十四章



 人の口に戸は立てられない。沙爽が城下に行幸するという話は城内にあっという間に広がった。牙族は箝口令を敷かれない限りは噂好きだ。閉塞した山中にあって目新しい話に飢えている。それで、歓慧と二人で東門に向かう頃にはそこかしこで城の者が一目四泉主を見ようと軒や壁の陰から様々な意匠の面を覗かせた。ひっそりとした城にこれだけの人がいたのかと沙爽は目を丸くした。


 道を抜け、広大な門に到着した。門前はたいして広くもない砂利の閑地、門卒もんばんの詰所らしきものの横に小さな掖門えきもんがある。扁額へんがくには角宿かくしゅく。東の大門だった。

 見上げる。甕城と同じく鉄の懸門けんもん郭壁かくへきの上にはずっしりと黒いかわら箭楼やぐらが二層を成していた。

 歓慧が門卒に挨拶して虎符を合わせ、掖門を通してもらう。潜った先はまた壁、族領はここでも壁がぐるりと二重に巡らされた堅牢な城塞都市だ。破るのは至難の業だと思われた。


 内壁も越えるとすぐ眼前には真っ直ぐな道と様々な雑貨を売っている市廛みせが軒を連ねていた。そこかしこに狻猊さんげいや吉祥を描いた族旗がはためいている。沙爽も新調するのを手伝った旗だった。

 街の中は喧騒に包まれていた。街人は面を着けておらず、服装は違えど泉民と変わらない顔に見える。たまに、沙爽と同じように不思議な髪色の者、異様に彫りの深い顔立ちの者が目を引いた。玩具を持った子供らが駆け回り、簡素な牛車が荷と人を載せてのんびりと通る。穀倉からは許された分だけの作物や穀物が運び出され、家々からは煮炊きの煙が上がっていた。

