十三章



 沙爽は重だるい瞼を開いた。疲労で全身が痛い。猋の上でずっと揺られていて、眠っている間にも移動していたから安眠など出来るわけがなく、この四日ろくに寝ていなかった。珥懿は猋に鞍は必要ないと言ったが、やはり擦れたしりが腫れてひりひりと痛む。


「鼎添さま」

 思いがけず声がして飛び起きようとした。しかし痛みで肘をつく。

「ご無理なさらないでください」

 覗き込んでいたのは歓慧で、半月どころではなく、なんだかひどく久しく会っていないようなそんな気がした。

「歓慧どの……」

 はい、と彼女は微笑む。「無事にお戻り下さって本当にようございました」

 言って、床に額をつける。

「そして二人と猋を帰してくださり、本当に、本当にありがとうございました。特に砂熙は私の乳姉妹、かけがえのない者です」

「歓慧どの、頭を上げてくれ。礼を言うのは私のほうだ。叡砂どのと蕃どのは私を守って満身創痍になった。私は守ってもらうばかりでなにも出来なかった」

 いいえ、と歓慧は首を振る。広幅の髪紐がひらひらと揺れた。

「鼎添さまは当主の信頼を得ました。これで牙族も助かります。今日は史書に列記されるべき日になります」

「今、何時なんどきだろうか」

 弾けるほどの笑顔を見せた。

「もうそろそろ朝餉あさげです」


 沙爽の逗留場所は前回と同じ薔薇閣で、暎景も茅巻も半月のあいだずっとここに人質として軟禁されていた。二人は主が目覚めてしばらく離れようとせず、歓慧が洗沐ふろの時間に間に合わない、と引き剥がした。留守中も引き続いて歓慧が取り仕切っており、二人の麾下きかは以前よりも彼女に気安くなったようだった(茅巻は最初からだったが)。暎景の傷もすっかり治り、鍛錬に余念がない。


 以前は閣内たてもの小房こべやで身を整えたが、今回は敷地を出て潘台はんだいと呼ばれる涼亭あずまやのような建物に連れて行かれた。六面すべて隔扇とびらが無く吹き抜けで、その建物自体が大きな湯殿になっていた。周囲は真四角に壁で囲まれて、いりぐちとその湯殿を挟んで真反対に壁と一体になった控えの房間へやがある。そこで湯着姿になり、薬草の浮かんだ浴槽に登った。


 外気と反対に少し熱いくらいの薬湯で沙爽はほう、と息を吐いた。立ち昇ったみどりの湯煙が吐息と混ざって白く空気に溶け入った。

 頭を軽くへりに預け、髪を洗ってもらう。沙爽の湯殿の世話をするのも今回も歓慧だけだった。


「以前も思いましたが、きれいな御髪おぐしですね」


 歓慧が髪をくしけずりながら言う。沙爽はそうかな、と天井をぼうっと見ながら返した。

「ええ。不思議な色です」

義兄あにたちには老耄ろうじんの白髪のようだと言われたものだ」


 銀灰の髪は沙家に何代かに一度生まれる。沙爽の髪は毛先のみが青みを帯びて黒かったが、それより上は大星海あまのがわのような色でよく目立った。この髪で生まれたものだから、誕生した時に血判けっぱん――泉根であることを証明する――を押していない。


灌鳥かんちょうと同じ色です」

 ん、と目線だけを向けた。

「牙族の伝書鳥でんしょちょうです。羽の先だけ色があって、あとは真っ白なのです」

「ああ、叡砂どのたちが飛ばしていた小鳥か。ちゃんと見たことがない。良かったら今度見せてくれないか?」

 はい、と歓慧は頷いて、水を含んでさらに輝く銀髪を丹念に洗っていく。





 長袍ちょうほうの裾は雲豹うんぴょうの毛皮を貼ってあり、冬服というよりは儀礼用のようだった。色はしろ、中に着る立領つめえりの中衣は裾を黄丹おうにで縁どったあか。どちらにもびっしりと金糸のぬいとりがしてあり、腰帯には白金細工で珊瑚と真珠の珠玉が填め込まれている。懐剣のみで佩刀は断った。調印には必要ないものだ。後髪は辮結みつあみにし、毛足が長くつばのない毛帽を被った。さらに耳や首と名のつくところに飾りを着けられたが、あまりにも重いので程々にしてもらう。革の長靴が暖かかった。


