お客様用のサモワールを棚から出しながら汗ばんだワーリカはもうすぐ春が訪れることを知る。冬の寒さはワーリカの手にいくつもしもやけを作ったけれど、春が来れば暖炉ペチカがいらなくなってしまう。そうすると影さんに会えなくなる。それが嫌だった。

「そんなことはないよ」

 突然背後から声がして振り向いても誰もいない。

 ワーリカはお裁縫に集中する。なんとしてでも夜までに上着を繕い終えなければまたお仕置きされてしまう。

「ワーリカ、私のワーリカ、こっちを向いておくれよ」

 また声が聞こえてきた。おそるおそるこえのする方に向いてみる。

 影さんだった。

 今は昼間で、暖炉の前でもないし赤ん坊も泣いていないのに影さんがそこにいた。

「影さん、影さんなの」

 ワーリカは「影さん」が自分の中でだけ呼んでいた名前だということも忘れてそう聞く。

「そんなふうに呼ばないでおくれ、ワーリカ」

 影さんは優しい声で言った。

「私のことを忘れてしまったのかい」

 影さんの細くて硬い指がワーリカの頬を撫でた。

父さまアチエーツ!」

 胸から色々な感情が濁流のように溢れて涙になって目から零れた。

 ワーリカは何度も父さま、と言いながら影さんに顔をうずめる。でもそこにいるのにそこには無いので、ただただふんわりした煙のようなものがワーリカの鼻腔に流れ込んだ。

「父さま、どうして」

 ワーリカが尋ねると、影さんが笑ったような気がした。影さんには顔がない。

「ワーリカ、お前が私を呼んだから」

 影さんは大きく広がって部屋に充満した。

「ここから早く連れ出してあげたい。あの性悪のモリス・クリムキンめ」

「私も早くここから出て行きたい」

 ワーリカはしばらくぶりに自分の望みを口にした。夕食に黒パンひとつ望まなかった自分がそんなことを口走ったことにワーリカは自分自身でも驚いた。

「私がもっとずっと大きければお前を連れてどこへでも行けるのに」

「でも父さまはずいぶん大きいわよ」

 ワーリカは影さんにすっかり隠れてしまった燭台を見ながら言った。

「いいやもっとだ、もっともっと大きくならなければお前を連れて飛べないよ」

「もっとずっと大きくするためにはどうしたらいいの?」

 ワーリカは目を輝かせて聞いた。

「私の話を思い出して」

 ワーリカはしばらく考え込んだ。どんなお話だっけ。色々なお話を聞いた。首を吊ったら天国に行けなくて、悪魔の花嫁にされた話だっけ。それとも貴族の男に捨てられて水の精になった娘の話?蚤の皮を集めて戦う男の話かしら、それとも……。

 影さんがしびれを切らしたように歌いだした。


 ――ユラユラ、フルベ、ユラユラ


 ワーリカも合点して一緒に歌いだす。


 ――ユラユラ、フルベ、ユラユラ


 影さんが体を震わせて笑うので部屋のあちこちから声がした。

「私の話を思い出して」

 影さんはもう一度そう言って、唐突に見えなくなった。



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