「こっちです」

 歓慧にいざなわれ、門前の大緯道おおどおりに足を踏み出した。


 しばらく歩き、道沿いのこぢんまりとした飯店しょくどうに着いた。

「あら、ぎょうさま」

 主人が姿に声をかけると門窗とびらから顔を半分出したまま指を立てる。主人は苦笑して頷いた。

 一緒に入ってきたのは平服ふだんぎのそぐわない見目麗しい少年で、主人はまあ、と声を上げて膝をついた。

「四泉主でございますね。このような粗末なところに」

「気にしないでください」

 沙爽は手を振り、物珍しげに店内を観察する。飯台つくえにはすでに色とりどりの料理が並んでおり、歓慧に座らせられた。

「すごいご馳走だな」

「そりゃあお祝いですからね。どうぞ、お好きなだけ」

 呟きに笑って主人は銀の箸を差し出す。良いのか、と沙爽は歓慧を見た。

「もちろんです。朝からお疲れになったでしょう。お腹いっぱい食べてください」

「では、歓慧どのも一緒に食べよう」

 言われて少し逡巡したのに、主人が微笑む。

「こう言ってくだすってるのだから、ご相伴しょうばんしたらどう」

 歓慧は申し訳なさそうに向かい側に腰を下ろし、沙爽は再び料理を見回す。

「珍しい。肉がある」

「民は泉国と同じようになんでも食べます」

 大きな肉の塊を歓慧が切り分けながら言う。平静にしていたが声が弾んでいた。

 主人は二人のやり取りになおも笑み、噂を聞きつけ外に集まった野次馬を散らしにかかる。沙爽は早速つやつやと光る肉の煮物に口をつけた。

美味うまい。……歓慧どのは食べていいのか?」

「今日はとくべつです」

 栗鼠りすのように口いっぱいに頬張った様子が可愛らしくて、沙爽は何の気なしに口の端に付いた垂汁たれを拭ってやる。

「――ああ、すまない。つい妹にするようにしてしまった」

「…………」

 真っ赤になってこちらを凝視している。

「……?歓慧どの。大丈夫か?喉に詰まった?」

 ただ首を振った。主人がやって来て新たな皿を勧める。

「さあ、まだまだありますからね。どんどん召し上がってください」

かたじけない。先に払っておこう」

 懐から代価を取り出そうとするも、とどめられる。

「言ったでしょう。今日はお祝いなんです。泉国と同盟するなんて当主はほんに思い切りがいい。あたしらには逆立ちしたって出来やしません」

「族民は同盟に賛成なのか」

「みんながみんな、ではないですけどね。世代を重ねるごとに不能渡わたれずが増えて、こうして山の中で暮らすのも手狭になっているのが事実です。それに四泉は薬泉でございますでしょ。牙族の不能渡は由歩ゆうほより長生きと言ってもせいぜい八十そこら。四泉なんて、三百歳を超えた泉主だっていたと聞きますよ」

「それは四泉でも有名だ。永海帝えいかいていのことだ」


 ほぼ伝説に近い話だが、沙爽の高祖父が百三十余であることを考えるとあながち嘘ではないのかもしれなかった。


「あたしには子がいないけど、四泉の薬泉を飲めば今から産んでも成人おとなになるのを見れるのかしらね」

「四泉の水が劇的に寿命を延ばすわけではないと思います。たとえそうでも、数世代はかかる」

 歓慧が静かに言う。そうよねぇ、と主人はほんの少し寂しげに笑った。沙爽は箸を置く。

「私は矜恃きょうじの高い牙族が四泉を受け入れてくれるとは思っていなかった」

「隣の国が長生きして幸せそうなのを聞くとね。やはり比べてしまうものなのかも。私も若い頃は五十行かずに死んでいく親戚を何人も看取って、それが当たり前なんだと思ってた。早く一人前になって、嫁いでめとって子を産んで……。由歩なんてもっと過酷。同じ年頃の子がやっと仕事を覚えるという時には、もう一族を背負ってあちこちの国にひとりで行って住まなきゃいけなかったり。あたしは両親も姉も由歩だったけど、聞得キコエという程じゃなかったからここで店をやって、最期まで一緒にいられた。あたしはそれで良かったからね。出来るならもっとみんなで切り盛りしたかったけど。同盟してあたしみたいに辛い思いをする人が少なくなるなら良いことだわ」

「そうか……」

「それに……当主もいろいろあったから」

 沙爽は首を傾けて、もう一度そうか、とだけ言った。今回の同盟には、族主自身もなにか思うことがあったのだろう。歓慧が密かに表情を曇らせた。

「主人は牙公の顔を見たことがあるのか?」

 訊くと懐かしむようにあらぬほうを見た。

「お小さい頃はよくいらしてた。当主におなりになってからはついぞ街で見ることは無くなったけど、一度だけ内緒で来てくだすったことがありました」

「ほとんど顔を見せない主について行くのは不安ではないか?」

「あら、泉主だって顔を見せたことのある人が民にどれほどいますか」

 主人は目を細める。「つまるところ下々の者は主が自分たちを苦しめるようなことはしない、守ってくれると信じているから顔が見えなくても尊敬できる。泉国はちょっと事情が違うかもしれませんけど。それに、当主ともなると他国の伏兵に襲われる可能性もある。街の中にそんな奴らが混じっていないとは限らない。だから街に下りてこられると逆に心配になるの。紅珥くじさまはそれだけ牙族にとって大切な方なんですよ」





 飯店を出て、歓慧と沙爽はさらに歩を進める。途中、牛車に乗せてもらった。図体の大きな、黒い長毛の二本角の牛は鞭打てば意外にも速足だった。臨戦体勢のせいか鳴らされていない、道を跨ぐ巨大な鐘楼をくぐる。街には四泉のように楼門の下で見かける物乞いがおらず、塵芥ごみを漁る孤児もいなかった。大緯道おおどおりは緩い下り坂になっている。美しく掃き清められた石畳はやがて牌坊もんの立つ広場に行き着いた。


