家を背忠の一家として断絶させるからな」

 蘭逸は主の足にぬかづく。「伏してお誓い申し上げます。この牙蘭逸飛いつひ、必ず当主の御前に舞い戻って参ります」

「――――行け。宝を取り戻して来い」

 もう一度頭を下げ、蘭逸は出て行った。



「……父親というのはああいうものなのか?」

 珥懿は見送っていぶかしそうに呟く。礼鶴は微笑んで頷いた。

「子は目に入れても痛くないと言うでしょう。当主もじきよい才女をお迎えになり子が生まれれば分かりますよ。先代もそうだったはずです」

「……それはどうだろうか」

 少なくとも自分は父親から蘭逸のような愛情を感じることは出来なかったが。

「お前もそうなのか?」

 ええ、と礼鶴はなおも微笑する。

「ただ、私はたとえ一族の為であっても砂熙さきが殉じなければならないならその身代わりとなります。あの子が自ら望んでも死なせません」

「よく分からないが、十三翼に私の為に死ねと言うのは間違っているのか?」

「いいえ、十三翼は当主の、ひいては牙族の為にあるのです。ただ親子のことは、そうですね、至極当然な……まあただの我儘ですよ」

「情というのは曖昧でよく分からないものだな」

 珥懿は釈然としないようだった。まるで小童に還ったかのような表情に、礼鶴は当主の欠落した間隙を見た気がした。

「……歓慧さまに置き換えて考えてみたらどうでしょう」

 説明に困ってそう言うと、なるほど、とやっと腑に落ちたように頷いてみせた。





「ほう、懸門を開くか」

 閑地から少し離れた丘の上で騫在は顎を撫でた。

「劉渾を殺したから今度もてっきり見殺しにするかしらを切ると思ったが、西戎ばんぞくとはいえやはり同胞なかまには情があったか」

 劉施が憂鬱そうに俯く。騫在は甕城に続いて北を見た。

「さぁて、表ばかりに気を取られてはならんぞ……ふふ、本当に戦慣れしていないのだな。背ががら空きだ」

 遠く烽火のろしが上がるのを見て騫在は面白そうに笑む。

「行くぞ、劉施。我らは境界沿いに北へ」

「しかし敵が」

「迂回しつつ崖づたいに行こう。敵を見つけたらすぐに言うのだぞ。ああ、お前は螻羊に乗れたかな?」

 頷く劉施に微笑み、騫在は目を甕城に戻した。

「時機はぴったりだな、さすが。急ごう」

 わずかな手勢を連れて騫在は乗騎の腹を蹴った。



 夭享は冷めやらない怒りを足裏に込めて前のめりに闊歩していた。階を上がったところで四泉主と鉢合わせする。麾下の他に、先日やってきた水司空とやらを連れている。

「これは失礼致しました、四泉主」

 ひとまず冷静に礼をとり、許されて立ち上がる。沙爽は時間を惜しむようにそわそわと落ち着かなげに周囲を見回した。

「牙公を見なかっただろうか?朝に軍議に呼び出されたものの、すでに戦況が進んでいるようなのだが」

「私もそのことで当主のもとへ参ろうと思っておりました次第でございます。監老を無視してどうやら伴當だけで決定をしてしまったようで」

 沙爽を案内しながら夭享はまたふつふつと怒りが沸くのを感じた。


 当主は甕城にほど近い門楼に登っていた。夭享らの姿をみとめてあからさまに面倒臭そうな態度だ。

「せめて今何をしているのか教えて頂きたいのですが」

「人質を奪還している」

「軍議には監老にも召集をかけて頂きたい。城内に残っているのは三人とはいえ、私どもにはその権利があります」

「お前のくどい文句をゆっくり聞いてはいられなかった。耆宿がこの場でなんの役に立つ。沙爽、お前もだ。死にたくなかったら表には出てくるな」

 珥懿は顔を前方に戻してもう見向きもしない。

「優勢ですか」

 問うたものの無視され仕方なく邪魔にならないところに移動する。たしかに、今はできることがないから野次馬で戦場をうろつくのははばかられた。


「開きますぞ」

 懸門が揚がる。





 ぞっとするほどの静寂があたりを包む。轒轀車は予想以上にゆっくりとしか移動しなかった。即席で削った車輪が軋んだ音を立てて徐々に前進する。そのあいだにも、隙間を縫って歩兵が先に甕城へと流入していく。