 共に身支度を終えたしもべ二人と共に城の内部に向かう。暎景と茅巻は目隠しをされたが、沙爽は許された。


 辿り着いたのは以前と同じ大広房おおひろま。両開きの扉は鉄製で間口が大きく、重厚な音を立てて沙爽らを迎え入れた。


 香の替わりに、大鼎おおざらの上では火が焚かれていた。西側の帷帳は左右に開けられており、そこはぽっかりと石壁が抜け落ちていた。地毯しきものが敷かれ、五色の族旗ぞくきが幾重にも下げられた西壁、その窓というには大きな空間から見えるのは広大な砂丘とその向こうに杳然ようぜんと遠く霞む雪山だった。中央に組み立てられた壇上は大きく一つ。大卓を挟んで玉座とも言うべき拵えの椅子が二つ向かい合わせに揃えられていた。そのひとつ、西の座に牙族主、牙紅珥懿が黄金の半面をつけて泰然と座っている。半面は当主自身をかたどったものなのか人面だった。沙爽を見て立ち上がり、広房を囲んだ重臣たちも居住まいを正した。


「服はそれで許せよ。上等のもので赤藍あかあいも無かったからな」

 口角がわずかに上がるのを見て、沙爽も微笑んだ。

「そんなこと、全く問題ありません」


 泉国で最も高貴な色は紫だ。これは黎泉の色とされ、またそれを治める天帝かみの色とされる。人においては泉帝せんていしか、それも即位と大礼の時にしか用いられない禁色だった。

 珥懿の着ているものは沙爽の着る中衣と長袍の色が反対はんついになったものだったが、首回りは幾重にも垂らされた飾りで覆われて、中衣が見えているのは肩の部分だけだった。いまさら気がついたが、長袍の片袖を抜いて着るのは正式なようだ。


 座についた沙爽は脇に控える茅巻に促す。

「――証書を」

 黒塗りの紫檀したんの箱が大卓に置かれる。沙爽は紐を解いて包まれた巻物を取り出し、仕立てる前の布地ように全て広げた。


 四泉朝廷、三公九卿さんこうきゅうけい十二人の直筆署名と印。空白部分はこれから埋める箇所。滑らかな紙面は九卿の一、少府しょうふ尚方しょうほうで造られた最高級のものだ。

 珥懿も竹簡を広げた。上下に紋様、中に文字の羅列が見える。それらは全て書かれた後に浮き彫りにされていた。署名らしきところには縦書きで名のようだが読めない文字、それに花押かおうと血判がある。


「そのめいは?」

 てっきり珥懿だけの署名があると思っていた沙爽は覗き込む。

「泉国のように明確に細分されてはいないが、我らにも序列はある。これは十牙じゅうがの印だ」

 詳しく知りたいと思ったが、訊く前に硯と筆が持ってこられたので意識を紙面に集中させた。


 進行役か、面を着けた牙族の者が儀礼にのっとって口上を述べる。珥懿と沙爽は筆を取った。各々署名し、交換する。


 竹簡を受け取った沙爽は改めてまじまじとそれを見た。予想するに古代文字で書かれた当主の名、それから卒倒しそうなほど流麗な花押が完璧な位置で収まっていた。

 やはり書文ひとつとっても、まったく形式が異なる。しみじみとそれを実感した。牙族は同じ言葉を話すものの、文化も生活様式も全く異なる民族で、そんな彼らが同盟に応じてくれたことが急に非現実的に感じた。