 広場の中央には石組みの大きな溜池。そこから南北にも大道が延びる。溜池を挟んで先も道はまだ真っ直ぐに続いていた。

 その十字路は街の中心だと歓慧が言った。四角い池はよどみない。池の中にきざはしを渡し、西を背にしてびょうらしきものが建てられていた。短い階の左右には城の大広房でも飾られていた同じが植えられていて、いずれもふさなりのつぼみが下から上へと実っていたが、咲いているものはひとつもなかった。八方から屋根に小旗が繋げられている。しかしその廟は吹き抜けで、表である東側から見るとあの砂丘の空に霞む山が見える。

 階を登りきった所には大鼎おおざらに香が焚かれていたが、建物には扁額もなく供物台も見当たらなかった。祖廟ではなさそうだ。


「これはやはり、あの山をまつっているものなのか?」

 階の下で拱手らいはいし、頭を下げていた歓慧が頷いた。

「なぜ?」

「それはこれからご説明します」

 歓慧は微笑むと、廟を回り込んでさらに西へと歩き出した。

 こちら側の大緯道は反対に緩い上り坂。荷車に乗せてもらったりしつつ、二人がついに西門に辿り着いたのは昼過ぎだった。


 西門は東門よりさらに横幅が大きく、細長く分断された黒鉄の落とし戸はぴったりと閉ざされている。門と言うより巨大な柵だった。高さは予想外にもどの門よりも低く、郭壁の上に横に長い箭楼がへばりつくように構えられていた。

「普段もこの扉は開けずに、掖門を使うんです。砂が入ってきますから」

 そして歓慧について出た西門の向こうは、沙爽が今まで見たことのない景色だった。



 白い丘が霞むまで続く砂丘、壁の周囲には葉の細い低木が群生しており、その林を抜けるとあとにはもう何も建ってはいなかった。由霧も一片も無い。ただ砂の丘の向こう、蜃楼まぼろしのように揺らめく山が冬空の中にぼんやりと陰影を滲ませていた。


「牙族の地下水脈はあの山の雪融け水が地下に溜まって流れてきているものなのだそうです。それで、私たちは日々山に敬意を捧げます」

「そうだったのか……」

「山に積もっている雪は融けることがありません。一年中あのように白いのです。山には一年に十二回、宝石の実がる木があって、岩や草も全て金銀玉、大鵬たいほう鵷鶵えんすう仙人せんじんが住んでいる」

「行ったことが?近いのか?」

 歓慧は苦笑した。「そういう小説おとぎばなしです。でも、雪が一年中見られるのは本当です。ずっと眺めていると近く感じますが、実際に山に向かって帰ってきた人はいないそうです」

 雪を被った山峰の模様は見て取れるほどだからそこまで離れていない距離に感じたが、確かに山裾は空に掻き消えるように稜線が途切れていた。

「優美な眺めだ……あそこには神鳥や仙ばかりで人は住んでいないのだろうか」

「でも、砂丘の向こうには実際には何も無いというのが定説です」

 歓慧の言葉に、ふと内心、少しばかり腑に落ちないものを感じつつ、しばらく二人でその光景を眺めていた。緩く風が吹き、歓慧が振り返る。

「ここにいては砂だらけになってしまいますね。鼎添さま、もうひとつお連れしたいところがあるのですが」



 次に連れていかれたのは、西門の城壁沿いに歩いた山麓だった。少し息を切らしながら登っていくと、勾配のきつい斜面に棚田と果樹園、それから見たことのない円形の建物が不規則に並んでいた。

「……これは?」

土楼すまいです」

「これが住居?」

「ひとつの土楼に各家一族が住んでいます。一家から独立した分家や親族も数が少なければ一緒に住みます」


 すごい、と眼前を見上げる。円柱を平べったくしたような建物は基礎どだいが精緻に組まれた石組みで、砂丘と同じ色の土壁がその上に築かれている。上階には防衛の為の小さな狭間のぞきあながあり、屋根は黒い甍でぐるりと放射状に覆われていた。土楼どうしが繋がっているものもあったし、大きさも様々だった。