「まだだ――」


 じりじりと焦燥が胸を焦がす。懸門の降りる溝に車がいちど大きくかしぐ。吊るされた人質が蓑虫のように揺れた。


「まだ―――」


 前輪が門を越え、あとは後輪と台座のはり。しかし、それを押す敵兵の足は突如止まった。瞬間、轟音を立てて鉄扉が落ちる。


「―――行け‼」


 怒号ともとれる合図に甲高い口笛が、門が轒轀車と衝突した地鳴りと共に響く。猋が次々に壁上から飛び下りたのと同時、箭楼の上から内壁を縄でつたった兵が門洞へ火のいた草の束を次々に投げ入れた。救出部隊もその中へ飛び込んでゆく。

 罠だと知った敵兵が混乱しはじめる。懸門は車の上に食い込んで止まった。その下の隙間からは止まることなく次々と兵が入り込み、鉢合わせした救出部隊と斬り結ぶ。猋の姿に驚いて腰を抜かす者もいた。

いしゆみ!」

 壁上から矢の攻撃。甕城に誘い込まれた敵兵が懸門と反対側の内門の門洞へと殺到するが、吹き出す煙を思い切り吸い込んだ者は嘔吐しながら這い出たところで矢にたおれた。風下の懸門洞はさらに白くけぶり、視界が無い。

 鉄扉が小刻みに上下する。どん、と撃ち突くたびに車の梁が木っ端を飛ばしてだんだんと崩れてくる。あれでは中にいる者は立っていることもできないだろう。実際、慌てふためいて出てくる敵兵を跿象は確認していた。鋼鉄の懸門を昇降させるのは二対二組の滑車、総勢三十人が息を合わせなければこのように素速く扉を上下させられない。数度め、ついに轒轀車が破裂音を伴って縦に裂け、門が全て降りる。門と溝に挟まれた敵兵たちがくぼみの中で血飛沫を上げた。


 甕城の中は大混乱だった。梯子を持ち込んだ者は容赦なく叩き落とされ、守城兵器で潰されてゆく。火矢が放たれた。毒煙の中を火玉になった兵が内門や壁に激突する音が響く。

 懸門をなんとか閉め切ったことで侈犧たち万騎がやりやすくなった。後続兵と白兵戦を繰り広げる。また一方では外壁の手前、壕の内側に巡らされた馮垣ひょうえんから弩や長槍で援護する。