「どうした。怖気おじけづいたか」

 珥懿が挑発するように言った。いえ、と苦笑し、竹簡に筆先を置く。

 牙族には印璽の風習はない。それで、花押の横に擘指おやゆびで血判を押した。沙爽のほうは花押の習わしはないから、名の下に血璽を押すことになった。


 ところが、これが一苦労だった。王統は必要以上に血を見せることを忌避する。沙爽は己の指を傷つけたことすら無かった。白い陶硯とうけんに少し垂らす程度でいいのだが、なかなか決心がつかない。暎景も茅巻も切って欲しいと頼まれて勢いよく首を振る。玉体を傷つけるなどどうして出来ようか。一歩間違えば大罪だ。見かねた珥懿が席を立ち、手から懐剣をぎ取った。


 沙爽が心を決める前に撫でるように切っ先が指に当てられ、一拍後、鮮血が陶硯とうけんに数滴垂れる。

「まったく、世話の焼ける」

 呆れて言われ恥入りながら、玉璽を少しばかり浸し、やっとの事で捺印する。牙族の礼に従い血判も隣に押した。

「……正直、不安です。血璽の色がちゃんと変わってくれるのか」

「不安になる要素があるのか?」

 真っ向から問われて慌てて首を振る。

「あえて言うならば黎泉の神勅がまだくだっていないことではありますが」

「神勅を待っていては降る前にお前が死ぬかもしれない。こればかりはどうすることも出来ない。……それに」

 珥懿はわらう。

「血璽の色が変わらずとも慌てることはない。お前以外の泉根が失くなれば、黎泉は自ずとお前を王にする。そうするしかないのだからな」

「笑えません」

 沙爽は肩を落とす。必定、そういうことだ。否定はできないが賛成もしたくない。


 西の吹き抜けの壁の前、翡翠の玉台にふたつの同盟書が広げて置かれる。面を外した珥懿はその前で下跪ひざまずく。この距離と位置では、沙爽の密偵二人には素顔は見えないだろうと思われた。鞠躬きっきゅうした主に従い、周りの臣下も同様にした。沙爽は強制されることはなかったけれども、それに倣う。吹き込んでくる風は族旗をはためかせ、壁の左右の花器に大量に生けた霊瑞華れいずいげの、すずなりの蕾を揺らした。



 同盟書はそのまましばらく安置される。その前で向かい合わせに坐墊ざふに胡座をかいたふたりに玻璃瓶に入った飲み物が運ばれた。四泉の酒と牙族の酒がそれぞれ入っているらしい。それをひとつの盃で酌み交わす。それは泉国でいう義兄弟の契りにとても似ていた。実際そんなようなものかと沙爽は牙族の度の強い半透明の酒を一気にあおった。


結誼よしみは立った」


 珥懿が立ち上がって大広房を見渡した。

「以後四泉とは血盟関係に入る。沙爽鼎添を猶主ゆうしゅとして迎え、四泉への背信を許さぬ。また、私と同じように礼をもって仕えよ」

 さざなみのように人垣が膝をついた。

「すでに我らは二泉と交戦中であり、盟約の饗宴を開いている場合ではない。しかし、本日日入ひのいりまでは各自休息を許す。城及び街区の備蓄たくわえを開放する。二泉の急襲に備えて節度は持て。城門は引き続き虎符を携帯し掖門えきもんのみの通行とする。街の者にも周知させよ」