 歓慧はそのひとつ、ひときわ立派なつくりの土楼に入る。

 中は驚いたことに吹き抜けで、光庭にわに面した内部は全部で四層建て。階ごとに柵が設けられ、洗濯した衣服や作物が干されてとても生活感に溢れていた。一階は円周からせり出した家屋が接続している。円の広場中心には地下水を溜めていると思われる池と、どこかから引いている水が細い溝に流れていた。さほども大きくない水車がゆっくりと回っていて、それを動力とした碾磑みずうすが穀物を挽く音が規則的に続いている。

 それから沙爽にはよく分からないまるく囲われた穴の空いたのが幾つか。

「あれは?」

 歓慧が首を傾げた。「水井いどです」

「水井?」

「ああ、四泉にはないものでしたね。あそこから地下水を汲み上げるのです」

 覗き込んでも穴の中は暗くて見えない。

「どうして地面の下に水があるのに家が沈んでしまわないんだろう」

「上手く言えませんが、固い地面のずっと下に溜まっているので大丈夫なのだと思います」

 ふうん、とさらに物珍しげに見回す沙爽に歓慧が説明した。

「一階から四階まで縦向きにひとつの単元いえになっています。別の土楼は階をぐるっと走馬廊ろうかが繋がっていて、一階に降りなくても隣と行き来できるつくりのものもあります」

 一階の単元の入口はそれぞれおもむきが異なる。木彫りの複雑な装飾が柱に取りつけられていた。

 無人なのか薄暗い。登った三階、ふたつある房のひとつに入ると地毯しきものを敷いた手狭な空間だった。庭に面したいちばん明かりの入る場所に質素な牀褥ねどこ、そこには少女が眠っていた。


「……叡砂えいさどの」

 目を閉じた少女はぴくりとも動かない。

「まだ起きないままか」

 歓慧が頷いた。「蜚牛ひぎゅうの毒が思ったより入っていたのです。でも熱はだいぶ落ち着きました」

 良かった、とほっとして白い顔を見つめた。「叡砂どのは命の恩人だ。目覚めたら改めて礼がしたい」

砂熙さきは責務を全うしただけです。でも鼎添さまにそう仰って頂ければ本望でしょう」


 静かな午後だった。聞こえるのは火鉢の炭が時折ぱちぱちと弾ける音、立てつけの悪い戸が風で微かに鳴る音のみ。


「早く目覚めてくれるといいのだが。歓慧どのと叡砂どのは乳姉妹だとか。仲がいいのだな」

 しばらく見守っていてそう言うと、歓慧は砂熙の額の布を取り替えて頷く。

「ええ。わたくしは砂熙の母に乳をもらいました。この子とは実の姉妹のように育ったのです」

「すまない。叡砂どのは私を守ろうと必死に戦ってくれた。そのせいで傷を負ってしまった」

 歓慧は微笑んで首を振った。

「城に仕える由歩とはそういうものです。なかでも伴當はんとうは当主と一族に絶対の忠誠を貫きます。死をも恐れぬ勇猛さがなければ務まりません」


 実際には伴當、僚班りょうはんは合議に出席し一族の動向を決定する首脳陣としての役割が主で、執行部隊は配下の家の者だから、直接的に生命の危機に晒されることは少ない。しかし一家の全責任を負う総元締め、かつてのふるい世代は一家から背徳者が出れば相応の責任を取るのが普通だった。


「……それは間諜や斥候を生業としているから危険が多いのだろう?私たちは聯合れんごうした。もしかしたら、もうそんなことはせずに済むかもしれない」

 歓慧は俯く。

「たとえ四泉と盟約しても、泉が無いのは変わらない。私たちには本当の居場所がない。本来、四泉は四泉の民のための国ですから、こちらとしても引け目や矜恃がある。私たちはあらゆる所に入り込んで窺見うかみし、聞き耳を立てて財を築いています。噂に聞く限りでは、少なくとも二泉の民よりは牙族の民わたしたちのほうがずっと豊かです。今までの生き方をそう簡単には辞められないでしょう」