 門楼からそれらを息を詰めて見守っていた珥懿たちに思いもよらない報せが舞い込んできた。

「北から旗令でんれいです!」

「なに⁉」

大表たいひょう赤三、北門が危のうございます!」

「あの迷路を越えて来たと⁉ばかな。斂文は何をやっている!」

 珥懿は甕城に目を戻した。煙が充満して何も分からない。ただ猋に咬み裂かれる者の断末魔や毒煙によって苦しむ声が聞こえるのみ。

「斬毅、ここはお前に任せても良いか」

「承知しました。北門へ?」

 珥懿は頷きかけ、ふと城牆を向いた。同時に見張りがまた声を上げる。

「馬道に一騎!」

「まさか、敵か」

 珥懿は首を振った。門楼から道へ下りる。駆けてくる馬上、小柄なその騎手は抜き身の剣を握っている。

「当主、みなさま!北門が破れます!早く城の中へ!」

「叡砂!どういうことだ!」

 私も分からないのです、と砂熙は興奮した馬をなんとかなだめて止める。甕城の有様を怪訝に見たが、顔を二人に戻した。

「私が北門に着いた時にはすでに攻撃を受けておりました」

「なぜ伝達が遅れた」

 砂熙は息を整えるために唾を飲み込んだ。

「箭楼を中心に矢を射掛けられたもようです。旗令もその時にやられました。北路で烽火が上がっているのを不審に思った門卒が初めて気がついて」

 なぜ北路が破れられはしないと高を括ったのか。斬毅は頭を掻きむしった。

「敵の数は」

「およそ五千。北は閑地がないので一斉には攻められないようです。しかし螻羊で付近の崖に登り、そこから箭楼を攻撃しています。門扉を――衝車しょうしゃで突破しようとしています!」

 北の門扉は懸門ではない。両開きの木扉で並の泉国のそれよりも頑丈なつくりだが、衝車で一点を力任せに突かれてはいずれほころぶ。

泡丘ほうきゅうから灌鳥が絶えてから警戒はしていたが、まさかあの道を越えられるとは」

「かなり広範囲に阻塞を広げていましたから、今のところ敵はひとかたまり数百ほどしか。途中、念の為の罠も張っていましたので少しは勢力をげたはずです」

「とは言っても、北門を破られては城より先に街が危ない」


 甕城の両脇には天然の断崖がある。城牆はその峰を穿うがいて上歩道を繋げ北門に接続する。北門を過ぎて、全体として城牆は南東を長弧として街の郭壁に三日月状に付随した。そして街の郭壁の東門はやや北よりに位置する。つまり東門は南北門より西に奥まっており、壁上の道を通れば迷路のような城下溝道を通らずに城牆と郭壁の交点に抜けられた。


「斬毅、甕城を守り抜け。指揮をお前に任せる」

「御意」

 沙爽らを見た。

「聞いての通りだ。このままでは城も危ないがここにいて斬毅をわずらわせることもあるまい。大人おとなしく城に入っていろ。夭享、泉主たちを頼むぞ」

 しかし、と沙爽は声を上げたが、麾下二人に挟まれて身動きできなかった。



 沙爽たちが消えた途端に珥懿は面を外す。指笛を鳴らして砂熙を見た。

「叡砂、馬は置いてゆけ。猋のほうが速い」

 崖を跳躍して降り立った猋が嘉唱かしょうなのを見て取って珥懿は一瞬動きを止める。その瞳を窺った。呼笛にこたえたということは、茜ないし炎と丹が歓慧を『安全な場所』に連れていったのだろう。飛び乗って砂熙に顎をしゃくる。「乗れ」

 砂熙を後ろに乗せ風のように疾走し始めたが、背後で短い呻きがあった。

「無茶をする。まだ傷が塞がっていないだろう」

「このような時に寝てはいられません」

 言いつつ、振動に息を詰める少女を見て猋を止めた。

「下りろ。それでは足手まといにしかならない。城へ戻って歓慧の側にいろ」

 背越しに言った珥懿を見返す。

「……できかねます。私は伴當です。一族に、当主に身を捧げると誓いました。どうかお連れください。私は歓慧の分も当主をお守りする為に登虎とうこを受けたのです」

「見上げた忠義だが伴當はお前だけではない。手負いでは戦えない」

「でも……あねさま!」

「ここで死なれては困る。聞き分けよ」

 珥懿が再度指笛を鳴らし、もう一頭が姿を現した。砂熙を強引に嘉唱の背から下ろす。

「戦況については歓慧には伝えるな。一歩たりとも外へ出るなとの私の厳命だと言え」

 それと、と憮然と見下ろした。

「その呼び方はやめろ」

 砂熙が何か返す前に、瞬きのうちに騎影は消える。なおも心配して峡谷の向こうをじっと見つめ、やがて諦め猋に跨ると、もと来た道を駆け始めた。





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