 歓声の雄叫びが上がった。仕方のないことだったが、ここひと月ほど七曜しちようでも働き詰めだった。

 珥懿は沙爽に向き直る。「お前も何か言ってやれ」

 沙爽は慌てて周囲を見渡した。

「ええと…まさか本当にこんなことができるとは未だ信じられないが……牙族には感謝申し上げる。よ、よろしく」

 しんと静まり返った房内で、誰かが噴き出した。それを皮切りにどっと笑いが起こる。

「礼を言うのは早い」

 くつくつと珥懿にも笑われて沙爽は赤面した。

「礼は二泉を倒したあかつきに十二分に尽くしてもらう。その辺のことももっと固めてからが理想ではあったが、今は時間が惜しい」

「……そう、ですね」

「お前は本当に覇気はきが無いな。いちおうは私が認めたのだ。せっかく見栄えするように着飾らせたのだからもっと堂々としていろ」

 沙爽は眉尻を下げた。

「私には牙公がなぜそんな風にできるのか不思議ですが」

「族主になるのは泉国のように家系にらない。かたよりはあるがな。私の今の地位は私が自分で勝ち取ったものだ」

 だから皆が認め、信を置いてくれる。

「泉主というのは不憫だな。生まれながらに自由がない」

「不憫、ですか」

「私が死んでも民には影響がないが、泉主がいなくては泉が腐る。お前はそのことを重荷に感じているだろう」


 確かに、沙爽は今この時も重圧に押しつぶされそうだ。四泉を上手く治める自信など欠片もない。先日朝廷に戻って糾弾を直に受け、改めて思った。自分には王としての才気などなにひとつ足りているものがない。それでもやっとのことで自分が正統な王であると啖呵を切って、勅命を押し通した。今思えば槐棘かいきょくが署名してくれたのは奇跡に近い。


「しかしお前がいくら出来ないと駄々を捏ねたところで無駄なのだ。妹を退けることに腹を括ったのなら、泉主として立つことにも本心から自分を肯定しろ。してなくてもそう振る舞え。そうしなければ周りが不安に思ってついて来ない」

「……難しいことをおっしゃる」

 珥懿は首を竦めた。「まあ権に溺れるような愚か者よりはましだがな」



 すでに広房は開け放たれ、西壁の帷帳は閉じられている。出たところで少女が顔を見せた。

「歓慧どの」

「お疲れ様でございます。無事に終えられましたか?」

「なんとか」

 歓慧は安堵して頷くと傍らの当主を見上げた。

「泉主を少しお貸し願えませんか?」

「昨日の話か。門外には出るなよ」

「西門からも?」

 問えばしばしの無言、やがて軽く息を吐いた。

「……好きにしろ」

 諦めてくるりと背を向けて去って行く珥懿と歓慧を見比べて沙爽は首を傾げた。

「牙公と歓慧どのは仲が良いのか?」

 え、と見返す。

「いや、気安げだったので」

「……そう見えました?」

 うん、と沙爽は自信なさげに頷く。歓慧は少し呆気に取られ、それから微笑んだ。

「鼎添さま。良かったらわたくしに城下を案内させて下さいまし」

「しかし、良いのか?街は秘郷ひきょうなのでは」

「猶主である鼎添さまが入れないいわれはありません。密偵ごえいの方々は無理ですけど」

 なに、と聞いていた暎景が眉をしかめた。

「泉主ひとりを連れて行くつもりか。たとえ同盟が成ったとしても反対勢力とておるかもしれんのだぞ」

「街にも密かに城の者が見張りを置いておりますし大事ございません」

「しかし」

 まあ、暎景、と茅巻がなだめる。「我々が真から信用されないのは致し方ないことだ。盟約を果たした今、泉主が牙族の内懐うちぶところまで入れるようになったのは喜ばしいことではないか。信頼の証であろう」

「だが心配だ。牙暁、日が暮れる前に必ず泉主を薔薇閣にお戻ししろよ。戻ってこなかったら騒いでやるからな」

 茅巻が呆れて首を振り、沙爽も苦笑した。

「そなたたちの分も見てくる。留守居ばかりで申し訳ないが」

「そんなことは良いのです。刺客に充分お気をつけ下さい」

 暎景はたまりかねて沙爽の前に膝をつき、恭しく手を握った。

「失礼を。泉主の思う通りに事が運んだのはようございました。しかし、俺はいまも牙族を疑っています。爽さまは四泉にとってかけがえのない方だ。失われてはならない」

 彼の手首には依然として鞠訊じんもんされた時に嵌められたかせの痕が残っていた。沙爽はその武骨な手を握り返す。

「暎景にそう言ってもらえると勇気が出る。大丈夫だ。牙族は一度結んだ約束は破らない」

 なおも不安そうにしながら手を離す。次いで沙爽は隣を見た。

「茅巻。母上に文を書いてくれて助かった」

 もう一人のしもべは再度首を振る。彼はりく妃の信頼があつい。母への文は結果的に同盟を後押しする内容だったようだ。

「戦いはこれからです。牙暁どの、何卒泉主を」

 歓慧が大きく頷いた。それで沙爽は微笑む。

「行こう」




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