 話題を変えようと顔を上げた。

四階うえで寝ている蕃淡はんたんにも会ってあげてください」

「蕃どのもここに?」

「蕃淡にはまだ土楼はないのです。いつもは門外の使っていない客閣に寝泊まりしていますが、看病するのにこちらのほうが便利ですから」


 階上では淡雲たんうんが険しい表情をして眠っていた。泥を落とされた顔は青白い。隔扇いりぐちの傍には薬師いしゃがひとり、火鉢を囲んでいた。

「どちらかというと蕃淡のほうが重症です。霧界の水を飲んでしまっていて」

「蕃どのは由歩だろう?」

「由歩でも山中の由毒に冒された水や木の実を多量に取り込むと危険なのです」

 答えたのは白い蒙面布ふくめんの薬師。浅い色の瞳で沙爽を見つめた。

それがし醸菫水じょうきんすいはよく効いたでしょう。四泉帝陛下」

 沙爽は驚いて見返した。

「そなたがあの水を作ったのか」

「左様」

 薬師は目皺を寄せて笑う。歳の頃は壮丁せいねんにも、老骨にも見える。

「よく効くもなにも、道中まったく吐き気や頭痛に見舞われなかった。礼を言う」

「なんと、泉主ともあろう方がこのような夷狄ばんぞくに頭を下げるとはこれ如何いかに」

 布を巻いたこぶし可笑おかしげに膝を叩いた。

「噂にたがわぬ貫目かんめの無さ。そのように腰が低くあれば朝廷が落ち着かないでしょう。勅命を通すのに時間のかかるわけだ」

炮眇ほうびょうさん。失礼ですよ」

「失敬。泉主という方に初めて相見あいまみえてつい。どうかご海容頂きたく」

 人を食ったような態度に、沙爽はどう接すれば良いか分からずにただ頷いた。

「蕃淡の様子は」

「どうですかな。ここ三日が勝負どころでしょう」

 火箸で鉢の炭を調整しながら横目で見やった。「しかし、気を失ってもヒョウを掴んで離さなかったとは。さすが、蕃家の生き残り。執念が違いますな」

「生き残り……?」


「蕃家はこの小鬼こぞうを残して断絶したのです」


 なぜ、と沙爽は問い、炮眇が続きを話そうと口を開いた。しかし歓慧の咎める視線に出会って一拍、笑って首を振った。

「昔の話です。陛下のお耳を汚すこともありますまい。忘れてください」

「炮眇さんは耆宿院きしゅくいんの中でもいちばん醸菫水をつくるのが上手いんですよ」

 歓慧は話を変えた。

「耆宿院とは?」

「泉国で言うなら泉帝を補佐する三師さんしのようなものです」

太師たいし、太、太のような?」

「そうです。耆宿院では監老かんろうと申します。監老を含めた五人が常時当主に侍り、諫言助言をし、由歩と不能渡の橋渡しをする。城内の当主の側近はほぼ由歩ですから、不能渡の代弁者ということです。耆宿院の中には院塾いんじゅくや薬院がありまして、某は薬院で主に醸菫水の精製を受け持っておるのでございます」

「四泉のものとはかなり違ったように思えたが」

「なにせ牙族秘伝のかもしかたですので。よく効きますが耐性もつきやすい。一度に作れる量も少ない。まだまだ研究途中です」

「そのような希少なものをくださったのか。改めて感謝する」

 なんの、と炮眇は目を細めた。

「牙族にとっても四泉と同調するのは良縁に思ったのでね。それに四泉民の不能渡にもきちんと効くのか試しておきたくて」

 おそらく後半が本音だろう。沙爽は苦笑した。

「良い結果は得られただろうか」

「経過観察中です」

 食えない男だとさらに笑った。





 沙爽は日没までには薔薇閣へ戻らねばならない。土楼を早々に辞し、二人は壁内へ戻り帰路についた。

「いざとなれば猋に送ってもらいましょう」

 歓慧はそう言ったが、よもや街中に呼び出すわけにもいくまい。そう思い、行きと同じく荷車でもないかとあたりを見回す。陽の傾いた街路は大勢の人で混雑していて、振り返ったところで人にぶつかってしまった。


「すまない」

 慌てて見上げると、ぶつかった相手は不愉快そうに見下ろしたが、沙爽を見て呟いた。

「……?もしや、四泉主……?」

 白と黒の衣装を纏った男は驚いたように眺め回す。どうした、と連れのもう一人が声を掛けた。

「泉帝がこのような所でなにを」

「四泉主はすでに猶主ゆうしゅであられます。城下を視察しても何も問題はありません」

 素早く前に進み出た歓慧が背で沙爽を庇うようにした。途端、男は仲間と不機嫌に吐き捨てる。

「猶主などと。当主は勝手ばかりして、我らのことなど何も考えてくださらぬ」

「そんなことはありません。現に耆宿院を重んじて院への配当を増やしてくださったと聞きました」

「金をやるから黙っていろということであろう。そもそも、特定の泉国と垣根を越えて仲良くするなど牙族の恥ではないか。我らは泉国の調和を重んじつつ、中立を貫く狷介孤高けんかいここうの一族ではないのか」

「不平不満はそのへんにしてください。当主とて皆の意見を充分吟味した上でお決めになったのです。監老はそこまで頭ごなしに拒絶されなかったと聞きます」

 歓慧がさらに懸命に言ったが、男はなおも不服そうに黒い幅巾ずきんを揺らした。

「周りは由歩ばかりの城で、そんなものいくらでも歪曲出来る。ときにお前、聞いた聞いたと言っておるが、城の者か」

「そうですけど」

「泉帝の伴をこのような娘ひとりにさせるとは。当主は泉国をあまりにも軽んじすぎる。要らぬ衝突を招く」

「否定はしませんが私一人のほうが泉主も気安かろうと思ったのです」

 男は目を剥いた。

「お前の独断で泉主を連れ出したのか。軽々にも程があるぞ。来い、城の者に突き出してやる」

 言って歓慧を捕まえようとした腕は空を切った。素早く沙爽の手を引いて退さがったからだ。

「当主の許可は得ました」

「どうせたばかったのであろう、玩童わるがき。泉主もなぜこのような娘についていらっしゃったのです?」

 騒ぎに気がついた人が徐々に集まってくる。店舗との間に壁ができてしまい逃げられない。


 男がとうとう歓慧の腕を捕らえた。

「離してください」

 引き立てようとするのに沙爽が出る。

「ちょっと待て。何か誤解している。無理やり連れ出されたわけではないぞ」

 が、それを無視して男は細腕を引き揚げる。

「どこの家の者だ。言え」

「…………」

 口をつぐんで睨む。その態度に男はますますいきり立った。

「名を言えぬのはやはりやましい事があるからではないか。城仕えというのも嘘か」

「よしてくれ」

 沙爽が連れて行かせまいと抱き留める。と、男に声が掛かった。


「まあ、落ち着け」


 そう言って煙管きせるの火皿を押し付ける。あつ、と叫んで男が手を離した。

「いたいけな子供に乱暴だな。少しは話を聞いてやったらどうだ」

侈犧しぎどの!」

 酒瓶を担ぎ、にっと笑う。

「それに、その嬢ちゃんに手を出したらただじゃすまねぇぞ。おまえ」

 小声の忠告に、そうそう、と彼の後ろから現れたのは徼火きょうかで、そちらはいっぱいの料理を抱えていた。

「もうすぐお祝いが終わるんだから大人しくお家に帰んなさいよ」

万騎はんき……!礼儀知らずの戦狂い共。お前たち、七泉しちせんへの派遣兵だろう。どうやって門内に入った」

 徼火がいたずらめいた目で笑った。まあまあ、と侈犧がさらにいなして、男の肩に手を回す。

「……に手ぇ出したことは黙っててやるよ。その代わり俺たちが街にいたこと、当主に知れればお前が吹聴したとみなすからな」

 耳許の囁きに男が脂汗を噴き出した。荒々しく手を振り払うと、仲間を連れて人の輪を掻き分ける。すれ違いざま、憎々しげにぼそりと呟いたのを、沙爽は確かに聞いた。


「―――イミコめ」


 そうして人垣に散るように命令すると去っていった。


 歓慧が二人に駆け寄る。

「侈犧。徼火。ありがとう」

「まったく、最近の院士はしつけがなってねぇな。それはそうと歓慧が街に下りるなんて珍しいじゃねぇか。しかもこんな真っ昼間に」

「無事に帰ったとは聞いてたけど、会えて良かった」

「歓慧ちゃん。相変わらずお可愛らしいわぁ」

 徼火が飛びつこうとして、華麗に避けられた。

「あらぁ、また振られちゃった」

「ところで二人共、なぜここに」

 すると徼火はいじけたようにだってぇ、と身をくねらせた。

「お祝いなのにご馳走を食べれないなんてそんなの我慢できないもの」

「城でもそれなりのものを作っているはずだけど」

 侈犧が笑った。「あんな味気のないもんが食えるかい。祝いにはやはり酒と肉だろ。他のもんにも持って帰ってやろうと思ってな」

 瓶を掲げる侈犧に、歓慧も、もう、と笑った。

「当主の耳に入る前に帰って下さいね」

 そして沙爽に向き直る。

「大変失礼しました、鼎添さま。大事ございませんか?」

「それはこちらの言うことだ」

 腕を抱える。掴まれたところが赤くなっていた。

「冷やさなくて平気か?」

 大丈夫です、と歓慧は彼の手からさりげなく逃げた。

「ありがとうございます。私は平気ですから。それより、急がないと日が暮れてしまいます」

 侈犧と徼火が首を傾げる。

「なんだ?もう帰るのか?」

「日暮れまでに帰らないと私のしもべに怒られるんだ」

 沙爽が首を竦め、侈犧が破顔する。「泉主というのも窮屈だねぇ。どら、東門まで馬に乗せてやるよ」

「良いのか?」

「どのみち今から街を抜けると城に着くまでに夜になっちまう。そのかわり俺たちのことは絶対に当主に言うなよ。ネチネチうるせぇから」


 二人は近くの水場に馬を繋いでいた。侈犧の馬には歓慧が、徼火とは沙爽が乗る。


「やだぁ、泉主を乗せるなんて恥ずかしい」

 徼火がけらけら笑いながら馬を疾走させる。大緯道は人が多いから、その裏の脇道を使った。


 牙族の着る長袍は筒袖が腕よりも長いつくりになっている。徼火は袖ごと手綱を握っていた。沙爽にはまるで小童が丈の合わないお下がりを着ているように見えた。牙領は泉地よりも標高があり一年を通して涼しいから、防寒の為なのかもしれない。

 そう思いつつ、疾走して風で声を飛ばされながら背に呼びかける。

「き、徼火どの」

「あら、なんですかぁ?」

「そなたの髪は、牙族の中でも珍しいのか?」


 牙族には四泉と同じく多勢が黒髪だ。しかし街ではたまに徼火のように明るい髪色の者を見た。彼の髪は赤みを帯びた栗色で、夕陽に反射してさらに赤銅あかがねに輝いて見える。


「……ん、そうね。あんまりいないかも」

 珍しく歯切れの悪い徼火に、さらに疑問をぶつける。

「顔もあまり見た事がない。目がとても奥まっているし、鼻は高くて山のようだし、肌も白い」

「やだ、褒め言葉?」

 沙爽は大きく頷いた。「とても美しいと思う。四泉には、そういった容貌の者はいないから」

 徼火は少しだけ歩調を緩め、肩越しに振り返った。

「泉主だって、綺麗な髪よ」

「四泉の王家にはたまに生まれるのだ。別に珍しくはないよ。しかしそれ以外に黒髪ではない人を初めて見たんだ。徼火どのは四泉の者ではないし、街にも少なからずそういう髪色の者を見た。だから気になって」

 徼火はしばらく悩むように首を傾げた。

「……なにか、訊いてはいけなかったか?」

「んー。まあ、泉主を街に出していいって言ったのは珥懿さまだし……」

 ぶつぶつと独りごちて、声をひそめた。

「皆にはあたしが教えたって内緒ですよ?」

「分かった」


「……あたしは砂人さじんなの」


「砂人?」

「正確には、あたしの先祖ね。それでもそんなに古くはないわ。二十代くらい前かしら。ある日突然、砂の丘の向こうから現れた。意味の通じない言葉を話したそうよ。どこから来たのか、いままで何をしていたのか本人さえ分からず、結局ここで暮らして死んだ。あなたの家と同じく、たまあに見た目の違う、砂人の血が濃い子孫が生まれるの。あたしみたいな」

「しかし、砂の丘の向こうには何も無いという話ではなかったか」

「そうよ。水晶山すいしょうさんは見えるけど、実際に辿り着いた人なんていない。幻の山だとも言われてるわ。でも砂人は確かにやってくるの。なぜだかは分からない」


 なんとも不可思議な話だ。しかし、徼火の容姿を見ると実際にそうなのだ、となんとなく沙爽は納得してしまったし、歓慧との会話で感じた違和感はこれだったのかと合点した。


「砂人は何十年、何百年かに一度やってくる。砂丘の麓に埋もれるように流れて来る。ほとんどは死んでるそうよ」

「生きて辿り着いた者はどうなるんだ?」

「大概はあたしの先祖のようにここで暮らす。砂人は不能渡なの。あたしは血が交じって聞得として生まれたけどね。でも心無い人には他所者よそもの扱いされるから気分が悪いわ。血統一家がないから土楼も与えられないし、先代が当主になる前は砂人の家系は城仕えにも万騎にもなれなかったの」

「牙公は族主になってどれくらいだ?」

 徼火は宙を見た。「さあ、十年かそこいらかしら。あたしは珥懿さまが当主になってすぐに万騎に入った。万騎はみんな気安いし、あたしの顔が変でも気にするような奴らじゃない。あたしにはそれが嬉しいの」

「さぞ辛いこともあったのだろうな。失礼なことを言った。すまない」


 沙爽もこの髪色のために言われたことは必ずしも肯定的なものだけではなかった。それに、想像しか出来なかったけれども、いきなりあの砂の中から人が現れてはそれはやはり気味が悪いだろう。


「謝ることはないわ。そうね、古いじじいとかには同じ人として見てもらえない時もあるわ。他の泉国でも顔がおかしいだの、髪が汚いだのね。でも、珥懿さまはそんな事は言わない。兵士に関してあの方は徹底して実力主義なの。少しくらい髪の色がおかしくてもそれがなんだと仰った。見た目がなんだと笑ったの。それをたった九つの子が言ったのよ。あたしはあんたは自分が綺麗な顔をしているから、そんなこと言えるんだと言い返した。そうしたら翌日には顔に糞を塗りたくって、周りに汚いから落とせと言われても頑として聞かずに、大人の反応を見てた。それからあたしに謝ったわ。みんなから避けられていた、だからあたしの気持ちがなんとなくわかったって。でもあたしのことを汚いとは思わない、むしろ神々しくて美しいと、そう言ってくださった。その時にあたしは、珥懿さまの為に死のうと決めたの」

「それは……なんというか、素晴らしい忠誠だな」

 でしょ、と徼火は前を見たまま笑った。

「珥懿さまは昔から物事をこうと決めてかからずに常に可能性を見出してた。今回のことも、四泉との盟約に活路を見出したからお決めになった。その為に死ねと言われるなら文句は無いわ。四泉主。あなたには、自分の命より大切なものがある?」

「命より大切なものか……。私の命は四泉そのものの命だから、他に大切なものが思いつかない」

 言えば、そう、と微笑んだ。

「それを見つけた時にあなたはきっと、もっと強くなれる」

「どういうことだ?」

「そのままの意味。さあ、着いたわ」


 門前で侈犧の馬に乗っていた歓慧も鞍から下りた。小声で尋ねられる。

「なんで孩子ぼうずに身分を明かしてないんだ?」

「私は一介の城仕えとして鼎添さまにお仕えしたいの。ばらさないでくれる?」

「よく分からんが、歓慧の後ろが怖いからな。余計なことは言わないでおく」


 ふふ、と笑って手を振り、沙爽へ向かって歩いていく。群青の空には星が見え始めていた。




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